大和国葛下郡 石園坐多久豆玉神社



■表記
多久都魂神、多久頭神、多久豆玉神など


■概要
「紀伊国造系図」に天手力男神や天背男神と同神として祖神に挙げられている神。紀氏(紀伊国造家、紀直)の祖神とみられます。記紀には登場していません。

◎「紀伊国造系図」によると、神魂霊神の御子神が香都知命、その御子神に多久豆玉神とあります。そちらでは天手力男神や天背男命とも同神であるとされています。

紀伊国造家はかつて大伴氏や久米氏と同族であったとみられます。各々の系図において、高御産霊神や神魂霊神(神産霊神)が始祖として名を連ねますが、天孫族の祖神である高皇産霊神や神魂霊神(神産霊神)を始祖とするのは理にかなわず、これは省かねばならないと考えます。

また各々の系図に安牟須比命や香都知命、天雷命等が記載されますが、これ等は同神でありカグツチ神のことと思われます。
彼等は日本列島で原始的な「焼畑農業」を営んだ「山祇族(やまつみぞく)」。いわゆる縄文人。彼等が一様に信仰の対象としていたのがカグツチ神であろうかと。つまり信仰の源であるカグツチ神に続く祖神と見なせるかと思います。

◎「諸系譜」第4冊(中田憲信編)の「望月系図」には以下のように記されています。

神魂命━━神穂魂命(一云 天之三穂命)━━多久豆魂命(一云 手力雄命)━━天御食持命(一云 手置帆負命)・大矢女命(御合テ素盞嗚命坐而 生五十猛命)━━[天御食持命から]━━天御鳥命(一云 彦狭知命)・天道日女命(天火明命妃 天香語山命母)━━[天御鳥命から]━━天道根命━━(以下略)

この系図によると、多久豆魂命の娘に素盞嗚命の妃である大矢女命がいることになります。また孫に、天火明命の妃である天道日女命がいることになります。

なお「紀伊国造直系図」では、神魂命と神穂魂命が同神とされています。

◎「新撰姓氏録」には爪工連(ハタクミノムラジ、ツマタクミノムラジ)の項に、「左京 神別 天神 爪工連 神魂命子多久都玉命三世孫 天仁木命之後也」とあります。「和泉国 神別」の項には「爪工連 神魂命男 多久豆玉命之後也」とあります。

「爪工連」は「官職要解」(明治三十五年、和田英松)に、「造蓋(ぞうがい)を作る者」とあります。玉体を覆う御笠や矛、盾などの器具または飾り物などを製作していたとされます。

◎神名の「タク」はおそらく「栲(たく)」ではないかと推されます。「栲」とは布を作るための「コウゾ」のこと。或いは古代においては「コウゾ」を「栲」としていたのかもしれません。そうすると織物神という神格を備えた神ではないかと考えられるのです。それが爪工連たちに引き継がれたのではないかと考えられます。

「タク」から連想されるのは出雲国の「多久」。「宍道湖」の北側、日本海に面した東西に広がる半島辺りを指すと思われます。かつての楯縫郡・秋鹿郡・島根郡辺り。半島の付け根にあたるところには「多久川」が流れていたとされます(下部地図参照)。
多久都魂神、ひいては紀伊国造家はかつてこの辺りを拠点をしていたのではないかと


この半島内に「多久神社」が2社鎮座。西の方(楯縫郡/出雲市多久町)は多伎都彦命・天御梶姫命をご祭神とする社。天御梶姫命はカモ大神である味耜高彦根命の妻神。多伎都彦命はその間の子。

もう一方の東の方(島根郡/松江市鹿島町)は天甕津比女命をご祭神とする社。天御梶姫命と天甕津比女命とは音が酷似しているため、同神と見るべきでしょうか。

◎これとは別に、「多い」+「クズ」+「魂(玉)」と解する説も。「古屋家家譜」において多久頭玉神は、九頭龍神(磐排別命)、天手力男神、天石門別安国玉命等と同神とあります。「クズ神」を神名の由来とするのも十分に考え得ることかと思います。

