![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190913/21/keith4862/a3/61/j/o1080060714586507075.jpg?caw=800)
紀伊国名草郡 日前神宮・國懸神宮
◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (29)
今回は再び紀伊国造家(紀直)に戻ります。
過去記事と重複する部分が多くあり(特に第21回目の記事)、行ったり来たりしています。自身が学びつつ記事を上げていたのがその理由。
今後の展開は朧気ながらも描くことができているので、これまでのところは大目にみて頂けましたらさいわいです。
(境内撮影不可となる前に撮影した写真)
■ 「大伴氏」「久米氏」「紀伊国造家」
「紀伊国造家(紀直)」については、宝賀寿男氏の著「古代氏族の研究4 大伴氏」、宝賀寿男氏の運営サイト「古樹紀之房間」、いずれにおいても「大伴氏」「久米氏」と同族であったという程度の旨しか示しておらず、詳細は不明。
大伴氏が「紀州土着の色彩が相当強い」という曖昧な表現に留まっています。
また「紀伊国造家」から「大伴氏」が分岐した、或いは「紀伊国造家」の一支族が「大伴氏」ではないかとしていますが、これらも上記の両典拠にはその根拠が明確には記されていません。
したがって個人的思量を加えてみていくことにします。
◎紀伊国名草郡を本貫地とした「大伴氏」
大伴氏が紀伊国名草郡を本貫地としていたことについて文献においては、以下の2箇所で知ることができます。
*続紀、神護景雲三年(769年)条
━━(大伴部押人が)伝え聞くところ、押人等の本は、是れ紀伊国名草郡片岡里人なり━━
*「古屋家家譜」の道臣命の註釈
━━紀伊国名草郡片岡之地に生まれし━━
いずれも紀伊国名草郡「片岡」で一致しています。この「片岡」という地は刺田比古神社の鎮座地が現在は「片岡町」。この周辺であろうと思われます。
*「古屋家家譜」系図の註釈
註釈には以下の各祖神が、紀伊国名草郡内の神社で祀られていると記されています。
以上から鑑みて、大伴氏は紀伊国名草郡を本貫地としていたとみて間違いないかと思います。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20181014/12/keith4862/c0/3c/j/o1080081014283897895.jpg?caw=800)
刺田比古神社境内に掲げられる境内図。
◎紀伊国名草郡を本貫地とした紀伊国造家
紀伊国造家ですから紀伊国を本貫地としていたことは間違いない事実。
一族が代々奉斎し続けていたのは、名草郡の式内名神大社 日前神宮・國懸神宮(紀伊国一ノ宮)であり、本貫地は紀伊国「名草郡」であったことが窺えます。日前神宮・國懸神宮と刺田比古神社が鎮座する「片岡」とは、わずか200m余りの距離。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230318/11/keith4862/ed/ca/j/o0810108015256923598.jpg?caw=800)
「石棚」「石梁」等を有する特徴的な「岩橋型横穴式石室」の「将軍塚古墳」(岩橋千塚古墳群内)。
◎紀伊国造家の系譜
紀伊国造家の系譜は、「紀伊国造次第」という書に掲載されるものをベースに置くことにします。他文献には見られるも、こちらでは抜け落ちている人物名がいくつか見受けられるため、あくまでも「ベースに置く」ということにて。他に明治の系図研究の大家、中田憲信氏の「諸系譜」も上げておきます。
*「紀伊国造次第」について
正式名称は「国造次第」。
貞観十六年(874年)に第36代国造 広世が書写したと「巻首書入」にあります。広世は損傷が激しいため改めて書写したと記しています。
ところが現存する系図は第67代まで続き、かつ巻頭から巻末まで筆跡が同じ。つまり広世の書写本に書き足しをしつつ、さらに改めて書写し直されたものということになります。
既に第21回目の記事にて系譜を紹介していますが、改めてUPします。
天道根命
↓
比古麻命
↓
鬼刀祢命
↓
久志多麻命
↓
大名草比古命
