紀伊国名草郡 濱宮(奈久佐濱宮)







◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (30)







前回の記事UPからかなり日が開きました。

これは「紀伊国造家」に対しての知識量が絶対的に不足していると感じたため。

慌てて宝賀寿男氏の紀氏について研究された書を入手しました。
ところがこちらは同じ「紀氏」でも「紀朝臣」。かつて同族であり、近しい間柄ではあるもののやはり別氏族。

めぼしい情報を得ることは叶わず、見切り発車的に進めていくこととなります。

自身の思量からの推論が多くなりますが、ご容赦頂けますとさいわいです。



紀伊国名草郡 日前神宮・國懸神宮 摂社 天道根神社 (*現在は撮影禁止、写真は禁止前の2000年頃に写したものと思います)



■ 「紀伊国造家」系譜の見直し

前回の記事では、「紀伊国造次第」の系譜から抜け落ちている可能性のある人物をはめ込み、ひと先ず系図を作り直しました。さらに国造以前の遡った始祖までを系譜にしたのがこちら(あくまでも個人的な試案です)。


安牟須比命(香都知命、天雷命、カグツチ神)
天石門別安国玉命(天手力男神、麻戸明主命、多久豆魂命)
(?)
天御食持命(手置帆負命)
天御鳥命(天夷鳥命)
(?)

麻枳利命
比古麻命(比古麻夜眞止乃命)
智名曾命
鬼刀祢命
久志多麻命(目菅)

(鬼刀祢命から分岐)
→↓
荒河刀弁命

(久志多麻命から)
大名草比古命
穉日子命(稚比古命)
于遅比古命(宇遅比古命、宇豆彦、宇治彦)
舟木命
夜都加志彦

(于遅比古命から分岐)
→↓
等与美々命(豊耳)
紀豊布流(紀君・紀直祖)

(等与美々命から分岐)
→↓
小牟久君(丹生祝祖)
(以下略)


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◎安牟須比命

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◎天石門別安国玉命
同神として多久豆魂命を追加しました。こちらは「紀伊国造系譜」に記されるもの。対馬等で祀られます。「多い」+「クズ」+「魂」と解することができようかと。「古屋家家譜」において九頭龍神(磐排別命)と同神としている天石門別安国玉命と、同神とするのは十分に考え得ることかと思います。


大和国葛下郡 石園坐多久豆玉神社
(多久豆魂命を祀るとも言われる)

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◎天御食持命(アメノミケモチノミコト)
天道根命の前にいたという人物(神)。少なくとも「紀伊国造家」(紀直)が国造となる前の人物(神)。

宝賀寿男氏は手置帆負命(タオキホオヒノミコト)と同神であるとしています。手置帆負命は天太玉命が率いた「忌部五部神」の一であり、讃岐忌部の祖(「古語拾遺」による)。「天岩戸神話」においては、子の彦狭知命とともに「瑞殿」という御殿を設営。天照大御神は天岩戸から出てきた際にはこちらに入っています。

手置帆負命の子である彦狭知命は、紀伊忌部の祖。紀伊国名草郡の鳴神社を奉斎し、用材の提供や宮殿等の造営を職掌としました。現在においても上棟式で祀られる神は手置帆負命や彦狭知命など。

鳴神社は紀伊国造家が奉斎した日前神宮・國懸神宮と隣接した地。この彦狭知命のところで紀伊国造家から分岐したものと思われます。

父は不明ながら天石門別安国玉命(天手力男神)との間に何代かあるかもしれません。この間に大伴氏・久米氏が分岐したと思われます。

「先代旧事本紀 神代本紀」において、「紀直」の祖であり、神皇産霊尊の子とあります。また「新撰姓氏録」の「紀直」の条に「神魂の子、御食持の後也」とあります。

妹に天道日女がいたと思われます。天火明命の妻神となり天香山命が生まれたとされています。紀氏と海部氏・尾張氏との繋がり…史上大変に重要な事象ですが、ここでは深入りしません。


紀伊国名草郡 鳴神社

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◎天御鳥命
天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)とも称される神。「出雲国風土記」には神魂命の子神として、以下の記述がみられます。
━━神魂命が「天の下造れし所の大神(大穴持命)のために、高天原風の柱は高く板は厚く十分にととのった宮殿を造り奉れ」と詔し、子神の天御鳥命を武器の楯を造る氏人として天降りさせ、大穴持命の宮に納める調度品の楯を造り始め、今に至っても楯・木牟を作り奉っているので楯縫という━━
この記述を見ると、天御鳥命が出雲国を拠点としていたことは明白。存命中に紀伊国へと拠点を移したのでしょうか。

