鎌倉散策 五代執権北条時頼 十三、時代の流れ | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 嘉禎四年十月十三日に鎌倉に戻るために京を出発した将軍・頼経一行は、二十九日に鎌倉に帰る。この将軍・頼経の帰洛については、二歳で鎌倉に下向して初めての上洛であり、父母兄弟との対面もあったが、将軍家の権威を示す一方、より安定した公武協調路線の確認であったと言えよう。当時、朝廷及び京の貴族社会で最も権勢をふるっていたのが、西園寺公経とその娘婿の九条道家であった。西園寺公経は源頼朝の妹坊門姫と一条能保との間に生まれた娘・全子を妻とした事と、平治の乱で頼朝の死罪から遠流に働いた池禅尼の子・平頼盛の祖孫である事から幕府との関係が強いものであった。承久元年(1219)の三代将軍・源実朝暗殺後の将軍後継者に外孫にあたる九条道家の子・三寅(藤原頼経)に就かせた中心人物の一人と考えられている。また、道家の大叔父の比叡山延暦寺の天台座主慈円も後鳥羽上皇に働きかけたとされる。承久の乱では、幕府に近い公経を後鳥羽上皇により幽閉されるが、乱の情報を幕府に伝えるなどして幕府の勝利に貢献した。乱後は幕府との結束を強め関東申し継に就任し、内大臣・太政大臣に就任して幕府将軍の父である娘婿の・九条道家と共に朝廷の実権を握り勢力を占めていた。公経は、御家人小賀島公業の相殿の地である伊予国の宇和島軍を所望し、幕府は罪なき御家人の所領を没収する事は出来ないと難色を示した。しかし、公経は「故の望みが叶わねば、老後の面目も失われる。これから鎌倉まで懇望に下る」と言い、幕府を困惑させた。その結果同地は公経に与えられている。このような横暴に対し公卿社会も、幕府も快く思わなかったが、実権は衰える事はなかった。

  

 この頼経の帰洛により、天皇・朝廷の権威と幕府の実権による公武協調関係を強固なものとして、幕府と朝廷との間で調整が行われ、法の整備がなされた事に注目したい。京の警護については、本来検非違使が担当するが、承久の乱後、衰退する朝廷においてはその維持が困難であった。五月二十四日に、洛中を守護するために縦・横大路の末々武士を置くことが泰時・時房により伝えられている(関東御教書庵、『鎌倉遺文』五二四五)。また、六月十九日条に、辻々に懸ける篝火の役「篝屋役」が御家人等に賦課され、御家人の負担が増えることになった。また、幕府の中心にある者達の多くが上洛した事により、将軍の在京中に任官を望む者が少なくなく、希望者にとっては任官の機会でもあった事は言うまでもない。御家人の任官について、幕府の推挙無くしては階位や任官を禁止しており、叙任は幕府の御恩の一つで、幕政の体制を構築する一つでもあった。泰時は在京中に従四位上に昇任され、従四位上武蔵守兼左京権大夫の官職を与えられる。しかし、幕府の推挙なしに官位・官職を与えられることを禁じていたため、朝廷の高官を帯びることが執権として好ましからぬ事と考えて、間もなく武蔵守を辞退し、さらに左京権大夫をも辞退した。

 

 九月九日には、幕府の命に従わない地頭の処分についての規定がなされ、同二十七日には御家人の任官についての規定が定められる。御家人の任官の問題については、成功(じょうごう:幕府の推薦の上、任官にあたった者が朝廷に財物の献上や、邸宅や寺社の造親することが必要であった)銭の減額を求める要望があり、また上洛を機会に頼経の推挙を得て任官を求める御家人が増加した事を受けて、今後は成功によらない任官は禁止すると決定がなされた。泰時は成功のために納める財物を減額しようとする動きを禁止した。当時任官希望者と除目の係官との間で、官位売買の闇取引が行われていた。成功の意味をなさなくなり、また衛府も尉など所定の官職以外に任官することも禁じている。在京中に蛯名忠行が、従五位以下の意を与えられたが幕府の推挙を得ていなかったのでそれを停止している。また今回の帰洛について将軍頼経に推挙を望んだことは、幕府において将軍派を増加させる要因の一つとなり、将軍派と北条得宗家による執権派との抗争になる要因でもあった

 

