「大村湾」 *フリー画像より






◆ 土蜘蛛 二十六顧 
(「肥前国風土記」~7)







少々大人の事情がありまして…

前回の記事UPから1ヶ月も経っていませんが、早々に進めていきます。

「阿蘇ピンク石」のテーマ記事とリンクさせる必要が出てきたためなのですが…。



*画像はWikiより
*各郷の位置は個人的推定地


■彼杵郡(そのきのこほり)

現在の長崎市、佐世保市、諫早市、大村市、西海市、西彼杵郡(にしそのぎぐん)、東彼杵郡辺り。



◎速来村の土蜘蛛

━━昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球磨噌唹(クマソ)を誅滅して凱旋し、豊前国の宇佐の海浜の仮宮に居た時、天皇は従者の神代直(カミシロノアタヒ)をこの郡に遣わせて、速来村(はやきのむら)に居た土蜘蛛を捕えさせた━━

こちらは「球磨噌唹(熊襲)」討伐後のこと。豊前国宇佐から神代直を派遣しました。

神代直は名も記されておらず、またネット上を軽く管見しても情報が見当たらず詳細は分かりません。

この後、速来津媛という者が現れ、弟の健津三間や篦簗(ノヤナ)という者が美しい「三色の珠」を持っていることを天皇に教えると、神代直を遣わし捕えさせ献上させます。天皇はこの国を「具足玉(そなひだまのくに)」と命名。今は転訛して「彼杵郡(そのきのこほり)」となったと伝えています。


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◎浮穴郷の土蜘蛛

━━景行天皇が「宇佐浜」の仮宮に居る時、神代直に「朕は今まであまねく諸国を巡り、ほとんどを平定し統治した。未だに朕の統治を受け入れていない者たちは居るか」と問うた。神代直は「あの煙立つ村は統治を受け入れていません」と申し上げた。天皇は神代直を遣わすと浮穴沫媛(ウキアナアハヒメ)という土蜘蛛が居た。天皇に従わないというのでただちに誅殺した。これにより浮穴郷という━━

ここでも神代直が登場。「土蜘蛛」退治に遣わされています。よほどの寵臣であったのか。

浮穴沫媛という「土蜘蛛」が登場しています。女性の酋長的な存在、巫女(シャーマン)だったのではないかと考えられます。

地名簞として「浮穴沫媛」が居たから「浮穴」郷になったと記されています。では「浮穴沫媛」とは何なのか?
「穴」が「浮く」というのは考えにくいこと。また自身の頭が固いせいか、連想されそうな事象も見当たりません。

他の地域を見ていきましょう。

大和国葛下郡には「浮孔(うきあな)」という地があります。石園坐多久豆玉神社の境内には、第3代安寧天皇の「片塩浮孔宮址」石碑が建てられおり、この周辺だったのではないかとみられています。「片塩」という地名がすぐ側に残り、「浮孔」という地名も比較的近い所に残ります。

続いて河内国にも。
続紀に「承和元年(834年)河内国若江郡の人、浮穴直永子が春江宿祢姓を賜ふ」とあります。
「新撰姓氏録」に「左京 神別 天神 浮穴直 移受牟受比命五世孫弟意孫連之後也」とあります。上の続紀の記事から河内国にいたのかもしれません。
「移受牟受比命」については不明なものの、安産霊神、つまりカグツチ神ではないかという説も。


伊豫国には浮穴郡(うけなのこほり)という地名があります。伊豫国の中央部、四国山地を中心とする地域。「浮穴(浮孔)」は元来、「うけな」と称したのかもしれません。

おや?

石園坐多久豆玉神社は本来、多久豆玉神を祀る社。多久豆玉神とは天手力男神と同神ではないかとする説も…。そして大伴氏・久米氏の祖神ではないかとも…。安牟須比神(=カグツチ神)さらにその遠祖であるとも…。

伊豫国は大伴氏・久米氏が移り住んだ土地であるとも…。

肥前国は大伴氏・久米氏の出身の肥後国の隣であり、海岸続き…。

あ…もうこれは黒ですね…。
「阿蘇ピンク石」のテーマ記事には景行天皇が絡んでいたのです。

詳細はそちらに任せるとして…
ということは「浮穴沫媛」は大伴氏・久米氏の裔であるのか?これまでみてきた数多の「土蜘蛛」のうち、景行天皇が討伐しているのは大伴氏・久米氏の裔であったのか?

答えを出すにはまだまだ早計。
大伴氏・久米氏とは異なる出自ながら、討伐されることで同族化していった可能性も。

こちらの「土蜘蛛」テーマ記事か、もしくは「阿蘇ピンク石」のテーマ記事いずれかで、結論にまで持ち込みたいと自身の奮闘にも期待しています。


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◎周賀郷(すかのさと)の土蜘蛛

氣長足姫尊(神功皇后)が新羅征伐に向かうため当地に行幸。舳艫(じくろ、=船首と船尾)を繋ぎ留めていました。

━━御船に従った船は風に漂い沈んでしまった。その時、欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛がその船を救った。これにより救郷(すくひのさと)と呼ばれ、今は訛って周賀郷となった━━

「欝比表麻呂」という「土蜘蛛」が登場します。何か悪さをしでかしたでもなく、神功皇后を助けたとだけ。

「麻呂」という呼称は古くから男子の名を構成するものとして見受けられます。貴賤問わず用いられていたように思います。現在の「麻呂」に対するイメージは平安時代以降のもの。特に留意することはないかと。元々は「○○丸」だったのかもしれませんし。

景行天皇の御代と神功皇后の御代の「土蜘蛛」では、少々異なるのかもしれないということに気付きかけています。そちらの方に留意せねばならないのかもしれません。


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今回はここまで。

「肥前国風土記」にはこの後、「高来郡」が続きますが「土蜘蛛」の表記はありません。

次回は「肥後国風土記」逸文へと。
記紀以外の風土記等文献のラストとなります。

抜け落ちがあったのでもう1本上げると思いますが…。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。