鎌倉散策 五代執権北条時頼 十、九条道家と上皇帰洛問題 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 摂関家将軍・藤原(九条)頼経の父である九条道家が、この時期に再び権力を掌握していく。北条泰時が、鎌倉幕府・得宗家執権体制を維持するために孫である経時、時頼に継承していく過程が、この時期から始まったと考える。その政策は、非常に巧妙で、興味を示す。そして、摂関家将軍・藤原(九条)頼経と父・九条道家の権力掌握が、後に宮騒動へと発展していく。

承久三年(1221)四月に順徳天皇が譲位し懐成親王が二歳で践祚し、仲恭天皇となった仲恭天皇の外叔父にあたる九条道家が摂政となった。同年六月に後鳥羽上皇の北条義時討伐の宣旨により、承久の乱がおこる。しかし幕府は、圧倒的な軍事力により勝利した。後鳥羽院は・土御門上皇・順徳上皇はそれぞれ配流となり、そして翌七月に仲恭天皇は廃位される。九条道家は討幕計画には加わらなかったが、摂政を罷免され、仲恭天皇は道家に預けられた。天福二年(1234)五月二は十日、二十七歳でなくなるが、その間は幽閉・蟄居のままであったという。乱の混乱期であったために即位式も行われず在位期間も二ヶ月という歴代在位期間の最短記録であった。仲恭天皇の追号は明治三年(1870)七月の太政官符により諡号されている。

 

(京都 東寺 京都御所)

 九条道家は、「公卿勢力」の貢で記述したが、嘉禄二年(1226)に後白河法皇の皇女であり、宣陽門院と近衛家実が結んで、後堀河天皇の最初の中宮である三条公房の有子を(安喜門院)を退室させる。そして家実の娘である長子(鷹司院)を宣陽門院の養女として、わずか九歳で新しい中宮に立てていた。失脚した九条道家も同年、子息の頼経が鎌倉幕府四代将軍として正式に就任した事で道家は舅である西園寺公経と共に近衛家実の排斥を画策し、さらに正妻の西園寺凛子の大叔母にあたる後堀河天皇の北白河院(姉が公経の生母)に働きかけた。そして、近衛家実は天皇の二人の兄である天台座主尊性親王と仁和寺門跡道不可新皇と対立しており、延暦寺や興福寺の宗徒に対する対応に失敗に不満を抱いた北白河院も道家等に近づいて行く。近衛実家と九条道家の摂関を巡る争いが激化していく。

 

(京都 宇治平等院)

 安貞二年(1228)十二月に道家は後堀河天皇に関白交代を求めたが、天皇はこれを拒絶するが、同月二十四日になると北白河院の使者が鎌倉から道家を次期関白に推挙する頼経の挙状を持ち帰ると生母・幕府が関白の交替に同意していると知り、それに賛同する意向を幕府に伝えている。そして、家実の摂政更迭と道家の再任を行った。寛喜元年(1229)に九条道家と西園寺公経の娘・綸子との娘・竴子(藻璧門院)を入内させて女御となり、翌寛喜二年二月十六日に中宮となる。寛喜三年(1231)二月十二日秀仁親王(四条天皇)を産んでいる。しかし、この年の七月に道家は、世間の風評を避けるためか長男・教実に関白職と藤氏長者の職を譲ったが、実権は道家が握っていた。これらの件で道家と後堀河天皇の間に距離が生じ、道家等の工作により、いずれ秀仁親王が皇位に就く事が確実であったにもかかわらず、外戚としての権力を強固にさせるために、強引に秀仁親王の即位を計った。道家の舅であり、外祖父となる西園寺公経の了解をとりながら、貞永元年(1232)十月四日、後堀川天皇の譲位により、わずか二歳の外孫・四条天皇の即位が決定される。道家の長子であり幕府将軍藤原の頼経の兄・教実が天皇を補佐するために摂政に就任した。譲位に先立ち道家は、幕府に対し、了承を得るために相次いで二度派遣したが、二度目の使者は譲位がすでに決定したことを幕府に告知する物であった。道家は幕府に譲位の承諾なく強行したのである。幕府は当然「すこぶる不快の躰」を示す。承久の乱の再現を防ぐための天皇即位の承認を興示威していた幕府執権・北条泰時をはじめとする幕府首脳は、摂関家将軍・藤原頼経の父である九条道長への警戒心を強く持つ事となり、対立の始まりとなった事は言うまでもない。朝廷内で九条道家が旺盛することは、幕府にとっても脅威であった。

