95.五井大宮神社の概要

 

 

五井大宮神社「参拝のしおり」より

祭神:「国常立命(クニトコタチノミコト)」「天照大神」「大己貴命(オオナムチノミコト)=大黒様」

・由緒:社伝によれば日本武尊が東征の折に創建。1180には源頼朝が奉幣祈願。

 天文年間(16世紀中頃)、小田原北条氏が里見氏との戦いのなかで必勝を祈願し太刀一振りを奉納。江戸時代には近隣28か村の総鎮守となったが、享保頃(18世紀前半)から各村がそれぞれ氏神様を祀るようになると本社は五井の鎮守となった。大正5年には村社に列せられている。

 ※日本武尊と源頼朝は房総の湾岸部にある神社の由緒、社伝に頻出する。

・社殿:本殿は三間社流れ造りで当初は茅葺であったが昭和33年、銅板葺に改修された。寛政5年(1793)の棟札がある。記録では天正8年(1580)、享保3年(1718)、享保17年(1732)と造営・改修されてきたようである。拝殿は昭和39年に再建、平成8年の改修で翼廊が増築された。

 


鳥居:嘉永6年(癸丑:1853=ペリー来航の年)御影石製

 

お百度石:素足で社殿とこの石の間を行き来し、手を触れては参拝の回数を数えたもの。特に戦時中は出征した息子や夫の無事を祈った。昭和13年(1938)日中戦争が始まって間もない時期のもの。市原市内ではここでしか確認できていない。

 

末社の大杉神社「あんばさま」:神社のある地名からアンバサマ(阿波様)とも言われ、常陸国稲敷郡桜川阿波(あば)に本社がある。千葉、茨城、福島、宮城、岩手などの太平洋岸の漁村などで不漁続きの時に祀られた。また悪疫除けの神でもある。

 

末社:六柱が祀られている

 

    左:庚申塔(寛文9年=1669)        右:二十三夜塔(元禄13年=1700)

※庚申塔は明治23年に中瀬墓地から移されたらしい。黒みがかった石であり、御影石かもしれない。

富士塚:山包講によるもので富士山の溶岩が塚の表面にコーティングされた本格的なもの

 

山包講関係の石造物:右は「参明藤開山」碑

 

扶桑教(明治初年、富士講の一部が新興宗教として扶桑教を名乗るようになった)が建てたもので市原では西南戦争の忠魂碑は極めて珍しい。

 

手水鉢:宝暦9年(1759)のもので五井の町が発展し始めて間もない時期のもの。願主江坂屋半兵衛と側面にある。

 

※柴田等(1899~1974):宮崎県出身の農林官僚(京都大学卒)。1947年、旧知の間柄であった川

 口為之助が千葉県知事となると農業再建を掲げた川口に招かれ、副知事となる。1950年、川口の辞

 任に伴う選挙で知事に当選。以後三期務める。農業再生とともに川崎製鉄の誘致を実現させ、京葉工

 業地域の基礎を築く。後に知事となる友納武人を副知事に招く。やがて工業化を急ぐ川島正二郎、水

 田三喜男らが農林官僚出身の柴田を農業派と断じて批判し、対立を深める。柴田が漁民の生活を案じ

 て東京湾埋め立ての推進にブレーキをかけると川島らは強く反発。このため1962年、柴田は自由民

 主党から除名され、次の知事選には公認されなかった。川島らは上総一宮藩の最後の藩主の子加納久

 朗を推し、知事に当選させた。しかし加納は1963年2月、任期110日にして急死する。

五井漁業組合解散:昭和28年には船橋市から五井町にかけての漁業組合の代表者らが千葉市の水産会館に集まって県の京葉工業地帯造成と海岸の埋め立て計画に反対する方針を固めていたが、県などの圧力と説得によって補償金を受け取って漁業権を放棄する漁協組合が続出し、昭和30年から五井海岸の埋め立ても始まっていた。昭和32年から33年にかけて君塚、八幡、五所、五井の各漁協と県との間で漁業補償が妥結し、昭和34年には旭硝子、36年には古河電工、富士重機、碑の建てられた37年には三井造船、東電五井火力、昭和電工、38年には丸善石油、40年に不二サッシ等、企業の進出が相次いでいる。池田勇人内閣の重化学工業重視の政策を背景にかつては海苔をそこかしこで干していた東京湾の海辺の風景も急速に変化していったのである。

 ちなみに市原浦の名物であった海苔の養殖は意外と歴史が浅く、明治33年(1900)に富津青堀の渡邊忠次氏による指導のもと青柳村で着手された。本来、延宝年間(1670年代)に江戸前で始まった海苔養殖は浅草海苔商人だった近江屋甚兵衛が房総の地に文政年間(1820年代)にもたらしたものである。ただこのときには五井村は近江屋の申し出を断り、申し出を受け容れた小糸川河口の人見村(現在君津市)で房総最初の養殖が始まった。次第に君津、富津、袖ヶ浦で発達、普及した海苔養殖は江戸湾沿岸の村々に貴重な現金収入をもたらし、明治になってようやく市原にも普及するようになった。市原では青柳に続いて五井村が1909年、君塚村と今津朝山村が1912年、八幡五所村が1914年、松ヶ島村が1915年、椎津村が1925年、姉崎が1926年と相次いで海苔の養殖が普及。特に松ヶ島の漁業組合長だった斎藤久雄は養殖の技術改良に専心し、1950年、全国水産功労者として大日本水産会の表彰を受けている(松ヶ島養老神社境内に「斎藤海苔翁之碑」が1955年に建てられた)。こうした努力もあって1947年には千葉県の海苔生産が全国一位となり、昭和30年代まで八幡宿から姉崎にかけては11月上旬になるとあちらこちらで海苔を干す光景が見られた。しかし京葉工業地帯の造成により、昭和37年(1962)、松ヶ島を最後に市原の海苔養殖は幕を閉じることになった。

 

 

 

※逆修塔:生前に自分の供養塔を建てておく風習(=逆修)があった。大宮神社の別当寺は龍善院だっ

 たので西源法師は龍善院の住僧だったのかもしれない。

※海岸部では二十三夜塔は数が少ない。

三山塚

 

補足:上総国の「昇亭北寿」について

 初代(?)の北寿は葛飾北斎の初期における弟子として1789年頃から1818頃まで江戸を中心に作品を残しており、ボストン美術館の解説では生没年が1763年~1824年となっている。師匠北斎が身に付けた西洋画の技法を発展的に引き継ぎ、伝統的な浮世絵とは印象が異なる、洋風の風景画を描いているのが特色の一つと言えるだろう。1760年生まれの北斎とは3歳ほど年下だが、長命の北斎よりも25年ほど早く亡くなっているようだ。

市原市牛久三島神社伊勢参詣奉納絵馬:安政4年(1857) 現在、南総公民館に保管

市原市牛久三島神社伊勢参詣奉納絵馬:嘉永7年(1854) 現在、南総公民館に保管

 

 驚くべきことに上総国にも昇亭北寿がいた。ただし江戸の北寿が姿を消してから20年以上、時を隔てた1848年、再び上総の地で北寿の名が登場したのだ。以降、彼は1864年までの間、上総の地にいくつかの作品を残した。ただし、なぜか作品は浮世絵ではなく、絵馬だけに限られている。

 絵馬は雨風に晒されることが多く、多くの場合、保存状態が良くない。そのため江戸の北寿と上総の北寿との作風を比べることは、絵馬と浮世絵の違いが加味されることも手伝ってかなり困難である。したがって上総の北寿が江戸の北寿の弟子筋なのかどうかは分からない。ただし寺社参詣、合戦や武将の問答などの画題を考慮すると、絵師としての知識が相当必要とされる絵であり、画家としての力量は相当あったのだろう。絵馬の数からみても上総においての評判は上々のものだったと見受けられる。

 とは言え、少なくとも上総の北寿には葛飾北斎の系統にふさわしい凝った構図や西洋的画風がほぼ感じられないことも確かである。もちろん神仏に奉納される絵馬としての、定型的な作風の枠内での作品なので、もとより浮世絵のような大胆な構図や鮮やかな色使い、西洋風の技術を絵馬でふんだんに用いることは難しいだろうが…

 絵師としての名が同名なのだから両者には何らかのつながりがあるに違いない。実は江戸の北寿も同じ房総で九十九里の地引網漁や銚子での鰹釣り船を絵にしている。が、残念ながら他はもっぱら江戸を題材にしたものばかり。やはり同名であるにもかかわらず、両者の接点が余りにも少ない点は不可解である。上総の北寿が作品の所在地から見て上総に集中しており、極めてローカルな活動範囲である点、さらに作品も絵馬に限られる点から見ると一層、両者の関係性が見えにくくなる。上総の北寿が果たして江戸の北寿の系列に属する門弟なのか、二代目あるいは三代目なのか…現状では判断の根拠となる史料が余りにも少な過ぎるだろう。両者の関係は今後の解明に待つほかあるまい。

 以下、主に南総公民館の解説を元にして上総の北寿が描いた市原の絵馬をとりあえず古い順に列挙してみよう。

・牛久三島神社「伊勢神宮参詣記念」絵馬:嘉永7年(1854)

・嶋穴神社寺社「源義家と安倍貞任問答図」絵馬:嘉永7年(1854)

・牛久三島神社「伊勢神宮参詣記念」絵馬:安政4年(1857)

・五井大宮神社「源義家と安倍貞任問答図」絵馬:文久元年(1861)

・五井大宮神社「伊勢神宮参詣図」絵馬:文久2年(1862)

・北青柳若宮八幡「寺社参詣図」絵馬:年代不明

・八幡飯香岡八幡「吉野合戦図」絵馬:年代不明

他の地域、千葉市緑区東光院「川中島合戦図」絵馬(元治元年=1864)や笠森観音(詳細不明)にも彼の絵馬が残るという。

§8.カッパの授業プリント例

9.特集「音楽は世界を変えられるか?」 NO.2

 

 以下は政治経済の特別授業計画の後半部分。

①喜劇王チャップリンの願い

・「チャップリンの独裁者」(1940)での床屋の演説

  チャップリンvs.ヒトラー

  great dictator speech charlie chaplin

  miyahoo  2006/06/04 604

・「スマイル」

   1936年のチャールズ・チャップリン(1889~1977)の映画『モダン・タイムス』で使用されたテーマ曲で、チャップリンが作曲した名曲。マイケル・ジャクソンなど多くのアーティストにカバーされている。1954年にジョン・ターナーとジェフリー・パーソンズが歌詞とタイトルを加えた。

 なおチャップリンは「テリーのテーマ」(エターナリー)や「This is My Song」の作曲も手掛けている。

 André Rieu & Jermaine Jackson - Smile

   André Rieu  2014/06/25 446

 マイケルの兄ジャーメインがマイケルの死後、歌った動画を視聴。

 エターナリー (映画ライムライト/チャップリン) --森山良子

   takeo toriyama  2020/06/04 2:11

   おそらくチャップリンは喜劇映画を通じて愛と平和とスマイルに満ちた世界の実現を夢見ていたのだろう。もちろんそれは夢みる乙女の描く空想、「エターナリー」の歌い上げる世界とさほど大差ない、現実離れした営みではある。そもそもがチャップリン自体、かなりの浮気者であったようだ。「エターナリー」は決して現実そのものではない。

   飢餓や戦争、自殺や犯罪の多発、憎しみと悲しみの尽きない過酷な現実が世界には存在している。しかし、それでもなお幸福な世界を夢見る、夢を見続ける事の大切さをチャップリンは説いているのではあるまいか。そしてただ単に夢見るだけではなく、その世界に向かって前進するためには敢えて戦うことも辞さない勇気と行動力をも彼は私たちに求めているのではないか。

 喜劇王チャップリンの持つ愛と勇気の両側面を私たちは忘れてはなるまい。

②忌野清志郎の「イマジン」(1989)9:09

 プリント穴埋め

③ボブ・ディラン「風に吹かれて」(1963)2:48

 ちなみにこの曲も忌野はカバーしている。

 プリント穴埋め

   

※他に反戦平和を訴えた曲としては「花はどこへ行った」(1955:ピート・シーガー)も有名。キング

 ストントリオが1961年、ピーター・ポール&マリーが1962年に相次いでカバーし大ヒット。

ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界

 グッドモーニング,ベトナム, What a Wonderful World シーン, 4K 高画質 

 音質 日本語 字幕 CC イエナオーディオ  2022/12/20  235

 プリント穴埋め

 

 映画は1987年、ロビン・ウィリアムズ主演。映画の主題歌とされたのがこの「素晴らしき世界」。ベトナム戦争を正面から批判したアメリカの傑作映画。

「Mr.Children「タガタメ」from Stadium Tour 2015 未完 Mr.Children   Official Channel  2016/03/08 7:09」

 最後に、この曲を視聴後、ガザ地区で行われている惨劇について世界は、私たちは何ができるのか、問いたい。

 「子供らを被害者に 加害者にもせずにこの街で暮らすため まず何をすべきだろう?」と歌詞にあるように自分たちが被害者になる可能性だけではなく、加害者側にもなりうることを前提にする必要が説かれている。すなわちここからは自分たちは被害者だから加害者への復讐を正当化できる、といったような復讐の論理をあらかじめ排除する、といった思考が見て取れる。

 この論理をガザ地区での出来事に当てはめてみれば、イスラエルはハマスへの過剰な武力報復を行うべきではないという結論になろうか。

 復讐は復讐を呼び、際限のない暴力を引き起こす。従って暴力の連鎖を断つにはまず武力的「復讐」、報復自体の全面否定をどうしても出発点としなければならない、と桜井氏は考えているようだ。これは専守防衛を旨とする日本国憲法の、当初の精神に近いだろう。

 とは言え、ウクライナでの戦争のように、独裁国家による一方的な侵略に対してはさすがに無抵抗でもいられまい。チャップリンが説いたように、毅然たる姿勢で独裁国家には臨むべきである。つまり侵略に対する抵抗は復讐とは違うものとして考えるべきなのだ。

 ところでヒトをはじめとする社会的生活を営む動物には集団の階層の上位に立とうとする激しい競争意識が本能的に埋め込まれているように思えるが、いかがだろう。またヒトともなれば群の連帯を強めるため、他の群との対抗意識や敵対意識を強める力が強く働くのではあるまいか。と同時に、群内の序列を確立し、集団の和を乱すものへの厳しい制裁を加える傾向が出てしまいがちになるのは社会的動物としてむしろ自然なことなのかもしれない。確かにスポーツに熱狂する人々が少なくないのはヒトが持つ闘争本能のなせる業だと思えなくもないのだ。

 ただ、そうした傾向が行き過ぎると集団内での不和、イジメが横行し、大きな集団間では戦争に発展してしまう…そのように考えればイジメや戦争自体がヒトという動物には必然的に生じがちな出来事と捉えられなくもないだろう。

 人類すべてが愛と平和と笑顔を保てるなら、どんなに幸福なことか…しかし生まれついて序列意識と闘争本能の盛んな人類にとって愛と平和と笑顔に満ちた社会を実現することは残念ながら生物学的観点からも至難の業というほかないような気がする。その難しさを踏まえたうえで、いかにしてイジメを減らし、戦争を減らしていくのか、有効で現実的な、ヒト社会にふさわしい方策こそが法制度や文化面で求められているのだろう。

 音楽はあくまでもそうした方策の一部として愛と平和と笑顔を求める動機付けに貢献するだけであり、当然のことであるが、音楽だけでイジメや戦争を減らしていくには不可能というほかあるまい。今、私たちが何をすべきなのかを戦略的に指し示すのはやはり音楽ではなく、知的戦略の側である。

 しかし音楽のテコ入れ抜きでヒトは動けるであろうか、動き続けられるであろうか。どんなに知的で合理的な戦略であってもヒトは本質的に感情的な生き物である。理屈だけ正しくともヒトの意欲はかき立てられまい。あるいは逆に「智に働けば角が立つ」結果をもたらすかもしれない。

 音楽は理性よりも情動に働きかけることでヒトを意欲的に動かす動力の一つにはなりうると考えられよう。音楽はとりあえず世界を変えるための数多い動力の一つにはなりうるのだ。

 ノーベル賞史上初めてミュージシャンが文学賞を受賞した背景に、もしかすると理屈や理想通りには動かない、情動的な人々の世界への、一つの有力なアプローチ手段として大衆的な音楽の役割が注目され始めた…のかもしれない。

 

 

 以下はプリントの原稿

 

・「床屋の演説」:チャールズ・チャップリン(1889~1977)の「独裁者」より

 ドタバタ喜劇の役者として知られたチャップリンはドイツやイタリア、日本のファシズムの動きを懸念し、喜劇映画の監督としてまた喜劇役者として全世界に向けて一世一代の舞台を設けた。1940年のことである。彼が監督・脚本し主演したこの映画のラストシーン6分間は「床屋の演説」として有名になったもの。演説の途中から彼が笑いを取ろうとする喜劇役者ではなくなり、笑い抜きの真剣な素の自分に戻っていく表情の変化が見て取れよう。

 ラストにいたるあらすじを紹介しておこう。舞台はヨーロッパの大国トメニア(ドイツのこと)。その独裁者アデノイド・ヒンケル(ヒトラーのこと)はユダヤ人排斥を旗印に世界制覇をもくろんでいた。一方、ユダヤ人ゲットーの床屋チャーリーはヒンケルと偶然にも瓜二つのそっくりさん。ふとしたことがきっかけでこの二人が入れ替わってしまう。そして床屋のチャーリーは大観衆の前で独裁者ヒンケルとして演説しなければならなくなる。

  

 申し訳ないが私は皇帝になどなりたくはない。支配も征服もしたくない。むしろできれば援助したい。ユダヤ人も黒人も白人も。人類は互いに助け合うべきである。他人の幸せを願うべきであり、互いに憎みあったりしてはならない。世界には全人類を養うに足る富がある。大地は豊かで恵み深い。人生は自由で楽しいはずなのに、貪欲が人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血を招いた。人類にゆとりを与えてくれるはずの機械は貧富の格差を広げてしまった。知恵は人類を冷たく、薄情にした。

 賢さよりも優しさや思いやりが必要なのである。思いやりがなくなると暴力がはびこる。航空機とラジオは我々の間に横たわっていた距離を縮めた。それらは人類の良心に呼びかけて世界を一つにする力がある。私の声は全世界に伝わり、何百万もの失意の人々にも届いている。これらの人々は罪無くして苦しんでいる。人々は失望してはならない。

 貪欲はやがて姿を消し、恐怖もやがて消え去り、独裁者は死に絶える。大衆は再び権力を取り戻し、自由は決して失われぬ。

 兵士諸君、犠牲にはなるな。独裁者の奴隷になってはいけない。彼らは諸君を欺き、犠牲を強いて家畜のように追い回している。彼らは人間ではない。心も頭も機械に等しい。

 諸君は機械ではない。人間だ。心に愛を抱いている。愛を知らぬものだけが憎みあうのだ。独裁を排し、自由のために戦え。神の王国は人間の中にある。すべての人間の中に、諸君の中に。諸君は幸福を生み出す力を持っている。

 人生は美しく自由であり、すばらしいものだ。諸君の力を民主主義のために集結しよう。よき世界のために戦おう。若者に希望を与え、老人に保障を与えよう。

独裁者も同じ約束をした。だが彼らは約束を守らない。彼らの野心を満たし、大衆を奴隷にした。戦おう、約束を果たすために。世界に自由をもたらし、国境を取り除き、貪欲と憎悪を追放しよう。良識のために戦おう。文化の進歩が全人類を幸福に導くように。

 兵士諸君、民主主義のために団結しよう。

 

.忌野清志郎(1951~2009)の「イマジン」(9:09)

 忌野は1968年にRCサクセションというロックバンドを率いてミュージシャンへの道を歩みだした。1991年にバンドを解散後、ソロとして様々な活動に飛び込んでいく。過激な歌詞(原子力は要らねえ!電力は余ってる!etc)や君が代の編曲などで何度も放送禁止や発売中止の憂き目にあった。2006年、喉頭がんとなるが摘出手術は行わず、2008年に歌手活動を再開するもガンが転移し、翌2009年5月死去。「ロック葬」には43000人もの弔問者が集まったという。なおこの翌月にはマイケル・ジャクソンも亡くなっている。

 ここでは彼が尊敬してやまないレノンのイマジンを、まったく自己流の翻訳で歌い上げている映像を見てみよう。一見デタラメのようでいて見事に歌の核心を突いた素晴らしい意訳であると思う。最後までヤンチャで子供の魂を失わなかった忌野の「イマジン」。

 

 天国は無い ただ空があるだけ

 国境も無い ただ地球があるだけ

 みんながそう想えば簡単なこと さあ

 社会主義も 資本主義も 偉い人も 貧しい人も

 みんなが同じならば 簡単なこと さあ

 夢かもしれない でもその夢を見てるのは 君一人じゃない

 仲間がいるのさ

 誰かを憎んでも 派閥を作っても 頭の上には ただ空があるだけ

 みんながそう想うさ 簡単なこと

 夢かもしれない でもその夢を見てるのは 君一人じゃない

 仲間がいるのさ

 夢かもしれない でもその夢を見てるのは 君一人じゃない

 夢かもしれない でも君一人じゃない 一人ぼっちじゃない

 違う 仲間がいるのさ 

 夢かもしれない かもしれない かもしれない かもしれない

 夢じゃないかもしれない 君は一人じゃない

 違う 一人ぼっちじゃない

 ・・・以下略

 

4.ボブ・ディラン(1941~)の一曲「風に吹かれて」

 彼は1962年にレコードデビューして以降、常に若者のカリスマ的存在として注目されてきた。これまでにグラミー賞やアカデミー賞、ピューリッツァー賞特別賞など数々の賞を受賞し、「ロックの殿堂」入りも果たしている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」部門では第1位。ブルース・スプリングスティーンやジミ・ヘンドリックス、ルー・リード、日本の桑田佳祐ら数多くのミュージシャンに影響を与えてきた。

 「風に吹かれて」は1963年にリリース。ピーター・ポール&マリーのカバーで大ヒットとなり、作詞作曲したディランの名も一躍有名となった記念碑的一曲である。 

 1963年は8月にキング牧師の演説「I have a dream」の行われたワシントン大行進で公民権運動が最も高揚した時期にあたり、この歌は公民権運動の賛歌と呼ばれた。他方で11月には公民権運動をバックアップしてきたケネディ大統領が暗殺され、アメリカの行く末に暗雲が垂れこむ。以後、泥沼化していくベトナム戦争への反対運動の賛歌ともなり、P.P.M.以外にも数多くのアーティストがカバーして歌い継がれてきた。

 

 人はどれくらいの道を歩めば人として認められるのだろう?