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初代国造としているのは、知り得る限りは以下の4書。
*「先代旧事本紀 国造本紀」
*「紀伊国造次第」
*「紀伊続風土記 国造家譜」
*「続群書類従」の「紀伊国造系図」

これらは神武天皇により初代紀伊国造に任命されたとありますが、果たしてそのような時期から国造に任命されることがあるのかの問題があります。
第13代成務朝の頃、大名草比古命が初代紀伊国造ではないかとも考えてはいます。他にも諸説あり。こちらでは体勢に影響が無いため詳しくは触れません。

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◎麻枳利命
丹波楯縫連の祖、山直の祖。
*「丹波楯縫連」
但馬国気多郡(現在の豊岡市日高町)を拠点とした氏族。丹波国から丹後国・但馬国が分離独立しています。
*「山直(やまのあたひ)」
播磨国賀茂郡(現在の加東市)辺りを拠点とした氏族。山を管理し樹木を伐採、山の傾斜を利用して窯を作り須恵器を生産していたとされます。奈良時代の遣唐使船は、船木連や石作連とともに製造に携わったとされます。石棺用材の「竜山石」の運搬に携わったとみられます。

船木氏は造船という職掌から西日本各地に拠点が見受けられます。美濃国や近江国、播磨国を拠点としていますが、船舶に施す朱塗りの「辰砂(丹沙)」(→ 「辰砂」浮草考~1~2)を求めて、「中央構造線」上に拠点を移してもいます。伊勢国多気郡勢和村、紀伊国名草郡~伊都郡など。「勢和村」は天手力男神(天石門別安国玉命)の重要な拠点の一つ、「佐那県」にほど近い地。紀伊国はもちろん名草郡から、天石門別安国玉命(九頭龍神)が「紀ノ川」を遡った伊都郡まで(大和国吉野郡まで遡っている)。このように紀伊国造家(この時代は大伴氏・久米氏を含む)の拠点と重なります。

これは同じく「辰砂」等の鉱物を求めて移動した紀伊国造家と重なるもの。丹生都比賣を奉戴した「丹生祝(にふはふり)」を輩出しています(上記系譜の最下部、「紀豊布流」の兄弟である小久牟君から丹生祝に分岐)。紀伊国造家の宇遅比古命の次に舟木命というのが存在しますが、船木氏との関連が想定されます。
また船木氏は、天照大御神の鎮座地を求めて倭姫命が各地を転々とした巡幸、そして日本武尊の東征にも大いに功績を上げました。さらに神功皇后の三韓征伐等にも。「住吉大社神代記」には「天手力男意気続々流住吉大神」とあります。息長氏にとってもかけがえのない氏族であったようです。


「竜山石」の採石場 (播磨国 生石神社境内より)

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◎比古麻命
「紀伊国造次第」では天道根命の子が比古麻命となっています。

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◎智名曾命
「紀伊国造次第」等には名は見られません。丹後国の籠神社所蔵の「海部氏系図」(国宝)には、第6代孝安天皇の時に建登米命(タケトメノミコト)の妻として「中名草姫 紀伊国造・紀伊氏」というのが見られます。
「諸系譜 第12冊」中田憲信著の「天野祝 丹生祝系図」には、比古麻夜眞止乃命(比古麻命)の子に智名曾命が記され、その妹として中名草媛命が記されます。そして注釈として「尾張連祖 建斗賣命妻 建田勢命母」と。両書の記述が合致しています。また「紀伊国神名帳」にも中名草姫の記述が見られます(大名草比古命の項にて)。

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◎鬼刀祢命
当系譜で子とした荒河刀弁命と同神とする説も有り。事蹟等不明。

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◎久志多麻命(目菅)
事蹟等不明。資料等は見当たらず。

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荒河刀弁命
「荒河刀辨命」が記では「木国造」と記されています。そしてこの娘である遠津年魚目々微比賣命が第10代崇神天皇に妃となったとあります。鬼刀祢命と同神とする説も。

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紀伊国名草郡 濱宮(奈久佐濱宮)


◎大名草比古命
「先代旧事本紀 国造本紀」には、「葛津立国造 志賀高穴穂御世(第13代成務天皇)紀伊直同祖大名草比古の子 若比古(穉日子命・稚比古命) 定んで国造を賜ふ」とあり、この時代の人物(神)ではないかとも考えられます。
ただし後述の穉日子命が「肥後国風土記」には、第12代景行天皇の時代に記されています。またその子という宇遅比古命が記には、第8代孝元天皇の段で登場しています。