◎「尾張国風土記」逸文には以下のような記述がみられます(必要箇所のみ抜粋し意訳)。
━━垂仁天皇皇子である品津別皇子(ホムツワケノスメラミコ)が七歳になるまで言葉を発することができなかったが、ある夜「多具(たく)」の神である阿麻乃弥加津比女が神託をなし、我を祀れとあった。神の居場所を求め使者を送ったが、美濃国「吾縵郷」ではないかと考え、社を建てて祀った━━

これは記にある本牟智和気命(ホムチワケノミコト)神話に対応するもの(参照 → 「もの言わぬホムチワケ皇子のためなら」の記事)。
そちらでは「出雲大神」(葦原色男大神=大国主命)からの神託があったとするのに対し、「尾張国風土記」逸文では阿麻乃弥加津比女となっています。

「多具=多久」と考えられ、推定地は上述したように出雲国の島根郡・秋鹿郡・楯縫郡辺り。また阿麻乃弥加津比女(アマノミカツヒメ)は天御梶姫命と天甕津比女命とは音が酷似しています。

◎「出雲国風土記」の楯縫郡の段には古老伝として、阿遅須枳高日子命(アヂスキタカヒコノミコト、=カモ大神)の后の天御梶日女命(アメノミカジヒメノミコト)が多宮村(たくむら)にて多伎都比古命を産んだ」とあります。

また別に秋鹿郡には天瓺津日女命(アメノミカツヒメノミコト)という名も記されます。
「天御梶姫命(天御梶日女命)」「天甕津比女命」「阿麻乃弥加津比女」「天瓺津日女命」これらをすべて同神であるとするのは問題がありそうですが、紀伊国造家がかつて「多久」「多具」「多宮」(いずれも「たく」)辺りを拠点としていたことが窺えます。

◎多久頭神を祀る社としてもっとも知られるのが、對馬国(対馬)の多久頭魂神社(式内 多久頭神社、未参拝)。

多久頭魂神社では「天道信仰」が知られますが、これは「太陽信仰」にその他、山岳信仰などが習合したもの。原始には多久頭神への「太陽信仰」があったものと考えます。

對馬国 多久頭魂神社 *画像はWikiより


◎紀伊国造家(大伴氏・久米氏を含む)の始源は「球磨国」であったのではないかと考えています。「球磨国」は後に肥後国(現在の熊本県)「球磨郡」となった地。なかでも「久米郷」(現在の「球磨郡多良木町久米」)にその名残があり、宝賀寿男氏(日本家系図学会会長・家系研究会会長)はそちらが原郷であろうとしています。

大陸から渡ってきた人々が「球磨川」流域の人吉盆地にて生活を営んでいたのでしょう。これは旧石器時代、2万6千年前頃からでしょうか。
その後には桜島大噴火等(およそ7300年前)も起こり、西日本、特に九州地方は壊滅状態に陥っています。原紀伊国造家(大伴氏・久米氏を含む)たちは、その後に大陸から渡ってきた人々なのかもしれません。

◎宝賀寿男氏は「高良山」に天孫降臨があったとし(或いは「筑後川」中流域)、天孫の「筑前海岸部」、つまり「怡土郡(いとのこほり)」(→ 伊都国)への移遷とともに一族も移動、筑前国「久米郷」(現在の糸島市)に拠点を変えたのであろうとしています。おそらくこの前後には對馬国にも足跡があったでしょう。

一族はその後、出雲国へと拠点を移したと考えます。この時に紀伊国造家と大伴氏・久米氏が分岐、大伴氏・久米氏は神武東征に従い瀬戸内へと拠点を移したものと考えます。

◎分岐した紀伊国造家はその後に丹後国へと移ったたのかもしれません。丹波郡に多久神社が鎮座。豊宇賀能咩命をご祭神としているものの、多久都魂神との関連が考えられます。

さらにその後に紀伊国名草郡へと移り、分岐した大伴氏と久米氏と再び合流したのではないでしょうか。


■祀られる神社(参拝済み社のみ)
[大和国葛下郡] 石園坐多久豆玉神社

*関連が想定される神社
[丹後国丹波郡] 多久神社


丹後国丹波郡 多久神社



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