鎌倉散策 五代執権北条時頼 十四、北条得宗家の標(しるべ) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 暦仁元年(1238)十二月五日、三浦義村が死去し、源氏三代将軍を支えた北条政子や大江広元・三善康信などの十三人の合議制を行った御家人が幕府の一次世代の臣下とするならば、三浦義村は、北条と共に相模国を根拠とし、三浦義澄の嫡子として三浦の地を継承した。奥州討伐・比企の乱・畠山重忠の乱・和田合戦・承久の乱とその戦歴が北条泰時・時房と同じであり、泰時・時房と同じように二次世代の臣下であったと言えよう。三浦義村の次男・泰村が三浦を継承した。義村には長子・朝村がいたが、『承久記』に三寅を迎えに叔父・胤義と共に上洛しており、『吾妻鏡』嘉禎三年(1237)六月二十三日に大慈寺開眼供養に供奉を勤めたと記載が残る。その後の宝治合戦には名が残されておらず、その間に他界したのか消息が定かではない。泰村は母が土肥遠平の娘であり、『吾妻鏡』貞応三年(1224)七月十八日条に三浦義村が「以愚息や寿村男為御猶子」と記され、また『北条九代記』にも記されている。『佐野本三浦系図』に「元服の時北条泰時加冠、授諱字」とあり、「泰」の字を賜り、泰村と称した。そして北条泰時の娘を娶り、北条一門として暦仁元年(1238)に幕府の評定衆の一員となり幕政に参画し、その為に猶父が北条義時もしくは泰時とされている。泰村の兄の朝村は、母が不詳であるが、太郎を名乗り、三代将軍・源実朝の「朝」の偏諱を受けたと推測される。したがって、この当時は嫡子が朝村で、承久三年(1221)から寛喜年間(1231)頃の間に死去したものと考えられ、泰村が三浦を継承する事により、泰時の北条得宗家に対して下位に連なる御家人氏族となった。

 

 

(三浦市 岩浦八坂神社内にある三浦義村の墓)

 延応二年(1241)一月二十四日、『吾妻鏡』に「今朝の明け方、正四位下行修理権大夫(北条)時房朝臣が死去した。昨日辰刻(午前八時頃)より言葉がはっきりしなくなり、昨夜、息絶えた。これは大中風がという。今日の午刻(午後十二時頃)に死去したと伝えられたが、実際は亡くなったのは今朝の丑時(午前二時頃)という」。三浦義村と同様に大中風で、今でいう脳卒中や脳血栓などによる脳血管傷害での急死である。享年六十六歳であった。同時代の公卿・平経高の日記『平戸記』には、三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊だとする記述があり、その後の泰時に起こる問題に対し怨霊の言葉が後に続く事になる。その翌月の二月七日に六波羅探題南方に就く長子・盛時が、時房の死去に伴い鎌倉に下向した。しかし『吾妻鏡』では時房の葬儀について記載がない。時盛はそのまま鎌倉に留まり、北条泰時に伺候する事を幕府に上進したが受託されず、『吾妻鏡』七月九日条に、「今日の明け方六波羅の越後守(北条)時盛が京に帰った。匠作(北条時房の)死去により、(鎌倉に)参っていた。今となっては関東への祇候を許されるよう、このところ頻りに嘆き訴えていたが、(頼経の)許可はなく、五日に出発するように前武州(北条泰とき)が平左衛門尉盛綱を通じて何度も最右即された。しかし五日は太白神の方角であると申し、延期されていたという」。将軍頼経の判断ではなく泰時の拒絶であったと推測される。

 

 北条時盛は、連署北条義房の長子で、佐助流の北条氏の祖とされ、この鎌倉下向は、連署である父・時房の死により自身が連署に就くことを画策したと考えられている。しかし、後の大仏流北条氏の祖となる弟の朝直との間に時房流北条氏の惣領権を巡る軋轢があったとされる。北条泰時は、父である二代執権北条義時の死後に執権に就いた泰時が、義時の弟であり、伯父である時房を信頼して、共に幕政を主導してきた。しかし時房死後において、その政治的影響力は脅威であり、時房の後を継承しようとする時盛を警戒した。朝直は執権北条泰時の娘を妻とし、泰時が任じられていた武蔵の守を譲られるなど厚遇を受けている。時盛を京の六波羅に戻した結果、時房流は分裂して朝直が兄の時盛との政争に勝利するのは間違いなかった。政争に敗れた時盛は、その後に政治の表舞台から脱落したと考えられる。泰時の得宗家が政治的優位を確立したとも考えられ、泰時は諸流である北条氏を懐柔と切り捨てにより得宗家の地位を高めていった。表立った粛正ではなく、泰時としての道理に沿いながら、脅威となる者を廃絶し、最も信頼を高める異母弟・重時の極楽寺流北条氏、異母弟・正村の正村流北条氏、異母弟の実泰の子・実時の金沢流北条氏、そして朝直の大仏流北条氏等を懐柔して行き、得宗家の下に置く北条得宗家執権体制を形成して行く。執権としての懐柔というよりも、泰時の人間性に引かれて行き、付き従ったと言う方が適切であろう。それぞれ母が違う弟達が、付き従ったと言う方が適切であろう。次弟の朝時と三弟の重時は同母でありながら、重時は異母兄の泰時に従っている。このように人に対しての接し方は泰時の人たらしとしての良き才能であったともいえる。後に鎌倉での宮騒動を主導する異母弟・朝時の名越北条氏のみが脅威となった。

 

(金沢流北条氏菩提寺 称名寺)

 暦仁・延応年間は短い期間であったが、御成敗式目の追加法の作成を計り、施政を行っている。延応二年二月六日に政所と御倉以下が焼失した。失火であると申したが、放火の疑いもあったらしい。七日には政所の新造が命じられ、政所造営着工し、三月には造営を終えた。延応二年(1240)七月十六日に仁治と改元される。仁治元年十一月には鎌倉においても篝火を焚くことを命じ鎌倉での治安維持を強化した。泰時にとっては、この仁治年間は自身の最期の業績を積み、北条得宗家を継承する経時・時頼兄弟に大きな方向性と諫言を行う事になる。

 仁治二年(1241)四月五日に北条泰時は、昨年の冬に評議した鎌倉、六浦間の道路を着工した。今に残る朝比奈切通で、五月には造営が送れる中、六浦路に泰時自身が造成の現場に臨み監督し、自身の馬で土石を運んだ。その為、見る者で仕事に励まない者はなかったと言いう。

  

(鎌倉 朝比奈切通)

 『吾妻鏡』同年六月二十八日条に臨時の評議が行われ、北条経時は、祖父・泰時により評定衆の一人に列せられた。また『武家年代記』には同年八月十二日に従五位上に叙されている。同年七月、祖父・泰時が先月の二十七日に軽い病気になったとある。経時と時頼兄弟は、祖父泰時の健康祈願に鶴岡八幡宮にて百度詣を行う。この年、五十九歳になる執権・泰時は、体調を崩し、加齢による健康不安を抱えていく。しかし、この年また十月には武蔵の開発に着手した。残された時間を経時の後継者としての確立を急務とし、十一月二十五日に泰時は経時を呼び寄せ、政務について訓戒を行っている。「好文を事として、武家の政道を扶(たす)けよ。特に実時とは何事も相談して協力せよ」と経時に論下した。年を重ね泰時にとって、後を預ける孫の経時・時頼に不安があった事は言うまでもない。同年八月二十九日に、三浦氏と小山氏の喧嘩に付き経時が三浦に加勢しようと動いた。  ―続く