こちらの大名草比古命こそが初代紀伊国造ではないかという説もあります。そもそも「大名草比古」という名がそう思わせるもの。
「紀伊続風土記 国造家譜」や「続群書類従」の「紀伊国造系図」には、大名草比古命の時に日前神宮・國懸神宮濱宮(奈久佐濱宮)から遷座されています。つまり大名草比古命こそが、日前神宮・國懸神宮の実質の初代神主とも言えるかと。薗田香融氏(日本史学者)や岡田莊司氏(神道学者)等はこの説を採っています。

「紀伊国神名帳」(平安末期~鎌倉時代か)には以下のように記されています。
━━従四位上、名草比古之命、名草比賣之命、旧事記に曰く大己貴之命、六世之孫豊御気主之命を以て紀伊之国名草姫を妻となし、一男を生む 又曰く天の香語山之命五世の孫建斗米之命を以て紀伊之国造智名曽之妹、中名草姫を妻となし名草比古之神は天道根命の数世の裔であり名草比賣之命はその妻である 夫れ當社は名草一郡の地主の神にして紀氏の祖なり━━

なお大名草比古命を高野明神とする説もあるようです。高野明神は丹生都比賣命の子とされますが、紀伊国在田郡に鎮座する田殿丹生神社(未参拝)では、高野明神と大名草比古命を同神としています。


紀伊国名草郡 中言神社(吉原) 
(名草比古之命・名草比賣之命を祀る「中言神社」の総本社)


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◎穉日子命(稚比古命)
「肥前国風土記」に、景行天皇が肥前国へ行幸した際に、「土蜘蛛」三人がいたが背いたため、「紀直等の祖 穉日子(ワカヒコ)が派遣され誅滅した」とあります。
記や「先代旧事本紀」などといった時代を操作しやすい書とは異なり、他国の風土記という時代操作が難しいものに記されており、こちらがもっとも信憑性が高いように思うのですが。

なぜ紀伊国造家の穉日子命が派遣されたのか、どうにも腑に落ちません。かつての同族であり、武闘派系の大伴氏や久米氏の者が派遣されるのがセオリーかと思うのです。

あくまでも可能性があるというレベルのことですが、穉日子命は拠点をこの辺りに移していたのではないかとも…。これについては子の于遅比古命も関わってきます。

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紀伊国名草郡 宇須井原神社 (宇遅比古命を祀るという説有り)


◎于遅比古命(宇遅比古命)
こちらも初代紀伊国造ではないかとも言われる人物(神)。

記の第8代孝元天皇の段に、「木国造の祖 宇豆比古の妹の山下影日賣を娶りて生みし子 建内宿禰」とあります。これは建内宿禰(武内宿禰)が、紀氏(紀朝臣)の祖として誕生する有名な記述。「木国造」とは「紀国造」、「宇豆比古」は「于遅比古命(宇遅比古命)」のこと。

また紀の第12代景行天皇の段に、天皇が紀伊に行幸し天神地祇を奉るもそれが占いで不吉と出たため、代わりに屋主忍男武雄心命が遣わされ、在任中に影媛と結ばれ武内宿禰が生まれたとあります。

そもそも武内宿禰の存在自体が大変に微妙(5代の天皇に仕え、生涯はおよそ300歳)で、非実在とまでは言わなくとも、複数人の事蹟が一人に集約されている可能性も高い人物。紀の第12代景行天皇の頃だとすると、他文献との時代の整合性はありますが…

穉日子命の項で筑前国に拠点を移していた可能性を考えているとしました。これは武内宿禰の生誕伝承地が紀伊国の他に、肥前国にも見られることから(武雄神社)。つまり穉日子命から于遅比古命に至るまで、肥前国或いは筑後国を含む辺りを拠点としていたのではないかとも思うわけです。


紀伊国名草郡 武内神社 (武内宿禰の生誕地とされ産湯を汲んだという伝承有り)

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今回はここまでとします。

「紀伊国造家」の源流を突き止めることで力尽きてしまったというわけではないのですが、少々中途半端な形ではあります。

ただし「阿蘇ピンク石」製石棺の経緯を突き止めることにおいては、源流を粗方辿ることで十分かと思います。

そして今回までで、ある程度の材料は揃ったのではないかと考えています。
ということで次回からはそれら材料を吟味し、石材を「阿蘇ピンク石」に求めた理由、石棺にまで完成させて畿内まで運んだ理由などを紐解いていきたいと思います。



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