鎌倉散策 五代執権北条時頼 十一、北条時頼元服 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』によると、嘉禎元年(1235)十一月十八日に、将軍・藤原頼経が病に伏して北条時房・泰時が御所に群参し、丹波良基朝臣が治療に祇候したとある。翌十九日には病気の祈祷が始められたといい、病気が重症であった様子を示している。同年十二月十八日には、疱瘡(天然痘)が現れた気配があるとし、その祈禱を行われ、二十六日には少し回復したようで食事をしたとある。頼経が病気になった十一月二十六日に、京都からの使者により、その月の十九日に従二位に叙されていた。

 嘉禎二年(1236)の正月の垸飯が病気のため頼経が不在の中で行われた。九日にようやく回復の兆しが見え、沐浴の儀式が行われ、十七日には疱瘡の後遺症で、股と膝に腫物が現われ治療を受けている。同年二月一日には腫物が無くならないため土公(どくう;陰陽道土を司る神の名)の祟りかと、故実に通じる人々が申したので、北条泰時の差配で土公祭が行われた。そして二日の日に頼経の病気が大した事が無いとして、北条時房が御所で酒宴を開き連日の事となったとある。頼経の病気が回復に向かい、治癒していったとみられ、十四日には頼経の御成り始めが行うために泰時邸に入られた。その中、北条泰時は三月四日に従四位以下に叙されている。父の義時が従四位下に昇叙されたのが五十四歳の時で、泰時も同年齢で昇叙された。そして、同三月十四日に突然として『吾妻鏡』に若宮大路東に御所が建てられるとあり、同月二十日に審議が行われ、四月二日に御所造営の木造始(こづくりはじめ)が行われている。そして嘉禎二年八月四日に、完成した若宮大路の新造御所に移っている。

 

 幕府は十一年続いた宇都宮辻子幕府(御所)から北側とされる若宮大路幕府(御所)に移った。移転理由は将軍藤原(九条)頼経の病気が原因とされるが、詳細な記述が無く、定かではない。その後元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めで、鎌倉幕府の終焉を迎えるまで、この地に置かれていた。これらの経緯から摂関家将軍・藤原頼経が幕府の象徴的な支柱であった事が窺われ、北条執権体制の維持には、頼経を頂点に御家人との主従関係が必要であった。北条経時は、この年の嘉禎二年十二月二十六日に天福二年(1234)八月に任命された小侍所別当を辞任している。そして、『武家年代記』によると、翌嘉禎三年(1237)二月に十八日に左近将監(近衛負の令外官の一つで従六位以上の第三等官)に任じられ、従五位以下に叙任された。そしてこの年、嘉禎三年四月に、祖父・北条泰時により養育された時頼が兄と同様に十一歳で元服する。将軍・藤原(九条)頼経から偏諱を賜り時頼と名乗った。

 『吾妻鏡』嘉禎三年(1237)四月二十二日条、「今日将軍家(藤原頼経)が左京権大夫(北条泰時)の邸宅に入られた。この御行(おなり)にあてるために御所〔檜皮葺〕を新造されたので渡御始をおこなったのである。おもてなしはすべて贅を尽くしたという。お出ましの儀は、また特に威儀を正し、供奉人も厳選された。それぞれの粧はとりわけ華やかであったという。

寝殿の御南に面で御酒宴が行われた。夜になって、左京町(北条泰時)の孫の小童〔字は戒寿。故修理亮(北条)時氏の二男〕が、(頼経の)御前で元服した。まず城太郎(安達)義景・大曽禰兵衛尉長泰が雑具を以って参上した。次に駿河前司(三浦)義村が理髪を勤めた。次に(頼経が)加冠された。次に御引出物を進上された」。続き所作の役人名の記載が続くが、天福二年(1234)に御所で元服した兄の経時の元服の儀式は詳細に記されているが、時頼の元服の様子は、泰時邸で行われ、記述が簡略化されており、所作の役人名の記載が明確に記載されている点に違いがある。

  

