仁治三年(1242)の年は、『吾妻鏡』の仁治三年の記載は欠落しているために、同年の資料に頼る。『鎌倉年代記裏書』五月九日条、『民経記』『平戸記』『鎌倉年代記』裏書の五月十三日条によると、北条泰時は仁治三年四月二十七日頃から病気となり、病状が次第に悪化していった。五月九日には出家を遂げ、上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と号したとされている。泰時の家人・従者等五十人ほどが後を追って出家した。同月十二日子の刻(十三日の午前零時頃)に鎌倉の飛脚が京の六波羅の北条重時の下に到着し、執権泰時の病気と出家したことを伝えている。泰時の重篤の知らせを受けた京の六波羅探題・北条重時は、御嵯峨天皇が京の治安が損なわれると制止したにもかかわらず、同月十三日の子の刻(十四日の午前零時頃)に急遽鎌倉に下向した。北条泰時は、自身の死期が迫りつつある中、最も信頼する重時に、次期執権に経時の継承と幕府及び京の体制の安定化を遺言として伝えたと考えられる。
『民経記』五月十三日条、『平戸記』五月十三日、十四日条、病床に臥せる泰時は、鎌倉への帰還を六波羅探題北方の重時のみに命じたが、南方の時盛(北条時房の長子、佐助流北条氏の祖)も鎌倉に下向したために京における六波羅探題両方が不在という異常事態を招いている。時盛は、延応二年(1241)一月に時房の死去に伴い鎌倉に下向した。しかし時盛はそのまま鎌倉に留まり、北条泰時に伺候する事を幕府に上進するが、将軍頼経に受託されずに、同年七月九日に京に戻るため鎌倉を出発している。
先述したが、時盛は北条時房の長子であった。母が未詳であり、時房流北条氏の惣領権をめぐる問題で、時房の死後に政治的後継者の地位を望んだとされる。しかし泰時は、娘婿である弟の朝直(大仏流北条氏の祖)が時房の後継者として、泰時が任じられていた武蔵守を譲るなど厚遇を与えた。時房流北条氏を分裂させることで北条得宗家の政治的優位性と安定を計ったとする見解もある。時盛は、仁治三年五月十二日に六波羅探題南方を解任されており、その為に鎌倉に下向したとも考えられる。また時盛は泰時の死後に連署就任を画策し、無断で鎌倉に下向したが、泰時の意思によるものか、幕府中枢の考えからか拒絶され、六月には突如出家して勝円と号した。その後は幕府から距離を置き幕政には一切かかわらなず、時盛の子息も同様に幕政の中枢から遠ざかっている。
北条泰時の異母弟の朝時は、泰時が出家をした翌日、五月十日に出家を遂げている。『平戸記』五月十七日条、日頃疎遠な兄弟であるのに、「子細尤も不審、世以て驚く」と世間で噂されたと記されており、この時には鎌倉で将軍頼経を擁する反執権勢力が形成され、その中心的存在が朝時の名越流北条氏であった。その勢力を朝時が抑える事も出来ず、関与を否定する行動であったとも考える。
『平戸記』同五月二十日・二十六日・二十八日条には、京都では、鎌倉で合戦が起きる噂が流れ、将軍・頼経の御所が厳重に警護されているなどと伝えられている。また各所の関が固められ、鎌倉への通路が封鎖状態に置かれたことが記された。しかし六月に入ると、鎌倉の不穏な情報が京に伝わらなくなり、順徳上皇側に傾倒する平経高の『平戸記』に目立った記述がなくなっている。是等六波羅からもたらされる不穏な情報を鎌倉に下向し泰時と面会した北条重時が鎮めたものと考えられる。また北条重時は、北条時房の死後に相模守という重職に就き、幕府内では泰時に次ぐ地位に就いていたと考えられる。また就任前は、十年以上にわたり将軍頼経の近習筆頭であり、小侍別当を勤めた次期執権となる経時との関係も深かった。病に臥せる泰時に代わり、京における動静を鎮める事が出来たのは、重時以外には考えられない。泰時の最も信頼できる異母弟であり、それを発掘し、育てた泰時の人間性と着眼が優れていた事に敬服せざるを得ない。重時は極楽寺流北条氏の祖であり、後に子息が赤橋流・常盤流北条氏に別れ、鎌倉幕府滅亡まで北条得宗家を補佐することになり、北条得宗体制の形成させていた。
