鎌倉散策 五代執権北条時頼 十二、将軍頼経の帰洛 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 嘉禎四年(1238)、正月二日の幕府埦飯で馬の引手役の一番目が北条左近大夫将監(経時)で、最期の五番目に元服を終えた時頼が北条五郎として勤めている。嘉禎年間の世の中は、比較的安定した期間であり、執権・北条泰時は、将軍・藤原頼経を中心に御所移転などによる幕政の再構築を図った。

 嘉禎四年(1238)正月二十八日、将軍・藤原頼経が上洛のため北条泰時と孫の経時が随行して、鎌倉を出発している。『吾妻鏡』で、京への道程及び畿内の移動の随兵の中に左近将監経時の名前の記載はあるが、時頼の名は記載がない。この頼経帰洛は、承久元年(1219)に、わずか二歳で鎌倉に下った将軍頼経・三寅が、十八年と過ぎ、この年には二十一歳となった。この間は、頼経の成長と共に北条泰時が北条執権体制を確立し、公武協調体制を進めてきた時期である。当時においても政治の中心は京であり、北条泰時の最も信頼したとされる異母弟の重時が六波羅探題北方に就き、幕府の西国への施策の遂行を朝廷と交渉していた。そして成長した将軍・頼経と幕府の権威を京及び朝廷に示す時期でもあった。また頼経の父母である九条道家と綸子(西園寺公経の娘・綸子)が頼経との対面を望んでいたことが、『明月記』嘉禎元年(1235)十月八日条に記されている。しかし最大の目的は、承久の乱以降、朝廷が凋落し、洛中の群盗などによる治安悪化や強訴を繰り返す南都・北嶺の権問寺社への対応と、警察面と経済面で幕府が朝廷を支える方策の検討であったと考えられる。

 

(奈良 東大寺)

 将軍が上洛するのは、源頼朝が建久六年(1195)二月に東大寺再建供養の出席のために入京してから、四十三年ぶりである。『吾妻鏡』に見られる随兵以下供奉人は、約三百人ほどであり、その御家人達の配下を合わせると約千人は超えていたと推測される。この帰洛については、前年の嘉禎三年の『吾妻鏡』八月七日条に「明春の頼経御上洛について六波羅で、建久の例に倣い御所を新造するため、各国々に(費用が)割り当てられ、すべて命じられた」とあり、御家人達に課せられ、周到な準備が行われていたと考えられる。旅程と京での滞在期間を含めると、この年は二月の閏月もあったために約十ヶ月の間、鎌倉が留守になった。留守居役は評定衆の二階堂行盛で、その間評定所での評議が行われず、また泰時は、この間に武蔵の守を叔父の時房の子息であり自身の娘婿である朝直に譲っている。

 翌二月十七日に頼経は、巳刻(午後十時頃)に野路宿(旧東海道と東山道の分岐であった草津の南に位置した宿駅:現滋賀県草津市野路町)を出発し、随兵以下供奉人が御所の庭より道中に至るまでに列に並び、頼経の神輿を寄せた後馬に乗り、子刻(午後零時頃)に入京を果たして六波羅御所に入った。鎌倉を出てから十九日目であった。

 『吾妻鏡』嘉禎四年二月二十二日条に、「将軍家(藤原頼経)が初めて外出された。陰陽頭安倍維範朝臣が御身固めに祇候した。まず太政大臣(西園寺公経)の御邸宅、次に一条殿(藤原道家)に参られた。今日は前駈(禅九:騎馬で先導する者)は用意せず、右馬権頭(北条正村)が御牛車の前に祇候されたという」。

 

(京都御所 紫宸殿)

 同月二十三日条に四条天皇への参内が行われ、「今日、将軍家(藤原頼経)が参内された。一条殿(藤原道家)より前駈三人が進められ、午後に出発された。夜になり、小除目が行われ、頼経は権中納言に任じられ、左衛門督を兼ねられた」とある。翌二十六日には検非違使別当に補任された。

 同月二十九日条、「大理(藤原頼経)の(検非違使)庁始が行われ、検非違使二十六名がいずれも参内した。その中で五位尉は八名という。頼経がお出ましになり、それぞれ対面を行ったという。晩になって将軍家(藤原頼経)が参内された。供奉人は去る二十二日に同じ。明け方になって前右夫(藤原実氏:西園寺公経の子息)と准后(西園寺公経の娘・綸子、頼経の母)の御邸宅に移られたという」。