 北条泰時にとっては、嫡子・経時として定めていたのであろう。しかし泰時は、自身の子息・時氏、時実が早世していたため、孫の経時が万が一のことが起これば時頼に引き継がせるという考えがあったのではないかと推測する。以前に記したが、この元服の後に将軍を烏帽子親として偏諱として一字を与えられるのが、北条氏の一族の中で得宗家と赤橋流北条氏に限定された。金沢流北条氏の実義(後の実泰)は将軍を烏帽子親としてその字を与えられたが、次代の実時以降の金沢流北条家の当主は得宗家の当主から烏帽子親としてその一字を与えられている。これは、金沢流北条氏と大仏流北条氏の当主共に、それよりも一つ地位の低い得宗家を烏帽子親にする家と位置付けられた。実義から実泰への改名もその方針に沿ったものと考えられる。したがって泰時は、経時・時頼の両人を分け隔てなく養育したとみられる。

 

同年七月に、北条時頼は泰時の意向により鶴岡八幡宮での流鏑馬の射手を任されている。兄・経時の武芸に対する記載は『吾妻鏡』には見られないが、この記載によると時頼の武芸と聡明さに泰時は高く評価したという。

『吾妻鏡』嘉禎三年(1237)七月十九日条、「北条五郎時頼が初めて来月の(鶴岡八幡宮の)放生会の流鏑馬を射られるので、先ごろはじめて鶴岡八幡宮の馬場で練習をした。今日、武州(北条泰時)が介添えのために流鏑馬の屋に出られ、駿河前司(三浦義村)以下の宿老らが参り集まった。その折に海野左衛尉幸氏を招いて(流鏑馬の)仔細を話された。これは古くから功のある人であるうえに、幕下将軍(源頼朝)の御代には(優れた)八人の射手の中に入っていたためであろうか、あるいは故実に堪能であると人に知られていたためであろうか。そこで(時頼の)射芸の作法にかなわない点を見て注意してくれるよう、泰時が仰った。『射手の様子はたいそうすばらしく、おおよそ生まれながらの上手です。』と、幸氏は感心したが、泰時はなおも(時頼の)欠点を問われた。それが再三に及んだので、幸氏はようやく申し上げた。『矢を挟む時に、弓を一文字に持たれることは、いわれが無いわけではありません。故右大将家(源頼朝)の御前で、弓矢の談議が行われた時、一文字に弓を持つことについては、みな一致していたようです。しかし佐藤兵衛憲清入道〔西行〕が言うには、弓を拳から押し立てて引く様に持つべきである。流鏑馬で屋を挟む時に、一文字に持つことは礼にかなわない。との事でした。よくよく考えるに、この発言は殊勝でした。一文字に持てば、実際に弓を引いて直ぐに射る様子には見えません。いささか遅い姿です。(頼朝)が上を少し揚げて、水走に持つよう仰ったので、下河辺行平・工藤景光の両庄司、和田義盛・望月重隆・藤沢清親らの三金吾及び諏訪大夫盛隆・愛甲三郎季隆らはたいそう感心し、みな異論を申さず、承知しました。ですからこの事だけを治されますように』。義村が言った。『この事は今の話を聞いて思い出した。たしかに聞いた事がある。興味深い』。泰時もまた喜ばれ、『弓の持ちようは、今後はこの説を用いるように。』という。この後は、時頼の事はおいて、ひたすら弓馬の事を語り合われた。義村はわざわざ使者を宿所に遣わさし、子息らを呼び寄せてこれを聞かせた。流鏑馬・笠懸以下の作り物の故実や的・草鹿などの知識について、おおよそ奥儀を究め、火灯し頃を過ぎてからそれぞれ退散したという」。

 

『吾妻鏡』は、鎌倉幕府・北条氏の編纂による史記であるため、特に北条泰時や時頼に対して好意的に曲筆されている事も多くあるが、この様に詳しく、文治二年(1186)八月の西行法師と源頼朝との弓馬談義を用いて記していることは、実際に合った事と推測し、北条時頼が弓馬に関して上手であったと考えられる。 ―続く