「危機の構造」を読む その6 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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危機の構造―日本社会崩壊のモデル

その1その2その3その4その5はこっち。

第4章 「経済」と「経済学」
前回は、経済学の限界と危機について書いた。
今回は、その経済学の分析対象であるはずの経済について考えてみよう。

はじめに、前回のおさらいをしておこう。
経済学でも、現実を抽象化(abstraction)して作ったモデルを考える。
そのモデルには、単純な前提があるのだった。
それは、経済主体の特殊な行動様式に関する仮定、
経済現象は、その他の社会現象から分解可能である、という2つの仮定であった。
その上、経済学は、近代資本主義経済を研究対象とする。
この限界を認識せずに、現実を分析しようとしても、
その分析の有効性は低く、現実の経済を制御しえない。
そうして、人々にも「経済学は役立たず」のように言われること、これが経済学の危機だった。

日本は近代資本主義なのか?
さて、日本の経済について考えてみよう。
まず次のような疑問から入る。
日本は、果たして、近代資本主義経済なのかどうか?
少しだけ掘り下げてみよう。

そもそも資本主義とは何であるか?
小室直樹は、マルクス、ヴェーバーの定義と大塚久雄の解釈に従って、資本主義を次のように定義する。
資本主義の特徴は、①労働と労働力とが分化し、労働力市場が一般に成立し、
②生産者と生産手段とが分離する、ことにある。
この定義を採用することで、近代資本主義(der moderne Kapitalismus)とそれ以外のものを峻別できる。
それぞれについて、日本では成立しているのだろうか?

まず、①について。
これは、労働力が商品となっており、市場の中で、それが売られたり買われたりしているということ。
その場合、当然、需要と供給の変動があり、価格調整機構が働き、均衡価格が決定される。
従って、労働力についても、一物一価の法則が成立する。
言い換えると、同一労働同一賃金、ということである。(もちろん、ぴったり同じなわけはないが)
こうして考えると、日本で、この条件は成立しているのだろうか?
否。
正規雇用と非正規雇用の賃金の格差が問題となっていることを挙げれば十分だろう。

次に、②について。
この条件が成立していないと、資本家は、安心して生産手段を使わせられない。
株式会社を例にとって、順に考えてみよう。
まず、株式会社は誰の物だろう?
もちろん、資本家たる株主の物である。経営者の物ではない。まして、労働者の物なわけがない。
経営者は、経営の専門家として、資本家に雇われているだけ。
株主は、会社の経営を経営者に任せている。
当然、その経営が上手く行っているか、会社の金を勝手に使っていないか、心配になる。
そこで、経営者を監視する必要が出てくる。これが公認会計士や監査法人。
これらを雇うのは誰かというと、もちろん会社の所有者である株主。
経営者が、自分達を監査する人間を選ぶのは、明らかにおかしい。
泥棒が、泥棒の仲間となった警察官に実況見分をさせたり、調書を書かせたりするようなもの。
ま、こんなことあるわけないよね。と思ったら、やっぱり違った。
最近の例では、2011年にあったオリンパスの粉飾決算。
これも根本的には、監査される方が、監査する方を雇ってたということが問題。
株主の物を使って、経営者が好き勝手にやってた。
かように、日本では、生産者と生産手段の分離も成立していない。

以上、①と②の条件共に、日本では成立していない。
従って、日本は、近代資本主義ではない。
日本は近代資本主義ではないのだから、そこに貫徹する論理や法則も近代資本主義とは異なる。


日本の「資本主義」
それでは、日本の「資本主義(自称 or 似非)」はどのようなものなのか?
一言で言うと、機能集団(functional group)であるはずの会社が、共同体(Gemeinde)になってしまうこと。
共同体の特徴は、(a)二重規範、(b)財の二重配分である。
これも、それぞれ少しだけ説明を付け加えておこう。

(a)は、内(Binnen)と外(Außen)が峻別され、外部に対して封鎖されるということ。
それ故、共同体には、下から入るしかなく、横から入ることはできない。
その共同体に「生まれる」しかないのだ。
日本では、新卒が重視される理由はこれ。
新卒での入社は、社会学的には、共同体における新たな誕生を意味する。
また、この特徴の帰結には、他に次のようなことがある。
共同体間の移動は困難なので、共同体に加入した以上は、そこで定年まで生活する必要がある。
そして、共同体での生活は、各成員に対して全人格的献身を要求する。