 

(鎌倉 鶴岡八幡宮)

 天福元年(1233)九月に藻璧門院が、翌年八月に後堀川院が相次ぎ崩御すると、朝廷ではこれは承久の乱の後に隠岐島へ配流となった後鳥羽院の執念のなせる業だと噂されるようになる。そこで九条教実は父道家等とともに上皇の鳥羽院・順徳院の帰洛を幕府に諮った。同じく配流になっていた土御門院は寛喜三年(1231)十一月六日に配流先の阿波で崩御しているため、二名の帰洛を諮るっている。

『明月記』文暦二年(1235)五月十四日条によると、摂政九条道家が後鳥羽院と順徳天皇の帰洛を提案するが、泰時は「家人等一同にしかるべかざる由を申す」と言って、これを拒絶した。北条義時・泰時の政策は、再び承久の乱の様な大乱を起こす要素を根絶するため天皇の存在と立場を実権から権威に変えていた。この帰洛問題は、北条義時・泰時が取った政治形態の崩壊を示す危険性があり、非常に恐れたのである。そして、この帰洛問題に失敗した九条教実は文暦文暦二年(1235)三月に十八日逝去し、藤原道家は再び摂政となる。これに対し近衛家が猛反発し、嘉禎三年(1237)に道家の娘仁子を近衛兼経に嫁がせて協調関係を求めた。

 

(鎌倉 十二所 五大堂)

 同年六月二十九日に鎌倉では、将軍・藤原頼経が願主となって鎌倉の安泰を願い、政所の鬼門とされる北東の方違、十二所(鎌倉東部)の大慈時の北に堂内に五大明王を安置する五大堂の明王院を建立している。この日、定豪を導師として供養が行われ、将軍頼経以下多くの御家人が参列した。将軍頼経に従順する御家人が増えてきた時期であった。またこの月に佐々木氏と延暦寺の氏社である日吉神社との紛争が起きており、建久二年の紛争、寛憙元年(1229)三月二十三日に起こった時氏の配下である三善為清(壱岐左衛門尉)が借金の返済を巡って貸主の日吉二宮社の僧侶を殺害する事件など因縁の関係であった。寛憙元年の幕府の対応は、為清と同僚一人が日向に配流となり、日吉社の責任は問われないという、あいまいなものであったが、今回の幕府の対応は、双方の張本を罰するように朝廷に奏上する強固な姿勢を示している。

  

(鎌倉 鶴岡八幡宮)

 また、同年七月に北条泰時は、鎌倉で念仏禁止を行い、幕府は寺社・貴族への不干渉を建前としていたため、治安維持の立場から兵仗禁止を求めたのである。鎌倉での寺社においては、幕府の祈願的な性格を有し、幕府の経済的な寄進と制約により維持されていた。泰時が明恵上人に尊称・傾倒する中、既成教団の堕落が進み、革新教団の台頭が見られた。それは、法然や親鸞によるものであり、彼らは明恵と異なり、僧と俗との差を否定し、戒律を否定することによって、仏教を一般的に開放する方向をとっていた。本来「南無阿弥陀仏」の名号の称得る者に浄土に往生せしめると本願に近い阿弥陀仏への帰依を表明する事で功徳を得られる。しかし親鸞の説教の解釈を誤り、『親鸞書状』の「身にもすまじき事も許し、口にも言うまじきことも許し、心にも念まじきことも許す」という「本願ぼこり」の徒が現れ、魚長を食し、女人を招き、徒党を組み。酒宴を好む念仏者たちの行動は、反倫理的的・反社会的行動でもあった。それらの行動に対し為政者である泰時の仏教感においては、到底許容できるものではなく、仏教者としてあるまじき行動として禁止せざるを得なかったのである。文暦二年九月十九日、嘉禎元年と改暦される。  ―続く