鎌倉散策 五代執権北条時頼 十五、経時への訓戒と諫言 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 故北条氏時の長子・経時は、四代執権となるために、祖父・北条泰時から多くの事を教えられ学んだと考えられる。その中で父・氏時の遺言の記載が『吾妻鏡』に残されている。

『吾妻鏡』仁治二年(1241)九月三日条、「信濃国の住人奈古又太郎は、承久三年の大乱の時に勲功を立てながらその恩賞に漏れていると、頻りに嘆きか訴えていていたが、適当な場所が無かったため、空しく年を送っていた。ただし、他にもこのような不幸な者がいるとはいえ、奈古の軍忠はその中でも勝っていたので、必ず(恩賞を)行われるよう、故匠作(北条時氏)の遺言があった。そこで佐親衛(北条経時)はその趣旨に背かないため、今日この款状(感情)を取り次ぎ、別に自らの言葉を加えて、恩賞の奉行人である(中原)師員朝臣のもとに命じられた。師員の御返事(は次の通り)。

『奈古太郎が訴えている勲功の恩賞について、折り紙を賜りました。速やかに(将軍・頼経に)申し入れます。慎んで申します。 師員  北条大夫将監(経時)殿(御返事)」。とあり、幕府が構築する主従関係の基本である「御恩と奉仕」を疎かにする事は、幕府の崩壊を意味する。

 

 承久の乱での宇治川の戦いの中を北条泰時・氏時親子が戦い、死を覚悟しながら御家人達の奮戦により勝利した事からの教訓である。御家人が命を懸けて勲功あげ、所領安堵や恩賞に与る在り方は、頼朝以来の一所懸命の現れであり、御家人の本性でもあった。後の鎌倉幕府崩壊は、北条一門による支配体制が長く続き、元寇による御家人への勲功に対する恩賞の停滞と、元寇後に続けられた異国警護番役の負担が地方の御家人の不満が最大の要因の一つと考えられる。元弘の乱では、後醍醐天皇に呼応して新田義貞・足利高氏を始め武蔵の河越氏・甲斐源氏・信濃源氏及び幕府に不満を持つ東国御家人達により鎌倉攻めが行われた。『太平記』によると、北条高時を始め北条一門は、東勝寺にて二百八十三人が自害し、後に続いた兵を合わせて八百七十余人であったと記されている。

 

 仁治二年十一月二十五日に泰時は、経時を呼び寄せて政務について訓戒を行っている。「好文を事として、武家の政道を扶(たす)けよ。特に実時とは何事も相談して協力せよ」と経時に論下した。年を重ね泰時にとって、北条得宗家の後を預ける孫の経時・時頼に不安があった事は言うまでもない。将来を嘱望され。重責の小侍別当の職をこなし、後の金沢流北条氏の祖となる実時は経時と同年で、自身と時房の様に、連携をもって政務にあたる事を二人に告げ、激励したのである。しかし、その四日後の十一月二十九日に、三浦氏と小山氏の喧嘩にで、経時が三浦に加勢しようと動いた。

 『吾妻鏡』仁治二年十一月二十九日条、「未刻に若宮大路の下下馬橋(しものげばばし)の辺りが騒動した。これは、三浦一族と小山の者との喧嘩があり、両方の縁者が駆け付けて人だかりにしたためである。前武州(北条泰時)はたいそう驚かれ、すぐに佐渡前司(後藤)基綱・平左衛門尉盛綱らを遣わして鎮められたので、おさまったという。事の起こりは、若狭前司(三浦)泰村・能登守(三浦)光村・四郎式部大夫(三浦)家村以下の兄弟親類が下下馬橋の西脇の遊女のいる家で、酒宴・乱舞をしていた。結城大蔵権少輔朝広・小山五郎左衛門尉長村・長沼左衛門尉時宗以下の一門は、同じ東脇でまた遊行をしていた。その時、上野十郎(結城)朝村(朝広の弟)が座を起ち、遠笠懸(馬上から弓で的を射る稽古)のために由比浦に向かったところ、まず門前で出てきた犬を射た。その矢が誤って三浦の酒宴の場所の簾中に入った。朝村が雑色に命じてこの矢を帰すように求めたところ、家村が返す事は出来ないと言い張り、これによって言い争いとなったという。その領家は親しく交わり、日ごろは互いに異心などなかった。今日の確執は天魔がその性に入ったのではないかという」。その翌日に北条泰時は、この事件に対して双方に処断を下し、経時とともに三浦・小山に諫言を行った。

