☆ 安寧天皇片塩浮孔宮趾
(うきあなのみや)



大和国葛下郡
奈良県大和高田市片塩町15-33 (石園坐多久虫玉神社境内)
(参拝の場合は無料P利用可)



近鉄大和高田市駅前、市街地に鎮座する石園坐多久虫玉神社。その境内の片隅に、第3代「安寧天皇片塩浮孔宮趾」の石碑が建てられています。

◎近くの「三倉堂池」から弥生時代の遺跡が発掘され、それを元に当地に求めたようです。
「三倉堂池」の具体的な場所は不明。現在は「中三倉堂」と「西三倉堂」にそれぞれ池があり、どちらかなのでしょうか。いずれも当地より南方500mほど。少々離れ過ぎているのではないかという思いも。安寧天皇の存在自体も不確定な上に、少々離れた「三倉堂池」から遺跡が発掘されただけで当地に求めるのは早計ではないかとも思いますが。

◎「片塩浮孔宮」の所在地についてWikiでは3説が存在するとしています。

1. 奈良県橿原市四条町付近 

→ 「帝王編年記」「和州旧跡幽考」

2. 奈良県大和高田市三倉堂・片塩町

→ 「大和志」「古都略紀図」


3. 大阪府柏原市内

→ 「古事記伝」「大日本地名辞書」


先ず「1」について。

前後の天皇の宮が橿原市の「畝傍山」の周囲に営まれました。「四条町」は「畝傍山」の北側。古くから栄えた地で、神武天皇陵や第2代の綏靖天皇陵をも含む「四条遺跡」があります。


次に「2」について。

こちらが当地及び近隣地のこと。「片塩町」が該当し、「三倉堂」は少し離れた地であると上述しました。


次に「3」について。

詳細地は不明ながら河内国「大県郡」、もしくは「志紀郡」辺りを指すのでしょうか。「志紀郡」には国府遺跡(こういせき)があり、こちらは旧石器時代から連綿と続く複合遺跡。それを考慮するとヤマト王権の宮が営まれても不思議ではないものの、果たしてこの時代に河内国に宮が営まれるものなのでしょうか。


◎宮名で留意されるのが「片塩」と「浮孔(うきあな)」。先ずは「片塩」から。

「日本国語大辞典」に「堅塩」というのがあり、「精製しない固まった塩」であると。
紀の大化五年(720年)三月の条に、「塩の名を称む(いはむ)ことを諱み(いみ)て、改めて堅塩(きたし)と曰ふ」とあります。
また「内宮の御浜出の時に、干し鮑(あわび)に添えて饗する塩を言う」(和訓栞)と。

これらから導き出せるものは無いものの、「堅塩」を以て何らかの儀式が行われていたことを示唆するものかという思いもします。

◎次に「浮孔」について。
地名等としてみられるのは当地を含め、全国に3ヶ所存在します。

1.「肥前国風土記」に記される、「彼杵郡(そのきのこほり)浮穴郷」。
━━景行天皇が「宇佐浜」の仮宮に居る時、神代直に「朕は今まであまねく諸国を巡り、ほとんどを平定し統治した。未だに朕の統治を受け入れていない者たちは居るか」と問うた。神代直は「あの煙立つ村は統治を受け入れていません」と申し上げた。天皇は神代直を遣わすと浮穴沫媛(ウキアナアハヒメ)という土蜘蛛が居た。天皇に従わないというのでただちに誅殺した。これにより浮穴郷という━━
(→ 【土蜘蛛】第二十六顧の記事参照)

2.伊豫国「浮穴郡」
「大日本地名辞書」には以下のようにあります。
━━「羅漢窟」 この岩洞を一書に浮穴郡の起因なりと録せるに因り、近年改めて浮穴村の名を立つ、浮穴は河内国より移せる号なれば、この岩洞に関係なし━━

「河内国より移せる号」について、
*続紀の巻三、承和元年(834年)の記事に「伊豫國人正六位上浮穴直千繼 大初位下同姓眞徳等賜姓春江宿祢 千繼之先 大久米命也」とあります。
*続紀の巻三、承和元年(834年)の記事に「女孺河内國若江郡人浮穴直永子賜姓春江宿祢」

つまり「浮穴直」なる人物が、河内国若江郡から伊豫国浮穴郡へ移住したということに。

「新撰姓氏録」に、「左京 神別 天神 浮穴直 移受牟受比命五世孫弟意孫連之後也」とあります。「移受牟受比命」とは「安産霊」のことであるとしているのは宝賀寿男氏。つまり久米氏の信仰の始源であるカグツチ神のことであると。

宝賀氏はかつて久米氏・大伴氏・紀氏(紀伊国造家・紀直)は同族であったとしています。おそらくは肥後国に端を発しやがて肥前国や筑後国へと移り、久米氏は分岐して伊豫国に移ったのではないかと考えます。

以上、乏しい資料からはっきりと導き出せるものはありませんが、「浮穴(浮孔)」は久米氏(同族の大伴氏・紀氏を含む)と関わりのある地なのかもしれません。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。