 閏二月三日「お招きにより将軍家(藤原頼経)は大相国禅閣(西園寺公経)の御邸宅に出かけられた。おもてなしは美しく尽くされ、御贈物は意匠をこらした棚二脚〔それぞれ金銀をかざり、和漢の書物を置いた〕。夜になって六原に帰られた」。この月の十六日に桓武天皇の御代の延暦十五年に藤原伊勢人が貴船明神のお告げに寄り添い宇検した鞍馬山が焼失している。創建以来三百八十余年祖歳月がへており、都を守護してきた寺院であった。

 

(京都 東寺 六波羅蜜寺)

 同年三月七日に頼経は、権大納言に任ぜられ、右衛門督・検非違使別当を辞任した。これらの役職は在京を求められ、今回の叙位は名誉的な意味合いがあるために、四月十八日には権大納言を辞任している。

同年四月十日には、藤原道家の子息の福王(藤原頼経の舎弟)が仁和寺御室に入室し、道深新皇の弟子となった。臣下が入室されるのは「世にも稀な例である」と、初めての例であっとされる。そして二十五日には、道家が法性寺殿で伯父の大僧正良快を戒師として出家をし、法名を行恵とした以後、禅閣として一層の権勢を誇る。

 同年六月五日に頼経は、藤原氏の氏社である奈良の春日社に参った。時は遡るが、頼経が元服後の嘉禄二年(1226)正月に将軍宣下要請に佐々木信綱が京へ使者として上洛した際に、頼経の源氏への改姓を近衛家実に求めたが、藤原氏社の春日大明神が改姓を許さずとの御神託を受けたとして、頼経の源氏改正は実現せず藤原頼綱として将軍職に就いている。経時の父九条道家は、将軍として源姓を名乗るよりも、藤原姓で名乗る事の方が、自身の朝廷での権力有利に動くことを目算したのではないかと推測する。

 

(奈良 春日大社)

 同年七月十一日には、「北条泰時が、昨年の禅定二位家(政子)の十三年の御忌に当たり、その恩徳に報いを奉るため、鎌倉で書写を終えられた一切経五千余巻を、今日またその御月忌を迎え、唐院の霊場に奉納されるため園城寺に密かに参られ、奉納したという。園城寺は、聖霊(政子)の御帰依と施主(泰時)の信仰が特に暑いという。全ての経巻の奥に泰時の署名と花押を加えられたという」。そして八月二日には、頼経が年来の御願を果たされるために、春日社の社壇で一切経を供養された同氏は東北院僧正円玄、題名僧は百人であった。同月二十五日には頼経は加茂・祇園・北野・吉田などの社に参られたとある。十月に入り、この年の閏二月に焼失した鞍馬寺の上棟が行われ、頼経は馬三頭・御剣・砂金など奉加した。また、同月三日、後堀川院の御母・北白河院が急死されたとあり、このところ脚気を患っていたという。六十六歳で薨去した。

 

(京都 北野神社)

 頼経帰洛の最大の目的である洛中の強訴を繰り返す南都・北嶺の権問寺社への威圧等は、頼経の上洛と春日社参詣により、権勢が出来たと考えられる。そして群盗対策や治安維持のために、警察面と経済面で幕府が朝廷を支える方策の一つとして、洛中の辻々に篝屋が設置され、御家人により勤仕することが決められ、法の整備がなされた。また年間の松明用途十貫文が後に篝屋両所として西国に設定されている。

 将軍・藤原頼経は十月十二日に参内し関東下向を申してその後、一条(九条道家)・今出川(西園寺公経)の両邸宅に渡った。一条殿での温贈り物はおびただしく、拾遺納言(藤原行成卿)真筆の古今和歌集、(丹波)雅忠朝臣の相殿遺書などがその中にあったという。そしてこの日「畿内西国中の庄園・郷・保の住人で、このんで強盗・窃盗・博打・刃傷・殺害を生業とする者については、神社仏事・権問勢家の所領であっても(本所)に伝える事無くその身柄を召し捕え、またその居場所を注進するよう、守護人らに命じた」とある。そして翌十三日虎の一点(午後三時)に八か月間余り滞在した京を後にして関東下向に出発した。頼経は、この上洛により父・九条道家、母・綸子や祖父・西園寺公経、兄の二条良実に対面できた出来たことの喜びを延応元年八月十日条に天変の御祈禱が行われる際の願文に記して述懐している。   ―続く