 白い鳩はどれくらい海を越えれば砂浜で安らぐことができるのだろう?

 一体 どれほどの銃弾が飛び交えば殺戮は終わるのだろう?

 その答えは風に吹かれて誰にもつかめない。

 

 山が崩れて海となるまでに一体、どれほどの時が流れるのだろう?

 人は自由になるまでに一体、どれほどの時を必要とするのだろう?

 真実から目をそらさなくなるまでに

 人は一体、どれほど顔をそむけるのだろう。

 その答えは風に吹かれて誰にもつかめない。

 

 どれほど人は見上げなければならないのだろう?

  本当の空を見るために

 どれほど多くの耳を持たねばならないのだろう?

  他者の叫びが聞こえるようになるために

 どれほどの犠牲者を出さなければならないのだろう?

  その死が無益だと知るために

 その答えは風に吹かれて誰にもつかめない

 

5.ルイ・アームストロング「この素晴らしき世界」:プロテストしない「闘い」

 ルイ・アームストロング(1901~1971)はルイジアナ州で貧しい居住区に生まれた。子供のころ、ふざけてピストルを発射し少年院に入れられた。そこで彼はジャズの世界と出会う。1923年に楽団の一員となってミュージシャンの道に入るが、公演先では白人と一緒のホテルに泊まれず、劇場の入り口も別々という差別を体験。しかしトランペッターとしての技量に加え、持ち前のサービス精神、愛嬌のある笑顔と独特のハスキーボイスで人気者になり、「サッチモ」の愛称で親しまれた。

 「この素晴らしき世界」は1967年に発表されている。彼の晩年の代表作である。この当時、次第にベトナム戦争が泥沼化し、翌年にはキング牧師が暗殺された。黒人たちにとって新たな辛い時代の始まりに位置する。白人からも人気のあったアームストロングはそれまで政治的な立場を鮮明にしてこなかったこともあり、過激化していった公民権運動の側からは白人に媚びる「裏切り者」という見方もされていたという。しかしテレビ放映された1967年の彼を見たとき、彼なりの壮絶な「闘い」が密かにあったことが伝わってくる。ディランとはまったく異なる、一切プロテストしない静かで、しかも過酷な「闘い」。

 彼が後続の世代に託した思いとは何だろう?

 

 緑の木々が見える。赤いバラも咲いている。私とあなたのために。

 そして私は思う。なんてすばらしい世界なんだろう。

 青い空に白い雲。明るくうららかな日。暗く厳かな夜。

 そして私はひとり思う。なんてすばらしい世界なんだろう。

 虹の色は空に映えて行きかう人の顔を照らす。

 友人たちが手を振って挨拶してくれる。

 本当は「あなたが大好き」って言ってるんだ。

 赤ちゃんが泣いている。彼らの成長を見守ろう。

 きっと彼らは私なんかよりずっとたくさんのことを学ぶんだ。

 そして私はしみじみ思う。なんて素晴らしい世界なんだろう。

 

 以下は実際のプリント資料

 

特集 続 音楽は世界を変えられるか? NO.2

  )組(  )番(          

 

・「床屋の演説」:        (1889~1977)の「独裁者」より

 ドタバタ喜劇の役者として知られたチャップリンは(     )やイタリア、日本の(       )の動きを懸念し、喜劇映画の監督としてまた喜劇役者として全世界に向けて一世一代の舞台を設けた。(     )年のことである。彼が監督・脚本し主演したこの映画のラストシーン6分間は「床屋の演説」として有名になったもの。演説の途中から彼が笑いを取ろうとする喜劇役者ではなくなり、笑い抜きの真剣な素の自分に戻っていく表情の変化が見て取れよう。

 ※チャップリンは大の親日家であったため、身の回りの世話をするのはすべて日本人にしていたほ

  ど。彼は(    )年5月14日に来日している。翌日、(      )首相と懇談するスケジ

  ュールも組んでいた。実はチャップリンはアメリカ資本主義の手先として海軍皇道派の暗殺対象で

  あったという。つまり彼の日程に合わせて(     )事件は発生したという説がある。幸い、

  チャップリンは首相との懇談を直前にキャンセルして歌舞伎鑑賞へ出かけたため、殺されずに済ん

  だらしい。彼のこうした経験もこの映画に生かされているのだろう。

 

 ラストにいたるあらすじを紹介しておこう。舞台はヨーロッパの大国トメニア(ドイツのこと)。その独裁者アデノイド・ヒンケル(      のこと)は

     )人排斥を旗印に世界制覇をもくろんでいた。一方、ユダヤ人ゲットーの床屋チャーリーはヒンケルと偶然にも瓜二つのそっくりさん。ふとしたことがきっかけでこの二人が入れ替わってしまう。そして床屋のチャーリーは大観衆の前で独裁者ヒンケルとして演説しなければならなくなる。

  

 申し訳ないが私は皇帝になどなりたくはない。支配も征服もしたくない。むしろできれば援助したい。ユダヤ人も黒人も白人も。人類は互いに助け合うべきである。他人の幸せを願うべきであり、互いに憎みあったりしてはならない。

 世界には全人類を養うに足る富がある。大地は豊かで恵み深い。人生は自由で楽しいはずなのに、(    )が人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血を招いた。人類にゆとりを与えてくれるはずの(    )は貧富の格差を広げてしまった。

    )は人類を冷たく、薄情にした。

 賢さよりも(     )や思いやりが必要なのである。思いやりがなくなると暴力がはびこる。航空機とラジオは我々の間に横たわっていた距離を縮めた。それらは人類の良心に呼びかけて(        )にする力がある。私の声は全世界に伝わり、何百万もの失意の人々にも届いている。これらの人々は罪無くして苦しんでいる。でも失望してはならない。

 貪欲はやがて姿を消し、恐怖もやがて消え去り、独裁者は死に絶える。大衆は再び権力を取り戻し、(    )は決して失われはしない。

 兵士諸君、犠牲にはなるな。独裁者の奴隷になってはいけない。彼らは諸君を欺き、犠牲を強いて家畜のように追い回している。彼らは人間ではない。心も頭も機械に等しい。

 諸君は機械ではない。人間だ。心に(   )を抱いている。愛を知らぬものだけが憎みあうのだ。独裁を排し、自由のために戦え。神の王国は人間の中にある。すべての人間の中に、諸君の中に。諸君は幸福を生み出す力を持っている。

 人生は美しく自由であり、すばらしいものだ。諸君の力を民主主義のために集結しよう。よき世界のために戦おう。若者に希望を与え、老人に保障を与えよう。

 独裁者も同じ約束をした。だが彼らは約束を守らない。彼らの(    )を満たし、大衆を奴隷にした。戦おう、約束を果たすために。世界に自由をもたらし、

    )を取り除き、貪欲と(    )を追放しよう。良識のために戦おう。文化の進歩が全人類を幸福に導くように。

 兵士諸君、(       )のために団結しよう。

 

・忌野清志郎(1951~2009)の「イマジン」

 忌野は1968年にRCサクセションというロックバンドを率いてミュージシャンへの道を歩みだした。1991年にバンドを解散後、ソロとして様々な活動に飛び込んでいく。過激な歌詞(     は要らねえ!電力は余ってる!etc)や      の編曲などで何度も放送禁止や発売中止の憂き目にあった。

 2006年、喉頭がんとなるが摘出手術は行わず、2008年に歌手活動を再開するもガンが転移し、翌2009年5月死去。「ロック葬」には43000人もの弔問者が集まったという。なおこの翌月にはマイケル・ジャクソンも亡くなっている。

 ここでは彼が尊敬してやまないジョン・レノンのイマジンを、まったく自己流の翻訳で歌い上げている映像を見てみよう。一見デタラメのようでいて見事に歌の核心を突いた素晴らしい意訳。決してただのカバーでは終わらない、終わらせない、最後までヤンチャで子供の魂を失わなかった忌野の「イマジン」。

 

 天国は無い ただ空があるだけ

 国境も無い ただ(    )があるだけ

 みんながそう想えば簡単なこと さあ

 社会主義も (    )主義も (    )人も 貧しい人も

 (        )ならば 簡単なこと さあ

 (   )かもしれない でもその夢を見てるのは 君一人じゃない

 (         

 誰かを憎んでも 派閥を作っても 頭の上には ただ空があるだけ

 みんながそう想うさ 簡単なこと

 夢かもしれない でもその夢を見てるのは 君一人じゃない

 仲間がいるのさ

 夢かもしれない でもその夢を見てるのは 君一人じゃない

 夢かもしれない でも君一人じゃない 一人ぼっちじゃない

 違う 仲間がいるのさ 

 夢かもしれない かもしれない かもしれない かもしれない

 夢じゃないかもしれない 君は一人じゃない

 違う 一人ぼっちじゃない

 ・・・以下略

 

4.ボブ・ディラン(1941~)の一曲「風に吹かれて」

 ディランは1962年にデビューして以降、常に(           )的存在として注目されてきた。これまでにグラミー賞やアカデミー賞、ピューリッツァー賞特別賞など数々の賞を受賞し、「ロックの殿堂」入りも果たしている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」部門では第1位。ブルース・スプリングスティーンやジミ・ヘンドリックス、ルー・リード、日本の桑田佳祐ら数多くのミュージシャンに影響を与えてきたといわれる。

 「風に吹かれて」は1963年にリリース。ピーター・ポール&マリーのカバーで大ヒットとなり、作詞作曲したディランの名も一躍有名となった記念碑的一曲である。1963年は8月に(     )牧師の演説「I have a dream」の行われた(       )大行進で(     )運動が最も高揚した時期にあたり、この歌は公民権運動の賛歌と呼ばれた。他方で11月には公民権運動をバックアップしてきた(      )大統領が暗殺され、アメリカの行く末に暗雲が垂れこむ。以後、泥沼化した(      )戦争への反対運動の賛歌ともなり、P.P.M.以外にも数多くのアーティストがカバーして歌い継がれてきた。

 

 人はどれくらいの道を歩めば人として認められるのだろう?

 白い鳩はどれくらい海を越えれば砂浜で安らぐことができるのだろう?

 一体 どれほどの(    )が飛び交えば殺戮は終わるのだろう?

 その答えは風に吹かれて誰にもつかめない。

 

 山が崩れて海となるまでに一体、どれほどの時が流れるのだろう?

 人は自由になるまでに一体、どれほどの時を必要とするのだろう?

 真実から目をそらさなくなるまでに

 人は一体、どれほど顔をそむけるのだろう。

 その答えは風に吹かれて誰にもつかめない。

 

 どれほど人は見上げなければならないのだろう?

  本当の空を見るために

 どれほど多くの耳を持たねばならないのだろう?

  (        )が聞こえるようになるために

 どれほどの犠牲者を出さなければならないのだろう?

  その死が無益だと知るために

 その答えは風に吹かれて誰にもつかめない

 

5.ルイ・アームストロング「この素晴らしき世界」:プロテストしない「闘い」

 ルイ・アームストロング(1901~1971)はアメリカのルイジアナ州で貧しい居住区に生まれた。子供のころ、ふざけてピストルを発射し少年院に入れられ、そこで彼はジャズの世界と出会う。

 1923年に楽団の一員となってミュージシャンの道に入るが、公演先では白人と一緒のホテルに泊まれず、劇場の入り口も別々という(      )を体験。しかしトランペッターとしての卓越した技量に加え、持ち前のサービス精神、愛嬌のある笑顔と独特のハスキーボイスで人気者になり、「サッチモ」の愛称で親しまれた。

 「この素晴らしき世界」は1967年に発表されている。彼の晩年の代表作である。当時、次第にベトナム戦争が泥沼化し、翌年には(    )牧師が暗殺された。黒人たちにとって新たな辛い時代の始まりに位置する。白人からも人気のあったアームストロングはそれまで政治的な立場を鮮明にしてこなかったこともあり、過激化していった(     )運動の側からは白人に媚びる「裏切り者」という見方もされていたという。

 若くてクールに見えるマイルス・デイビスに対して陽気なアームストロングは卑屈に見えてしまったようである。しかしテレビ放映された1967年の彼を見たとき、彼なりの壮絶な「闘い」が密かにあったことが伝わってくる。ディランとはまったく異なる、一切(       )しない、静かで過酷な「闘い」…

 彼が後続の世代に託した思いとは何だったのだろう?

 

 緑の木々が見える。赤いバラも咲いている。私とあなたのために。

 そして私は思う。なんてすばらしい世界なんだって。

 青い空に白い雲。明るくうららかな日。暗く厳かな夜。

 そして私はひとり思う。なんてすばらしい世界なんだって。

 虹の色は空に映えて行きかう人の顔を照らす。

 友人たちが手を振って挨拶してくれる。

 本当は「あなたが大好き」って言ってるんだ。

 赤ちゃんが泣いている。彼らの成長を見守ろう。

 きっと彼らは私なんかよりずっとたくさんのことを学ぶんだ。

 そして私はしみじみ思う。なんて素晴らしい世界なんだろう。

 

その6. 心理学アラカルト(後編)

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

7.認知における錯誤

 知覚は刺激に対する直接的反応で知識等には余り左右されない「ボトムアップ」の現象です。認知は知識や予見等に大きく左右され、状況次第で結論が変わる=「トップダウン」の現象です。そしてともに不十分な情報に対して常に一種の推論を行っているという点が共通します。したがって認知面でも錯覚、錯誤は大いに発生する余地があるのです。

 認知的錯誤の例を一つあげてみましょう。「ほめたほうがよいのか、しかるほうがよいのか?」心理学的には「しかるよりほめたほうが効果は大きい」といいますが、スポーツの監督やコーチの経験では実感として逆の印象を持っていることが多いようです。つまりほめた後は成績が下がりやすく、しかった後は上がりやすいという印象です。どっちが正しいのでしょう?もちろん安易に結論は出せないでしょう。ただ監督やコーチらの経験に基く判断には錯誤が含まれている可能性が大きいのです。なぜならしかるときは選手が不調なときが多いからです。当然、不調から立ち直る局面が後日待っている時点でしかるのですからいずれ立ち直ります。つまり単純にしかる=立ち直るとはいかないのです。またほめるときは選手が好調のときが多いはずです。好調のあとには不調の波が訪れます。時系列的に見て因果関係があるように見えますが、ただ単に好調・不調の波が選手に訪れているだけかもしれないのです。

 どうやらヒトは本来無意味な事象にも因果関係を見出そうとする強い認知傾向があるようです。逆に言えばヒトは無秩序や意味の真空性を嫌うようです。そしてあたかも脳が盲点の空白を周囲の色で勝手に補填してしまうように、自分の言動の理由を手近なところから拝借していつの間にか適当に原因を創作してしまうのでしょう。

 池谷氏はこう指摘しています。脳は身体反応を介して一定の感情をアウトプットしているのですが、軽い身体運動をして心臓の拍動数を上げると感情が増幅されてしまうことが確認されています。様々な感情が身体面に表現される際のレパートリーは数少なく、心拍数が上がる、血圧が上がる、発汗する等。つまり「心拍数が多い」という事実だけでは怒っているのか悲しいのか、脳には区別できません。そこで心拍数が上がればとりあえず今の感情を増幅させてしまうことになるのです(例:吊り橋効果)。だから運動直後の感情は激しやすくなるといえましょう。怒りに燃えて何かをしでかしてしまったとき、その言い訳は大抵、作り話か誇張されたものに過ぎなかったりするのです。

 脳は自分の行動を観察し、身体状態を認知して心の内面を脚色してしまいます。脳にとってすべての情報は身体を通じて入ってきます。身体状態を脳が説明するための根拠は過去の記憶に求められます。記憶の曖昧さを考えれば脳の推論が正しいという保証はどこにも無く、「作話」が生ずる余地はあるのです。

※「夢を叶えるために脳はある」(池谷裕二 講談社 2024)より

 ダニング・クルーガー効果:できない人ほど自信過剰の傾向が見られる。これは一見すると「痛

  い」傾向だが、実は自信過剰気味の人ほど成長できる機会をつかみ易い、という考察もある。実

  際、心身共に健康な人ほど自分を過大評価するうぬぼれ屋であり、うつ病の人ほど自分を正しく等

  身大に見ているらしい。特に成長盛りの若者が多少、自信過剰気味であったとしても、それは健康

  的であることの証であり、大目に見るべきことなのかもしれない。

8.ベクション:自己運動知覚の錯覚

 錯視図形で体験したのはあくまで視覚における錯覚ですが、視覚以外の感覚でも様々な錯覚が生じます。たとえば日常的に体験するのがベクション。電車に乗っていてぼんやりと外を見ているうちに、まだ発車していないにも関わらず、突然動き出した…と感じて驚いたことはないでしょうか。実際に動いたのは反対側のホームの電車なのに、妙に生々しく自分が動いているように感じられます。つまり動いてもいないのに自己運動知覚が生じてしまっているのです。これは体感的錯覚と言えましょう。

特に揺れの少ない新幹線では頻繁にこのベクションにだまされます。列車が動き出したかどうかの情報がもっぱら視覚情報に限られたときにベクションが生じやすいそうです。特に視覚20度以上の広い視野に運動が提示されたときに自己運動知覚が生ずることが確認されています。したがって大画面のスクリーンに列車の運転席から前方を移した映像を流せば運転手並みの臨場感あふれる体験ができるはずです。これは自分が静止しているならば広い視野に見える光景は現実世界では背景として静止している確率が高いためにまず脳が勝手に静止していると判断。ところが静止しているべき光景が動いたときには自分が動いたからだと感ずることからもたらされる錯覚である、と考えられています。

 身体運動知覚は前庭器官(耳の奥にあるバランスなどを感じ取る器官)や各部位の筋肉からの情報も関与しているそうです。もし目隠しなどをして前庭器官だけの情報に限定した実験をしてみますと、加速度が検知されたときには自己運動知覚が生じますが、等速運動状態では感覚がなくなってしまうことが分かっております。

 たしかに飛行機に乗った際、安定して飛行しているときには運動知覚は生じません。視覚情報と前庭情報とを同時に提供して争わせる実験から、前庭器官はもっぱら運動の開始と終了(速度の変化)に関わり、視覚は等速運動中の自己運動知覚を担当していることも分かっています。ディズニーランドやユニバーサル・スタジオなどのテーマパークにある体感シミュレーターではこの前庭情報と視覚情報を巧みに組み合わせることでまるで宇宙船などに乗っているかのような体感を味わえるのです。前庭情報はイスの揺れや傾きなどでもたらされ、動き始めや停止、方向転換・落下・上昇の開始期に適度な強度と速度で与えられるといいます(次の加速度情報を与えるためにイスは意識できない程度にゆっくりと元の位置に逐一戻されているそうです)。

 これらの知識を応用すれば視覚情報を操作することで運動感覚を誤作動させ、身体の姿勢を本人の意思とは関わりなく、変えてしまうことができます。東京都科学技術館で体験できるもので「うずまきシリンダー」と呼ばれる装置があります。渦巻きが描かれた大きな円筒(シリンダー)がトンネルのように設置されてゆっくりと回転しており、円筒の中央に浮かんだ通路を歩いて中に入れるようになっていて手すりを伝いながら中に入ります。が、いつの間にか体が傾いてしまい、倒れそうになるという不思議体験。この現象は視野の回転運動が自己の身体運動で生じたと脳が解釈し、姿勢の安定化のために姿勢を傾けてしまう結果生じていると考えられています。一番奥まで来たらまっすぐに立ち正面を向くと今度は数秒で自分の体が回転して知覚されるベクションが生じます(もちろん目を閉じればこうした感覚は消失)。

 

9.催眠の科学

 かつては催眠といいますと手品かマジックのようないかがわしいものと思われ、「催眠術」という呼び方までありましたが、近年では催眠療法という治療法が確立してきてその効用が学会で認められつつあります。特に催眠にまとわりついている誤解、偏見としてよくあるのが催眠をかけられた人は相手の指示には何でも従ってしまうかのような、まさに魔術的イメージ。しかし実際には催眠をかけられる側の人が主体的に判断し積極的に相手の暗示に協力しないと催眠状態にすら至らないといいます。催眠にかけて相手の嫌うことを心ならずも行わせてしまうことはまず不可能といってよいでしょう。それにどんなに催眠をかけようとしてもまったくかからない人だっている(2割程度)ようです。