↓
于遅比古命
↓
舟木命
↓
夜都加志彦
↓
等与美々命
↓
紀豊布流
↓
(以下略)
*文献に見えるその他の紀直
・荒河戸畔(荒河刀弁、アラカハトベ)
・智名曾(チナソ)
・枳弥都弥(キミツミ)
*「諸系譜 第12冊」中田憲信著
こちらの系譜も掲載しておきます。
天道根命
(橿原天皇御宇春二月 定賜木国造)
↓
麻枳利命
↓
比古麻夜真止乃命
↓
↓
智名曾命
↓(比古麻夜真止乃命から分岐)
→↓
中名草媛命
(尾張連祖建斗賣命妻 建田背命母)
↓(智名曾命から)
↓
鬼刀祢命
↓(智名曾命から分岐)
→↓
手束比賣命
(大伴連祖角比古命妻 豊日命母)
↓(鬼刀祢命から)
↓
久志多麻命
↓(鬼刀祢命から分岐)
→↓
薩佐奈胡命
↓(薩佐奈胡命から)
↓
大屋古命
↓(鬼刀祢命から分岐)
→→↓
荒河刀辨命
↓(荒河刀辨命から)
↓
美智支真止乃命
↓(荒河刀辨命から分岐)
→↓
遠津年魚目々微比賣命
↓(久志多麻命から)
↓
大名草命
↓(久志多麻命から分岐)
→↓
若積命
↓(若積命から)
↓
穉日子命
↓(穉日子命から)
↓
枳弥都弥命
↓(久志多麻命から分岐)
→→↓
大屋木命
↓(大屋木命から)
↓
豊持命
↓(豊持命から)
↓
天手比古造
(斎部送)
↓(天手比古造から)
↓
久志耳造
↓(大名草命から)
↓
宇遲彦命
↓(宇遲彦命から)
↓
舟木命
↓(宇遲彦命から分岐)
→↓
宇乃命
(武内妻 角宿禰母)
↓(舟木命から)
↓
夜都賀志比古命
↓(夜都賀志比古命から)
↓
等与美々命
↓(大名草命から分岐)
→↓
山下影日賣命
(武内母)
↓(大名草命から分岐)
→→↓
枳弥負
(大村直祖)
↓(等与美々命から)
→↓
豊布留君
(木君)
・「橿原天皇」 … =神武天皇
・「木国造」 … =紀伊国造
・「斎部送」 … 「斎部造」かもしれません
・「武内」 … =武内宿禰
・「角宿禰」 … =紀角宿禰
・「枳弥負」 … 「枳祢津美命」のことか?
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20231005/17/keith4862/22/c7/j/o0747108015346951756.jpg?caw=800)
(国立国会図書館 デジタルコレクションより)
*「紀伊国造次第」と「諸系譜 第12冊」から
いくつかの留意点がみられます。
・「麻枳利命」と「智名曾命」が「紀伊国造次第」には見られない。
・「荒河刀辨命」が記では「木国造」と記されている。記にはこの娘である遠津年魚目々微比賣命が崇神天皇に妃となったとある。
・智名曾は「先代旧事本紀」の「国造本紀」に、「建斗米命 天斗米命の子。この命、紀伊国造 智名曾の妹である中名草姫を妻と為す」とある。
・「新撰姓氏録」の「大村直」に、「和泉国 神別 大村直 紀直同祖 大名草彦命 男(息子) 枳弥都弥命之後也」とある。これは「諸系譜 第12冊」の「大名草彦」の弟である「若積命」の子が「枳弥都弥命」としているのと異なるもの。
・「肥前国風土記」には、景行天皇が肥前国へ行幸した際に、「土蜘蛛」三人がいたが背いたため、「紀直等の祖 穉日子(ワカヒコ)が派遣され誅滅した」とあります。
*「紀伊国造次第」をひと先ず補正
ここでひと先ず、抜けていると思われる人物を追加補正します。
天道根命
↓
麻枳利命
↓
比古麻命
↓
智名曾命
↓
鬼刀祢命
↓
久志多麻命
↓
荒河刀弁命
↓
大名草比古命
↓
穉日子命
↓
于遅比古命
↓
舟木命
↓
夜都加志彦
↓
等与美々命
↓
紀豊布流
先ずはここまで辿り着きました。
これを「大伴氏・久米氏」の系譜と合体させる作業を行っていきます。
ところが…
長くなってしまったので次回に回すことにします。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230317/23/keith4862/63/d3/j/o1080081015256772647.jpg?caw=800)
紀伊国造家の当主が眠るとされる岩橋千塚古墳群 大日山35号墳。前方部から後円部越しに北側麓を。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。