「危機の構造」を読む その11 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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危機の構造―日本社会崩壊のモデル

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第6章 ツケを回す思想
前回は、近代的「所有」概念を導入し、日本ではそれが成立していないことを書いた。
代わりに、近代社会とは異なる、前近代的な「所有」概念が成立している。
この「所有」概念こそ、ツケを回す思想の前提になる。
今回は、日本の階層構成原理に関する概念を導入し、ツケを回す思想を分析する。

傾ける階層
小室直樹は、現代日本における階層(stratification)は「傾ける階層」である、と指摘する。
傾ける階層とは、本来は平等であるべき者の間につけられた線形順序によって作られた階層である。
現代日本は、表面的には無階層である。
イギリスの階級や、インドのカースト制度などは無い。
そのため、人々は平等であるかのように思える。
ところが、実体は、階層を持つ社会である。

その階層は、自身が所属する共同体(Gemeinde)の枠によって決まる。
一流企業から十流企業といった言葉で表されるのが、よい例。
あるいは、子請け、孫請け・・・8次下請け企業など。
日本において、会社は共同体であり、機能集団ではないのであった。
それ故、会社は、特定の機能を達成するために、分業をしているわけではない。
代わりに、「土地(Erde)」を分け合っているのである。
この中心にいるのが、一流企業や元請け企業である。
一方、下請け企業などは、共同体全体から分け前、おこぼれを頂戴しているのである。
会社については、この分け前の度合いによって、階層が決められる。
そして、同時に、各個人が所属する階層も決定される。

かようにして、本来は平等であるべき者の間に、階層が作られる。
そのことによって、別の重要な社会学的な効果が生じる。
小室直樹は次の概念を導入し、そのことも分析する。
それは、①連続的細分化の法則、②限界差別の法則である。

連続的細分化の法則
まず、連続的細分化の法則とは、連続的に構成される階層において、その階層が次々に細分化されていくこと。
ここでいう、「連続的」とは、一流~十流といった意味である。
これが、1.5流や2.2流というように―もちろん、そうした判定は困難であるが―、細分化される。
言い換えると、日本の場合、一直線上に順序付けられた階層が、細分化されいくということ。
その比較対象として、小室直樹は、インドのカースト制を挙げている。
カースト制の場合は、階層は「拡散的」に細分化される。
カーストの基本は、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの四階層であるが、
その階層の中で、さらに細分化されている。
その細分化は、個人の属性(ascription)に従って行われるので、連続的とはならない。

小室直樹は、さらに続ける。
このような連続的階層の社会学的特徴は、「階層ごとに団結する」という契機を持たないことである、と言う。
拡散的な階層であれば、資本家vs労働者のような図式になり、階層ごとに団結しあう。
そうであればこそ、マルクスとエンゲルスの
„Proletarier aller Länder vereinigt Euch!“(万国のプロレタリアートよ、団結せよ!)
という命題も成立しうるのである。

ところが、日本ではこうして階層ごとに団結する、ということがない。
それは、労働組合を一瞥すればいいだろう。
日本の労働組合も、かなり特殊。あ、いや失礼。異常である。
連続的細分化の法則に加え、日本独特の集団構成原理も働くからである。
日本の場合、なんと労働組合までもが共同体になってしまうのだ。
そして、その形で企業という共同体の中に入り込む。
共同体の特徴は、内外の峻別であった。
そのため、組合員である正規雇用という内と、組合員ではない非正規雇用の外が、
本来は同じ階層に属するにも関わらず、峻別される。
その結果、組合員でない非正規雇用者が労働組合に相談しても、
「君、組合員でないの?じゃあ、無理。」で会話終了。
ヨーロッパの労働組合の場合はそうではない。
たとえ組合員でなかったとしても、取り合ってもらえるし、
企業による搾取とおぼしき行動に対しては、階層内で団結して、抵抗する。


限界差別の法則
上述の連続的細分化の法則が、限界差別の法則の前提となる。
限界差別の法則とは、次のような法則である。
自分がどこの階層に位置するか判然とせず、かつ、連続的細分化の法則が働いているもとで、
自分のすぐ下に線を引き、自分を上方に属させ、下の者を差別する。
これも、現代日本にそのまま残る社会法則である。

そのよい例が、「プチ贅沢」なるもの。
「プチ贅沢」と称して、自分のいつもの水準よりも、ちょびっとだけ高いものを買ったりする。
他にも、「ちょっと贅沢」などの表現がある。
ここに、限界差別の法則が作動する。
「プチ」とか「ちょっと」というのが、「限界」ということである。
その「限界」の部分で考え、自分のすぐ下にピッと線を引き、自分を上方に属させる。
そして、下の者を差別し、優越感に浸る。
社会全体の階層から考えてみると、そんなものはたいした贅沢ではない。
ところが、表面上は無階層なので、こうしたことが起こる。
このような限界差別の法則は、差別する者が差別される、ということでもある。
だから、「プチ贅沢」をしていても、同じ階層内の別の人によって自分も見下されることになる。
同じ階層内に属するにも関わらず、お互いに差別し合う。


一億総上野介化
現代日本も、このような階層構成原理と法則とによって成り立っている。
このことは、次のような緊張感を不断にもたらす、と小室直樹は指摘する。
階層同じ階層にいるはずの人間と差別し合いながら、より上の階層にへばりつく努力をしなければならない。
その上、階層が多元的であるため、この緊張は拡大再生産される。
階層が多元的である、とは、経済財を含む社会財が、多元的に分配されているということ。
その場合、「富」を持つ者が、必ずしも「権力」や「威信」を持つとは限らない。
その逆もしかり。
反対に、一元的に分配されている場合は、たとえばソ連のノーメンクラツーラ。

ここで、小室直樹は、次のような議論を展開する。
このような状況の下で、日本的「所有」概念が利用されるとき、以下のような事態が起こる。
日本的「所有」概念からすれば、国家や会社などの「公」の機構において、
人々はその権力や威信を「私物」のように扱うことができる。
他方、権力や威信は少ないが富を持つ人は、限界差別の法則から来る不安を避けるために、
「公」の富を「私物」として扱うようになる。
ここに、「ツケを回す」ための需要側と供給側の準備が整う。
これが、一般化すると、止めどなくツケは回されることになる、と。
ツケを回しすぎるのが良くないことは、「分かっちゃいるけど、やめられない」。
これぞ、一億総上野介化である。

この際だから、もう少し理論を拡張してみよう。
回されすぎたツケ。
これは、一体どうするのだろうか?
答え。
「何か、ドデカい一発によって、チャラにする。」
これである。
日本においては、このパターンが繰り返される。あたかも、中国史における易姓革命のように。
ヘーゲル大先生が見たら、ここにも持続の帝国(Reich der Dauer)があったか、と嘆息するだろう。
このことは、東日本大震災の時にも見られた。
「新しい日本が始まる」とか「生まれ変わる」とか、そんな言葉が飛び交っていた。
または、風化しつつある原発事故もそうだろう。
再三、安全上の問題などが指摘され、不具合なども隠蔽され続け、ツケが回され続けていた。
がしかし、あれは終わった。爆発したから、チャラになったんだ。
そうして、今までのことは忘れ、「水に流す」。
これが、ツケを回す思想とそのツケの処理である。


La vie ne va pas sans de grands oublis.
多くの忘却なくして人生は生きていけない。
                   ――バルザック、« La Cousine Bette »

続く