赤穂神社
(あかぼじんじゃ)


大和国添上郡
奈良市高畑町1320
(P無し、近隣コインP等利用)

■延喜式神名帳
赤穂神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
天児屋根命
天満宮
[相殿] 弁財天社


かつて「社家町」とも称された、奈良市「高畑町」の住宅地の一角にこぢんまりと鎮座する社。
◎創建由緒に関して社頭案内は以下の通り掲げています。

━━古来、高畑町の春日社神官邸町の西端の地に鎮座して久しく里人の尊崇を受け給ふ。
平安時代「延喜式」所載の古社にしてかの二月堂お水取りに読み上ぐる神名帳にも赤穂明神とあり、連綿今日に至るまで読誦せらるゝ古例なり。

上古、天武天皇紀六年に十市皇女を同十年に氷上ノ夫人を 「赤穂ニ葬ル」とあるは蓋しこの地辺ならむ。もと社地広大にして数百余坪 桜樹多く 幕末頃まで 桜田の地名ありき。近世の記録には天児屋根命を祀るとせるも加ふるに、「高貴の姫君を葬る」と口碑伝承あるはいと久しく女人守護の霊験久しかりし証なり━━

◎十市皇女とは天武天皇皇女であり、大友皇子后。壬申の乱では大友皇子軍を倒した大海人皇子が即位し、天武天皇となっています。紀の天武天皇七年(679年)の条には、十市皇女が「赤穂」に葬られたとあります。

氷上ノ夫人(ヒガミノオオトジ)とは天武天皇夫人であり、藤原鎌足の娘。「夫人」とは「后」「妃」に次ぐ地位で定員は三名。記録では天武天皇の御宇が最古。紀の天武天皇十一年(683年)の条には、「赤穂」に葬られたとあります。

いずれも社頭案内とは一年ずつズレが生じていますが、これは社頭案内の誤植でしょうか。

◎「赤穂」の比定地というのが当社地の他に、東へ200m余りの比売神社の地。そちらでは「比売塚」の上に祠を設けたとしています。

◎この「赤穂」の比定地については、「高畑」以外にも諸説あるようです。

十市皇女は廣瀬郡(現在の北葛城郡広陵町)「赤部」の「赤穂墓」、高市郡(現在の明日香村)「安古」(天武持統陵中尾山古墳から高松塚古墳文武天皇陵を含む一帯)、城上郡(現在の桜井市)「赤尾」(「鳥見山」東麓)など。一方の氷上ノ夫人も城上郡「赤部」が候補地に。

◎「高貴の姫君を葬る」という口碑伝承については、皇學館大学「式内社調査報告」を引いたものかと思われます。「大乗院日記目録」の文亀二年(1502年)に当地周辺がほぼ全焼、当社も御神躰以下すべて焼失とあり、これが東二条女院(西園寺公子、第89代後深草天皇中宮)の「御願所」であると。この記述から「高貴な女性への信仰があった」と導き出しています。

◎一方でこれらとはまったく異なる説を 上げているのが「大和志料」。春日大社の境内末社 紀伊神社に合祭されているとしています。これについては「式内調査報告」が平安末期から江戸期前まで、「赤穂神・島田神・御前原石立命神・天乃石吸神」を祀っていたとあることを受けてのもの。「島田神」は嶋田神社に、「御前原石立命神」は御前原石立命神社に、「天乃石吸神」は天石立神社または六所神社にそれぞれ宛てられています。経緯は不明、他社と同様にこちらでも奉斎がなされていたのかもしれませんが。

◎「春日社神官邸町」とは春日大社の神官たちが邸宅を構えていた地。つまり「社家町」であると。かつては「高畑神功町(たかはたかんぼうまち)」と称されていたようです。

ところが明治の廃仏毀釈により興福寺の僧侶は春日大社の神官に転職、また神社にも世襲制が廃止されるなどの時代の波が押し寄せ、神官たちは「高畑」から離散していきます。

かつては広大な社地に大鳥居を 有した当社も、明治以降は「社家町」とともに著しく衰退。昭和五年に天満宮と弁財天を合祀し、南都鏡神社の別社として復興したようです。



久しぶりに訪れるとうっかり通り過ぎそうになりました。

社号標は壁に埋もれて…。

手前が赤穂神社。奥が自在辻子天満宮と弁財天社。

境内に掲出されている「春日神官住居大略地図」。中央下に南都鏡神社が見え、その横には「ヒメ塚」(現 比売神社)。

中央下に当社が見えます。ちょうど光が反射してしまっていますが。その境内地内に「ヒメ墓」と記されています。