「危機の構造」を読む その10 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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$蜜柑草子~真実を探求する日記~-危機の構造
危機の構造―日本社会崩壊のモデル

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第6章 ツケを回す思想
「納税」。
それは、日本という中世社会に住む上野介らが、お上に税金を納める時に使う言葉である。
小室直樹は「上野介」という言葉を使っているが、最近ではこの他にも、
「田吾作」や「土人」、「日本列島の原住民」などの表現がある。
どれも同じ対象を表している。
すなわち、近代社会を営むのに必要なエートスを持たない日本人を指す。
いまだに「納税」という言葉を使うことにもそれが見てとれる。
近代社会であれば、税金はお上に納めるのではなく、自分で主体的に支払うもの。
tax payer(英)、contribuable(仏)、Steuerzahler(独)などの表現を見れば十分だろう。
実は日本でも、民主党政権が誕生する前に、「払税(ふつぜい)」に変えようというアイデアも出ていたが、
いつの間にか立ち消えになってしまった。
やっぱり日本は中世社会の方が身の丈に合っていて、心地が良いみたい。

そうした中世社会の日本では、近代社会とは異なる社会的な問題がある。
その問題の社会的な構造に光を当てるために、小室直樹は、今度は「ツケを回す思想」に注目する。
ツケを回すことは、中世社会の日本だけでなく、欧米にもある。
例えば、アメリカ政府を筆頭にした、増え続ける財政赤字など。
アメリカ政府は、もはや借金を返済することが困難になりつつある。
日本も、毎年新規国債を発行しまくり、それだけでなく借換債の発行高も増える一方である。
この点は、同じである。

しかし、そのことに対する姿勢が違う。
赤字財政によるツケは、巡り廻って国民にふりかかる。
そこで国民は、政府の失敗を負担させられてたまるか、という考えになる。
あるいは、自分達の支払った金がバカな事業に使われることに、我慢ができない。
そうなる前に、制度改革や緊縮財政を断固として実行する。
昨年にもあったアメリカの財政の崖をめぐる、民主党と共和党の争いを見ても、そのことは分かるだろう。
ところが、こうした制度改革や緊縮財政をやったとしても、上手く行くとは限らない。
それどころか、悪くなることもあるので、すぐに着手しなければならないわけでもない。
一方の日本では、そもそもこんなことは行われない。
常に問題は放置され、際限なく、ツケは回されっぱなしである。
このように、際限なく、「ツケを回す思想」を小室直樹は分析している。


近代的「所有」概念
小室直樹は、分析の補助線として、近代的な「所有」概念を考えている。
これは、川島武宜の概念を援用している。
その近代的な「所有」とは、次の3つの特徴を持つ。

①所有の絶対性。
人は、自身が所有するものに対して、絶対的な支配権を持つ、ということである。
つまり、自分のものに限っては、いつ、何をしようともその人の勝手である。
焼こうが煮ようが、ぶっ壊そうが自由である。

②所有の抽象性。
所有は抽象的であって、そのものを"現に"支配しているかどうかとは無関係である、ということ。
つまり、自分とは遠く離れた場所にあるものや、見たことすらないものに対しても、所有は成立する。
反対に、現にそのものを長く支配していたとしても、所有が成立するわけではない。
一般に、所有≠占有、ということである。

③所有は明確で一義的に決まること。
あるものに対する所有は、有るか無いかのどちらかに決まる、ということ。
そのものを、所有しているようであり、所有していないようでもある、みたいなことは起こらない。


さて、このような近代的「所有」概念は、日本で成立しているのだろうか?
順に見ていこう。

まず、①について。
これは、日本では成立していない。
震災後の被災地への寄付合戦を思い出してみよう。
個人の意思で寄付をしているのならよいのだが、そうはいかないのが中世日本。
寄付を強要、もしくは圧力をかけようとする輩が出てくる。「金持ちは寄付しろよ」など。
寄付とは、自分が所有する財産を、自分の意思で贈ること。
だから、寄付をしようがしまいがその人の自由、
というのが、所有の絶対性が成立している普通の民主主義諸国。

さらに、「もの(物権)」を一般化して「権利」としてみると、面白いことが浮かび上がる。
日本には、そもそも「権利」という観念が無いか、もしくは希薄なのである。
その例として、選挙権がある。
選挙権は、各人が持つ固有の権利であって、誰に何を言われようと、自由に行使することができる。
誰に投票しようとも、使わないということでさえも自由である。
これは、普通の民主主義諸国での話である。
ところが、中世社会の日本ではこうはいかない。
選挙における「票の取りまとめ」がそう。
よくある話は、会社単位で、候補者を選び、その人で支援すると決めるようなこと。
日本では会社が共同体になってしまうので、そうした決定に逆って、選挙権を自由に行使することができない。
もしそんなことをすれば、会社にいられなくなってしまう。
普通の民主主義諸国であれば、そんなことは関係なく、自分が選ぶ候補者に投票する。
日本では、その上におまけがついてくる。
投票所の投票箱の近くで、人々の投票の様子を監視役が監視する。
中世社会、日本の完備されたシステムである。


次に、②について。
これも、日本では成立していない。
その例として、小室直樹は、社用族の役得を挙げている。
社用族とは、自身の交際費を会社の経費として落としたりする人達のことである。
普通の資本主義国であれば、会社は株主のものであるから、
その他人の金を勝手に使って飲み食いをすることは許されない。
単なる泥棒ではないか。
がしかし、そこが中世社会の日本。今もこの伝統は残る。

これだけだと能が無いので、もう一つくらい例を挙げておこう。
東京電力が、原発事故に関する訴訟で提出した「無主物の論理」。
これも、所有の抽象性が成立していない日本ならではのことである。
日本では、所有の抽象性が成立していないので、現にそのものを占有しているかどうかによって、所有が決まる。
社用族は、現にそのものを占有しているから、所有しているような気になっているのである。
ここで、コインの裏側も見てみよう。
現にそのものを占有していないなら、所有していることにはならないのである。
原発事故が起きて、東京電力が占有していたものが爆発して、放射性降下物となり広域に拡散した。
そうなると、それらのものは東京電力が占有していないので、自身のものとは感じられなくなる。
つまり、放射性物質はオレ達のものではない、となる。
これが「無主物の論理」の社会学的な意味である。


最後に、③について。
上述のように、現代日本でも所有の絶対性と抽象性は成立していない。
その帰結として、所有は、明確で一義的ではなくなる。


このような、日本的「所有」概念が「ツケを回す思想」の前提となっている、
と小室直樹は指摘する。
次回は、表面的には無階層な日本社会を分析するのに必要な概念を導入する。


苦しく難しい決断になると 投げちまって
それを他人に預ける 自分で決めない
そうやって流され流され生きてきた
その弱さがこの土壇場で出た
この結果は言うなら必然
これまでのオレの人生のツケ・・・・・・!
                   ――カイジ『賭博黙示録カイジ』

続く