 催眠現象には二つの要素があります。一つは動作に関わるもので「からだの一部が勝手に動き出す」あるいは「動けなくなる」という現象。もう一つは目の前には無いものが「見えてくる」というイメージの操作。催眠によって、本来存在しない物の視覚的イメージだけでなく、触覚的イメージや嗅覚的イメージまで喚起できるといいます。そうした催眠現象を引き出すにはまず、催眠誘導がうまく行われなければなりません。実際、催眠をかけられる側からすれば、当初はどんなことをされるのか…等の不安で一杯であることが多いといいます。そうした不安を少しでも和らげ、暗示を素直に受け入れられるような精神状態に持っていくのが誘導の手始めとなります。そのためにも催眠現象への理解と興味関心がなければならないのだそうです。

 日本の催眠療法の権威である成瀬悟策氏は、人の日常生活における「努力」(=

意志の力)はそのすべてを明確に意識できてはいないのだといいます。むしろ意識していない、無意識の「努力」によって人の日常生活は多く、支えられており、意識できているのはまさに氷山の一角でしかありません。そこに気付けば多少奇妙な暗示に対しても心を開いて受け入れることができるようになるはずです。そして催眠を受けることによって人はさらに意識下の努力=パワーを活性化できるようになるのだというのです。

 被暗示性が高い時ほど人は催眠にかかりやすいといいます。被暗示性を高めるにはまずくつろいだ雰囲気や気が散らないような室内の条件を整えることから始めなければならないようです。さらに本人が心身ともにリラックスできるとともに自分の内面に集中できるよう、仕向ける必要があるそうです。本人の「やる気」と被暗示性が高まったところで催眠誘導暗示が行われます。一つのことに集中させて単純なことを繰り返させ、前頭葉の働きを鈍らせることが基本パターンです。

 有名なものでは「凝視法」があるそうです。壁に向かって椅子に腰掛け、眼よりもやや高い位置に固定した小さな光る対象を上目づかいに凝視させ、「じっと見つめていると、だんだんまぶたが重くなって下がってくる。そのうちにまぶたが自然に閉じてしまう。」という趣旨の暗示を繰り返すものです。「目を開けようとしてごらん」と言い、目が開けられなくなっていればほぼ催眠状態=トランス状態に入ったと判断されます。うまく行けば次は認知催眠の段階に入ります。触覚や味覚のイメージが比較的早く暗示に反応しやすいようです。なおこの段階で食べ物の好き嫌いを直す暗示をかけることも可能であるといいます(ただし暗示の効果はフォローが無いと二週間ほどしか続かないといいます)。

 さらに進むと究極的段階である人格催眠となります。ここでは自分の人格を忘れさせ、さらには名前までも忘れさせてしまいます。次いでまったくの別人になるよう暗示されたり、年齢退行させたりします。これは心的外傷体験(トラウマ)の発見と解決をはかるために有効な催眠といわれます。ただし催眠によって本人の過去をありのままに再現できるわけではありません。あくまでも現在の本人が当時をどう感じているのかを知ることができるだけです。むしろそうであるからこそ、治療に有効なのだとも考えられています。

 催眠中の人の知覚や思考力などは覚醒中に比べて数段低くなることが確認されています。しかし能力が増大する旨の暗示をすると被暗示性の高い人の場合、記憶力などの能力が向上するといいます。このようなときには脳波も覚醒時と同じであるようです。当然、催眠などによって意識下のパワーが活性化されれば、スポーツなどでも大きな威力を発揮することになるでしょう。すでにリラクセーションの方法としての簡単な自己催眠法(自律訓練法etc)や集中力を高めて能力を最大限発揮するための自己暗示、呼吸法などはプロスポーツの世界に限らず、メンタルトレーニングとして頻繁に応用されています。

※明治大学の齋藤隆教授は短時間でリラックスできて集中力を高める丹田呼吸法を推奨しています。20

 秒ワンセットの腹式呼吸法です。まず3秒間で鼻から息を、腹が膨らむよう、吸い込みます。次に2秒

 間、息を止めます。その後、15秒間で息を口から吐き出します。コツは最初に息を吐き切ること。吐

 き切ることでわずか3秒でも十分な空気の量が肺に入ってくるはずです。15秒も息を吐き続けること

 は難しいように思えますが、しばらく練習してコツさえつかめばたちまちできるようになるでしょ

 う。20秒ワンセットを数回繰り返せれば十分な効果があるといいます。呼吸法なので場所を問わず、

 道具も不要。齋藤先生は大阪の高校で生徒にこの呼吸法を行わせ、クレペリン検査の成績を劇的に向

 上させることができたといいます。

 

10.その他の小ネタ

コントラフリーローディング効果

 入会儀礼は緩やかな方よりも厳しい方が入会後の会員の定着率が高くなる傾向。これも認知的不協和理論で説明可能。例:バンジージャンプ

 脳は労せずに手に入れた(フリーローディング)ものよりも、何らかの対価を払って苦労して手に入れた方を好む。これはネズミでも観察可能。

 例:2種類の方法を併用してネズミにエサをやる

  ・エサを皿に入れておいて好きなときに食べられる

  ・レバーを押すとエサが出てくる仕掛け

   レバーを押してエサを食べる方の頻度が皿の中のエサを食べるよりも大

   ただし例外なのはネコ

   ※定年症候群

「上流階級バイアス」:金持ちほどマナーが悪い!

 例1:高級車と大衆車まで車のランクを五つに分けて交通規則を守れているかどう

  か観察。

 →横断歩道で手を挙げている歩行者を待たずに通過してしまう率

  普通車・・・35%

  高級車・・・47%

 交差点で相手の車を待たずに割り込む率

  普通車・・・12%

  高級車・・・30%

 例2:ボランティアをして募った参加者に就職試験の面接官になってもらう。面接

  官は就職希望者と交渉しながら相手の給与を決定。就職希望者は長期的で安定し

  た職を求めているが、ここで募集しているポジションは近々廃止予定である。は

  たして面接官はそのことを正直に相手に伝えるか否か?

 →下層階級の面接官は正直に伝える傾向があるが、上流階層の面接官はその事実を

  隠す傾向。

 例3:自分を「社会的地位が高い」と思ってもらい、さらに「金欲があることは悪

  いことではない」と思わせると・・・

  下層階級の人ですら貪欲で非道徳的となり、かつ尊大な態度を示すように

  その程度は上流階層の人よりも酷いものに。 

③「熟慮の悪魔(The Devil in the Deliberation)」

 寄付をする前にじっくりと考える人は寄付金の金額が低く、素早く寄付した人は多額の寄付をする傾向がある。

 またじっくりと考える人に「速く判断してください」というと寄付率が高まり、逆に判断の速い人に「じっくり考えてから判断してください」と促すと寄付率が下がってしまう傾向が見られた。

他の例:試験で選択に迷ってじっくりと考えると間違った解答をしてしまう。

    スポーツで自分のフォームを意識しすぎると失敗してしまう。

 人は直感的に動くときは全体に利する行動をとる傾向があり、逆にじっくりと考えるほどに利己的な行動をとりがちになる。

④「内発的動機付け(Intrinsic Motivation)」

 アメリカの陸軍士官学校の生徒に志望動機をきいたところ、10年後に出世していたのはどちらの理由を挙げた人?

 A:技能や素養を身に付け、将来は将校となって貢献したい

 B:軍隊での生活が楽しそうだから

一見すると将来に明確なビジョンがあった方がモチベーションは高まるように思え、また目標は数多くあった方が良いように思えるが、単純にBと答えた方が将校に出世する率は15%ほど高かった。自分の行動に理念や目的などを添えて理論武装する人ほどあまり成功しない。「好きだから頑張れる」で十分。

⑤「リアクタンス(Reactance)」

 禁煙エリアでタバコを吸っている人がいる。どのように注意したら効果的か?

 A.周りの人への迷惑になりますからお控えください。

 B.こちらは禁煙エリアになっております。

 脳は自己主体性があると思い込んでいるので他人から指示されることが嫌い。 「・・・をしてください」「・・・をやめてください」と言われると「何の権利があって私に指図しているのか」と反発したくなる。この心理的傾向をリアクタンスと呼ぶ。しかし「規則で決まっています」という表現は命令する主体が人ではなく、社会的合意となるのでリアクタンスは弱まる。「禁煙席」「禁煙ルーム」などの掲示はリアクタンスを弱める効果がある。しかしルール任せにすると弊害も生ずる。「ルールに違反しなければ何をしてもよい」という態度を生み出し、かえってモラルが低下することも。これを「合法バイアス」という。職場や家族、友人、恋人同士などでは、何となくうまくいっているときにはルールを作らない方が良好な関係を保てる

⑥「自我消耗

  実験:二つのグループにお笑い番組を見せる

   Aグループ:普通に笑わせておく

   Bグループ:笑うことを禁じる

  番組終了後、ハンドグリップを力いっぱい握らせる。どちらのグループが

  長く握り続けられるか?   答え:Aグループ

 忍耐力は筋力と同様、有限な資源なので何かを我慢した後は持久力が減り、やる気や道徳心まで薄れてしまう。午後は午前よりも20%もウソをついてしまう。ただしブドウ糖を摂ると脳は回復する。

⑦「自己知覚

 人の感情は顔の表情で左右される。落ち込んでいても無理やり笑顔を作ると少しだけ明るくなれる。また顔の表情よりも体の姿勢の方が感情を左右できるので落ち込んだ表情のままでもガッツポーズをとると元気になれる。

⑧「認知的不協和

 自分が好きになった相手に好意を持ってもらうには相手の仕事を手伝うよりもどちらかというと自分の仕事をその相手に手伝ってもらうと良い。自分が手伝ってやっているということはおそらく自分は相手に好意を持っているに違いない・・・

 →手伝った相手が好きになる

⑨「モラル正当化効果

 人は自分がモラルの守れる人間だと自認してしまうとその後、反モラル的な行動をとりがち。「善行後の悪行」「ダイエット後のリバウンド」

 →自分が素晴らしい、立派な人間だとは思わない方が良い。

 

11. 学習心理学入門(古)

はじめに

 昨今の急速な大脳生理学の進歩によって、かつては哲学や文学などでひたすら観念的に探求されるだけであった心の働きも、今や物質的な根拠を得て科学的、医学的な観点から大幅に解明されつつあります。かつて話題になった「イノセント」などを見ても、やがてロボットにも人間の心が宿るほどに心のメカニズムの解明は進んでしまうのかもしれません。100年ほど前、心の闇に科学的探究を試み、当時は画期的ともてはやされたフロイトの「無意識」に関わる仮説もその一部が現在では非科学的として否定されるようにもなりました。

 しかしまだまだ心の世界は奥深く、現在の科学をもってしても精神の働きは複雑怪奇で謎に満ちています。そこで心理学者のなかには科学的探究を試みるにはあまりにも複雑微妙な心の世界をあえて直接には研究対象とはしない、禁欲的(?)一派が出てきました。彼らは心そのものを探求する精神分析学とは異なり、あくまで科学的実証にこだわりました。生物学や医学等の知見を利用して科学的探究が可能な領域からまるで遠巻きにするように「心」の世界へとアプローチしようとしたのです。モヤモヤとしてとらえどころのない「心」よりも、客観的に観察でき、計測も可能なヒトや他の動物の行動をもっぱら研究の対象とする、いわゆる比較行動学という立場がそれです。今回は行動主義の立場から得られた知見を基に、学習がどのように成り立つのかを探ってみましょう。授業の核心的テーマである「自分」というものの成り立ちは過去の学習活動の集積そのものとも考えることができるからです。

①   ヒトとサルの違い…比較行動学(比較心理学)より

 ヒトとサルとの決定的な違いとは何だろう?それはヒトが直立の姿勢で二足歩行できるという点にあるといわれている。数百万年前、地上に降り立ったサルとも言われる我々の祖先は長い樹上生活のなかで直立を可能とする骨格をすでに獲得していたという。その結果、背骨が受け皿となって大脳の発達が可能となった(樹上生活を中途半端に終わらせて人類より早く地上に降り立ったヒヒの類は頭蓋骨と背骨との角度から大脳の発達が制約されたため、イヌと同様の四足歩行を余儀なくされた)。

 また二足歩行によって移動の労役から解放された二本の手は道具の製作と利用に向けられるようになり、知性と文明の発達に大いに貢献したと考えられている。

 しかしその宿命として人類は腰痛と難産に悩まされることにもなった(大脳の発達によって大きくなっていく赤ちゃんの頭蓋に対し、二足歩行によって産道はどうしても大きな制約をこうむる)。

 A.ポルトマンという学者は人類が生理的早産のかたちで生まれてくると考えた。彼はまず動物を離巣性(りそうせい:多くの地上で生活する哺乳類があてはまり、生まれてすぐに立ち上がり、歩けるようにならないと巣が無いので捕食されてしまうため、成獣のミニチュアとして生まれてくる)と就巣性(しゅうそうせい:多くの鳥類にあてはまり、巣があって親にも守られ、捕食者の餌食になる可能性が低いため、未成熟なまま生まれてくる。また未成熟なだけに可塑性を残し、(※)インプリンティングのような初期経験がその後の成長にとって決定的な影響を及ぼす)の二つに大別した。

 人類は地上で生活する哺乳類でありながら、就巣性の特色を持ち、生まれた当初は親無しでは生きていけない、未熟な仔として生まれる。しかし大脳を含めて未完成なまま生まれてきたおかげでヒトは生後に多くのことを学習して身に付ける余地をたくさん残しているのである。またヒトの仔の無力さによって母親は育児にかかりきりとなり、反対に父親は狩猟採集に赴いて家族を養うという役割分担も生まれてきた。多くの動物の「父親」が実はただの種付けオスに過ぎないことも考え合わせると、父親らしい父親の出現もまた人類からということになろう。

インプリンティング(刻印付け):ノーベル賞を受賞したK.ローレンツが「ハイイロガン」などの大

 型の鳥類で発見した、生得的な行動のメカニズムの一つ。「ガン」などの大型鳥類は卵から孵化した

 ときに最初に見た動くものを自分の親と認識してしまうという有名な研究がある。

 

 なおヒトもサルから進化してきたからにはサルとしての特性も残されており、特に生まれたばかりの赤ちゃんに見られる生得的反射行動にはサル時代の名残が見られる(たとえば生まれたての赤ちゃんは非常に握力が強いというモロー反射)。とはいえ大脳の発達によってヒトの行動の自由度は増大しており、他の動物に多く見られる生得的で機械的な反射行動は人類ではむしろ退化・縮小して影を潜めつつあるという。

 K.ローレンツは大脳を中心とする人類の進化を手放しで賛美していない。二度の世界大戦を生きた彼はヒトがサルから進化を遂げてきた過程で大切なものを失ったのではないか、と疑念を投げかけているのである。久しくヨーロッパで凶暴な野獣のシンボルとして嫌われてきたオオカミのような肉食獣は仲間内でのケンカによる殺し合いを避けるため、攻撃行動を抑止する生得的な行動パターンを発達させてきたという。このため同類での殺し合いはめったに起こらないらしい。

 ところが平和のシンボル鳩などの非力な動物では通常の条件ではケンカしても片方が逃げ去れば殺し合いには発展しない。彼らは逃げ去るだけの俊敏性は身に付けているため、結果的に攻撃行動を抑止するメカニズムを発達させてこなかったという。だからオリやカゴの中で彼らのケンカを放置してしまうと相手が死ぬまで攻撃をやめようとしないのだそうだ。「同類同士を殺し合ってきた」人類の残忍な歴史をひもとけば人類も後者の動物に属するのではないかというローレンツの危惧は今も十分に傾聴に値しよう。

 

①   学習のメカニズム…学習心理学より

 ペットの躾をどうするかで困っている人達も多い。サーカスの動物達のように見事に調教され、洗練された演技をみると、一体どうやって調教しているのか覗いてみたくなる。行動主義ではヒトの学習も動物達の調教と同じような原理で成り立っていると考えた。したがってまずは「調教」と「学習」とを区別しないで調教(学習)の成り立ちを見てみる。

 行動主義はI.P.パブロフが唱えた条件反射説などに基づいて発展してきた学習理論を柱としている。パブロフはイヌがヨダレをたらすという生得的反射も学習によって操作できる側面があることを実験で確認した。イヌはエサを見るとヨダレをたらすが、彼はエサを見せると同時にベルを鳴らしてみた。しばらくしてベルだけを鳴らしてみたら、イヌはエサが無いのにヨダレをたらした。この発見を基にある行動(=学習内容)と報酬(イヌのエサに相当するもの)を繰り返し対呈示(ある行動と同時ないしは直後に報酬を与える)することである行動の出現頻度を増加させることができるとし、逆に罰を与えればある行動を減少させられるという説。いわゆる「アメとムチ」の調教と同じ理論である。動物に複雑な芸を調教するには初歩的な動作から段階的に複雑な芸へとこの条件付け学習を積み上げていけばよいことになる(シェイピング)。なお、報酬はある行動に必ず与えられるよりも、不連続で与えられる方(間歇的強化)が行動の出現頻度をより高めることを確かめた実験もある。「バクチ」が古来、人類最大の娯楽であることの理由もこれで説明できよう。

※逆にランダムで犬に電気ショックを与え続けると何事にも「無気力」なイヌになってしまうという実

 験もある。ヒトもまた失敗が続いたりして無気力になったりするが、行動主義の立場ではこの「無気

 力」も学習されたものとみなし「学習性無力感」と名付けたりする。

 

 もちろんヒトの場合には他の動物と違ってエサよりも言語的報酬(ほめる…)のほうが行動の強化につながることも多い。「しかるより、ほめろ」とか「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」などと昔から云われて来たようにヒトは特にほめられることでより学習の効率を高める…これはもはや常識であろう。

 しかしある学者が大学生にパズルの課題をやらせて、半数の学生には成績によってお金を与え、残りの半数には何も報酬を与えないという実験をしてみたところ、報酬をもらった学生の方がパズルへの興味を失ってしまったという。おそらくお金をもらったことでかえって他から「やらされている」と感じるようになったのが、興味を失った大きな原因であろう。やはりヒトは他の動物とは違って単純には「調教」できないのである。ヒトの「学習」は確かに「アメとムチ」の条件付けに基礎を置いてはいるが、それよりもはるかに高度で複雑なシステム=心との密接な関係性を持ってしまったがために、ヒトの学習自体も複雑な原理で成り立つように進化してしまったと考えられる。要するにヒトにとって何が「アメ」で何が「ムチ」なのかは、他の動物の基準とは多少異なってきたばかりでなく、個体によってもその基準は異なるようになってしまったのであろう。

※人間が社会的動物であることに注目して、第三者からの直接的な報酬が確認できなくとも学習が成り

 立つ可能性を指摘する学者(A.バンデューラ)もいる。身近な大人等の言動をまねて子供が様々なこ

 とを身に付けていくことは我々も経験上、よく知っていることである。バンデューラはテレビの暴力

 シーンが子供の粗暴な行為を招いていると警告を発したが、その真偽はともかくとして、彼のいう

 倣による学習も学習成立の原理の一つではあろう。

参考動画

【200以上の研究から評価した効果的な勉強法】線引き・読み直しで暗記はNG/テ 

 ストは学びを生み出す道具である/スタンフォード・星友啓氏が解説 【EDUCATION SKILL SET】PIVOT 公式チャンネル  2024/07/09  34:41

【勉強は才能よりやり方で決まる】記憶を定着させる「メタ認知」と「ハイパー修

 正効果」とは? / 勉強は「教える想定で学ぶ」 / 日常生活でメタ認知を上げるに

 は?【EDUCATION SKILL SET】

 PIVOT 公式チャンネル 2024/07/16  33:11

 最新の効果的な学習法を知ることが出来ます。

【スタンフォード式子育て】最新の脳科学・心理学200以上の研究論文に裏打ちさ

   れた子育てメソッド/最新研究から分かった 音・映像教材の効果/「しつけvsのび

   のび」子育ての科学的答え   PIVOT 公式チャンネル 2023/10/24  37:26

「記憶の苦しみをなくす」日本発の“記憶”アプリは学習を変えるか?

