「危機の構造」を読む その4 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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$蜜柑草子~真実を探求する日記~-危機の構造
危機の構造―日本社会崩壊のモデル

その1その2その3はこっち。

第3章 歴史と日本人思考
前回は、日本人の思考の盲点について書いた。
今回は、そのことに対して、注意を喚起できないジャーナリズム批判について書こう。

はじめに、前回のおさらいをしよう。
まず、日本人の思考の盲点とは、社会現象を科学的に分析することができないことだった。
それは、次のようなことを認識しないことである。
社会で行動している人の意図が、そのまま実現されるとは限らないということ。
その理由は、社会現象は「すべてがすべてに依存する」ので、それぞれの要素が波及を起こすうちに、
意図していない現象も引き起こされるからである。
そして、このような意図しない結果を引き起こす社会現象を科学的に分析するには、
全体を見渡す視座を持ち、それぞれの相互連関を考慮する必要がある。
ということだった。

続けて、小室直樹は、以下のように指摘する。
しかしながら、日本人の思考は戦前と本質的に何ら変わることはなく、
日本を破局に導いた危機の構造を保ったままである。
ここに、ジャーナリズムが天下の木鐸となる必要性がある。
日本人に危機の構造を知らしめ、それを科学的に制御するきっかけとならねばならない。
ところが、日本では、そのジャーナリズムも機能しない。

小室直樹は、ジャーナリズムが機能しない理由として、次の2つを挙げている。
①日本人特有の「情緒倫理」、②人格と意見を分離して考えられないこと。
そして、この2つが合わさると、
日本人一般の感情に逆らうような主張はそれだけで悪と見なされ、
その上、それに対する批難は人格にまで及ぶ。
従って、日本人に根ざす危機の構造を有効に指摘することは不可能に近い、と言う。

人格と発言の分離なぞ、議論について考える時の、初歩の入門のそのまた初め。
普通の民主主義諸国では小中学生レベルの内容が、日本では浸透していない。
初等教育で、そうしたことを教え込んだりしていますか?
やってないでしょう、そんなこと。
お受験やお勉強に忙しくて、民主主義にとって致命的に重要なことをやっていない。
民主主義教育としては、大失敗。
ジャーナリズムが機能しないのも必然。

マァマァ、日本は中世社会なんだから仕方ないじゃん、と言ってしまえば、それまでなのだが。
少しだけコメントをしておこう。
まず、民主主義とは、元来、不自然なものなのである。
そこら辺に転がっていたり、自然にできあがるものではない。
それ故、民主主義に必要なことと、人間が本来持っている性質とが相反することも多々ある。
その一例が、言論の自由。
それを確立するためには、自分の意見とは真っ向から反対する意見"にも"、耳を傾けなければならない。
どれだけ耳に痛くても、黙って相手の意見を聞いていなければならない。
決まったルールの中で、意見を戦わせなければならない。
これほど人間の感情を逆撫でするものも、他に中々あるまい。
こうした人間の本性に反する不自然なことを実施するには、訓練が必要である。
特定の目標を実施するために、自己制御(self-regulation)することを学ばなければならない。
このような社会化(socialization)を徹底して行わなければ、民主主義は次第に崩れていく。

さて、小室直樹は、ジャーナリズムが機能しない理由として2つの理由を挙げているのだが、
筆者はそこにもう一つ加えたい。
小室直樹も反対しないだろう。(後に「日本教の社会学」でも、この考えを示しているから)
それは、③言霊信仰である。
言霊信仰とは、「言ったことは、現実になる」という信仰である。
例えば、戦前にあった「戦争に負ける、という奴がいるから、戦争に負けるんだ」という話。
他にも、ジョークを言うと「冗談を言うな」と侮辱したことになることなど。
脱魔術化(Entzauberung)していない、中世社会の証である。
言い換えると、ifを理解することができない、ということ。

この言霊信仰が、①と②と結びつくと、次のようなことが起こる。
ある人が、このまま行くと破局が訪れると発言した場合、
言霊信仰により、人々にそれはあたかも現実であるかのように受け取られる。
そうした現実は起きてはならいため、人々の感情を逆撫でし、その発言は「悪い」と見なされる。
当然「悪い」発言をした人の人格まで否定され、攻撃される。
従って、様々なリスクや脅威について、自由に発言することはできなくなる。
国防問題、環境汚染問題、貧困問題などなど。
また、過去の嫌なことを振り返りたくないので、反省し、学習をすることもできない。
ただ、ひたすら忘れることにつとめるだけ。
ジャーナリズムが人々に警鐘を鳴らすこともできない。


この法則の顕著な例は、原発事故直後の報道。
地震の後、原発に異常が認められた時、専門家が集められ、
最悪のシナリオがテレビや新聞で語られただろうか。
関東の住民も含め、3000万人から4000万人が避難しなければならない、など。
こうしたシナリオは、本来は政府や東京電力が出すべきものなのだが、
出さないとなれば、ジャーナリズムが学者と協力したりして徹底的に追及しなければならない。
ところが、そんなことは起こらなかった。

社会心理学的にも、緊急時には、まず最悪のシナリオを提示するというのが常道。
その後、少しずつ情報を出していく。
すると、不思議なことに、集団の心理は落ち着いて行くのだ。
それは以下の論理による。
人間は、ある程度先の将来を予測することができる。
安定した状況にあれば、その予測に自信を持てるし、その通りに進めば安心感がわく。
しかし、現在の状況がよく分かっていないと、もやもやとした想像が膨らむだけである。
「今は、一体どうなってるんだ?」「この先、どうなるのだろう?」という不安が募るだけである。
そんな時に、危機的な状況や、より悪くなった状況を伝えられると、
上記の法則が働き、人は「不安を煽るな!」など、他人に対し傍若無人な振る舞いをするようになる。
これを抑えるには、まず最悪の状況を提示し、平時とは異なる現状を認識させること。
そして、徐々に情報を出し、問題への今後の対処の計画を伝えて行くこと。
そうすることで、状況の曖昧さや、そこから来る不安が減り、当事者への信頼度も安定する。
これが普通だと思っていたけれど、どうやら違っていたみたい。


緊急時に役に立たないジャーナリズムと、その機能を妨害する社会構造。
本書が出版されてから35年以上経っても、それは変わらず、危機を制御することができないままである。
対峙すべき危機は、我々自身のうちに潜んでいることを知らねばならない。

ああ、われわれの行為自体が、われわれの苦難と同じように、
われわれの生の歩みを妨害するのだ。   ――ファウスト、ゲーテ 『ファウスト』

続く