「危機の構造」を読む その5 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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$蜜柑草子~真実を探求する日記~-危機の構造
危機の構造―日本社会崩壊のモデル

その1その2その3その4はこっち。

第4章 「経済」と「経済学」
「過去のことに基づいて、未来の計画を立てることなどできない。」
("You can never plan the future by the past.")
激動の中にあるフランス革命を見て、エドマンド・バークはこう書いた。
このことは、現代についても言えるのではないか。
グローバル化が進むことで、社会はますます流動的になっている激動の時代。
さらに、そうしたことに加え、社会の複雑化が拍車をかける。
昨日まで確かだったことが、次の日にはあっという間に変わっている。
最も先行きが見えづらい時代と言えるだろう。

先行きが見えない中、何を大事にすればいいのかも分からない。
戦後日本が、唯一持っていた価値基準である「経済」も絶対でないことが明らかになった。
日本経済の将来について、誰も明確な見通しと確信を持つことができなくなっている。
また、これは世界的な傾向なのだが、経済を分析し、制御する道具であるはずの「経済学」でさえも、
その限界と非力さを露呈している。
小室直樹は、本章で、日本経済と経済学の危機について分析をする。

今回は経済学について、次回は経済について書こう。


「経済学は役に立たない」、「経済学なんか科学じゃない」、「経済は実践してナンボじゃ」、
などなど、数々の非難が寄せられる日々。
現在だけでなく、昔から何度も繰り返される非難である。
小室直樹は、当時においても問題になっていた、経済学の危機の原因を指摘している。
その原因を考えるために、まず次のことを確認する。
経済学は、極めて単純化された前提の上に立つため、
その前提と大きく異なる経済については分析をすることができない、ということ。
どんな学問でもそうだが、現実は無限に複雑なので、思考するためには、
ある程度まで単純化した前提を立てることは避けられない。
それ故、単純化された前提そのものが問題なのではない。

それでは、経済学の危機は、何によってもたらされているのだろうか?
小室直樹は、以下のように指摘する。
それは、無限に複雑な現実の中から、一体何を重要視して抽出し、
何を切り捨てたのかについて、鋭く意識することができていない、ということ。
こうした意識を持っていないと、往々にして、理論がそのまま現実を説明すると考えたり、
理論をそのまま現実に適用しようとしたりする。
経済学の危機は、ここに起因する。
言い換えると、経済学が要請する諸前提に対して、社会科学的意味の十分な検討が行われていない、ということ。

さて、経済学における単純化された前提とはなんだろうか?
大きく言って、①その特殊な行動様式に関する仮定、
②経済現象は、その他の社会現象から分解可能である、という2つの仮定である、と小室直樹は言う。
しかも、経済学は、近代資本主義経済を研究対象とする。
以下では、これらの仮定について、敷衍しておこう。

まず、経済学が仮定する特殊な行動様式について。
それは、最適化する個人を扱うということ。
最適化する個人は、限界的な(marginal)な部分で考える。
例えば、ある科目の試験に関する試験勉強について考えてみよう。
4時間勉強すれば60点取れ、5時間勉強した場合は70点、6時間勉強した場合は80点を取れるとする。
この時、最適化する個人は次のように考える。
一応、4時間は勉強するつもりだけど、もう1時間余計に勉強しようかな?
これを経済学の用語で表現すると、限界的な便益は、限界的な費用を上回るかどうか?ということ。
この例は、大変わかりやすく、最適化する個人の存在を考えやすい。
しかし、ちょっと考えてみると、こんな人間は存在しない。
人は日常生活で一々こんなことを考えていないし、そもそも予想が合っているかどうか分からない。
こうした個人は、単純化された非現実的な仮定である。

次に、経済現象とその他の社会現象との分解可能性について。
経済現象は、その他の社会現象によって影響されることはない、という仮定。
例えば、失業率や金利は、選挙の投票率の影響を受けることは間違いないだろうが、
経済学ではこうした影響は考慮しない。
他にも分かりやすい例は、公害。
経済学では、公害を外部費用(external costs)という形で表現するが、
その地域の科学技術の発展度合いや裁判所による社会制御の影響力については考えない。
それ故、そもそも公害として認識されず、経済学で扱えない場合も存在する。
しかし、こうした社会現象まで考慮に入れていたら、モデルが複雑になりすぎる。
もちろん、考慮に入れられる場合もあるが、一般的には不可能である。
そこで、経済現象は、その他の社会現象と分離可能である、という仮定を立てる。

最後に、経済学は近代資本主義経済のみを対象としている。
物々交換が主流な経済や封建制度の下での経済などは、分析の対象になっていない。
従って、対象とする経済が近代資本主義でない場合、分析の有効性を著しく損なう。


これら経済学の限界を意識することで、経済学は無意味であるなどという言説は出てこなくなるだろう。
また、社会は、経済だけでなく、政治や法、文化、外交、軍事など、
様々な要素からできあがっていることの理解にもつながる。
ここまで来て初めて、経済を制御可能なものにすることができる。
このことに気づかない経済一辺倒のエコノミック・アニマルが、
90年代以降、どんな失敗をしたか思い出してみるとよいだろう。
殷鑑遠からず(「詩経」大雅)。


次回は、日本の資本主義、及び、世間を賑わせるブラック企業について書こう。
続く