 

 『吾妻鏡』同年十二年十一月三十日条、駿河式部大夫(三浦)家村と上野十郎(結城)朝村が(幕府への)出仕を止められた。昨日の喧嘩は主に彼らの武勇から起きたという。総じてこの事について譴責を受けるものが多かった。さほど親密な者ではなくとも、ただ縁故があると称して両方に別れ、本人らと同じく確執したためである。また北条佐親衛(経時)は遣えるものに命じて兵具を持たせ若狭前司(三浦泰村)方に遣わされた。同武衛(北条時頼)は派双方の事情を問われるようなことはなされなかった。これにより前武州(北条泰時)が戒められた。『それぞれは将来(将軍の)御後見となる器である。諸御家人に対して、どうして好き嫌いできようか。経時の行動はたいそう軽率である。しばらく(私の)前に来てはならない。時頼が事情を推察した事は、まことに重要である。おって恩賞があろう』。次に泰村・大蔵権少輔(結城朝広)・小山五郎左衛門尉(永村)を招いて仰った。『お互いに一族の棟梁として、当然身を全うし不慮の凶事を防ぐべきところ、私に武威を誇って自滅を好むのは、愚かな事であろう。以後は特に慎むように』。いずれも首を垂れ、全く弁解できなかったという」。

『吾妻鏡』仁治二年十二月一日条、「酒宴を準備する際、あるいは意匠を凝らした菓子を用い、あるいは衡重ね(ついがさね:隅切りの方形の縁付盤に隅切りの脚を付けた配膳遇)や外居(ほかい:食物等の運搬用のまげ物の容器)箱に絵を描く事について御所中の他は、今後一切のこのような過分なやり方を禁止すると諸家に命じられた。すべて贅沢を禁止することが先日定められたが、手厚く準備する際にともすれば違反する事などあるため今日重ねて命じられたという」。

北条泰時は三浦氏と小山氏の喧嘩において、御家人の在り様と対立の危惧を思い、華美で贅沢な行いを禁じた。ここには大掛かりな酒宴も禁じたのかもしれない。

 

 『吾妻鏡』同年十二月五日条、「北条武衛(時頼)が前武州(北条泰時)から一村を拝領された。これは御所中の宿直の祇候を忠実に勤められているためという。およそ泰時は病を得た時を除いて、毎月六ヵ日夜の当番を壮年より今に渡るまで忠実に勤められていた。また左親衛(北条経時)が譴責されたことについて、今日、許されている。前馬権守(北条正村)・若狭前司(三浦泰村)等が特に取り成されたという。駿河式部大夫(三浦)家村・上野十郎(小山)朝村も同じく出仕を赦されたという」。

泰時が孫の時頼に一村を与えた事は、日頃の恪勤に対する褒美とされるが、先月の三浦氏と小山氏の喧嘩に対して適切な行動をとった事の褒美であることを隠すことができない。泰時は兄の経時よりも時頼を次期執権としての適格性を見ていたとも考えるが、当時、時頼は十五歳で、三歳違いの兄・経時と比較すると次男の立場と年齢的にも、積極的な行動はとれなかったとも考えられる。また、時頼が経時を制止できなかった事は、時頼の凡々とした性分であったのではないかと考える。後の宝治合戦等の三浦氏の対応を見ると積極的な行動が取れない性格であったとみて取れる。北条泰時は、五十九歳に達し、その後も北条得宗家の安泰のために最後の難問に裁決を下すことに遂力する。一月後に年は変わり仁治三年に(1242)となった。そして一月九日に四条天皇は、不慮の事故により、わずか十二歳で崩御する事になる。  ―続く