 【橋本幸治の 理系通信】 2022/09/30 テレ東BIZ 8:29

[NHKスペシャル] 脳内物質オキシトシン・人間の本能に潜む二面性 | 

 ヒューマンエイジ 人間の時代 第2集 戦争 なぜ殺し合うのか |

 NHK 2023/06/23 4:39

 愛情ホルモンの異名を持つオキシトシンが持つ二面性に注目。この内容は愛国心、愛郷心、同胞愛の持つ危うさを科学的に立証できる可能性を示唆しており、社会科の知識としても大いに注目される話題。

 

12.個人と社会:社会心理学より(古)

はじめに

 人の性格や行動は一人でいる時と、集団でいる時とでは違ってしまうことが度々ある。このことは今や、周知の事実である。たとえば普段はどんなにおとなしく紳士的な人であっても、いったん群衆の中に入ってしまうと場合によっては自己を見失い、暴徒の一員にもなりかねない。サッカーにおけるフーリガン騒ぎはまさにこうした群集心理のなせるわざであろう。しかしこのような集団特有の心理状態に関する研究が本格的に発展したのは第二次世界大戦後のことに過ぎない。研究の大きなきっかけとなったのは世界中の耳目を集めたナチスによるユダヤ人らへの大量虐殺であった。ポーランドのアウシュビッツ収容所は世界遺産に認定されている。「勤勉で生真面目」といわれたドイツ人が一体なぜ?そもそもなぜ彼らはヒトラーの命令に逆らえなかったのか?残虐行為に対して罪の意識はなかったのか?彼らはどのようにして洗脳されてしまったのか?これらの疑問を解決するため、戦後、多くの学者が研究に乗り出したのである。

 インプリンティングの発見などを通じて動物行動学を確立したK.ローレンツは同類に対する攻撃行動を「ハト」と「オオカミ」とで比較してこんなことを指摘している。牙や鋭い爪を持つオオカミはお互いに深手を負わせないために、同類に対する攻撃行動を自動的に制御するシステムを発達させていった。従って仲間同士のケンカで殺し合いに発展してしまうことはまず無いという。ところが身体に強力な武器を持たず、素早く逃げ去ることのできるハトのような動物は、もともと仲間同士のケンカが殺し合いに発展する可能性は無いため、オオカミのように攻撃行動を制御するシステムを発達させることもなかった。従って、ハトの場合、仮に鳥かごに入れられた状態でケンカが始まってしまうと、どちらかが死ぬまでケンカを続けてしまうことになる。「平和」のシンボルであるはずのハトが同じ仲間に対して見せる、冷酷さ。その一方で凶暴なイメージのつきまとうオオカミが同類に示す、平和的解決のシステム。さて人間はどちらのタイプに近いのか?どうやら人間は「ハト」型の動物ではないか・・・というのである。

 動物学以外でこの問題に真正面から取り組んだ学問の一つが社会心理学であった。ドイツ人に限らず、どんな人間であれ、特定の組織や集団の中に組み込まれると「冷酷な殺人鬼」にもなりうることを、実験によって証明してきた功績は大きい。 

 以下、歴史的にも有名となった実験をテーマ別に紹介してみよう。

(1)服従と同調の心理

アイヒマン実験:S.ミルグラム(ユダヤ系アメリカ人)

  テーマ「人はどこまで残酷な命令に従い続けるのか?」

 実験の概要;実験の対象者は20~50歳の男性で「暗記学習に与える罰の効果」の実験だとだまされ、生徒役(実はサクラ)が単語を覚えられないと罰として電気ショックを与えるよう、命じられている。生徒役は気付かれないようにわざと間違えて、電気ショックをくらうが、実は電気は流れていない。実験者は生徒役が間違えるたびに教師役の実験対象者に電気ショックの電圧を上げるように命令する。生徒役は電気ショックを受けた振りをして悲鳴を上げる。300Vでは壁を激しくたたくなど苦悶、以後は気絶したふりまでするが、40人の教師役とされた実験対象者の内、なんと26人=65%もの人が最後まで命令に従って電圧を上げ続けた(450Vは命にもかかわるほどの高電圧なのに・・・)これは精神医学者達40人の予想(せいぜい0.1%)を大きく上回る、衝撃的な数字であった。

 一連の実験で命令への服従を高める条件として、命令者の権威の高さや命令者の近接などが確認されている。

 ※アイヒマンはナチスにおけるユダヤ人絶滅計画の実務上の責任者

アッシュのパラダイム

  テーマ「個人はどこまで集団に流されるか?」

  実験の概要;実験の対象者は各グループに一人だけ。そこにそれぞれサクラ6~8人を加えてグループを作り(全員男子大学生)、「錯視の実験」と偽って線分の長さを比較させる課題(12回)を出す。簡単な課題なので最初は100%近い正答率となるが、途中からサクラが全員間違い始める。誰もが間違いそうにないほどの簡単な課題なのに、サクラにつられて正答率が63.2%まで落ち込んでしまった。孤立することへの恐怖感が自己の信念までも曲げさせてしまう力を持つことが確認。

 

(2)「罪」と「責任」の心理

「因果応報」実験:M.J.ラーナー

   テーマ「人はなぜ残虐行為を見過ごすのか?」

 実験の概要;実験対象は29人の大学生。「ストレス下での人の行動」と題したビデオを視聴。ある人物が暗記学習の課題をこなせずに電気ショックを受けている場面が続く。視聴後、三つのグループに分けられて、ビデオの登場人物についてそれぞれ異なる説明を受ける。一番目のグループはビデオで電気ショックを受けている人が後で謝礼をもらっていると言われ、二番目のグループは電気ショックがただの演技であると言われ、三番目のグループは謝礼無しで不当にも電気ショックを受けていると説明される。その後、各グループともビデオの登場人物に対する人格評価を行ってもらうと、不思議なことに三番目のグループだけが電気ショックを受けた人物の人格を魅力の無い、劣ったものと評価した。

 この結果からラーナーは、いわれなき不幸に見舞われた人を見ると「公正な世界」についての信念(悪いことをすれば罰せられ、良いことをすれば賞賛されるはずである・・・といった思い込み)がぐらつくので、電気ショックを浴びせる実験者ではなく、不幸に見舞われた人の方に何か善からぬ原因があると考えることで、公正さの信念を守ろうとするのだと論じた。  

 →ユダヤ人への根強い偏見、残虐行為に対する傍観

社会的手抜き理論の実証実験:B.ラタネ

   テーマ「人はなぜ冷淡な傍観者となってしまうのか?」

契機;1964年の「キティ・ジェノヴィーズ事件」。38人もの目撃者がいたにもかかわらず、30分間、助けを求めていた若い女性がアパートの駐車場でめった刺しにされて殺害。その間誰も助けに行かぬどころか警察に通報すらしなかった。

 →世界中に衝撃

実験の概要;幾つかに分けられた小部屋のうち、ひとつの部屋にはサクラ、他の部屋には実験対象者がいて「非対面の匿名の相手とのコミュニケーション」に関する実験だと言われる。彼らはヘッドホンを付け、マイクを使って別の部屋にいる相手と会話するよう指示される。その際、二人だけで会話するグループと三人で順番に会話するグループ、六人で順番に会話するグループに分けられる。会話がしばらく進んだ頃に、一人=サクラが「ああ・・・発作だ・・・誰か助けて・・・」とうめきながら助けを求める。実験対象者は全員、ヘッドホンを通じて助けを求める声を聞いている。

 サクラが発作中、小部屋から出てきた(援助行動をとろうとした)実験対象者は二人グループでは85%、三人グループで62%、六人グループではたったの31%であった。つまりその場に居合わせた人数が多いほど「誰か他の人が助けてくれるだろう」と考える人も増え、実際に援助行動をとる人が減ってしまう傾向がうかがえた。これを責任の分散=社会的手抜きと言う。特に個人の評価が困難な場合(個人の責任が問われにくい場合)に生じやすい現象。 

※綱引き実験:集団で競わせると個人が発揮する力は集団の数が多くなるにつれて減少する傾向にある

 ことを確かめた実験。これは傍観者の心理を説明するだけでなく、集団による犯罪行為に加担する者

 の心理をも説明している。かつてビートたけしが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉を

 はやらせたが、それはまさに「責任の分散」で説明できよう。   

参考文献

「集団はなぜ惨酷にまた慈悲深くなるのか~理不尽な服従と自発的人助けの心理学

 ~」:釘原直樹 中公新書 2025

 戦後まもなく行われた社会心理学の実験に関しては近年、実験手法やデータについて多くの疑念が生じており(特にジンバルドの監獄実験)、授業での取り扱いが難しくなっている。この本はそうした状況の中で比較的、中立な立場からバランスのとれた、最新の論述となっている。

参考記事 

豊かな社会をもたらす健全な「社会的アイデンティティ」とは

 Forbes JAPAN | magazine の意見 2023.7.15

看守と囚人に分けると性格が変わる「スタンフォード監獄実験」は、実は嘘? 科学

 の根深い腐敗を探る一冊 ダ・ヴィンチWeb によるストーリー 2024.4.29

参考動画

【人はなぜ裏切るのか?】小学生でもわかる・囚人のジレンマのパラドックス

    ぶーぶーざっくり解説【小学生でもわかる科学】 2024/04/19  21:49

    アニメを用いた面白くて分かりやすい動画でイチオシ。

疑似科学!~これからの科学との付き合い方とは?~ | ガリレオX第52回

 ガリレオ Ch  2022/11/14  25:47  2013年5月放送作品

 相関関係と因果関係の取り違えによる疑似科学、未成熟科学と疑似科学との差異に注目したい。

 

 

 

武士道と日本文化

 

参考動画

『侍の強い意志に恐怖した』”Shogun将軍”での描写が話題に

   頼むぜエディタ 2024.3.16 842

「SHOGUN 将軍」を観た感想を英国人の相棒に聞いてみました。|   

   SavingJapan  with terror & Magnificence. Hiroyuki Sanada

   英国の小さな島に住んでいます  2024/11/19  17:42

ドラマ「SHOGUN将軍」各キャラクターをどう思ったのか英国人の相棒に聞いてみ

   ました。英国の小さな島に住んでいます  2024/12/10  16:47

 2024年、世界中に大きな反響を呼び起こした「SHOGUN 将軍」についてのイギリス人による深い洞察に満ちた語り。欧米と日本との価値観の違いを武家の主従関係に焦点を絞って考察している。

 

 今回も20年近く前に作成した授業プリントのご紹介。データが古いですが悪しからず。また空欄はご自分で埋めてください。

 

・「武士道」と日本文化

  )組(  )番(         

・はじめに

 10年程前のことであるがトム・クルーズ主演の映画「ラスト・サムライ」のヒットのおかげで100年以上前に出版された( 新渡戸 )稲造の「武士道」(1899年)が突然売れ出したという。日本文化といえばかつて欧米では「 フジヤマ ・ゲイシャ」とか「 ハラキリ ・サムライ」といわれたようなステレオタイプの紹介が多かった。最近でこそ姿を消したが、かつて欧米の教科書では変な和服を着て「まげ」を結った「芸者」風の女性が日本のどこの家庭にもいるかのような、時代錯誤もはなはだしいイラストで日本を紹介していたこともあったのである。欧米の人にとっての日本に対するイメージは幕末での印象が強烈であったためか、なかなか江戸時代のイメージから抜け切れていないようである。たとえば美術の面でも( 浮世絵 )がいまだに日本を代表する絵画とされ、葛飾北斎が日本を代表する画家としてたびたびクローズアップされたりしているのだ。

※欧米の切手の図案を見ても浮世絵によってもたらされた江戸時代の日本のイメージが現在に至るまで

 いかに強固であるかがよくわかる。(←「外国切手に描かれた日本」内藤陽介 光文社新書 2003)

 長らく「鎖国」政策によって「ワンダーランド」と化していた日本に19世紀中頃、はるばるやってきた欧米の国々が目にした日本とは確かに末期とはいえ武士の時代であった。「ハラキリ・サムライ」という表現からは当時の欧米人がいだいた「野蛮」で命知らずの日本武士への畏怖の念がストレートに伝わってこよう。1868年、土佐藩士が堺でフランス兵を11人殺害、5人を負傷させた事件が起こった。憤慨したフランス側の要求に応じて土佐藩士20名の( 切腹 )が始まったが、立ち会ったフランス軍の大佐はそのあまりの凄惨さ(最初に切腹した藩士は十文字に腹を切った後、内臓をつかんでフランス人の方へ投げつけたという)にたじろぎ、11名までで処刑を中止させたという有名なエピソードがある。当時の武士たちのこうした振る舞いは鮮烈なインパクトを欧米に与え、日本という国のイメージ形成に決定的な影響を与え続けたと思われる。

 アジア・太平洋戦争末期に日本軍がとった「万歳突撃」や「特攻」、「自決」などもかつて自分たちを震え上がらせた「侍」魂の復活と欧米人には見えたに違いあるまい。もっとも現代の日本人にとって「ハラキリ・サムライ」はテレビ等での時代劇の衰退もあってあまり身近な事柄とは言えなくなってしまった。しかし「ラスト・サムライ」のヒットぶりを見ると、海外から見た日本らしさを知るためにも江戸時代に確立した武士の生き様を振り返ってみたほうがよさそうである。そこで今回は「ハラキリ」とその底流に潜む「武士道」とは何かを概観し、日本人が捉えた「武士道」と映画「ラスト・サムライ」に見られる欧米からみた「武士道」との異同にも着目してみようと思う。

 新渡戸稲造の「武士道」:新渡戸稲造(1862~1933)は第一次世界大戦後に設立された( 国際連盟  )の初代事務局次長となり、東洋と西洋との融合、調和を目指して「太平洋の懸橋」たらんとした稀有の国際人として有名な人物である。

 津田梅子  )と交代するまでは5000円札の顔であった。

 彼はアメリカ滞在中に米人の妻とのやり取りのなかで日本の精神的文化の柱と捉えていた武士道を欧米に紹介し、西欧のキリスト教文化と日本の武士道との共存、共栄を図る必要性を痛感した。その結果、苦心して英文で著したのが「武士道」(1899年)である。欧米に限らず、日本の精神的文化を知る上で欠かすことのできない名著として広く世界に読み継がれてきた。

1.「ハラキリ」とは?

 武士道の美学は武士の( 死)を恐れぬ潔い死に様に象徴されると言われている。したがって切腹はそうした武士の勇気と( 忠義 )を示す最高のチャンスでもあり、死に臨んでは何らのためらいも許されるものではなかった。まさに「武士道とは( 死ぬ )ことと見つけたり」(「葉隠」)なのである。

 新渡戸稲造によると切腹とは「武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖(あがな)い、若しくは自己の( 潔白 )を証明する方法」であり、「感情の極度の冷静と態度の沈着となくしては」実行できない、いかにも武士にふさわしい「洗練せられたる自殺」だったとしている。つまり誇り高い武士にとって切腹とは

 名誉 )ある自死の手段であったのだ。なお戦国時代には戦いに敗れた大将が切腹すれば家来の命は助けられるという暗黙のルールまであったという。当然、藩主などからお咎めを受けたりした場合、武士ならばただの処刑ではなく、自ら切腹することを望んだ。もしこれが受け入れられずにただの処刑と決すれば大変な恥辱となるため、(「藩命は絶対」ではあったが…)武士は一族郎党率いて藩主などに逆らい、屋敷にたてこもることすらあった。このため江戸時代において武士は余程の場合(上意討ち…)を除き、最後まで名誉を重んじて切腹させるのが死刑の通例であったという。またたとえ斬罪の命が出ても処刑される前に切腹して果てることも多かった。反対に庶民はみせしめのために「火あぶり・磔( はりつけ )・死罪(切腹無しの斬首)・獄門・鋸引き」などバラエティーに富んだ死刑が執行されていたのである。ただし自殺の手段としては庶民もまた名誉ある切腹を選ぶことが多かったという。

 ではなぜ切腹という方法が武士にとって名誉ある死に方なのだろう?

 まず考えられるのは、武士に最も要求される資質として( 武芸 )に長ずることが挙げられ、武勇を誇示することを信条とした武士が自死を余儀なくされたときに最も武勇を要する切腹という形式を好んでとるようになったこと。また自らの潔白を示すための切腹の場合には腹部が霊魂と愛情の宿るところとの観念(←「腹黒い」「腹を割って話す」…)から、その真心を示すために腹を切るとする見方もある。この場合には内臓を露呈させる習いであった。

 武士の時代=( 中世 )の始まりと共に切腹の歴史もスタートしたが、江戸時代には切腹が洗練され、制度化されていった。戦国時代までは敵に生け捕りにされれば( 斬首 )が普通であったが、武士身分が確立する江戸時代には刑罰として本来なら斬罪のケースでも切腹が一般的になったのである。そもそも( 自立 )志向の強かった中世の武士達は切腹を命じられても素直には従わず、逃亡して他の主君に仕えることも普通にできた。

 しかし江戸幕府が成立すると多くの武士は領地を取り上げられて経済的な自立性を弱められ、組織に属さないと生きてゆけなくなった。つまり組織の長である主君から死ねと言われれば一族のためにも死なざるを得なかったのである。また「君、君たらずとも、臣、臣たれ」といった儒教的な( 忠義 )の精神も強調されて精神的な面でも武士は自立性を失っていったため、主君から切腹を命ぜられる前に自らの落ち度に気付けば即刻、腹を切って謝罪するまでになった。

 こうして切腹は江戸期において武士の死刑の主流となったのである。刑罰としての切腹に加えて江戸初期に流行した( 殉死 )(主人の死出の供をするために切腹すること)の影響から、自殺の手段としても切腹は一般化した。殉死そのものは、平和な時代が続いた4代将軍家綱の時、武断政治から儒教の教えに基づく( 文治 )政治へと転換したことに伴って禁止されたが、切腹自体はその作法も整備されていき、武士道と共に武家の美風として発展していったのである。

 しかしここで強調されたような武士の潔さはあくまで主君に仕える中流以下の武士層で賛美され、強制されたものであり、藩主などの上層部には自らの責任はとらずに、部下を切腹させて事をうやむやにしてしまう傾向がかなりあったことは十分注意しなければなるまい。

 本来は最高責任を負うべき支配層が自分の責任逃れのために、部下だけに潔い死を強制するという醜い側面も美談の裏側には隠されていたのである。また本来主君といえども道理に反する言動をとれば家臣の誰かが命がけで制止するべきところ、主君の命が絶対視され、しかも切腹が美談とされる風潮が強まれば、主君に諫言する気概すら薄れ、かえって「トカゲの尻尾切り」に終始する無責任な事なかれ主義をはびこらすことにもつながっていった。この点を顧みれば気骨の失われた現代社会の風潮を嘆くあまり、過去の侍魂を懐かしんでもあまり意味はあるまい。むしろ日本人の特色といわれる( 集団 )主義を理解するための一要素と冷静に捉える視点が必要だとも考えられる。

 ところで江戸時代の武士は過酷なまでの厳しい( 規律 )性と潔さの両方が求められていたため、現在では死ぬに値しない、些細なことでも切腹を覚悟しなければならなかった。たとえば薩摩藩では門限に遅れただけで切腹を命じられた。ある旗本が門限に遅れた薩摩藩士が切腹しようとしていたのを助命しようと藩主に願い、藩主も快くそれに応じたが、家老はこれを不届きとみなし、改めて本人に切腹を命じただけでなく、介錯をするはずだった武士までも「後れを取った」という理由で切腹させたというケースまであるという。

 メンツを重んじる気風から、人に侮辱されただけでも切腹の理由となった。悪口を相手に言えばこれも切腹を命じられる原因になりかねず、言われた側も言われっぱなしであると「臆病者」の汚名を着せられ、切腹の対象になりかねなかった。戦国以来の「喧嘩( 両成敗 )」の伝統から、武士同士の切りあいはご法度とされ、厳しく罰せられたが、刀を抜いて襲い掛かってくる相手に無抵抗のままでは「武士にあるまじき振る舞い」とされ、改易ぐらいは覚悟しなければならなかったのである。当然、喧嘩の末、相手を首尾よく仕留めたとしても、自らは切腹による死を避けられなかった。喧嘩は即、死を意味したのである。しかもメンツを重んじる武士同士であるから喧嘩の種は尽きない。往来で刀の鞘が触れ合えばたちまち刀を抜いて切りあいに及ばなければ「 臆病 」とされて切腹の命を受けてしまい、刀を抜けば抜いたで双方とも最終的には死を免れないのだから武家社会とは厄介なものであった。江戸中期にはこの鞘当などによる喧嘩を回避するために、できるだけ人の通らない側(水溜り等)を選んで歩くべし…等のハウツー本がよく売れたらしいが、武士が生き残るためにはそれも当然のことであったのだ。

 なおもしも旗本などの上級武士が何らかの理由で切腹を拒否する場合にはひそかに服毒自殺を強要し、武家社会全体の名誉を守るために「病死」として報告するのが慣例であったという。建前ばかりの勇ましい美談の陰で個々の切腹や「病死」にどんな人間的なドラマがあったのか、想像しただけでも胸が痛くなろうというものである。

2.「武士道」のウラ側

 もちろんすべての武士達が「武士道」精神に凝り固まっていたわけではない。中にはその胡散臭さに気付いてか、およそ武士らしくない振る舞いをする武士達も大勢いたのである。江戸も( 元禄 )の世となれば戦は遠い過去のこととなり、平和で享楽的な町人文化が花開いてくる。いきおい武士といえども町人に習い、利己的で享楽的な振る舞いをする者が増えてこよう。

 当時の武士の日記にこんな事件が記されている。元禄16年(1703年)、ある尾張藩士が変死した。彼は金に困り、バクチ宿を開いて家計の足しにしていたが、バクチの常連が次々と「お縄」になっているとのうわさにおびえ、自殺したとのこと。しかしその死に方は武士らしく切腹というわけにはいかなかった。「冷麦、ところてん、すもも(500個という)など喰らい、この毒にあたりて死す。妾と十三になる男子あり」。何とこの男、武士でありながら刃物屋の看板の下を通るだけで顔色が変わるほどの小心者であったらしい。

 同じ日記にはこんな事件も紹介されている。元禄5年(1692年)のこと、都筑半助という六十歳ほどの男が殺された。彼は妻の死後、奉公人を後妻としたが、すでに嫁いでいるその連れ子と密通し、それがついに連れ子の夫にばれてしまった。夫は密通の現場に乗り込み、半助に切りかかって怪我を負わせたが、半助は丸裸で寺に逃げ込み、わなわなと震えて涙をこぼすばかりだったという。駆けつけた半助の親類がそのあまりのみっともなさに刺し殺してしまったらしい。

 およそ武士らしくない事件の数々。実際、元禄時代以降、臆病で欲望丸出しのいわゆる「人間的」な武士達が数多く、出現してくる。こうした動きは武士を頂点とした身分制社会を揺るがし、幕藩体制を根底から突き崩しかねないと捉え、体制維持という支配者側の視点から記されたのが、かの「葉隠」であった。武士道とは