(b)は、獲得された財(権力、名誉などでもいい)は、一旦は共同体自体に集約され、
そこから、共同体の各成員に配分し直される、ということ。
次の例がおもしろいだろう。
日本においては、経営者だけでなく、労働者までもが会社の業績の心配をする。
そして、会社の業績が悪くなった場合でも、自分の給料が下がるのは仕方ないなぁ、と思ったりする。
反対に、会社の業績が良くなったら、自分の給料も上がることを期待するだろう。
これは、共同体からの分け前を求めているのだ。

このように、社会学的に見れば、日本の会社が共同体になっているのは明らか。
因みに、年功序列や終身雇用制度が日本型雇用などという言説があるが、明確に誤り。
そうした制度は、共同体の特徴であって、日本の企業の特徴というわけではない。


ブラック企業
さて、この結果を利用して、世間を騒がせているブラック企業について考えてみよう。
今年の9月には、厚労省まで乗り出してしまった。
その調査結果が、12月17日に発表された。
結果は、調査対象の企業約5000社のうち約8割ほどが、長時間労働などで労働基準法に違反していた。
これまた、多くの人が感じている通りの結果である。

こうして脚光を浴びているブラック企業であるが、従来の日本の企業との違いは何なのだろうか?
結論から言うと、本質的な違いはない。
単に、従来の日本企業の悪い面が、経済的・社会的条件の変化によって、現れているだけ。

例えば、労働に見合わない低賃金に焦点を当ててみよう。
これは、昔からあるサービス残業の極端な場合。
日本でサービス残業が定着しているのは、労働力が商品になっておらず、
会社という共同体に対しても全人格的な献身を必要とするから。
労働力が商品になっていれば、就業時間が終わった途端に即帰る。
就業時間後の労働力・時間は、売ったわけではないので、自分のもの。
ところが、日本はそうなっていないので、就業時間が過ぎても働く。
しかも無賃金で。
こうした現象の極端な場合が、ブラック企業で現れているのだ。

また、おまけで、パワハラなるものについても考えてみよう。
ブラック企業でよく報告される例としては、無理なノルマを課せられ、徹底的に人格を否定されること。
これも、従来の日本企業にもあった現象の極端な場合。
日本企業は、共同体であるから、各成員は全人格的な献身を要求されるのであった。
それ故、自分がどう思うとか、どういった価値観を持つとか、そうした内面的なことまで企業に合わせる必要がある。
普通の資本主義経済では、そんなことは関係ない。
内面や人格はどうでもいいから、各社員の業績に対して、報酬が支払われる。それ以上を必要としない。
ところが、日本の場合、企業は各成員の人格までも吸収し尽くす。
従って、企業がその人格をどうしようと勝手。使いづらければ、破壊したり、洗脳したりするのもあり。
徹底的な自己否定をさせるのは、洗脳の常套手段であり、尊厳の破壊であるが、
こんなことができるのも、日本企業が共同体になっているから。

さあ、こうしたブラック企業の出現を、経済学で制御できるのだろうか?
ここまで来れば、答えは簡単。
経済学だけでは無理。
30年前を思い出してみてほしい。
バブルに向けてぐんぐん成長していた当時であっても、サービス残業やパワハラ一歩手前のことはあった。
故に、経済的な条件が良かろうと悪かろうと、そうしたことは起こりうる。
日本企業とは、元々そういうものなのだ。
それが、近年、格差の拡大や貧困の増大などの条件が整ったことで、現れやすくなっているだけ。
従って、経済学を使って景気を良くしたとしても、再分配が上手くいかなくては、ほとんど抑止力にならない。
経済学の限界は、ここにある。
問題への処方箋は、政治哲学での再分配の議論や社会学での集団の分析に基づいた、
制度設計が適切なものとなるだろう。
その制度設計は、演習問題として残しておこう。


以上見てきたように、小室直樹が指摘していた経済の構造についても、変わらないままである。
その一例として、ブラック企業を取り上げた。
社会に、医療費の負担や若者の使い潰しといったコストを押しつける、ブラック企業。
そうしたブラック企業をのさばらさせた犯人はだーれだ?


"The sad truth is that most evil is done by people who never make up their minds to be good or evil."
悲しい真実は、ほとんどの悪が、善良であるとか邪悪であるとか全く自覚のない人たちによってなされていることだ。
                            ――「精神の生活」 ハンナ・アーレント

続く