危機の構造―日本社会崩壊のモデル
その1、その2、その3、その4、その5、その6、その7、その8はこっち。
第5章 危機の構造
前々回と前回にかけて、日本社会に潜む危機の構造とその作動過程について書いた。
その危機の構造とは、構造的アノミーである。
構造的アノミーは、社会に埋め込まれている構造から発生する。
それ故、社会が作動するに従って、次から次へとアノミーが拡大再生産されるのであった。
小室直樹は、加えて、別の分析概念も作っている。
そして、それらは構造的アノミーと連動して作動する、と指摘する。
今回は、それについて書き、爆発的なエネルギーをもって日本の社会を解体していく過程を描いてみよう。
複合アノミー
まず、小室直樹は、複合アノミーという概念を導入する。
複合アノミーとは、様々な規範が体系化されずバラバラに放置されている状況の下で、
お互いの規範の錯綜による、コミュニケーションの不成立によって生じるアノミーである。
以下で、その発生過程について書こう。
そこで、日本の規範の状況を見てみよう。
日本には、昔から確固とした規範が存在したことはない。
その時の状況によって、何となくそれっぽいものが出来ては忘れ、出来ては忘れの繰り返し。
わりと最近の例では、幕末の下級武士。
下級武士達は、浅見絅斎の「靖献遺言」などによってできた勤王の精神を下に、規範を自らに課した。
明治維新が終わって少し経つ頃までは、こうした精神も残っていたが、
それ以降は、いつものように消えてしまった。
他の例として、儒教。
家に位牌があるという人は、今でもわりと存在するだろうけれど、
儒教の規範に従って行動している人など、皆無と言ってもいい。
位牌を持ちつつ、儒教的な葬式を挙げている人は、ほとんどいないだろう。
たいていは、「日本仏教」的だったりする。
さらに重要な例として、公共空間が存在しないことが挙げられる。
日本が中世社会であることの一つの証でもある。
中世社会と国際社会ではルールが異なるので、時折、とんでもないことが起こる。
2013年の6月に、国連の人権委員会で、ある国の刑事司法の問題点を指摘された。
そして、それを他の国の大使に笑われたら、その国の国連人権大使が、
「黙れ、お前ら!」と発言した。
どこのヤクザかと思ったら、やっぱり日本だった。
社会がこういう行動に対して制裁を与えていないから、ついいつもの習慣が出て、キレちゃった。
普通の民主主義国では、見ず知らずの他人や外国人同士が共存するために、
皆がある一定の規範に従って行動する空間がある。
しかし、日本は中世社会なので、そうした一般的な規範が成立せず、
今回のような発言を制裁しようという意識が働かない。
このように日本には、規範っぽいものが出来て、人々の行動を規定したりもするのだが、
それらは、体系化されず、バラバラに放置されたままである。
そして、小室直樹は、このような規範状況からの系を2つ導出している。
第一の系は、規範的行動における非対称性である。
これは、規範的行動に対する、カウンターバランスが存在しないということである。
カウンターバランスは、多くの規範がまとめられて、一つの体系になっている場合、必ず発生する。
小室直樹は、例として、貴族社会におけるノーブレス・オブリージュなどを挙げる。
他の例として、中国史における、官僚に対するカウンターバランスとしての宦官がある。
ところが、日本には、そうしたカウンターバランスは発生しない。
それ故、人々は、自分に都合のよい断片的規範のみを選択し、カウンターバランスを考えないようになる。
ここから、小室直樹は、第二の系を導く。
それは、一般的正当化の可能性である。
すなわち、人々は、各規範の断片を上手くつなぎ合わせることによって、
いかなる行動をも正当化することができるようになる。
こうした正当化は、当人達にとっては、まぎれもなく正しいと思われる一方で、
それ以外の人達から見ると、とんでもない行動に見える。
お互いにとって、相手が間違っているのだ、と感じられる。
そうして、人々は、間違った人々の大海に囲まれている、と疎外感を感じるようになる。
複合アノミーが爆発的なエネルギーとなって解放された例として、オウム真理教が挙げられる。
オウムに入信した人達は、アノミーになっていた。
彼らは、世界や社会は間違っているのではないかという違和感を覚えつつ、
周りの人からも十分に認められていない人達だった。
当時、バブルに向けて生活水準が向上していたことも原因の一つだった。