 死ぬここと と見つけたり」と喝破し、「死に狂い」という武士の理想的あり方を強調する筆者の激烈な口調には、現実の武士達の「だらしなさ」に対する支配者層の苛立ちが見え隠れしているようでもある。

 名誉を重んじ、忠誠心や責任感が極めて強く、協調的で勇猛果敢…。ともするとそうした武士の「かっこ良さ」ばかりが強調される武士道論である。だが実は上司ばかりに都合の良い武士道精神を疑い、多少「かっこ悪く」とも、けっこう人間らしく生きようとした武士が少なからずいたのだと思う。

3.外国から見た「ハラキリ」

 今や「サムライ・ハラキリ」はアフリカや一部の中東地域を除けば世界中に知れ渡った言葉であるらしい。幕末に来日した欧米の人々を愕然とさせ、瞬く間に日本の「蛮習」として広まった「ハラキリ」は「サムライ」という身分と緊密に結びついて、その後の日本に対する、ある種の嫌悪感とともに語られ続けることになった。

 そもそもキリスト教社会では神から与えられた命を自ら奪う自殺自体に否定的である。自殺は( 神を冒涜 )する行為だとして自殺の撲滅を訴える論調がキリスト教社会の主流なのである。したがって「ハラキリ」とはまさに神への冒涜であり、「文明人」を震え上がらす「野蛮人」の振る舞いでしかなかった。それはかつての武士達が考えていたような「名誉ある死」ではなく、「勇気ある死」ですらなかった。

 最近のアンケートでも「ハラキリ」に対してアルゼンチンの青年は「自殺は神を否定することであり、勇敢な行為ではなく、臆病者のすることだ」と手厳しく答えている。せいぜい「賛成はしないが、痛みに耐える精神力はすごい」(ニューヨーク)「勇気はある」(モスクワ、ブカレスト)といった意見が少数見られるだけで、外国では「ハラキリ」は今もってただおぞましいだけの野蛮な風習としか捉えられていないのだ。

 欧米人としてこの見方に真っ向から挑戦した形となったのが、トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」であったかもしれない。とすれば日本人としてはこれまで一方的な偏見のもとで断罪されてきた自分たちの伝統的精神文化がこの映画のなかで初めて欧米人によって正当(?)に評価されたという点で多少とも彼に感謝すべきかもしれない。

 しかしうがった見方をすれば、この作品が作られていた頃はすでにアメリカと

 イラク )との緊張が高まり、戦争のきな臭さが漂っていた時期であった。生まれながらの兵士たる武士が大義のために命を賭して戦う、潔さが強調されたこの映画の展開もやはり妙にきな臭い。「悪の枢軸を倒す正義の戦争」に備えてアメリカ国民の士気を鼓舞する…確かにそうした目的でこの映画は政治利用される危険性は大きかったであろう。実際、そうした効果は多少ともあったのではないか?そもそもこの映画では武士道の「かっこ良さ」ばかりが強調され、武士道の持っている非人間性、「奴隷道徳」的な負の側面がまったく見過ごされているのが解せない。

 結局、欧米では今もって武士道が日本の歴史上の産物としての公正な観点からは評価されていないように思われる。ただの「野蛮」ではないが、今さら賛美するわけにはいかぬ歴史的産物として「ハラキリ・サムライ」をもう一度、冷静に見直すべきなのは日本人の方かもしれない。一方的にアメリカの戦争熱に煽られないためにも…

 

参考文献

・「元禄御畳奉行の日記」神坂次郎 中公新書 1984

・「切腹の話」千葉徳爾 講談社現代新書 1972

・「武士と世間」山本博文 中公新書 2003

・「切腹:日本人の責任の取り方」山本博文 光文社新書 2003

・「世界が見ているニッポンという国」日商岩井トレードピア編集部編

 KAWADE夢新書 1996

・「武士道」新渡戸稲造 岩波文庫 1974

 

 

㊾阿部詩選手号泣の件から

 

参考動画

「信じられないことが…」柔道・阿部詩選手(24) 一本負けの瞬間頭抱え号泣

 ANNnewsCH  2024/07/31 1:09

敗退に泣き崩れた柔道・阿部詩選手(24)号泣し立ち上がれず会場に響く「詩コ

 ール」ANNnewsCH  2024/07/31 1:08

参考記事

「一種のいじめ」「何回言うの」 東国原英夫氏、阿部詩号泣に「周辺に配慮欠く」

 と再度苦言...コメント欄では共感得られず

 J-CASTニュース によるストーリー 2024.8.1

 おそらく高校野球の場合、甲子園での敗戦で号泣する高校球児への批判はこれまであまり無かったように思うが、いかがだろう。今回の東国原氏による柔道家に対する批判は極めて執拗なものであり、オリンピック連覇という重圧と長く戦ってきた敗者に対して何やら陰湿で容赦ない「上から目線」の怖さまで感じる。

 おそらく号泣しながら甲子園の土を持ち帰る高校球児たちの涙は美しく、感動的ですらあると多くの人は感じるだろう。しかしオリンピック会場で号泣する柔道家の姿は幼稚であり、非礼極まりないものである…と捉える東国原氏の感性は、一体、どんな価値観に由来するのだろうか。ぜひ、生徒たちに考えさせたい。

 いくつかの観点から考察できるだろう。一つは武道とスポーツとの違い、スポーツマンシップと武道家精神との違い。もう一つは国家を代表するとされるオリンピック選手と郷土を代表する甲子園球児との違い。やはり国威発揚を狙いとするようなオリンピックにおいて選手たちに求められるパフォーマンスと、甲子園球場で高校球児たちに求められるパフォーマンンスとはおのずとそれなりの違いがあるはずだ。

 なぜ私たちはスポーツに魅了され、スポーツ観戦に熱狂するのだろう。「礼に始まり、礼で終わる」武道において求められる冷静さと敗戦時に見せた阿部選手の号泣は果たして相いれないものなのか。体育の授業で武道が必修化された背景にどんな目的があったのか。オリンピックの意義とは一体何だろう。SNSによる選手たちへの誹謗中傷問題…考えるべきテーマは多い。

 以下に紹介する動画を視聴させて生徒たちの考えを広げ、深めていきたい。

参考動画

号泣に賛否【テレビの五輪報道の弊害】過剰な美談と武士道精神を考える

 長谷川良品「テレビ悲報ch」 2024/08/01  10:53

 オリンピックについて深く考えるきっかけとなるだろう最もタイムリーな話題がこれだと思うが、いかがだろう。敗北して泣きじゃくる阿部詩選手への否定的なコメントをどう評価するのかを、武道に由来する柔道というスポーツの特殊性から考察する長谷川氏におおいに共感する。

 確かに私も日本代表の野球チームを平然と「侍ジャパン」と名付け、女性サッカーチームを「なでしこジャパン」と名付ける日本のスポーツ界、マスコミ界の古色蒼然たる体質の古さに辟易する。

 ここを切り口にして日本のスポーツ界、マスコミ界、学校教育界が抱える体質の古さにも気付かせたい。

【阿部詩選手】号泣の賛否について ロザンの楽屋  2024/07/30  16:22

 武道とスポーツとの違いに注目する点は同じだが、武道を否定的に捉えるのか、肯定的に捉えるのかでロザンの視点は上記の長谷川氏とかなりズレてしまうと感じる。また柔道や剣道などを当初は格技として学校教育に取り入れ、ついには武道と改称、さらに必修として授業時数が増加している近年の日本の教育の動きをどう評価するのか…という問題にも多少は触れる必要があるだろう。

 以上のことを踏まえると阿部選手号泣の件はおよそ以下の様に考えられるのではあるまいか。まず試合直後の号泣は明らかに武道の精神だけでなく、ラグビーのノーサイドの精神にもふさわしくない。さらには過剰なまでの勝敗へのこだわりが感じられてしまった点で号泣は「平和の祭典」として行われるオリンピックの精神に必ずしも沿うものではあるまい。もちろん相手選手への敬意や配慮にも欠けた行為である。つまり、いくつかの点で確かに好ましくはない。

 ただし阿部選手の号泣は選手個人だけではなく、選手団全体の勝敗,メダル争いへの過剰なこだわりにも起因しているだろう。さらには長期にわたって「国家の威信」といった過酷で明らかに余分なレベルでのプレッシャーを個々のオリンピック選手に背負わせてしまった日本の柔道界、スポーツ界、マスコミ報道、国民の多くにも少なからぬ責任はあるはずだ。

 どうやら私たちはオリンピック報道の過熱ぶりも手伝って柔道に対する「国技」としての過剰なまでのプライドを植え付けられてしまい、「阿部選手ならば金メダルをとってしかるべき」といった行き過ぎた期待を国民側の多くが無意識のうちに抱えてしまっているように見受けられるのだが、いかがだろう。

 つまり阿部選手以上に不適切だったのは、まだ若く、武道家としては未熟であっても仕方ないはずの阿部選手に対して、どう見ても過酷なまでのプレッシャー、過剰なまでの期待をかけ続けていた、私たち国民の方ではなかったか…

 だとすれば、あの場でまだまだ若い阿部選手に図らずも号泣させてしまった私たちの、大人としての責任の方が重く問われるべきだったはずである。そしてそのことを問うこともなく、阿部選手個人を批判するような大人たちの論評には4年に一度しか訪れないオリンピックのために長期にわたって奮闘してきた選手への思いやり、想像力に欠けた残忍な攻撃性をどうしても感じてしまう。

 そもそもオリンピックという行事が抱える負の側面や日本のスポーツ界、競わせることに偏った日本の学校教育界が抱えてきた種々の問題への視点を抜きにして選手個人への攻撃を行うことにさほどの意義は見いだせないと思うのだが…いかがだろう。

【五輪反対論】開会式で波紋!メッセージが強まりがち?住民生活に影響も...開催

   する意義はある? ABEMA Prime 【公式】 2024/07/30  19:17

 オリンピックの意義をもう一度、根本から見直す必要はあるだろう。4年に一度の例外的なお祭り騒ぎに隠れてこの時とばかりに違法に利権を貪る一部の企業や政治家が存在するようなオリンピックの運営の仕方、あるいは国家間の対立を煽りかねず、少なくとも国威高揚に政治利用されがちな国家主義に偏るスポーツ界全体のあり方をみると、多くの人が「平和の祭典」という美名に酔うことに躊躇してしまうのは当然であろう。東京オリンピックの負の遺産は一体、どう清算されたのであろうか。

 サッカーの勝ち負けで戦争が起きかねなかった中南米の歴史もある。ラグビーのノーサイドの精神は他のスポーツには必ずしも十分に浸透していない。オリンピックの運営には莫大な資金が投入されるが、資金の流れは必ずしも透明ではない。

 表彰式で「君が代」が流れ、日の丸が掲揚されることの意義は本当はどこにあるのだろう。実際、君が代を歌う日本選手たち全員に君が代が孕んでいる国家主権をめぐる深刻な問題意識があるとは思えない。おそらく選手たちのほとんどは君が代の歌詞すら正確に書くことはできないだろう。どうみてもしっかりと考え直すべきポイントはいっぱいあるようなのだが…

 生徒たちにはオリンピック開催の是非を、その歴史的経緯からさかのぼって明らかにしつつ、近年の課題をいくつかピックアップした上で議論させたい。

 

参考記事

パリ五輪で試合前に十字を切った柔道家が5か月の資格停止も「謝罪するつもりは

 ない」 東スポWEB によるストーリー 2024.9.20

 日本の柔道が神道の振る舞いを外国人選手に強要することがあってはならないのと同様に、外国人が自身の信仰に基づく行為をみだりに柔道連盟が禁止することは不適切に思えるのだが、いかがか。

 信仰上の行為が試合時間の遅延になるなど、競技の上で邪魔になったり、危険になるような場合はもちろん禁止すべきだが、さほどの支障が生じないのであるならば基本的にOKとした方が多様性の尊重と信教の自由の保障にもつながるだろう。

「もはや日本の柔道精神はない!」柔道混合団体、畳に“唾吐いた”ブラジル選手に

   ネット騒然「子供たちが見たらどう思うだろう」【パリ五輪】

   THE DIGEST によるストーリー 2024.8.4

 この件は生徒たちにとって議論しやすいテーマであり、授業に取り上げてみても良いだろう。この記事の内容への賛否を問うてみたい。

   畳の上は「神聖」だから唾を吐いてはいけない、という日本特有の宗教じみた論理が世界にすんなりと通用するとは思えない。単純に衛生面や競技上の観点から「唾吐き」を禁止すれば良いだけだろう。

   大リーグではマウンドの上で唾を吐く投手はザラにいる。マウンド上に選手が顔をつけるような事態はプレーとしてほとんど生じないので、アメリカではその行為が必ずしも不衛生とは感じられないのだろう。しかし柔道という種目では寝技などがあるため、畳に顔などがつく場面は決して少なくない。その際、畳に誰かの唾が付着していたとしたら、さすがに欧米の選手でも抵抗感を覚え、汚いと感じるだろう。もちろん唾で畳が濡れていたことで足が滑りやすくなってしまうことも考えられる。やはり柔道での「唾吐き」は汚いだけでなく、危険かつ競技の妨げにもなりかねない。だからこそ柔道では畳に唾を吐く行為を固く禁止すべきではある。

 日本の場合、柔道や剣道では道場に神棚が祀られている事が多く、道場内自体が神社の境内と同様の聖域とされてきた。しかしオリンピックの会場に神棚を持ち込んで選手全員を神道のルールに従わせることなぞ、選手たちの信教の自由を否定することにつながるので絶対的に不可能である。つまり畳の上は神聖である、という日本人の観念を選手全員に押し付けることは出来ない。

 柔道がオリンピックの種目である限り、柔道場は他の種目と同様にただのスポーツ会場でしかなく、日本のような意味での聖域では決してないのだ。

【柔道】斉藤立を破った韓国・金民宗の〝煽りパフォーマンス〟が物議「武道家で

   はない」 東スポWEB によるストーリー 2024.8.3

   これも阿部詩選手の件と同様に柔道を武道として捉える立場からの批判である。試合に勝った選手が礼をする前に派手なガッツポーズをしたことは相手選手への礼を欠く行為として好ましくないという。そういえばかつて甲子園でもヒットを打った、あるいは三振を奪った選手が派手なガッツポーズをすることが相手チームへの敬意を欠く行為として教育的見地から批判されたことがあった。

 確かに勝って兜の緒を締めよ、というようにかねてから日本では勝者の慎ましい振る舞いが称賛される中で、相手がいる前で自らの勝利を大袈裟に喜ぶのは恥ずべき行為とされてきた。もちろん近くに競技相手がいる場面では勝った喜びを押し殺し、負けた悔しさを面に出さないことを武道家として守るべき礼儀としてきた日本の武道の伝統を一方的に否定するわけではない。むしろ日本の誇るべき美風の一つとして大切にしていくべき心構えとすら言えるだろう。ただし「武道」としてではなくもっぱら「スポーツ」の一種目としての理解から柔道が1964年の東京オリンピックに採用された経緯を踏まえれば単純には判断を下せまい。

 日本では柔道の10倍もの競技人口を誇る剣道だが、オリンピックの種目として採用されたことは一度もない。柔道が一足先に解禁された際も、剣道は学校の体育で教えることをしばらくの間、禁止されてきた。その背景に剣道界が柔道以上に武道としての伝統に拘ってきた経緯があるからではあるまいか。

 ここではとりあえず武道の伝統の是非を論じる必要はあるまい。大切なポイントは現在、世界の柔道家がどこまで武道としての柔道とスポーツとしての柔道との差異をきちんと把握できているのか、であろう。また紛らわしいのが武道と武士道との関係であるが、この二つは明確に区別されるべきものであり、封建的主従関係を前提とするような武士道と近代オリンピックの精神とはまったく相いれないものがある。

 近代的スポーツの観点では武道と武士道とを切り分けて考えるべきであるのと同様に、既に指摘した神道と武道とを切り分けていかないと武道を近代的スポーツに位置づけることは難しくなるだろう。神道的発想を闇雲に選手たちに押し付けることは信教の自由を踏みにじることにもつながりかねないはずである。

 武道と武士道及び武道と神道とを切り分けて武道を近代的スポーツの枠組みに位置づけようとする取り組みに対しての共通理解が日本を含めて世界的に成立しており、しっかりと柔道関係者に共有されているのならば、今回の騒動の是非は疑う余地が無いほど明確になる。

 IOCや国際柔道連盟がこの件に関する明確な統一見解を世界に向けて公表しなければ、今後も特定の柔道選手に対する的外れな中傷誹謗を徒に招くだけではあるまいか。SNSの発達は一旦、炎上すると恐ろしいほどの速さで選手たちの精神的健康を蝕んでしまう。悲劇的な事態を防止する上でも柔道の位置づけを一刻も早く明確にさせ、その共有をはかりたいものである。

パリ五輪日本選手団が緊急声明 相次ぐSNS誹謗中傷に「法的措置も検討」 大会中

 に異例の警告「不安や恐怖を感じる」自制求める

 デイリースポーツ によるストーリー 2024.8.2

「何がいけない?」柔道・永瀬の”表彰台事件”に対する韓国人記者の反論と浮かび

   上がる「文化の違い」 FRIDAYデジタル によるストーリー 2024.8.3

   こちらも阿部詩選手の件や金民宗選手の件と同じで柔道を武道として捉える日本の立場からの考察である。日本と外国との間に柔道という種目への捉え方の違いが原因でこれだけ数多くの軋轢を生んでしまうのならば、IOCないしは国際柔道連盟による何らかの統一的対応が現時点で必要となっているのではあるまいか。

 スポーツにおける過度な勝利至上主義への批判がこうした軋轢を生む大きな原因となっている、と考えるのであるならば、いっそのこと日本の武道精神に基づく礼節を弁えた振る舞いをすべての競技における模範的振る舞いとして世界に喧伝するのも決して悪くは無かろう。本当にオリンピックが「平和の祭典」としての役割を国際社会で果たそうとするのならば、国家間での熾烈な金メダル争いはかえって無用な軋轢と誹謗中傷を国家間、競技者間に生み出しかねまい。

 勝者も敗者も礼節ある言動を心がけることは、おそらく過熱しがちな競争主義をクールダウンし、無用な軋轢を避ける上で大いに役立つに違いない。もちろん、そうした効用は武道に限らず、ラグビーのノーサイド精神でも同様の機能を期待できるだろうが…なお15人制のラグビーは種々の理由から未だにオリンピックの種目に採用されていない現状がある。また世界のラグビー界において「ノーサイド」という言葉はどうやら日本にのみ生き残った表現らしく、本場のイギリスですらまったく理解されなくなっているようだ。

 それほど長く「ノーサイド」の言葉に日本人が惹きつけられてきた背景に、節度、礼節を常に重んじる日本の武道精神がラグビーのノーサイドの精神と強く共鳴してきた可能性は十分にあるだろう。こうしたことをも考えると、JOCはIOCに対して柔道に限らず、すべての種目において選手、観客のマナー改善を強く訴えても良い立場にあるのかもしれない。少なくともこうした騒動を機に、現代のオリンピックが本当に「平和の祭典」にふさわしい状態にあるのか、問い直してみるべきだと思うがいかがだろう。

その4.不安や恐れと向き合う(後編)

 ※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 以下の「特集1~3」及び「5.ACTの考え方」、「6.自殺願望の強い人への支援」、「7.惨事対応への心構え」、「8.自死遺族の心理と対応」はカッパが使用したプリント内容の一部を紹介しています。

 

特集1.レーズン・エクササイズの具体例

 「ケアする人も楽になるマインドフルネス&スキーマ療法 BOOK1」伊藤絵美 医学書院 2016 より

①必要な物:干しぶどうの実を一粒、用意

②エクササイズの手順と留意点

 実を手に取って、眺め、匂いを嗅ぎ、掌の上で転がし、指でつまみ、口の中に放り込み、舌先で触れ、口の中で転がし、歯でかみ、かみ砕き、かみ砕ききったら飲み込む・・・といったように「レーズンを一粒食べる」という行動をスモールステップで少しずつ行いながら、その時の身体感覚を逐一ありのまま感じて描写していきます。同時に自動思考や気分、感情が生じたら、同じようにありのままに感じ、描写していきます。毎回20分間ほどかけてこのエクササイズを実施していきます。かなり細かく行動を分割しないと20分持ちません。しかもその都度、行動を止めて気分などを描写させるのですから、通常の感覚ではまだるっこしさを通り越してイライラしてしまうのがむしろ普通です。

 実は来談者のエクササイズへの反発や不満には大きな意味があります。多くの場合、来談者はこれまで自分自身の気分の波に対するセルフモニタリング(=メタ認知)がうまくできていないために繰り返し抑うつ状態に落ち込んでしまっていたと考えられます。

 このエクササイズの初期の段階でこうした反発や不満が生じたことをカウンセラーはむしろ評価してあげましょう。「めんどくさい」「イライラする」といった気分、感情、自動思考を来談者はしっかりと捉え、報告できるようになっていることに気付かせるのです。

 つまり、一見するとヘンテコなこのエクササイズのおかげで来談者はいつの間にか自分の心の動きに対してしっかりとしたセルフモニタリングができるようになってきたのです。「めんどくさい」というネガティブな表現であったとしても、思ったまま、感じたままをすぐさま表現できるようになることがこのエクササイズの最初の目的の一つであることを再確認しましょう。

 不満や文句を言いつつも来談者がこのエクササイズを続けていくと遅くとも10回目にさしかかる頃には様子に変化が現れてくるといいます。

 まず不満や文句がなくなってきます。スモールステップへのイライラ感がなくなり、逆にじっくりと時間を掛けてワークし、さらに多彩な感覚や感情を表現できるようになります。最後には「やっていて楽しかった」「20分があっという間だった」という感想まで出てくると当初の目的は達成され大成功。

レーズン・エクササイズに対するカッパの感想

 抑うつ状態にある人にとって「今、ここ」での自分の体験にしっかりととどまれるようになるには意外にも相当の時間と工夫が必要なのでしょう。来談者の多くは悲しい過去に深くとらわれ、将来への不安に日々苛まれているといいます。そのため「今、ここ」に生きている自分の、本来有るべき瑞々しい感覚を失いつつあるとすれば、このエクササイズの重要な意義が見えてくるはずです。

 抑うつ状態が深くなり、自殺直前の状態に至りますと特定の感覚が鈍くなるといった症状が出ることがあるとも言います。どんな料理を食べていても味気ない、どんな音楽を聴いても雑音のようにしか聞き取れない、どんな映画を見てもストーリーが頭に入らずちっとも感動できない、せっかく自然豊かな風景を見ても何ら美しさを感じない、退屈で重苦しいだけのモノトーンな世界。ベッドから起き上がること自体億劫で毎日が心身ともに鉛の如く重くドンヨリと沈み込んでくる・・・これではまさに「生き地獄」でしょう。私たちはつい「自殺するような人は心が弱いのだ」と捉えがちですが、五感が重苦しく鈍麻している状態が長く続いてしまったとしたら、果たして私たちは自殺への誘惑に皆、耐えられるでしょうか?

