石園座多久虫玉神社

(いそのにますたくむしたまじんじゃ)


大和国葛下郡
奈良県大和高田市片塩町15-33
(駐車は下部にてgooglemapをスクショしたものに落とし込んでいます)

■延喜式神名帳
石園坐多久虫玉神社 二座 並大 月次新嘗 の比定社

■社格等
[旧社格] 県社
別表神社

■祭神
建玉依比古命
建玉依比賣命
豊玉比古命
豊玉比賣命


近鉄大和高田市駅前、市街地の中に鎮座。地元では「竜宮」または「竜王宮」と呼ばれています。謎多き神社であり、当社の解明は非常に重要かと考えます。
◎社名通り本来のご祭神は多久豆玉神とするのが有力。「豆」が「虫」と刷り変わっているとするもので、実際のところ「豆」と表記されている文献は多くあります。
この多久豆玉神を祀る神社は多くはなく、対馬で祀られる多久頭魂神社がある程度。また関連しそうなのは出雲国松江市の多久神社、他出雲市などにある多久神社(いずれも未参拝)。或いは丹後国丹波郡の多久神社辺りも。
多久豆玉神は神魂神(カミムスビノカミ)の御子神とされます。その三世孫に天仁木命がおり、その後に爪工連(はたくみのむらじ)がいます。爪工連は玉体を覆う御笠や矛、盾などの器具または飾り物などを製作する氏族。連姓を名乗る有力氏族でした。
◎「紀伊国造系譜」に神名が登場します。神魂霊神(カミムスビノカミ)の御子神が香都知命(カグツチ神と思われ、本来の始祖か)、さらにその御子神が多久豆玉神であると。
そこでは多久豆玉神手力男神や天背男命とも同神であるとされています。また当社縁起に主祭神(建玉依比古命)と同神としている天御食持命(アメノミケモチノミコト)と手置帆負命(タオキホオヒノミコト)は、四世孫として登場。また平田篤胤の「古史伝」においても同神とされています。なお、この天御食持命と手置帆負命は同神ではないかとみています。
◎その多久豆玉神の娘神と考えられる天甕津比売命(天御梶媛命)は、賀茂大神である味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネノカミ)の妻神とされています。
「阿蘇ピンク石」第30回目の記事に紀伊国造家の系譜(私案)を掲載しています。

◎以上とは別に秦氏との関与も指摘されています。秦河勝の御子とされる朴市秦田来津(エチノハタタクツ)という人物が見え、天智朝に百済救済に向かっています。もし関連があるとすれば当社の謎のご祭神 建玉依比古神と建玉依比売神が、秦氏が祭祀に関わった山城国の上下賀茂社と同じご祭神であるとも考えられます。
ご祭神に見える建玉依比売神についても多くの説がありますが、下照姫神とするものもあります。
◎「大和の神祭祀」(田中昭三著)は当社祭神の推移を以下のようにまとめています。
*原始 … 多久都玉命・下照姫命
*記紀編纂以降 …  味耜高彦根命(賀茂建角身命)・下照姫命
安寧天皇 片塩浮孔宮址に比定以降 … 園神・韓神(下部の項参照)
*古学神道以降 … 建玉依比古命・建玉依比賣命
多久豆玉神の「タク」は「栲」、つまり古代の「楮(こうぞ)」ではないかという可能性を考えています。要するに「機織神」としての神格を持ち合わせているのではないかと。後裔の「爪工連(ハタタクミノムラジ)」は、「爪工連」は「造蓋(ぞうがい)を作る者」とされ、玉体を覆う御笠や矛、盾などの器具または飾り物などを製作していたようです。
また下照姫命も織物神として、同じく葛下郡内の棚機神社のご祭神ではないかと考えられます。
後述のように当地、旧「高田村」は綿業の街として目覚ましい発展を遂げました。その頃には既に当社ご祭神は織物神ではなくなっていたと思われますが、原始の織物神の御神徳あってのことだったのでしょうか。
◎昭和四十一年には別表神社に選定。奈良県内14社の1社として、肩を並べて列せられているのが興味深いところ。
◎当地旧「高田村」は寺内町、後に門前町として発展しました。その門前に近郊から商人を集めて商業の街として発展させ、繰綿(綿花から種子を取り除いただけのもの)の全国有数の集積地となっていたのが当地。明治には広大な敷地を有し赤レンガ群を備えた「大日本紡績工場」(後に「ユニチカ」)が建設。商店も数多く建ち並び、昭和の中頃までは大いに栄えました。かつては大阪ミナミの繁華街よりも多い人出があったほど。その商売繁盛を願い当社の崇敬は篤く、現在も「初えびす祭」には人足が絶えることが無いほどの賑わいをみせています。
【龍神伝承】
当社は地元では「竜王宮」と呼ばれ、正式な社名ではほとんど通用しません。いつの頃からどういう理由でそう呼ばれるようになったのかは不明。そして大神神社を龍の頭、当社を龍の胴、長尾神社を龍の尾とする伝承があります。これは「横大路」(大和の東西の古代幹線道路)に沿った三社の伝承。龍神(信仰)があったのかもしれません。
【「石園(いその)」について】
上記のように秦氏が関与した社とするなら、建玉依比古神・建玉依比売神は、宮中神でもある園神・韓神であると考えられます。「イ」は古代韓国語で神聖な意味で、「ソノ」は「ソのフル」の略で新羅の都を意味します(現在のソウルもその流れ)。渡来系の秦氏が一時期、都を意識して祀った神社であるとも考えられるわけです。
またまったく別の説として石上神宮との関連も考えられています。これは当社が「射園神(いそのかみ)」と呼ばれていたことによるもの。「新抄格勅符抄」(大同元年・806年)神封部に「射園神一戸美乃」とあります。もちろん宮中の園神との関連も合わせて考えられます。
【安寧天皇片塩浮孔宮 伝承地】
当社は第3代安寧天皇の宮跡に建てられたと考えられています。「浮孔(うきあな)」という名称(或いは地名か)が気になるところ。伊豫国浮穴郡(うけなのこほり、現在は「上浮穴郡」「下浮穴郡」等)、肥前国彼杵郡(そなひのこほり)浮穴郷が存在します。肥前国の方は紀伊国造家のルーツに近い地、伊豫国は紀伊国造家から分岐した久米氏の所縁の地。関連が想定されます。
(→ 詳細はこちらの記事にて)

【静御前ゆかりの地】
静御前の母である磯野禅尼が、当地「磯野」の出身であることから当社を含め、周辺にはゆかりの地が多く伝承されています。当社においては境内社 笠神社がその一。
大中の春日神社(境内の「弁慶の七つ石」)


駐車場は赤矢印の通りに。
*2023年11月時点ではは駐車場が無くなり、矢印通りに進み境内に停められます。境内に保育園が併設されているので、終業時間は送迎車でいっぱいになると思います。
*2024年12月時点では工事中で駐車場は閉鎖されていました。。

向かって右手に少しだけ見える建造物は、境内併設の保育園。

1月5・6日の例祭「初えびす祭」は盛大に催されます(写真は終了直前に撮影)。

社殿は平成二年に全焼、再建されています。


境内のえびす社。写真は「発えびす」当日に撮影したもの。

「笠神」として祀られる静御前。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。