「危機の構造」を読む その8 | 蜜柑草子~真実を探求する日記~

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$蜜柑草子~真実を探求する日記~-危機の構造
危機の構造―日本社会崩壊のモデル

その1その2その3その4その5その6その7はこっち。

第5章 危機の構造
前回は、危機の構造の本源について書いた。
それは、構造的アノミーである。
社会構造がアノミーを再生産する過程を含み、社会過程が作動するにつれて、
アノミーも次から次へと出てくる場合、この生産されるアノミーを構造的アノミーと呼ぶのであった。
これこそ、日本を戦前と同様の破局に導く、危機の根源である。
そして、構造的アノミーは、戦後起きた急性アノミーが引き金となり、
日本人の行動様式、集団構成の原理の下で、日本社会の構造の中に埋め込まれた。
小室直樹は、以上のようにモデルを構成する。
今回は、日本社会の奥底に潜む構造的アノミーの作動過程について書こう。


まず、戦後、天皇の人間宣言により、人々は急性アノミーに陥った。
それまで日本人は、天皇は「神」であると思っていた。
本心からそのように思っていない人がいたとしても、「神」であるという「空気」が社会に蔓延し、
人々の行動を支配していた。
ところが、人間宣言により、この信仰や「空気」があっという間に失われてしまう。
根本的な規範の全否定。偉大な存在との連帯喪失。
急性アノミーの発生である。

そうしたら、人々は、失われた連帯を取り戻さなければならない。
人間にとって、最も大切なもの。それは、連帯(solidarité)である。
どんなに経済的・社会的な財(金や名誉など)を得たとしても、これが失われているのならば、
破壊的な衝動・自殺を抑えるのは困難である。
コミュニケーションによって「承認」を得ることもできないし、
何だか分からないけれど、苦しいのだ。
そこで人々は、必死になって連帯を求めるものの、欧米やイスラムのような信仰共同体は無いし、
中国や韓国のような血縁共同体も無いし、高度成長の始まりによって村落共同体も崩壊していた。
日本社会をグルリと見渡しても、連帯の得られる場所は無かった。

そこで見出されたのが、会社である。
「そうだ!会社を共同体にしてしまおう。」
こうして、会社は、連帯を回復するための共同体になった。
たまり場と言ってもいい。
それを確かめるのは容易で、当時は、株式会社の社員が当の株主に対して、
「弊社は、うんぬんかんぬん・・・」と言ったりしていた。(例:株主総会)
本来、株式会社は株主のものなのであるから、この場合「貴社」と表現するのが普通である。
それなのに、あたかも自分達のものであるかのように言っていた。
会社を自分達のたまり場にした、人々の心理的な状況がよく分かるだろう。
こうして、人々は、安住の地を見出した。

・・・かのように思えた。
ところが、そうは問屋が卸さないのが社会である。
社会法則は、日本人の願望とは関係なく、冷酷なまでに貫徹する。

ここで、小室直樹が重要視するのが、デモンストレーション効果(demonstration effect)である。
それは、自分の消費行動が、他の人の消費行動に影響されること。
例えば、友人や同僚が新製品を買った時に、「いいな~」と思って、自分もそれを買う場合などがそう。
ブランド品について考えると容易であろう。
ブランド品は、生理的に必要がない上、普通の品物と機能的にはたいして変わらなかったりする。
しかし、他人がそれを持っているのを見ると、欲しくなったりする。
物が溢れている現代社会では、昔に比べ、こうした傾向は強くなっている。
これを社会学の用語で表現すると、「消費社会(société de consommation)」。
このように、消費における個人の効用を考える際、選好関係に対するデモンストレーション効果は重要な役割を果たす。

このデモンストレーション効果が、日本の社会構造の下でどのような働きをするのか。
まず、日本の会社は、共同体になっているのであった。
共同体は、二重規範を特徴とし、その内外を峻別する。
共同体の外からやって来る人間には、その内の人間に対する態度とは全く異なる態度をとる。
共同体間の移動は、困難である。
そのため、一つの共同体の中でずっと生活していくしかないので、全人格的な献身を必要とする。
その際、生活水準も、共同体内部の水準に合わせる必要がある。
要求される最低の水準を満たせないと、共同体から疎外されてしまう。
さらに、その上で、デモンストレーション効果が作動する。
共同体の内部で「休み中はハワイに行ったよ~」や「新車に替えたよ」などと聞こうものなら、
欲望がムラムラとわき起こってくる。
こうして、自身の欲望は、最低水準にはがっちりと歯止めがかけられる一方で、上は際限がなくなる。

際限のない欲望を満たそうとすると、高水準の生活を維持しなければならない。
そのためには、必死に働く必要がある。
そうして得た給料を使って、一時の欲望を満たすも、
ウェーバー・フェヒナーの法則で知られるように、段々と必要な刺激の量が増えてくる。
そうして、さらに大きな欲望が生まれるだけであり、満足度の上昇を生まない。

それだけではない。
共同体からの要請と、労働者からの要請とがぴったり一致してしまうのだ。
共同体は労働者の全人格を吸収し、労働者は必死に働こうとする。
ここまで来ると、それらは共に、無限の献身の要求に転化する。
エコノミック・アニマルの誕生である。
がむしゃらに、とにかく何でもいいから、働くのである。
こうなると、休暇中の娯楽でさえも、一種の社会的な義務となってしまう。
因みに、ブラック企業の萌芽もここにある。
「バブル崩壊」、「デフレ不況」といった経済的なパラメータを設定すれば、
日本の会社は、またたく間にブラック企業に変身する。

このようにして、働けども、働けども、生活は楽にならないという状況が生まれる。
いや、働けば働くほど、状況はひどくなるのだ。
アノミーの底なし沼にいるかのように。
かくして、会社という共同体も安住の地ではなくなる。
そうかといって、他に居場所もないので、働き続けなければならない。
もし会社を辞めて収入が減れば、周りの人も去って行く。(例:離婚)
「金の切れ目が縁の切れ目」とは、このことを的確に表した言葉である。
そうして切られることを恐れるので、いつまでたっても心理的な安定に達することもない。
アノミーは、回復されないままである。

ところで、急性アノミーが発生し、それを治すために、機能集団であるはずの会社を共同体にしたのだった。
にもかかわらず、会社の中でも安住の地は得られず、絶えず新たな規範(生活水準)を受容しなければならない。
社会的な要請に従って、治療に手をつけたのであるが、その治療がもとで、
また別のアノミーがたくさん生まれてくる。
こうしてアノミーは、拡大再生産され、日本社会に慢性的に存在するようになる。


次回は、小室直樹が提唱した別の種類のアノミー概念を導入する。
そして、上述した構造的アノミーが、それらと手を取り合っていく過程、すなわち
今回のモデルをさらに時間的に発展させたモデルを作る。

続く

Nullius boni sine socio jucunda possessio est.
どんなに素晴らしいことがあっても、それを分かち合う友がいなければ、満足は得られない。
                       ――セネカ