 うつ病患者はおそらく生来「心が弱い」のではなく、病的な症状として「心が弱くなっている」だけでしょう。原因と結果とをはき違えて「心の弱い人たち」と決めつけるようなうつ病患者や自殺既遂者への偏見は一刻も早く捨て去らなければならないと思います。誰もがうつ病になる可能性を秘めており、誰もが自殺する可能性を持っていることを支援者はとりわけ深く自覚する必要があるようです。

 レーズン・エクササイズが目指す、「今、ここで」生き生きと感じられる五感の活性化がどれほどに重要なものなのか、この箇所の記述だけでも十分、納得できると思いますが、皆さんはどう思いますか?

※なお伊藤先生のこの本は極めて具体的で分かりやすく、マインドフルネスのエッセンスを体感的に捉

 えることができる、特に女性向けのお薦め本です。ぜひ、ご一読ください。またレーズン・エクササ

 イズは学校によっては授業でも実践可能でしょう。

 

特集2.絵画の絵解きからマインドフルネスへ

 クリストフ・アンドレは「はじめてのマインドフルネス」(紀伊國屋書店 2015)の中で以下の絵に対してこう述べている。「なんと悲しげで憂いに満ちた顔なのだろう。疲れはてて、もう何もかもをあきらめてしまったかのようだ。おそらく、この老人は外でも眺めて気分を変えようとしたのだろう・・・」 

・・・以下、引用を続ける。

外の世界で起こっていることを見れば、いつまでもつらいことばかり考えずにすむかもしれないと思って・・・。だが、窓から顔を出したものの、結局、老人は外にあるものを何一つ見ていない。虚ろな目が見ているのは、自分の心だけ。心を占めるつらさや悲しみだけである・・・つらいことや悲しいことをくどくどと繰り返し考えていると、いつしか心は苦しみにからめとられてしまう。

 窮屈そうな窓は、あたかも老人の心が苦しみで動けなくなっていることを象徴しているかのようだ。顔をぴったりと囲む木の窓枠、金属とガラスで固く閉ざされた窓。さらに、窓のまわりは堅牢な石の壁で固められている。ここでは、老人を囲むあらゆるものが固まっている・・・

 絵は語りかけてくる。・・・つらいことを何度も考えていると、ほかに何も見えなくなって、心はつらいことだけで占められてしまうだろう。こんなふうに・・・。気をつけなければ、私たちは苦しみのなかに閉じこめられてしまうのだ・・・。

 では、苦しみにとらわれないために・・・いったいどうすればいいのだろうか?もしかしたら、その答えは、窓の下に置かれたガラスの小瓶に目を向けられるようになることが必要だ・・・。

 鍵は意識を広げることにある。意識が広がれば心のスペースも広がる。こり固まってしまった苦しみも、広い場所ができれば自由に動けるようになるだろう。

 そのための第一歩は・・・受け入れることだ。苦しんでいるという現実を受け入れるのである。「どうして自分だけ」、「こんなことは耐えきれない」などといった評価を交えることなく、ただ苦しみの存在を認め、「苦しみがあってもいい」と認めてやるのだ。そして、その苦しみがどんな思考をつくりだしているのかを観察してみる。

 とはいえ、・・・実際に苦しみと向き合うのはとてもつらいことである。考えただけで、不安や恐怖を感じてしまうこともあるだろう。そんな時は、やはりまず呼吸に集中するようにしてほしい。

・・・呼吸はいつでも私たちの支えになってくれるものだからだ。そして、呼吸に支えてもらいながら、抗うのでも巻き込まれるのでもなく、苦しみに向かって「そこにいてもいい」と穏やかに言ってみよう

 苦しみを受け入れることができたら、今度は心に苦しみ以外のものを招き入れてみよう。目の前の風景、周りの音、身体の感覚を意識してみよう。それから、心には苦しみ以外の思考があることも意識する。注意してみると、心の中では、苦しみだけでなくさまざまな思考が現れては消え、また現れては消え、ということを繰り返しているものだ。そこに気付けば、心はもう苦しみ一色ではなくなるだろう。

 そうやって苦しみ以外のものも入ってくることで、心のスペースは広がって苦しみは相対的に小さくなる。それはまた、心が苦しみから解放され、自由な動きを取りもどすことにもつながるだろう。

 そして、呼吸しながら再び苦しみを観察してみよう。時には、苦しみのなかを通り抜けていくイメージで、呼吸が苦しみにどんな影響を与えるのかを観察してみる。その途中で苦しみが意識の中心に戻ってくるかもしれない。だが、それは当然の事だ。苦しみに意識を占められてしまっても、またゆっくりと呼吸へと意識を戻すようにすればよい。根気よく続けることが大切なのである。 

 こういったことを心がけていれば、たとえ不安を感じても、その不安が心のなかで「絶対にそうだ」という現実に変化しないようにできるだろう。またネガティブな感情にばかりとらわれて、始終ピリピリしていることもなくなるだろう。中国のことわざもこう言っている。

 「悲しみという鳥が頭上を飛ぶのは仕方ない。だが、頭に巣を作らせるままにしてはいけない」

 苦しみというのは、執着すればするほど、永遠に続くのだと信じてしまいやすいものだ。だが、苦しみは永遠に続くものではない。そもそも永遠に続くものなど何もないのだから・・・。喜びも悲しみも、楽しいことも苦しいことも、すべては通り過ぎていくだけなのだ。マインドフルネスを実践していると、その意味が実感できるだろう。そして、苦しみや喜びと、これまでとは違った関係を築くことができるだろう。ゼロか百かではなく、移りゆくものとしてとらえることができるからだ。

 もちろん、それは「どうせ一時的なものなのだから」と投げやりな態度で関わるということではない。さまざまな思考や感情が心を通りすぎるさまを観察することで、どんなことであれ、できるだけ執着せずに受け入れることができるということだ。その時、人生はより味わい深くなり、私たちはよりよく生きることができるだろう…

 

 なかなかの名文だと思いますが、いかがでしょう。

 

特集3.マインドフルネスの簡単エクササイズの紹介

 すべて一週間を単位として行う。どれか一つのみを実践(「今、ここに意識を集中する練習」ジャン・チョーズン・ペイズ 日本実業出版社より)。いずれも今すぐに簡単にできるものばかりなので生徒に幾つか実践させてみるのも良いだろう。

「利き手を使わない」

 歯を磨く、髪をとかす、食事をするなどを利き手以外で試みる。できれば字を書くことにもチャレンジしてみるとよいが、慣れるまでは支障が大きいので全部の動作を試みる必要はない。利き手に絆創膏を貼っておくとこのルールを思い出しやすい。不器用な方の手で何かをやってみることで慣れっこになっている動作に対して意識が集中してくる。つまりこのレッスンを通じて今現在への意識を高めるだけでなく、禅で強調される「初心」に戻れる。日常的な動作に対して当たり前に思っていたことへのありがたさにあらためて気づくのである。たとえ日常的な行為であっても、それがスムーズに「できる」ようになるには何が必要だったか?動きがたどたどしかった幼児期に戻って確認してみよう。

 今、生まれたばかりのような、初々しいまなざしで色鮮やかな世界を見られるようになるために、もう一度、世界がすばらしく新鮮であることを感じるために、このレッスンを試みよう。

 すっかり慣れてしまって無意識のうちに自動的に動いてしまい、ただこなすだけとなっている日常的営為を敢えて不器用に試みる。そのことで何時の間にかロボットと化し、今を実感できなくなっていた自分に気づくはずである。

「木々に目をとめる」

 木の姿を丁寧に観察してみるとその複雑な形や様々な色合いに気づく。緑豊かな自然の景観を数分間眺めただけで、あるいは木々の写真を見ただけで血圧が下がり、筋肉の緊張がほぐれ、不安や怒りが静まり、苦痛が和らぎ、ストレスが減り、手術後の回復が早まることが確認されている。心が「自分が、自分が」という悩みのために固く閉ざされてしまうと、人は孤独感を覚える。心を開いて自分につながる多くの命に気づくことができれば寂しさは消えていく。

 忘れないで。あなたは木々をはじめとする無数の命によって支えられている。決して独りぼっちではない。生きていることの素晴らしさに目を見開いて外の世界をじっくりと眺めてみよう。心の騒音でかき消されていた鳥のさえずり、風の音が聞こえ始め、世界は生まれ変わったかのように生き生きと動き出すに違いない。その瞬間、あなたもその美しい世界の一員になれる。

「手を休める」

 一日に数回、両手を膝の上においてリラックスさせ、数秒間は静かな状態にして手の感覚に意識を集中させる。落ち着きのない人は手をじっとさせておくことが難しい。しかし両手をしっかりと休ませると、体全体も心もリラックスしてくる。普段の手は忙しい。せわしなく動いている。何かをつかむため、何かを触るため、何かを指さすため…手はあなた自身である。手の動きを止めて一度、動作の目的から手を解放してみよう。自分の手の重さ、手のひらの温かさ、膝の上の触感に注意を向けてみよう。

「バカ歩きをしてみる」

 気持ちが落ち込んだり、いらだったりしているとき、後ろ向きに歩く。あるいはスキップしたり、片足で跳ねてみたりする。この練習によって「自分を軽く見る」ことを学ぶ。自分の軽さ、愚かさに気づくと多くの可能性が一斉に花開く。人のわずかな違いに目くじらを立てて見下している傲慢な自分の心を笑ってみよう。馬鹿なことをしている自分を受け入れよう。私もあなたも同じ生き物に過ぎないことに深く感謝しよう。

「高いところを見上げる」

 何度か意識して高いところを見上げる。部屋の天井、高いビル、木の梢、丘や山の頂、空などを見上げ、2、3分間じっくり眺める。視野を広げることで狭い世界に閉じこめられていた心を解放して、ストレッチや屈伸運動をさせてやる。

 「自分が、自分が」という息が詰まるような小さな世界の扉が開き、世界の広がりを感じる。雑念の牢獄に心を閉じこめてカチカチに固めてしまわないように、伸びやかな外界とつながろう。思い切り深呼吸してみよう。

 

5.ACTの考え方

 アクセプタンス(受容)とコミットメント(関与)を柱とする治療法。認知行動療法の第三世代に属する(マインドフルネスと近い)。負の感情とは戦わない、否定しない。すべて受け入れる。→自殺自体も受け入れる

 従って「自殺は良くないこと」と教え諭すのは禁物。価値あることに積極的に関わる→負の循環から抜け出せる。

 ここがマインドフルネスと少し異なる観点。深いうつ状態の人は他人を愛する力が足りない。社会への関心が薄い。このため孤立・引きこもり→自己嫌悪・自己否定→うつ状態の悪化・・・希死念慮の増大、という悪循環に陥りがち

 →自己受容が先決、その後、社会的価値に関与するよう仕向ける。

※参考文献:

「うつのためのマインドフルネス&アクセプタンス・ワークブック」

  K.D.ストローサル、P.J.ロビンソン 星和書店

「セラピストが10代のあなたにすすめるACTワークブック」

  ジョセフ・V・チャロッキ他 星和書店 2016

 

マインドフルネスとACTとの関係

・両者に共通する治療の大前提:「Creative Hopelessness」すなわち苦を取り除

 こうとするシステムを手放すことから始まる。「思考や感情をコントロールできれ

 ば問題解決できる」という発想から抜け出すことが前提。負の感情や思考、記憶を

 統御したり、除去しようとしてはならない。「観察」し「アクセプト」する。

・一度うつ病に罹患した人は「抑うつサイクル」(抑うつ気分→ネガティブな記憶、

 思考、感情→自己嫌悪)にはまりやすく再発しやすい。またうつ病者はネガティブ

 な思考や感情、記憶を「反すう」することで「抑うつサイクル」を持続させてしま

 いがち。したがって「抑うつサイクル」が動き出す初期の段階で今この瞬間の思考

 や感情の動きに敏感になるよう仕向ける両者の治療法は「抑うつサイクル」の始ま

 りに気づかせることにつながり(メタ認知的気付き)、再発の芽を早めに摘み取る

 点で再発防止に効果的。

・ACTは価値への関与のタイミングを誤ると治療の大前提が崩れてしまい、フュー

 ジョンをもたらす危険性がある。しかしタイミングさえ誤らなければ引きこもりが

 ちなうつ病罹患者の社会復帰と再発防止に大きな効果が期待できるのでは。

 参考文献:「ACTハンドブック」武藤崇編 星和書店

 

6.自殺願望の強い人への支援

①自傷行為(リストカット等)をするのは自分に注目してもらいたいからであって決して本気で自殺しようとは思っていない・・・というのは大変な誤解。自傷行為の経験者が自殺する可能性は自傷行為のない人と比べて数百倍も高く、周囲の人が自傷行為を軽視して放置したり、自傷行為を繰り返す人に対して苛立ちを感じてしまう状況は極めて危険。

自殺念慮の有無を周囲が気づけることは滅多に無い。自殺直前、いつになく悟りきった穏やかな表情を見せるケースすらあり、精神科医でも気づけない場合がよくある。少しでも気になることがあったら支援者は「今、死にたいと思っていますか?」と遠慮せずに直接、本人に確認したほうが良い。

③自殺は悪いことだ・・・と説教することはマイナス。最初に希死念慮があることを告白してくれた事へ感謝。自殺という行為に対してはあくまで中立の立場を保つ。死にたいほどに辛くなっている本人の気持ちにひたすら耳を傾ける。最後に辛い気持ちを抱えてきたのにこれまで自殺に至らなかった原因について質問し、一緒に考えてみる。最後まで寄り添っていくという姿勢を伝えたい。

自殺を本気で考え出した人は周囲の人に陰性感情を抱かせる言動をとることがある。つまり「助かりたくない気持ち」が強まってくることで支援者の助言や指示に従わない挑戦的な態度をとるケースも。本人は無力感が深まっている一方で他人から指図されたり、支配されることに強く反発し、「手に負えない」という感覚を周囲に与える事も。

 →本人だけでなく家族や支援者への支援も大切。支援者が一人だけで抱え込むのは極めて危険、最悪の事態を招きかねない。複数とチームを組むつもりで臨むべき。

論理的な説得、安易なアドバイスや励ましは逆効果。自責の念や無力感は否定せずに受け止める。←思考力の低下・裏読み

⑥傾聴やラポールの形成だけでは不十分→まず「味方」として寄り添う

⑦好不調の波、表面飾り、はしゃぎ系ストレス発散へのしがみつき、

 「荷下ろしうつ」→症状の進展が読みにくいので要注意

⑧出来事の細部を聞くのは辛いことを思い出させるのではないかと思いがちだが、実際はそのことを誰にも話せなく、一人で思い返して苦しんでいることが多い。尋問調は禁物だが時系列に沿って詳細に語ってもらう→体験に寄り添う、認知の歪みに気づく

⑨自殺の防止を最優先するならば、無力感の低減を第一目標。「休養」「受診」「環

境調整」を軸に対処

 ※参考文献「総論:死にたいの理解と対応」松本俊彦 こころの科学 No.186

      「自傷・自殺のことがわかる本」監修松本俊彦 講談社

      「クライシス・カウンセリング」下園壮太監修 金剛出版

 

7.惨事対応への心構え

 惨事後のクライアントの辛さは急性ストレス障害やPTSDの中核症状である回避(感覚の麻痺、記憶の欠如、飲酒・・・)、侵入(フラッシュバック、悪夢・・・)、過覚醒(不眠、イライラ・・・)といった表面に現れるものだけではなく、こうした症状に驚き、自分が壊れてしまったと自信を失い、不安が強くなること。また悲惨な出来事の原因に自分も関わっているのかもしれないという自責の念の苦しさ。自分が信じてきた世界のルールが崩れてしまって、将来が読めないと感じる無力感。自分だけが弱く壊れてしまった・・・誰にも理解されず、守ってもらえない(孤立感)・・・だったら死んで終わりにしたいという思考が生じてしまうこと・・・

 ※「クライシス・カウンセリング」下園壮太監修 金剛出版より

 

8.自死遺族の心理と対応

 「自殺で遺された人たちのサポートガイド」(アン・スモーリン、ジョン・ガイナン 明石書店)によると自死遺族は・・・

・「死別の悲しみと抑うつのほかに、罪悪感ゆえの自責や、羞恥心ゆえの消極性、何

 かを失ったことに対するやり場のない怒りを感じる」    →すべて自然な反応

・「互いに矛盾したつらい感情が奏でる不協和音の底には、なぜ?なぜ?なぜ?とい

 う終わりなき嘆きが響いています」  →原因追及は不毛

・衝撃的な体験を忘れたいにもかかわらず、安らかな眠りを妨げる悪夢を見、その出

 来事を再体験してしまうでしょう。・・・日中は集中して何かを考えようとしても、勝

 手に侵入してくる記憶に邪魔されます。  →急性ストレス障害

・・・普段の作業をこなす能力は損なわれます。また、ほかのことに情緒的反応を示す能力も弱まります。他者との間に距離を感じるでしょうし、他者と親しく関わることが以前よりずっと難しくなり、ひとりきりで嘆き悲しむことが非常に多いものです。 

  →「あなたは一人ではない」

 「自殺で遺された人たちのサポートガイド」の§3及び§13は特に示唆に富む箇所なので以下、要約しておきます。

第3章「罪悪感」

 「自殺を防ぐために、自分は何かできたはずだ」・・・こんな思いほど苦しいものはない。自殺という行為を自分なりに納得するため、故人の心情や動機を理解したいという、当然にして切なる願いと強くつながる問いであるため、この自問自答は際限なく続いてしまう。

 しかし、納得できる答えはいずれにせよ永遠に見つからないだろう。もちろんサバイバー(=自死者の親しかった関係者)側に自殺に関わる責任が多少あるケースもあるに違いない。しかし自殺の原因は複数有るはずであり、そのうちのどれとどれが決め手になったのかは誰一人として知るよしもない。サバイバーのちょっとした心ない言動が自殺の直前にあったとしても、それが自殺の決め手になったとは限らない。

 多くの場合、自殺の決め手は長期にわたるうつ病と薬物であり、これらは専門家の治療を受けていたとしても完治し難いものであり、そもそも素人が手に負えるものではない。たとえ故人の不幸に多少とでも関わっていたとしても気に病むことはない。

 誰もが完璧ではありえないという、当然の自己認識に依拠すべきである。サバイバー自身が自分を欠点のある普通の人間として自覚し、自分を赦せるようにならなければ回復への途は閉ざされたままになる。

第13章「回復―前進すること」

 「時がすべての傷を癒やす」という格言は必ずしもサバイバーには当てはまらない。回復には時間が必要だが、時間だけでは不十分。また故人の自殺の理由を追求しても不毛に終わるだろう。専門家ですら決定的な原因は説明できないからである。いつの日にか、犯人捜しや原因探しを打ち切り、罪悪感や怒りを手放す必要がある。

 悲しみ続けることにも限度がある。悲しむことと愛することとは違う。自殺の直後に悲しみに暮れるのは当然のことであるが、何年もの間、悲しみ続けるのは不毛である。故人を深く愛しているが故に、自分が苦しみ、悲しむのを止めることが大切な人への裏切りに思える。しかしそれは間違っている。

 あなたが愛していたのは故人との悲しい場面だけではないはずである。楽しかった場面もあったはずであり、それらを思い出すときは喜ばしい気持ちが湧いてくるだろう。だからといってそれを不謹慎だ、愛情が足りない、と自己批判するのは不毛である。感情の落ち込みの深さだけが故人への愛情を証明するわけでは無い。こうした一方的な思い込みはサバイバー特有の症状に過ぎない。

 「自分自身のことや、自分に起きた出来事のことばかり考えるのをやめ、ほかの人のために何ができるかを考えられた時、自分が真に回復していることがわかるでしょう」「自殺は大切な人自身の選択だった-そう認められる時が、ほかのサバイバー同様、あなたにも訪れることを私たちは願っています」「本人がこれを最善の解決策だと確信していたということは認められるはずです」「苦しむ心は、死が与えてくれるかもしれない安らぎを欲する時があるのです」

 もちろん自殺を肯定することは出来ないが、かといって否定も出来ない。不完全な知識しか持たない我々はその判断を留保していくしかない。回復過程の最後の曲面では故人の自殺という認めがたい過酷な現実をサバイバーはあくまでも価値中立的に厳粛に受け入れていくより他ないのである。

※動画「受け入れるという生き方」の講演内容と重なる部分があると思います。

 

補足資料

・自死遺族への偏見(→「自死は、向き合える」杉山花 岩波ブックレット)

 イギリスやアメリカのようなキリスト教社会では自殺を神の教えに背く犯罪的行為として厳しく罰する風習が続いていた。イギリスでは1823年まで法律で自殺者の遺体は冒涜され、墓地ではなく、十字路に埋められなければならなかった。さらに1870年までは自殺者の遺産はすべて国王が没収することになっていた。アメリカでも20世紀まで自殺は違法行為とされていた。

 自殺は個人に属する問題、身勝手な死として、今なお認識されている。そうした中で、4人に1人の遺族が「死にたい」と答えるほどに、生活に憤りや生き辛さを抱えなければならないのであろう。

 もうひとつ、注目すべきは自殺のサインについてである。「故人が自殺のサインを出していた」と思う人は 46.2%に対し、当時から「それがサインだ」と思った人はその内の20%にとどまったのは、「自分のせいだと思う(直後)」と 47.5%の人が回答した事とリンクしているのではないだろうか。過去を振り返った時に、故人からのサインとして様々なことが思い返されるが故に自責の念は強まってしまうこともある。その意味で、自殺のサインは遺族を苦しめるひとつの材料でもあるのかもしれない。

 加えて、自殺予防とは自殺を防ぐと同時に遺族を苦しめることになる可能性もあることに触れておきたい。自殺予防が注目されるほどに、助けられなかった自分を再認識し、行き場のない思いが巡ることもある。その意味で、自殺予防と遺族支援は一体となって進むべき課題であることを忘れないようにしなければならない。

 

・コロナ禍での若者と女性の自殺率の増加

Q.最近も若者、特に女性の自殺が多くなっていると言われますが、その原因は何だと

 思いますか?

