『吾妻鏡』の仁治三年の記載は欠落している。『吾妻鏡』は、正治元年の源頼朝の死去についての期間など、重要な時期の記述が欠落しており、当時を記す歴史書や公卿の日記などに頼らならなければならない。作者不詳の『百練抄』、『五代帝王物語』、『増鏡』、平高経の日記『平戸記』、葉室定嗣の『葉黄記(ようこうき)』、広橋経光の日記『民経記』、尊円新皇編纂の『門葉記』、等がある。これらの資料は、武家側の史書『吾妻鏡』と異なる記述も見られ、公武のそれぞれの立場を検証する資料として重要視されている。
仁治三年に(1242)一月九日に四条天皇は、不慮の事故で、わずか十二歳で崩御する事になる。十二歳の天皇であり、現在の満年齢で言うと後三ヶ月程で十一歳になろうとしていた。崩御については『五代帝王物語』『百練抄』によると、幼い天皇が、近習の者達や女房達を転ばして楽しむために御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自身が転倒したのを原因であると記されている。突然の崩御に不思議に思うものも少なくなく、『増鏡』巻四「三神山」に、「いかにも遠い浦々でお亡くなりになった方々の御魂の祟りではないかと世人もひそひそ語り合った物であった」と後鳥羽天皇や、『門葉記』仁治三年正月二十四日条には、天台座主であった慈円の祟りによるものと噂が立っている。死因としては、転倒した事で硬膜外血種、くも膜下出血、脳挫傷などが考えられ、転倒後二日で崩御した。
(ウィキペディアより引用 四条天皇像 後嵯峨天皇像)
四条天皇は、後堀河天皇と九条道家の娘・竴子(藻璧門院)とに生まれた親王であったが、外祖父の九条道家の強硬な譲位の要請から、貞永元年(1232)十月四日に二歳で践祚され、翌五日に即位している。その後は、後堀河天皇が上皇となり、院政を敷くが、母である藻璧門院は天福元年(1233)、翌貞永二年には後堀川上皇も崩御したため、九条道家とその舅である西園寺公経が事実上政務を行っていた。この二人が最も権勢を示した時期である。
四条天皇が崩御したため、承久の乱後に北条義時により擁立された後高倉・後堀河流の皇統は途絶えた。九条道家や西園寺公経は、外戚である順徳上皇の二十二歳になる第五皇子・忠成王(仲恭天皇の異母弟、母は熱田神宮大宮司の藤原清季の娘)を擁立しようとして、四条天皇の喪が秘せられ、『葉黄記』寛元四年(1246)三月十五日条に、「九条道家は幕府に急使を派遣して皇嗣を諮った」とある。九条道家は、順徳院の中宮・東一条院(立子)が自身の姉であり、順徳院の皇子の擁立と、その後の順徳上皇の帰京を望み、いっそうの権勢の維持、拡大を画策したと推測される。
北条泰時と六波羅探題・北条重時が順徳院の皇子の擁立には反対の立場を示した。嘉禎元年六月に九条道家と教実親子は、後鳥羽・順徳両条項の帰京を画策し、泰時はこれを拒絶している。
後鳥羽院は延応元年(1239)二月に崩御したが、この時には、順徳上皇が、配流先の佐渡でまだ在命であり、忠成王が即位する事で院の帰京もありえ、順徳院の院制の危険性もあった。泰時は再び乱が勃発する要素を取り退けるために、承久の乱での首謀者に対しては一貫した賢明な施策を示したことになる。
そして、承久の乱に中立的立場をとった土御門上皇の皇子・邦仁王二十三歳の擁立を試みる。土御門上皇は既に寛喜三年(1234)十月に崩御しており、邦仁王には有力な後援者がなく、元服さえ遂げておらず、近く出家する事になっていた。しかし、この皇子の母・通子は、叔父が前内大臣土御門定通(美濃源氏の源定通)で、北条泰時の異母妹であり、六波羅探題北方・北条重時の同母妹・竹殿を側室としていた。
