「危機の構造」を読む その1 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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$蜜柑草子~真実を探求する日記~-危機の構造
危機の構造―日本社会崩壊のモデル


まえがき
現在は危機の時代だ、と声高に叫ばれている。
それもそのはず。
世界的な経済の危機、不安定な中東情勢、深刻になり続ける環境問題など、
報じられることの無い日はない。
とどまることを知らず、激変し続ける環境。
多くの人々は、こうした現象を「危機」と捉えているだろう。
そして、それに適応することが必要だ、と、こう考えているに違いない。

ところが、小室直樹は、そうした月並みな考えをしない。
むしろ「危機」は日本社会の内部にある、と考える。
その危機を放置したまま、外部の環境の変化に適応しようとすればするほど、
事態はより深刻になる、と喝破する。
小室直樹は、本書で、そのメカニズム及び、日本社会の内部にある「危機の構造」を解明している。

それでは、「危機の構造」とは何だろうか?
それは、戦後日本が、戦前とは全く違う様相の社会に変わった"にもかかわらず"、
日本人の思想・行動様式、及び、集団構成の原理が戦前と全く変わらないこと、である。
この表面と実体との矛盾が「危機」であり、それが相も変わらず存在していることが「危機の構造」である。

この「危機の構造」、本書が出版された1976年の時から、変わったのだろうか?
否。
全く変わっていない。
「危機の構造」は、放置されたままである。
戦前~現在まで、ずっと同じ構造を維持したままである。

今回は、本書を通して、そのことを見て行こう。
本書は、7章構成になっている。
ここでは、1章ごとにその要点を取り上げ、現在の日本社会でも当てはまるかどうかを見る。
それによって、日本社会の危機の構造が、全く変わっていないことが分かるだろう。
従って、本書は35年以上前に書かれたものでありながらも、
激動の時代を乗り越えていくためのヒント、危機の根源を探る手助けになる。
今後も10年以上は息をし続ける、殊絶の書と言っていい。


第1章 戦後デモクラシーの認識
この章では、虚構としてのデモクラシーや議会制の貧困などといったことが取り上げられている。
一言でいうと、日本のデモクラシーなんぞ、砂上の楼閣、妄想に過ぎないということ。
その論拠が幾つか挙げられているが、
ここでは「「時間」認識の脆弱性」を考えてみよう。

日本人は、伝統的に民族的な健忘症を抱えている。
それは、現在は現在、という刹那的な認識に支えられている。
(進んで、今さえ良ければそれでいいじゃん、という考えになり、ツケを回す思想に直結する)
この認識を変えない限り、昔と今とは、全く繋がりの無い別の世界である、と小室直樹は指摘する。
現在でもこの認識は変わっていない。

その一例は、「日本国憲法無効論」なるもの。
日本国憲法は、憲法の制定過程がおかしいから無効である、という論旨。(例えば、GHQが作ったからなど)
これは、政治・法律・歴史の門外漢にとっては、もっともらしく聞こえる。
しかし、論理的な帰結は、戦前と戦後の国家の連続性の否定、または、憲法学の全否定。
このどちらかに陥る。
それ故、この論を押し進めるのは、革命家か小中学生のどちらかである。
ところが、これを喧伝する輩が跋扈している。
いわゆる知識人をはじめとし、国会議員はおろか、なんと国務大臣にまでいる。
本人達は自分を保守と位置づけているものの、その実、誠心誠意努力して、革命を起こそうとしている。
現在は現在で昔とは別の世界、という戦前と戦後の断絶。
それをここに見る。

デモクラシー、いや、それ以前の立憲政治も。
どちらも前例を積み重ねることで、できあがっていく。
現在に生きる人間は、過去を参照する一方で、未来の人間によっても参照される。
E・H・カーの「歴史とは現在と過去との尽きることを知らぬ対話である」という言葉を思い出すとよい。
デモクラシーには、こうした時間的に連続な認識、対話の姿勢が不可欠である。
その過程で、過去から教訓を引き出してくる、といったことも起こる。
しかし、依然として、日本社会には、そんな意識は無いままである。
戦後デモクラシーなるものの虚妄性、ここに極まれり。

キケロはこう言った。
Nescire autem quid ante quam natus sis acciderit, id est semper esse puerum.
自分が生まれる前に起きたことを知らないままでいれば、ずっと子どものままだ。

「危機の構造」は、想像以上に根深い。

続く