 2020年にコロナ禍が世界中で拡大する中、飲食業界や旅行・観光業界、芸能界等は政府から十分な補償も無いまま自粛を迫られ、苦境に陥った企業、自営業者が数多く出てしまった。そうした中でコロナによって有名人が亡くなり、さらに著名な俳優達の自殺をきっかけに、自殺者が急増し始めた。2020年は前半まではむしろ例年よりも自殺者が非常に少ない状況だったが、6月の若手男優の自殺を境にして反転し、7月以降、自殺者が急増してしまったのである。

 これはもちろんコロナ禍の長期化によるストレスの蓄積と各種自粛による不況との相乗効果が主因と考えられるが、マスコミ報道のあり方も厳しく問われるべき側面があった。WHOはこれまでもマスコミによる著名人の自殺に対する過剰な報道が自殺の連鎖反応を生み出す「ウエルテル効果」の可能性を踏まえて報道への規制を繰り返し訴えてきた。まず2000年に学校関係者及びマスコミに対して著名人の自殺に関しての慎重な報道と過度な報道を控えるよう、要請。2008年にはその改訂版を公表し、自殺の手段や場所の詳細な報道をしないよう要請している。さらに2017年にも最新版のガイドラインを発表している。要するにWHOは自殺の手段や場所等の詳細で具体的な報道は厳しく規制する一方で、自殺を考える人達への相談機関の紹介を必ず報道する等の国際的ガイドラインを幾度も示していた。

 実際、日本では1986年4月、当時、人気絶頂だった岡田有希子さんの飛び降り自殺を凄惨な写真付でマスコミ各社が報道してしまった。その後、若者の後追い自殺が相次いでしまう(50人ほどと言われる)という苦い経験を既にしている。ところがその後も日本の著名人の自殺報道はWHOの規制に沿ったものとは言えなかった。2020年6月の若手男優の自殺に際しても場所や手段が分かるような、過剰な報道ぶりが見られた。そしてやはり8月、9月と自殺者は特に若者、女性を中心に急増してしまった。9月27日、ようやく厚生労働省は重い腰を上げてWHOのガイドラインを報道関係に示してその遵守を要請。ちょうどその27日に有名女優の自殺が発生し、ようやくその後の自殺報道はWHOの指針に沿ったものが多くなったが、それでも一部にガイドラインに沿わない報道が見られた。結局コロナ禍が長引いたこともあって10月以降も自殺者は例年よりも多い傾向が続いている。

 2021年に入っても若者、特に女性の自殺者が増え続けている中、2月12日に菅義偉首相は坂本哲志一億総活躍担当大臣をコロナ禍で深刻化する孤独・孤立問題を担当するよう指示。世界では二番目、イギリスに次いで孤独・孤立担当大臣を任命した日本政府だが、この大臣自身がこれまで失言、失態続きで若者問題や女性問題、自殺問題、引きこもり問題には全くの素人。むしろ若者や女性の心理にどこまで理解があるのか極めて疑わしい70歳という高齢の男性、という最悪の人選であった。この、ただ「やってます」感を演出しただけの見せかけ政策は当然のことながら自殺の抑止にはほとんど効果を見せること無く、現在に至っている。

 これまでの自殺問題や引きこもり問題、若者の貧困問題に対しての見せかけだけの無策ぶりに見られた政府の意欲・関心・能力の低さもまた日本が若者、女性の自殺増加を止められない大きな一因と言えるだろう。結局は自殺問題やコロナ禍への救済政策よりもオリンピック開催を優先した安倍内閣、管内閣とオリンピック報道に狂奔する一方でWHOのガイドラインを守ろうとしない金儲け主義のマスコミの責任は極めて大きいと言うほかあるまい。

参考動画

【自殺防止】電話相談で“死にたい”の声に向き合う若者たち 年間2万人以上が自

   殺【大阪】 ABCテレビニュース  2022/08/30  15:18

【自殺防止】「死にたい」の声に向き合う若者たち 悩みを抱えながら相談員の道へ 

   元相談員の東留伽アナが密着【newsおかえり特集】

   ABCテレビニュース  2023/08/30  16:38

 二つのABCテレビニュースの動画は自殺相談に取り組もうとする若者を通じてカ

 ウンセリングの基本をコンパクトに学べる、ズバリ、高校生向けとしてイチオシの

 動画。二つとも視聴すればとりあえず知識としては定着するだろう。

【自殺未遂】「生きていて良かった」当事者女性の思いは?パパゲーノ効果とは?

   大空幸星と考える|アベプラ

   ABEMA Prime #アベプラ【公式】 2023/03/08  34:52

 自殺未遂者へのアプローチがこれまで不十分だった点に気付く。パパゲーノ効果を期待する上でも未遂者の言葉に耳を傾けたい。同時に自殺未遂者が年間に50万人以上も存在する日本社会の闇から目を逸らしてはなるまい。

【生きるという選択】自死遺族と未遂女性の苦悩とつなぐ”命”

   大阪NEWS【テレビ大阪】 2023/09/16  10:21

【ワイドショー】娘を亡くした両親の悲しみコメントは必要?テレビ報道は人を傷

 つける?過度な報道の境界線を番組プロデューサーと考える|#アベプラ《アベマ

 で放送中》2021/12/25 ABEMAニュース【公式】 24:28

 まず見直すべきはマスコミによる有名人の自殺報道のあり方。

【自殺相談】大空幸星「死んでもいいけど、死んじゃダメ」

 ABEMA 変わる報道番組 #アベプラ【公式】 2022.10.18 15:20

【子どもの自殺】いじめよりも多い原因は?勉強や家族の悩み?「学校にいかなくて

   もいい」は正解?大空幸星と考える|アベプラ

   ABEMA Prime #アベプラ【公式】  2023/08/22  21:26

相談相手は「お母さん」という若者が増える真因 友達と安定した関係を築けないZ世

 代の憂鬱 東洋経済オンライン井艸 恵美 の意見 2022.12.6

 「相手との関係を失う怖さから空気を読むことを最優先する一方で、何でも話せる

 関係性を求める傾向」がZ世代に見られるという指摘は非常に重要。

参考記事

「大多数の精神科医は投薬の専門家に過ぎず、精神療法は独学」...和田秀樹氏も驚

   愕した「日本の心療内科」の「ヤバすぎる実態」

   現代ビジネス 週刊現代 によるストーリー 2024.4.16

 若い人へのSSRIの投薬には自殺への危険性が伴う、という指摘に注目。精神療

 法に通じていない医者ほど投薬治療一辺倒になりやすく、それが治療や入院期間の

 長期化につながっているようだ。さらに日本の精神医療行政の杜撰さは古くから指

 摘されてきたが、いまだに十分な改善をみていないとのこと。

  能力が低い医者ほど結果的に患者を長期間抱えることが出来るために患者を見放

 さずに「親切で丁寧」な好印象を与えつつ、診療報酬も安定的に確保できる傾向が

 見られるという指摘にも注目したい。悪徳病院の存在を許し続ける日本社会の背景

 には精神科の診療報酬システムの欠陥があり、精神病患者への社会的偏見がほとん

 ど払しょくされないままである点も見逃せまい。

  多くの生徒たちにはあまり知識のない分野ではあるが、日本の自殺率の高さを考

 えるとこの問題を積極的に取り上げていく必要は大いにあるだろう。

精神科看護師「違法な身体拘束を強要されてうつ病」、東京地裁が労災認定…「発

 症は業務が原因」 読売新聞 によるストーリー 2024.4.15

 介護施設、障碍者施設でも横行している虐待事件の背景には何があるだろう。ぜひ

 生徒たちに考えさせたい。

PTSD発症メカニズムを解明、治療薬に道筋…東大などチームが関係遺伝子を特

   定 読売新聞 によるストーリー 2024.3.3

   心の問題を脳のメカニズムの解明により解決していこうとする現代の精神療法の方

 向性がよく分かる記事だろう。

「うつ病」はどのように遺伝するのか…「日本の研究者」が世界で初めて発見した

   「その仕組み」 現代ビジネス 近藤 一博 によるストーリー 2024.3.30

 うつ病がウィルスによって母子感染するメカニズムの一部が判明。うつ病治療においても遺伝子レベルの治療法が研究されているとのこと。

うつ病患者の脳では何が起こっているのか…最新の研究でついにわかった「危険因

   子」現代ビジネス 近藤 一博 によるストーリー 2024.3.4

   セロトニン仮説が支持されなくなってきた一方で炎症性サイトカインという物質が

 うつ病の原因として疑われ始めている。今後の研究動向に注目したい。

「うつ病になりやすい性格の人」が、じつは会社にとって重要な存在であるといえ

   るワケ 現代ビジネス 近藤 一博 によるストーリー 2024.3.10

 「うつ」を常に否定的に捉え、撲滅の対象とするような発想は危険であり、かえっ

   てうつ病患者やうつ傾向の人々の自己肯定感を下げることにつながるだろう。「う

   つの現実主義」が組織の崩壊を予防するプラスの効用を持つことはこれまでも指摘

 されてきたことである。逆に下手なプラス思考はかえって組織に大きな危険をもた

 らすこともあるのだ。この観点は「うつ」を授業で扱う際には「うつ」への偏見を

 解消する上でも必ず紹介すべきものだろう。

朝日新聞デジタル:児童生徒の自殺、最多の479人 昨年、休校明けに突出 

 伊藤和行 2021年2月15日 18時39分

【認知行動療法の世界的権威が明かす】一瞬にしてあなたをネガティブ思考から解

 放する11ヵ条  DIAMONDOnline 星 友啓 2022/11/06  

老化にも影響!「頭の中のひとりごと」危険な正体 「考えすぎる人」は人生を台無しに

 してしまう 東洋経済オンライン イーサン・クロス 2022.12.31

 

参考動画

自死遺族に寄り添うことについて語ります。

   精神科医・肉q  2022/09/02  9:03

   自死遺族の心理と対応について簡潔にまとめられており、参考になる。

【自死】防ぎにくい意外な理由についてお話しします。

   精神科医・肉q  2023/07/28  10:13

   自殺してしまう人に対する二つの誤解については知っておいた方が良い。

「精神医療」崩壊 メンタルの不調が心療内科・精神科で良くならない理由【著書紹

 介もあり】 和田秀樹チャンネル 2  2024/08/10  10:45

 日本の精神医療の遅れがどこに起因しているのか、解説されているが、ここで指摘されている事の多くが日本の学校教育の遅れとほぼ同じであることが察せられる。

【自殺自死】「生きたい思いが綴られていた」友人を亡くした女性が語る葛藤と後

 悔とは?家族と比べて明かしにくい友人の死 命を繋ぐため考える|#アベプラ《ア

 ベマで放送中》 2021/09/01 ABEMAニュース【公式】 19:43

 視聴時間は多少長いが、是非、自死者遺族の問題にも注目させたい。

「うつ」から回復した人の特徴 

 精神科医がこころの病気を解説するCh 2022/01/06  7:54

 ウツが寛解したときどういう状況になるのか、どういう自分になれるのか、ゴールを知っておくと治りやすい、というのは重要な知見。

【廊下が波打って襲ってくる】統合失調症の症状、社会復帰、すべて語ってもらい

 ました。【松本ハウス たかまつななチャンネル 2022.5.30 36:11

 統合失調症の概要を知る人はかなり少ないのではないか。100人に一人の割合で発症する脳の病気であり、決してレアな病気ではない。自殺に至るケースもあり、通院と投薬治療を要する病である。ただし近年、新薬の登場により寛解に至るケースが増えてきている。ところが犯罪や自殺、長期の引きこもりに発展してしまうケースばかりが報道されるせいか、残念ながらこの病気に対しては多くの健常者から不気味がられる傾向が続いてしまっているように思える。統合失調症が当人の心構えの問題ではない事だけでもせめて周知されるべきだろう。相方の対応が非常に素晴らしい。統合失調症の人とどう付き合っていけば良いのか、大いに参考となる動画である。思春期に発症するケースがよくあるので教師ならば教科の枠に囚われず、ぜひ多くの方に視

聴していただきたい。

知る痛み、について解説。治療を受ける抵抗感について 

 精神科医がこころの病気を解説するCh  2022/02/12  17:55

「知る痛み」について知ることの重要さと治療抵抗性の強い人の心理が理解できる。

心傷ついた人と接する上で、支援者側がうつにならないために心がけること。#早

 稲田メンタルクリニック #精神科 医 #益田裕介2022/04/10 精神科医がここ

 ろの病気を解説するCh 15:54

 次の動画も含めて支援に携わる教師必見。

自分だけの空間をつくる。相手と適切な距離を取る方法 

 精神科医がこころの病気を解説するCh 2022/04/15  13:41

双極性障害はいつまで薬を飲まないといけないのか? 

 精神科医がこころの病気を解説するCh  2022/05/04  7:52

 10代、20代で発症することの多い双極性障害は自殺率が10%を超えるほどに高く、再発率も1年後には90%を超える高さであり、場合によっては一生、薬を飲み続けなければならないほどに厄介なものである等はぜひ知っておく必要があるだろう。

うつ病と間違って診断されることもあり、長期にわたって治療を続けていても改善の兆しすら見えないようなケースでは双極性障害を疑った方が良いかもしれない。双極性障害であっても「躁状態」が目立たず、「うつ状態」ばかりが目に付くタイプがあり、誤診を招きやすいという。

【ハーバード流メンタル回復術】ポジティブ思考で自己肯定力を高めろ!【キーワ

 ードはトトロ!?】 2022.10.4 日経テレ東大学 53:15

 コロナ禍における不安との向き合い方を脳科学から解き明かす内田氏の極めて明快な説明は感情と身体や精神との関係性を理解する上で大変役立つ。特に特定の人々が日常的にさらされている「マイクロアグレッション」という言葉の意味するところに注目したい。一定の固定観念から生み出されたフェミニストや同性愛者などへのSNS上での激しい誹謗中傷の背景に潜む中傷される側の心に蓄積されている不合理への怒りにも理解は必要。「ドラえもん」のしずかちゃんに見られる固定的な女性像への違和感に気付けるのかどうかが問われるだろう。また子供の自己肯定感を高めるヒントが「となりのトトロ」に登場するさつきやメイの父親の言動に沢山みられる、という指摘にも納得。「親ガチャ」の弊害を低減させるのが公教育の大きな役割なのに、学校がそこでも機能不全になっているという指摘は痛烈。「未来と自分は変えられる」信念を保持しつつ、過去へのラディカルアクセプタンス」(変えられない過去を抑圧せずありのままに受容することではじめて保てる、自分と未来に対して前向きで建設的な心構え)を持つことが今の学校教育には強く求められているのだろう。

田中優子さん「言葉にできぬ思い伝えるため、本を読む」、宮台真司さん「安らげ

 るホームベースが完全消滅した社会のキツさ」(司会 尾形×望月) 

 The News 7/10  スピンオフ Arc Times   2023/07/21 12:15

 交換可能な「イット」からかけがえのない「ユー」へ、無条件に受け入れてくれる「ホームベース」の再構築へ、日本社会は向かうことが出来るのか。

参考文献

・「コロナ下における自殺~現状と対策の方法~」上田路子 臨床心理学125「自殺

 学入門~知っておきたい自殺対策の現状と課題~」金剛出版 2021

 2020年の傾向として女性の自殺者数が前年よりも935人(15.4%)増えたことと、若者、特に小中高生の自殺が499人となり、1980年に統計を取り始めてから過去最高を記録。とりわけ女子高生は前年の80人から140人と激増し、その時期は8月以降に集中。若い女性の自殺が増えた原因としてコロナ禍での自粛で打撃を受けた観光業や飲食業等の従事者に女性が多く、かつ非正規雇用が多いために経済的な打撃を強く受けてしまったことが挙げられる。もう一つは著名人の自殺報道であり、著名人の自殺報道が繰り返された7~8月と10月に昨年度の同じ月よりも大幅に自殺者が増えている。

 ※参考記事

  高校生とみられる女性2人が死亡、飛び降りか 東京・江東区

    産経新聞 2024.2.6

  ○「制服姿の少女2人が…」 9階から転落? 1人は死亡 大阪・吹田

    朝日新聞社 によるストーリー 2024.2.13

  ○10代制服女性2人飛び降りか 大阪・吹田、1人死亡

    共同通信 によるストーリー 2024.2.13

  高校生男女飛び降り死傷 岡山県立高の校舎から

   共同通信 によるストーリー 2024.6.26

   上の四つの報道記事のどこがダメなのか、なぜダメなのかを生徒たちに問いたい。東京と大阪の

   出来事とはつながりがあるだろうか?報道する側は受験シーズンで受験生が心理的に不安定にな

   りがちなこの時期に、このような報道がどのような心理的影響を受験生たちに及ぼすのか、慎重

   に考えてから報道するべきだろう。なぜ日本のマスコミはWHOの自殺報道に関する指針をまっ

   たく守ろうとしないのかも、あわせて生徒たちに考えさせたい。

 

主な参考文献:太字は特にお薦めの本

・「孤独な人が認知行動療法で素敵なパートナーを見つける方法」

 D.バーンズ 星和書店・・・「目からうろこが落ちる」指摘の数々。

・「いやな気分よ さようなら コンパクト版」D.バーンズ 星和書店

・「フィーリングGood ハンドブック」D.バーンズ 星和書店

・「はじめての認知療法」大野裕 講談社現代新書

・「こころが晴れるノート」大野裕 創元社

・「悩み・不安・怒りを小さくするレッスン 認知行動療法入門」

 中島美鈴 光文社新書

・「認知行動療法」下山晴彦・神村栄一 NHK出版

・「マインドフルネスを始めたいあなたへ」ジョン・カバットジン 星和書店

・「はじめてのマインドフルネス」クリストフ・アンドレ 紀伊國屋書店

・「今、ここに意識を集中する練習」

 ジャン・チョーズン・ペイズ 日本実業出版社

・「ケアする人も楽になるマインドフルネス&スキーマ療法BOOK1」

  伊藤絵美 医学書院 

・「マインドフルネスであなたらしく」S.オルシロ、L.ローマー 星和書店

・「マインドフルネス実践講座~マインドフルネス段階的トラウマセラピー~」

 大谷彰 金剛出版

・「ACTハンドブック」武藤崇編 星和書店

・「セラピストが10代のあなたにすすめるACTワークブック」

 ジョセフ・V・チャロッキ他 星和書店 

・「特別企画:<死にたい>に現場で向き合う」こころの科学 No.186 

 日本評論社

・「自傷・自殺のことがわかる本」監修松本俊彦 講談社

・「家族・支援者のためのうつ・自殺予防マニュアル」下園壮太 河出書房新社

・「クライシス・カウンセリング」下園壮太監修 金剛出版 

・「自殺で遺された人たちのサポートガイド」

 アン・スモーリン、ジョン・ガイナン 明石書店 

・「自死は、向き合える」杉山春 岩波ブックレット

・「自殺をケアするということ」木原活信・引土絵未編著 ミネルヴァ書房

・「セラピストのための自殺予防ガイド」高橋祥友編著 金剛出版

・「思春期・青年期のうつ病治療と自殺予防」

 D.A.ブレント、K.D.ポリング、T.R.ゴールドステイン 医学書院

・「特集:自殺学入門~知っておきたい自殺対策の現状と課題~」

 臨床心理学 125号 金剛出版 2021

・「特別企画:PTSD ストレスとこころ」こころの科学 NO129 日本評論社

・「マインドフルネス・レクチャー 禅と臨床科学を通して考える」

 貝谷久宣・熊野宏昭 玄侑宗久 金剛出版

・「荘子と遊ぶ~禅的思考の源流へ~」玄侑宗久 筑摩書房

・「<助けて>が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか」

 松本俊彦 日本評論社

・「遺族外来―大切な人を失っても」大西秀樹 河出書房新社

・「薬づけからの脱却 治す!うつ病、最新治療」リーダーズノート編集部 

 リーダーズノート出版

・「セーラー服の歌人 鳥居  拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語」

 岩岡千景 アスキー・メディアワークス 

・「どうしても頑張れない人たち」宮口幸治 新潮新書 

「EMDR革命:脳を刺激しトラウマを癒す奇跡の心理療法~生きづらさや心身の

 苦悩からの解放~」タル・クロイトル(市井雅哉訳) 星和書店

 トラウマ治療、PTSD治療を巡る考え方は立場によってかなり異なるという印象がある。過去の悲惨な記憶と必ずしも向き合わなくとも良い、という考え方はYouTubeで活躍する精神科医(樺沢紫苑等)からもしばしば聞こえてくる。一方で、EMDRの立場は記憶を重視し、眼球運動による脱感作などを用いて短期間でおぞましい記憶とそれがもたらす副作用から患者を解放できると説く。日本では比較的、新しい治療法であるが、今後の動きに注目してみたい。