そんな彼らは、麻原彰晃という「父」の下に集う。
皆が「父」を共有することで連帯を回復し、「父」が作った規範に従うようになる。
因みに、その規範は、各宗教の規範を「父」の都合のよいように集めた、パッチワークだった。
そして、「父」の命令に従い、人類を救済しようとする。
その救済方法の第一段は、日本政府を転覆し、資本主義でも社会主義でもない国を作ることだった。
その一つとして、「さっちゃん(サリンのこと)」を住宅街や地下鉄にばらまいた。
化学兵器による世界史上初の無差別テロである。
日本社会が保持する、危機の構造によって蓄えられたエネルギーが噴き出た象徴的な事件だった。
この事件には、まだまだ分からない大きな謎が残っている。
神学や宗教社会学にも、演習問題を残した。
がしかし、いつもの通り、そうしたことの追及はしないのが日本社会。
原子アノミー
さらに、小室直樹は、原子アノミーという概念を導入する。
原子アノミーは、日本独特の集団構成原理のもとで、複合アノミーが作動する時、生まれる。
それを小室直樹は、以下のように説明する。
複合アノミーが作動している場合、互いに相手がとんでもない奴に見えるので、
人は「本当に気心の知れたグループ」の中でのみ安心できる。
そして、この小さなグループが一つの単位となり、ここでも内外が峻別される。
峻別の際に用いられる規範は、一般的ではなく、各グループ固有のものである。
それ故、情緒を共有する内では何でもないことであっても、外から見るととんでもないことに見える。
かくして、全ての人が、何をするか分からない人間達の大海に囲まれ、
孤島に住むような疎外感を持つようになる。
このような、規範の粉末化を原子アノミーと呼ぶ。
ここでは、さらに論理を進めてみよう。
原子アノミーが作動すると恐ろしいことになる。
原子アノミーの状態にあっては、少人数から成るグループがバラバラに存在する。
それぞれのグループ同士は、情緒を共有していないため、ぶつかり合うことが多くなる。
ぶつかった結果、その紛争が合理的に解決されるのならば、良いのであるが、
なにせ情緒同士がぶつかり合うものだから、合理的な解決は望めない。
従って、他のグループやその人間とぶつかり合うことは、人々にとって大変な負担である。
そうすると、負担を避けるために、他のグループには干渉しないようになる。
それ即ち、他人に対して無関心になる、ということである。
無関心社会の到来である。
例えば、2010年にNHKで報道され、広く知られるようになった「無縁社会」。
現代では、同じ町内やアパート、マンションですら、住人同士がお互いを知らなかったりする。
ちょっと昔までは、物を貸しあったり、お裾分けをしたりしていた。
ところが、そんなことは今ではほとんど見かけない。
さらには、家族という共同体ですら崩壊し、親族とのつながりすらない場合が出てきている。
その行くつく先が孤立死である。
誰にも看取られずに、独り自室で死んでいく。
他に面白い例は、貧困に関しての有名な調査結果。
2007年にピューリサーチセンターが世界47カ国で行ったもの。
「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はありますか?」という質問に対して、
「助けてあげる必要はない」と答えた人の割合が、日本では38%だった。
2位のアメリカ、28%を大きく引き離して断トツのトップ。
日本人は、自分が関心を持つのは、自分が所属する小さなグループと、せいぜいそのちょっと上のグループだけ。
従って、それ以外の人間がどうなっていようが知ったこっちゃない。
関わったり、社会のことを考えると疲れるから、無視しておこう。
と、こう考える。
震災直後だったら、多少調査結果が変わっていただろうが、今はまた元に戻っているだろう。
3年も昔のことは忘れちゃっているし、対策が全く話題に上らないことを見ても分かるだろう。
かくして、日本社会は、今日もひたむきに解体の道を突き進む。
今まで作りあげてきた文化や社会を自らの手で消し去っていく。
なんと贅沢なことだろう。
いい時代に巡り合わせたものである。
Und wen ihr nicht fliegen lehrt, den lehrt mir - schneller fallen!
あなたがたが教えても飛ぶことができない者には、教えてやるがいい、
――もっと早く落ちることを!――
――ニーチェ、『ツァラトゥストラはこう言った』氷上訳
続く。