「危機の構造」を読む その12 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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$蜜柑草子~真実を探求する日記~-危機の構造
危機の構造―日本社会崩壊のモデル

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第7章 社会科学の解体
これが最終章である。
小室直樹は、この章で、日本における社会科学の解体を指摘する。
日本においては社会科学が解体され、有効な道具として活用されていない。
そのため、現代日本の迫り来る危機も救いようがない、と言う。
概観してみよう。

社会科学的思考法の出発点
まず、社会科学的な思考法について考える。
小室直樹は、その出発点として作為の契機をとる。
作為の契機とは、「社会構造も社会組織も、すべて人間作為の結果であり、
合目的に制御されうるものである」と考えることである。
つまり、社会の習慣や制度などは、すべて人間の手で作られたものなのだから、
必要に応じて作り変えることができる、とこう考える。
このような考え方は、すぐれて近代的である。
前近代社会に住む「田吾作」や「土人」、「原住民」には、このような考え方は全く無いか、希薄である。
この作為の契機こそ、近代と前近代の分水嶺であり、近代社会の最大の資産である。

作為の契機があればこそ、近代的な民主主義や資本主義も成立しうる。
近代的な民主主義は、「人は皆平等の権利を持つべきだ」という理念を謳うが
その前提として、制度を作り変えることができるという作為の契機を必要とする。
それができなければ、あっという間に頓挫する。
民主主義の根本である「人権」という制度を作ることができないから。
あるいは資本主義も、伝統的な慣習に縛られていたのでは、個人や企業は効用を最大化することなどできない。
効用を最大化し、日常の習慣を変えたり、新たな生産設備を作る必要がある。
そうでなければ、資本主義の特徴である目的合理的な行動など存在しえない。

こうした作為の契機が無いのだとすれば、社会法則の研究など必要がない。
なんとなれば、社会を変えることができないので、その法則の解釈だけをすればよいことになるから。
そこに、社会科学発生の余地はない。
ところが、作為の契機が存在する場合、人は天与のものだけに安んずることなく、
社会を有用に制御し、必要があれば制度などを作り変えようとする。

ここで、小室直樹は、次のような疑問を考える。
もし、作為の契機が存在するのであれば、人間が社会を任意に変革すればいいのであって、
社会の法則性を解明する必要がないではないか?
この問いに対して、小室直樹は、2つの補助線を引いて答えている。
一つ目は、そもそも社会に法則は存在するのか?
二つ目は、個人と社会とはどう違うのか?
こうした疑問に答えることで、社会科学的な思考を明らかにしている。


社会の法則性への手がかり
まず、一つ目の疑問に取りかかろう。
社会を科学し、その法則性を解明するなどというが、そもそも社会に法則など存在するのだろうか?
現在では、yesと答えるのは容易だろう。
完全な法則と呼べるものは存在しないとしても、少なくともそれに近いものは存在する。
小室直樹は、これを経済学の学説史、それから精神分析学や行動科学を引き合いに出して論じている。
それをなぞるだけではつまらないので、ここでは別の例を出そう。

分かりやすいところでは、経済学。
世界中で、経済学の成果を利用した政策が取られていることを見れば、ほぼ明らかだろう。
例えば、フィリップス曲線。
フィリップス曲線は、インフレ率と失業率がトレードオフの関係にあることを示す。
フィリップス曲線については、ジョージ・アカロフの次のような言葉が有名である。
"Probably the single most important macroeconomic relationship is the Phillips curve."
(恐らく、ただ一つの最重要なマクロ経済の関係はフィリップス曲線である。)
現在では、元々のフィリップス曲線に期待インフレ率と供給ショックという要因が加わっているものの、
依然としてその重要性は失われていない。
財政政策や金融政策を考える時には、誰でもこれを考慮して、政策を立てる。
このようにして、普通の先進国では、ある程度共通の方法によって政策が決められている。
これだけでも、社会には客観的な法則性(に近いもの)が存在すると言ってもいいくらい。

他にも、社会学などで確認されているパーキンソンの法則。
パーキンソンの法則とは、官僚組織は放っておくと必要が無くても肥大化する、というもの。
社会学者のマートンらも指摘している上、
中国史・アジア史の耆宿、宮崎市定博士によっても同様のことが確認されている。
現代日本の状況もこの法則を傍証している。
他の先進国に比べ、公務員の数は少ないものの、福祉予算は少なく、
政府の借金もたっぷり。不思議な国、日本。
去年成立した国土強靱化基本法を見るだけでも、どうしてそうなってしまうのかが分かるだろう。
あんな適当な法律をバシバシ通していれば、肥大化は不可避。


個人と社会
次に、小室直樹は、個人と社会の違いについて書いている。
社会科学に慣れ親しんでいなかったり、自然科学にばかり慣れている場合には、
この違いを体得することは重要である。
社会は、個人の単純な算術合計なのか?
社会科学史上、何度も提出された問題ではある。
もしかしたら、将来、強力な統一理論が登場するかもしれないが、今ではほぼ決着がついている。
個人と社会とは、全く異なる次元に存在する、というのが回答である。
図式的には、
 Σ個人≠社会
である。
これまた、山のように例示することができるが、一つだけで十分。

それは、先の大戦における、日独伊三国同盟。
現在では、戦争の引き金になったできごとの一つとして、よく知られている。
そのようなことになるのが、当時予想されていなかったかというと、そうではない。
イギリス、アメリカと戦争になってしまうというので、これに海軍は反対していた。
また、政界の上層部にも反対する人が多くいた。
総じて見ると、反対派が多数であった。
がしかし、日本社会で「空気」が醸成され、結局、
「ことここにいたれば、賛成しないわけにはいかない」ことになる。
権力を握るトップエリートが、誰しも「反対しつつ、賛成」したのであった。
バカボンのパパが見れば、「反対の賛成なのだ~」と言うに違いない。
このように、社会とは個人の集まり以上の何かである。


社会科学的分析の任務
現代の社会分析は、この考えを基礎に置く。
その上で、小室直樹は、その科学的な社会分析の任務を論じる。
その任務とは、意図せざる結果の分析である。

社会現象の特徴は、各現象の間の相互連関性にある。
この点、自然科学と異なり、一方的な因果関係では説明できない場合がほとんどである。
そのため、ある場所で起きた出来事が、巡りめぐって自分のところにやってくる。
普通は、自分が行動したことでさえ、その波及効果が自分自身に返ってくる。
その結果、意図したこととは正反対の帰結が導かれることもある。
親が子供に「勉強しなさい」と言えば、子供は勉強するのだろうか。
上司が部下達に「成果を出せ」と言えば、部下達の成果は上がるのだろうか。
政治家や官僚が「賃金よ、上がれ」と叫べば、賃金は上がるのだろうか。
そんな短絡的な結果が出ず、報復を受けることもしばしば。
自分の思い通りには行かないのが社会現象の面白いところ。

こうした意図せざる結果を導かないようにするためには、なるべく広く社会を見渡さなくてはならない。
そうした視座を持ち、制度を作る際に生まれる副作用を抑えなければならない。
そうして、制度による負の影響や、意図せざる結果を分析することが、社会科学の重大な任務である。
小室直樹はこのことを重要視する。


山路を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
                      ――夏目漱石、『草枕』
続く