『五代帝王物語』では、関東に早馬を仕立て下り、北条泰時にこの御事を知らせる。泰時は三日三晩考えたあげく、心中においては土御門院の御子息(邦仁王)を即位させることを考えるが、最期に神託による判断に任せるのが良いとして、鶴岡八幡宮で籤(くじ)を引き邦仁王の御託宣があったとした。自身の考えに間違いなかったとして、安達義景使者として上洛させる。義景は「もし既に京の判断で順徳院の宮・忠成王が即位されておればどのようにすればよいか」と申したところ泰時は、「そのような御事があれば退位させ申し上げるのが良い」と申し含めたとある。北条泰時は、二度目の天皇即位に関して、神のご神託として介入を試み、再び乱が勃発する要素を取り退けるために、幕府の重大な事案であったため早急に対応したと考えるが、四条天皇の崩御から邦仁王の即位が余りにも早く、北条泰時と六波羅探題の重時との間で、予測される出来事に対しての対応策として既に決定していたのではないかと私見として推測する。
『平戸記』によると仁治三年正月十九日、東使二階堂幸義、・安達義景が入京し、まず六波羅探題に向った。後に九条道家の一条殿、次いで西園寺公経の邸宅に参上して邦仁王を皇嗣とする事を申し入れた。幕府が意に反して邦仁王を指名したので、道家・公経ともに「不請の気、炳焉(へいえん:明らかなさま)」であったと記されている。
『平戸記』仁治三年正月十七日・十九日条によると、邦仁王の擁立について前内大臣土御門(源)定通から、「私に使者を関東に差し遣」わし、邦仁王指名を幕府に働きかけたと記されている。しかし、先述したように邦仁王の母・源通子は定通の姪であり、定道の妻は北条泰時・重時の妹であった。北条泰時及び幕府首脳には邦仁王以外に皇位に擁立させる選択肢しかなく、定通の働きがけ皇位継承に影響を与えた事は少ないと考える。ただし、六波羅探題の重時の同母妹が定通の妻であるために義弟関係であった。そのために、洛中での邦仁王の擁立活動に二人が尽力したと考えられ、同月十九日に鎌倉からの東使が第一に六波羅に向かい皇嗣決定の報告を伝え、六波羅探題の重時を通じ源定通に伝えられたと考えられる。その理由として、反九条通家・西園寺公経の公卿たちに道家と公経を牽制するための対応ではなかったかと推測する。順徳天皇に傾倒する平経高に邦仁王擁立膠わる高知尾は考えられず、また、『平戸記』仁治三年正月十七日・十九日条において定通が政治を行えば天下が衰徴する等酷評している。また葉室定嗣の『葉黄記』宝治元年(1247)九月二十八日条においては、土御門定通を「高才博覧」と言われた一廉の人物と評している。
『民経記』・『平戸記』に、翌二十日、「邦仁王は武士が物々しく警護する中、祖母・承明門院の許で元服し、冷泉万里小路殿に渡御し践祚された」とあり、後嵯峨天皇が即位誕生した。幕府が帝位に干渉し、十二日間の空位が生まれる。即位による利害が大きい九条道家も西園寺公経も幕府の処置には反対し、また他の公卿たちからの不満も強かった。泰時は、定通を御嵯峨天皇の叔父として後嵯峨天皇を補佐する事を承認し、新政下においての朝廷政治は源定通・九条道家・西園寺公経らにより主導されていく。『民経記』仁治三年正月二十九日条に、九条道家は御嵯峨天皇が即位されると外戚でも執柄でもない立場となり引退が噂されたとある。しかし、摂関や将軍の父大殿として御然たる力を保持していた。西園寺公経は『民経記』・『平戸記』に、当初は忠成王の擁立を指示したが、後嵯峨天皇になると同年六月三日に子息・前右大臣実氏の娘・姞子(きつし)を入内させて姻威として取り込んだとあり、公経の変わり身が早い強かさを伺い見る事が出来る。承久の乱で最も穏健的であった泰時であったが、後鳥羽・順徳院の環京と、順徳上皇の皇子の即位の反対は泰時の一貫した道理の通った政策が窺われる。乱後二十年を立ったこの時も承久の乱の再発を恐れたことが理解できよう。後嵯峨天皇即位は泰時の生涯を通じ最も繊細で策略に長けた施策であったといえよう。そして泰時の生涯において最期の施策であった。 ―続く