『民経記』『平戸記』『百錬抄』によると、仁治三年(1242)六月十五日に「北条泰時歿す。享年六十歳であった」と記される。そして、同月二十日に泰時死去の知らせが使者下条兵衛によって京都に伝えられ「天下三十日の穢れ」となったとある。奇しくも、父北条義時、政子、大江広元、時実、時氏、竹御所と北条政権下枢要な地位にあった者が、六・七月に没しており、また泰時が歿した六月十五日は、二十一年前に承久の乱で宇治川に勝利し、後鳥羽院の往生の地に上洛を果たした日であった。『民経記』『平戸記』『百錬抄』によると泰時の最後は、「前後不覚、御気妃の如し、人以て其の傍により付かず」と、誰も近づけぬほどの高熱で、承久の乱で三上皇が配流されたのも同じ季節で、「顕徳院御霊、顕現」、後鳥羽院の怨霊による祟りではないかと風聞が流布したとある。『経光卿記抄』六月二十日条二に、死因について、日頃の疲労に加えて赤痢を併発させ、六月二十六日条では高熱に苦しみ、さながら平清盛の様だったと記されている。墓標は泰時が、妻の母のために建立した鎌倉市大船の常楽寺に置かれている。
後世に編纂された『尊卑分脈』、『系図纂要』によると、泰時の死去の翌日六月十三日に嫡孫の経時が就いた。北条経時十九歳であった。連署は置かれず、北条氏の間で、北条得宗家と侮りがたい庶流の北条氏の敵対勢力が存在する不安定要因を抱えた政権であったと言えよう。また、『平戸記』六月に十六日条に顕徳院の諡号を後鳥羽院という追号に改めており、この改名は周囲の反対を押し切り源定通が行っている。後鳥羽院を、崇徳上皇のように世に恨みを残した上皇ではなく、自然死した通常の上皇として位置付け。相続く事象が後鳥羽院の怨霊による説を否定する目的があったと考えられ、これも定通と義弟関係であった北条重時の施策だったのだろうか。そして同年九月十二日に佐渡に流されていた順徳院が崩御し、十月五日にその訃報が京都に伝えられる。折しも都では御嵯峨天皇大嘗会の準備が進められていた。しかし「遠所御事」として処理され、大嘗会は延期することなく行われた。『平戸記』の同年十月十日条に「御帰京事思食絶之故云々」と記されており、病気等の自然死ではなく、絶食による自殺の可能性もあるとも指摘されている。順徳上皇の死去により、京方・鎌倉方の承久の乱における主要関係者が世を去り、そして一つの時代の終わりを告げた。
北条泰時は源頼朝が挙兵し、鎌倉入りした三年目の寿永二年(1183)に北条泰時は生まれた。六十年の人生の中、戦乱と複雑化する政治構造の中で、父の北条義時以上に政治施策を打ち出し道理という信念の下で施行していった。『吾妻鏡』では、泰時に関する美談が多く記され、疎石集では「まことに賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとして、万人の父母のような人である」と記している。『明恵上人伝記』においても泰時の人物像を窺い見ることができる。南北朝時代の南朝方の北畠親房も『神皇正統記』において徳政を称えた。しかし、北条氏が拡大する中、嫡流という北条得宗家を形成したのも北条泰時で、庶流に対しての施策は常に巧みで厳しい物があった。北条氏を他の御家人から守るためには、それを避けて施政を行う事は出来ず、得宗家という位置につき、拡大する北条一族においての分裂を避け、御家人においての将軍藤原頼経を中心に結束させた。それは泰時の執政時に戦乱が無かったことで証明される。 ―続く