 泰時は承久の乱で大軍を率いて上洛した時は、三十九歳であった。今回の上洛は、すでに五十六歳になっていた。『吾妻鏡』九月十三日条に「今夜、雲の無い明月となった。左京兆(北条泰時)が先年在京していた時に対面された人がいた。お気持ちは今も等閑ではなく、月の風流を仲立ちとして、御歌一首を送られた。『都にて 今も変わらぬ 月影に 昔の秋を 移して見るぞ』」と、承久の乱後に戦後処理のため滞在した京であるが、泰時にとっては六波羅で経験したことが幕政を司る執権としての思慮を高めた事は言うまでもない。二十年前と変わらない月の光に、波瀾の多かった自身の人生に感無量であったと思われる。経時は幼少の四歳で父氏と記と伴い京から鎌倉に下向しているために、ほとんど京での記憶はなかったと思われる。しかし、この京への随行は、祖父・泰時の思想を直接触れることが出来、朝廷の公卿達の野望が強固なものであることを知っただろう。後に四代執権となる経時は、頑強な決断を示す事になる。

 

 十月十三日に鎌倉に戻るために京を出発した将軍・頼経一行は、二十九日の酉の一刻(午後五時)に鎌倉の御所に到着した。この年の末十二月に十八日に匠作(北条時房)・前武州(北条泰時)・遠江守(北条朝時)・右馬権守(北条正村)・駿河守(北条有時)宮内少輔(足利氏時)等が右大将(源頼朝)・二位家(政子)・前右京兆(北条義時)等の法華堂に参った。年末のためであり、駿河前司b(三浦義村)・毛利蔵人大夫入道(西阿、季光)・甲斐守(大江康秀)・秋田城介(安達景盛)等が参会して暦仁元年の年は暮れた。

 年が明け暦仁二年(1239)二月七日延応元年と改元される。そして三月に入り、十七日に六波羅の使者が鎌倉に到着した。去る二月十二日、隠岐法皇(後鳥羽)隠岐島で亡くなり、同二十五日に葬り申したという。御年六十歳であった。再度の乱の要因となる一つが消えた事で泰時は、この年『式目』の追加法を次々と定めて行くことになった。四月の末に泰時が急に病を患い、病臥に伏す。

 

 『吾妻鏡』四月二十五日条、「未の刻(午後二時頃)に前武州(北条泰時)急に病気となり、戌の刻(午後八時頃)以後、特にお苦しみという。人々が群参して、織部守(伊賀)光重が将軍(藤原頼経)の御使者として参った。その時の匠作(北条時房)の御邸宅(泰時の邸宅の向かい)ではちょうど酒宴乱舞の最中であった。泰時が御病気と告げてきた者がいたが、時房は決してその宴を中止されず、また使者も進められなかった。宿老の祇候人らが諫めると、時房は言った。『私の様な物が遊び楽しむのは、武州(泰時)が生きておられる間の事である。その病気は一時の事であろうが、もし大事に至ったならば何の情けを頼みとして生きて行けばよいのであろうか。一生、隠遁して、決して饗宴を好む事も無いであろう。まずは最後の機会であると考え、この宴の座を立たないのである』、(時房に)諫言した者は、かえって感動の涙を流したという」。

 五月二日には、五十嵐小豊次郎惟重と遠江守(北条)朝時の祇候人の小見左衛門尉親家の相論に対して泰時の邸宅で訴訟の対決が行われている。泰時は病気が回復していなかったが、介添えされながらその是非を聞いたという。また十五日条では病気が治りきっておらず、まだ沐浴をしていなかったが御花押を下知状などに記されることは、連日、全く怠る事はなかったと記される。そして六月十二日に病気が回復され、沐浴されたとある。五十七歳になった泰時は、体力的にも衰えを見せ、自身の残される時間を孫の経時・時頼の成長にささげていく。延応元年(1239)十一月二日、十三歳になる北条時頼は毛利季光の娘と結婚し嫁取りの儀が行われた。そしてこの年の十二月五日、前駿河守正五位以下平の朝臣(三浦義村)が死去した。大中風での急死とあり、脳卒中や脳血栓などによる脳血管傷害での急死であったという。承久の乱以降で、御家人の中での最大派閥の長であった義村が亡くなったことは、新たな時代へと移り変わる予兆であった。  ―続く