・「心の病の脳科学~なぜ生じるのか、どうすれば治るのか~」

 林朗子・加藤忠史編 講談社ブルーバックス 2023

 遺伝子や神経回路のレベルからも治療のアプローチが試みようとする最前線の研究の動向が記されている。ただし精神医療の門外漢にはかなり難解。

カッパのオススメ本

バーンズの本はどれも分厚くて最初は手に取るのに抵抗感がありますが、興味深い豊富な事例と巧みな文章で飽きさせません。特に「孤独な人が・・・」は日本人が度肝を抜かれるほどに大胆な切り口でまさに「目からウロコ」が落ちまくる展開。

「初めてのマインドフルネス」はフランス人の著者らしく、絵画の絵解きからマインドフルネスの真髄を説き明かしていく、芸術好きには堪らない教養本。理屈よりも感性を重視する人にはピッタリの本です。絵画の見方が変わるかもしれません。

下園壮太氏の著作は理論よりも、豊富な実践に裏付けられた実践的内容で非常に分かりやすいものとなっています。基本的には治療に役立つものならどんどん取り入れる実践重視の折衷的立場ですので理屈っぽさがなく、誰でもとっつきやすい内容。

「自死は、向き合える」は遺族にも目を向けた、コンパクトに自殺を巡る社会の諸問題を論じている、社会問題としての自殺入門書として最適の本だと思います。カッパイチ押しの本です。

・玄侑宗久氏の「荘子と遊ぶ・・・」は直接、心理療法を論じている訳ではないのですが、深いところでマインドフルネスへの理解につながるユーモア溢れた傑作です。老荘思想の持つ豊かさ、可能性に開眼するでしょう。この世界観はクセになりそう。

※玄侑宗久氏はyoutubeの動画も配信しており、動画視聴もオススメ。たとえば「玄侑宗久チャ

   ンネル お悩み拝聴 報われない人生が辛いです。63歳男性」( 2023/10/13  6:57)は傑

   作。ぜひ視聴してみてください。

・「セーラー服の歌人・・・」は母子家庭で育った女性が小学校5年で母親を自殺で失い、児童養護施設などを転々とする中で、自ら自殺未遂にも追い込まれてしまう歌人「鳥居」(仮名)の凄絶な半生をたどった本。女性の貧困、児童養護施設の闇、形式卒業の問題にも目を向けることになります。鳥居さんの歌集「キリンの子」(KADOKAWA 2016)とともにお薦めの本。20代になってもなぜ彼女はセーラー服を着て街角に立つのか・・・学校教育問題や貧困問題、女性の生きづらさなども含めて考えるべきテーマは多岐にわたります。

「どうしても頑張れない人たち」は学校教育や特別支援に関わる人にとっては極めて重要な必読書と思われます。著者は「ケーキの切れない非行少年たち」で有名な宮口幸治氏ですが、学校教師にとっての重要度は2作目の「どうしても頑張れない人たち」の方が数段勝ると感じています。宮口氏の「頑張れないからこそ支援しないといけない」という指摘が孕んでいる課題意識はおそらく私達の予想以上に重要な視点を提供していると感じます。分かりやすく丁寧な文体ですので、多くの教師や保護者の方々にも読んで頂きたい一冊です。

 自分自身も支援を必要とする生徒達の良き伴走者となれているのかどうか、深く反省させられた本でした。非行少年との伴走という特殊な職務に役立つだけではなく、私達大人が精神的な悩みに直面している多くの生徒達、青年達に寄り添っていく上でも大いに役立つ内容です。

 

 

 

 

 

 

 

その4.不安や恐れと向き合う(前編)

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 前回に続きまして心理学ネタ編その4となります。青年期は自分の将来や人間関係などの「不安や恐れと向き合う」時期でもあります。それにうつ病の発症は青年期が多いとも言われますので社会科として少しは触れておきたいテーマです。

 不登校の多い三部の定時制に6年間いたので、ウツ傾向にある生徒とは毎年、授業で出逢います。うつ状態の人にどう向き合うべきなのか、今はウツではない生徒でもいつか必要とされる知識だと思い、何度か授業で扱いました。また親や親戚、友人や同級生に自殺している人がいる生徒、生徒に自殺されてしまった教師は日本の場合、決して少なくありません。そこで最後に、自殺者と親しい関係にあった人達(サバイバー)の心理にも触れておきました。

 

・導入として:「別れ」と向き合う唄を聴いてみよう。

 (少しばかり「押し活」してしまいますが悪しからず。)

余命宣告、末期癌患者が伝える人生で一番大切なこと。 | ライフソング #朝倉さや

 MusicVideo 2022/04/03 4:18

Q.もしも余命半年とあなたが医者から宣告されたなら、残された日々をどう過ごして

 いきたいか?

Q.この曲が私たちに投げかけている「末期癌患者が伝える人生で一番大切なこと」と

 は一体何だろう?

Q.大切な人との別れに直面した時に、私たちはそれをどう受け止めていけば良いのだ

 ろう?

※以下、本動画の概要欄より引用

 「癌再発転移。プロデューサーsolayaが35歳時に受けた余命宣告1年。残り少ない1秒を音楽に託すメ

 ッセージ「一緒に生きてる。」最上川舟唄 Life Songから始まった、Another Story。計100万回再生

 を超える、ライフソングシリーズに書き込まれた「胸を打つそれぞれの人生」「励ましの言葉」 選択

 肢のなくなった抗がん剤治療、医療用麻薬、残り時間の使い方。末期がん患者が伝える、人生で一番

 大切なこと。」

※朝倉さやオフィシャルホームページの「プロフィール」によると・・・

 朝倉さやさんはシンガーソングライター。 1992年6月29日生まれ山形県山形市出身。民謡日本一に2

 度輝き、18歳で上京、2013年デビュー。rystal KayやJUJU、東方神起、坂本真綾など著名アーティ

 ストを手掛ける音楽プロデューサーsolayaと出会い、オリジナル曲の制作を開始。 また動画サイトで

 名曲を民謡調•山形弁に 編曲カバー、話題に。・・・

 

参考記事

世界幸福度ランキング1位・フィンランドの高校生は「人生観」を学んでいる。セレ

 ンディピティの概念や不公平への視点…人生を切り拓く教育とは

 婦人公論.jp 岩竹美加子 によるストーリー 2024.11.2

 …調査によると「私個人の力では、政府の決定に影響を与えられない」という考えについて、日本の高校生の83%が「全くそう思う」、または「まあそう思う」と答えたという。それは米国76.2%、韓国64.4%、中国59.4%の回答と比べて高い。フィンランドの教育は社会や政治に影響を与えることを非常に強調するが、日本でそうした教育はされていない。自分の力で政府の決定に影響を与えられるという感覚が低いのは、当然の結果であり不思議はないだろう。…

 日本の若者が投票に行かず、政治への関心や知識が不足し、自己有効感、当事者意識、主権者意識などに欠けてしまいがちなのも、抑圧的で管理主義的、画一的な日本の学校教育が生み出す弊害と考えられる。

 また心理学の有益なポイントを高校生の時から学習しているフィンランドに対してほとんど教えていない日本ではストレスなどへの対処法に習熟していない生徒が多い傾向が見られるようだ。加えて日本の学校では子どもから自己肯定感を奪うような規律遵守の指導が目立つ。こうした事などから日本では過去2年間連続で小中高の年間自殺者数が500人を超えている。時に児童生徒を委縮させかねない日本の道徳の授業よりも科学的な見地から生き方を学び取るフィンランドの授業の方が子供たちの幸福感を高める効果があるのだろう。

がんになった音楽プロデューサー 「余命1年」告げられ、考えたこと

 withnews 田中紳顕 2018.12.15

 朝倉さんはsolayaさんの全面的バックアップを受けて10年近く、プロ歌手としてのメジャーデビュー目指して二人三脚で頑張ってきたようである。しかしYouTubeなどでの視聴回数自体はそこそこ稼げていたが、横浜でのコンサートがコロナ禍に阻まれるという不運もあってプロとしてメジャーな存在にはなかなか到達できない現状が続いていた。そうした中でのsolayaさんの癌の再発と転移…治療の甲斐もあって余命宣告1年から5年余り経つがさすがに治療の限界が迫ってきた中で、この歌が二人にとっての最後の曲となる…そういう思いでこの動画は公表されているようである。動画内での映像やテロップはsolayaさんが手がけたものらしく、自己の死を目前にして本当に大切な物とは何かを自問するような言葉が続く。朝倉さんはMVを見た時に初めてsolayaさんのテロップに込められたメッセージを確認できたようである。

リアクション動画 | 泣いた理由、涙で本音を語る。【ライフソングのPV初めて見

 る】朝倉さや (アルバム - Life Song) 

 2022/04/03 朝倉さや , Saya Asakura 6:02

旅する民謡、人生が終わっても唄は終わらない / 北海鱈つり唄 

 MusicVideo (ライフソング) 2021/06/05 朝倉さや  3:36

朝倉さや生配信 2022.9.27 朝倉さや , Saya Asakura 24:58

  2022年9月11日のsolayaさんの死を伝える生配信。

ドーナツ | ラジオ深夜便「深夜便のうた」放送中 #朝倉さやMusicVideo

   朝倉さや , Saya Asakura  2023/10/19 4:42

 この動画を一つの手掛かりとして大切な人を失った時にそれをどう受け止め、残された時間をどう生きていけば良いのだろうか、もう一度考えてみよう。

 

 以上で「押し活」終了です。

 

[とちスペ] 残された時間を精一杯生きた女子高生のメッセージ 白血病と闘った日々

 の記録 | NHK 2022/12/06 6:51

【脳腫瘍】病と闘った7年間 絵を描き問い続けた“生きる意味” #中京テレビ

 ドキュメント中京テレビNEWS  2022/12/22 14:28

【2年間の密着取材】亡き人と紡ぐ『未来の思い出』「絆画」‥故人と遺族の絆を

 繋ぐ絵師  CBCドキュメンタリー 2022/03/22 CBCドキュメンタリー 50:00

 13:30までを視聴させても良いだろう。「絆画」について生徒達の感想を確認してみたい。

【漫画】「もしあと1年で人生が終わるとしたら?」をわかりやすく解説【要約/小

 澤竹俊】 2021/11/23 フェルミ漫画大学 14:08

 「やりたいことリスト」「自分が誰かを喜ばせられる事とは何」「家族との時間を大切に出来るか」

  等、アンケート形式で自由記述させたい。

「おくりびと」 予告編 2008/09/05 toshiakikuwajima

 大切な人の死にどう向き合うのか、考えさせられることの多い映画。カッパが倫理や現代社会でよく

 利用してきた傑作。時間が許すなら全編、視聴させても良い。

知らないと損。精神科医が教える、治療的に正しい不安との向き合い方

  2021/07/01 精神科医がこころの病気を解説するCh 19:18

 不安と向き合うための方法論。

[NHKスペシャル] 東日本大震災 親を亡くした子どもの「心の声」 | 震災遺児 | 

 東日本大震災から10年 | Nスペ 5min. | NHK 2021/03/13 5:08

 大切な人の死をどのようにして受け入れていくのか、遺された人たちの心のケアをどうしたら良いの

 か、考えてみたい。

自死遺族 のこされた家族の日常 はしもと ゆっこ 2021/02/18 8:45

参考記事

精神科医が「高校生の患者」にする質問の中身 心理的な葛藤が体の症状に出ている場

 合には… 東洋経済オンライン 尾久 守侑  2024.6.17

 高校教師にとっても非常に役立つ、高校生と接するときの心構えであろう。「心から心配する温かさを持ちながらも、ああ、このやり方はちょっと近間すぎるなとか、遠間すぎるなとか、役割を演じる冷たさも同時に必要で、心が温かいだけでは巻き込まれてしまうし、役割を演じていること、装っていることに関しては、思春期の子のほうが大人よりもよっぽど敏感だから冷たいだけでも勘付かれてしまう。自然な間合いまで自分を晒し、本当に心配していると同時に、大して心配していないという矛盾した心理状態を保つことが、比較的普遍性のあるスタンスとして多くの治療者に受け入れられやすいのではないかと思う。」

 絶妙なバランス感覚ではあるまいか。

・うつ病と双極性障害

参考動画

【危険】疲れの限界サインTOP5!この症状増えたら早急に休んだ方がいい(うつ

   病 双極性障害) 睡眠専門医渥美正彦  2024/12/08 7:01

 ストレスと過労による心身の失調には敏感でありたい。心と体の関係に注目し、自他ともに最悪の事態を招かぬ努力が必要である。

【驚愕】人はなぜうつ病に苦しめられるのか?

   VAIENCE バイエンス  2023/11/19  10:00

 うつ病に関する基本的な事柄を概観するには最適の動画。10分間という視聴時間も使用しやすいポイント。まずこの分野の導入として利用してみたい。

双極性障害 発症から15年の浮き沈み全て教えます。【躁うつ病 患者さんの実体

   験】 睡眠専門医渥美正彦  2024/10/30 7:58 

 かつて「躁うつ病」と呼ばれていた双極性障害は発症が思春期であることが多く、緊急性もあるため、教師としては必ず知っておくべき知識である。専門家でも「うつ病」と誤診することが少なくないため、発見・治療が遅れがちになり、自殺などの重大事態を招きやすい病気と考えられている。

   気分が高揚し、浪費に走る、衝動的になりやすい、激高する、自傷行為に走る…といった問題行動は本人に気分の落ち込みが無く、むしろハイになっている時に生じがち。しかし患者の多くはハイの状態を問題視できないため、患者自身、病態を自覚できない傾向が強い。患者は抑うつ状態ばかりを問題視してしまい、うつ病の治療薬を服用しがちになるため、症状をこじらせてしまうケースが多いという。

 教師としても要注意の病気。

【衝撃】うつ病の人に絶対やってはいけない5つのこと【危険すぎるよ…】

   睡眠専門医渥美正彦 2024/11/10 7:24

   重要ポイントがよく整理されていて理解しやすい。

※こんな会話をしていたらうつ病かもしれない5選【初期症状】

   睡眠専門医渥美正彦  2024/10/13 6:23

   うつ病患者は過去への後悔と未来への不安に心を占領されていて、同じ話を繰り返し勝ち…という指摘は特に重要かと思う。

うつ病の知られていない10の症状【精神科医が徹底解説】

   睡眠専門医渥美正彦  2024/12/15  10:05

   一割近くの人が生涯において一度は罹患すると言われるうつ病の基礎知識は教養としてぜひ若いうちに身につけておきたい。

うつ病の人が見る6つの変な夢【悪夢障害】

   睡眠専門医渥美正彦  2024.12.29  5:58

 子供のころによく見た悪夢がかなり含まれているかもしれない。ポイントはここで例示された内容の悪夢を繰り返しみる場合はうつ状態にある可能性が高い、という点にある。ただの夢占い、夢分析は非科学的であり、信じてはなるまい。

   悪夢への関心は高く、夢占いを信じている児童生徒は少なくあるまい。このテーマを扱う際には彼らに変な暗示をかけてしまい、不安がらせる結果にならないよう、科学的で慎重な説明が必要とされる。

   なお、渥美先生の動画は特に睡眠障害、うつ病、睡眠薬などを10分以内の短時間で丁寧に分かりやすく解説してくれているので授業で視聴するには一番のオススメ。

参考記事

「うつ」になる確率も低下する…メンタルの不調から私たちを守ってくれる「3つの

   要素」現代ビジネス 飯田 一史 によるストーリー 2024.2.16

 この程度は全員知っておくべきだろう。

冬はセロトニン分泌が激減 「冬期うつ」は一般的なうつ病と何が違う?

   ウェザーニュース によるストーリー 2024.1.21

 気分や感情が基本的にはセロトニンといった物質的基盤の上に成り立つ現象であることは十分に理解

   しておきたい。とりわけ日本海側や東北、北海道の人たちは秋から冬にかけてそのことを強く意識し

   て生活する必要があるだろう。

他人を思いやる行為は抑うつや不安の症状を軽くする?

   HealthDay Japan Translation によるストーリー 2023.1.16

 他者への思いやりが抑うつや不安を軽減する可能性があることは以前から指摘されていたことではあ

   るが、改めて確認しておきたい重要ポイント。

太古より「不安」こそが生き抜くための人間の武器だった? 未来の不安を予想して

 も「95%」は当たらないもの 集英社オンライン オピニオン 2023.6.9

 「不安」とどう向き合うべきなのか…その基本的スタンスが極めて分かりやすく記されている。「今

  を生きる」マインドフルネスの考え方にも通底するものを感じる。

子供のうつ病、大人との違いは 小中高生の自殺者数「過去最悪」で対策急務に

 産経新聞 2023.4.3

 日本における精神医療分野での法整備の遅れはかなり深刻なレベルにあるのかもしれない。

日本人が知らない「感情」が果たす超重要な役割 世界中の研究機関が注目する「感情

 神経科学」東洋経済 オンライン レナード・ムロディナウ の意見 2023.6.14

 感情はこれまでもっぱら理性的判断を狂わす非理性的役割を果たすものとして捉えられる傾向があ

 り、「感情的になるな」といった忠告が繰り返されたりもしてきた。しかし脳の働きがミクロなレベ

 ルから解明されつつある中で次第に感情の果たす役割が見直されつつあるという。

いじめでも、家族関係でもない…子どもが自殺を考える「1番の理由」の正体

 文春オンライン 末木 新 によるストーリー 2023.7.3

 家族関係や学業・進路の悩みが若者の自殺の原因として最も多い、ということは教師として弁えてお

 きたい。特に進路指導にあたる教師は要注意。

「まさか」と「またか」 人を自殺に追い込む「危機経路」に“一定の規則性 「全

 体」通じた支援を FNNプライムオンライン によるストーリー 2023.9.10

 自殺に至るプロセス全体を通じての予防策が必要であり、その予防策はすべての 人々にも役立つも

 のとなる、という指摘はこの問題を考える上で踏み外してはならない基本中の基本だろう。

小中学生の自殺“過去最多” 近年増加「市販薬のオーバードーズ」による死が統計に

 含まれない事情 弁護士JPニュース によるストーリー 2023.10.5

 「全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患実態調査」によると、10代の薬物使用における「市販薬」の割合は14年には0%だったが、16年には25%、18年には41.2%、20年には56.4% 、22年には65.2%と増加している。その結果として、市販薬のオーバードーズによる死亡が後を絶たない…という。しかもオーバードーズによる死亡は自殺としてはカウントされていない可能性があるらしい。

 とすれば児童生徒たちの「自殺」件数は厚生労働省のものですら信用できない。

 

戦争トラウマ、初の実態調査 国が旧陸海軍病院の資料など照会へ

   毎日新聞 によるストーリー 2024.8.16

 戦争経験者がほとんどこの世を去った段階での、あまりにも遅すぎる取り組みにむしろ驚きを隠せない。日本の精神医療体制の遅れはこうしたところにもあからさまに露呈しているのだ。欧米では第一次世界大戦のころから注目されてきたこの問題が日本では何と一世紀遅れで話題になる…日本における学校教育行政の遅れと精神医療行政の遅れは密接に絡み合いながら全国各地にイジメ自殺事件の発生を招き、青少年の自殺率を高止まりさせてきた。厚生労働省と文科省の抱える闇は深い。

   ※参考動画

  【落合陽一】日本の死因はウソだらけ!見逃される殺人も?「異状死の解剖率わずか1割」法医学

   者の岩瀬博太郎がヤバすぎる現状を告白、なぜ解剖率低い?心不全が多い謎、野生型ガン、買う

   なら「高い車」が良いワケは NewsPicks /ニューズピックス  2024/08/08  17:36

   「異状死の一割しか解剖されない」現状では自殺統計も信用できるわけがない。死因の特定が解

   剖無しで「心疾患」という安易な診断が下されがちな日本では殺人ですら見逃されがち…という

   解剖医の指摘に驚かされる。原因究明の努力が何事においてもいい加減な日本の行政のあり方に

   大きな問題がありそうだ。

 

 このテーマでぜひとも視聴させたいのが「受け入れるという生き方 」佐々木 美和 (TEDxNagoyaU2015/08/28 17:50)です。この講演ではウツを扱ってはいません。重い病気で死に直面し、「不安や恐れと向き合う」若者に最後の限られた時間をどう送らせていくのかがテーマとなります。ちょうど高校生の話であり、話者の佐々木さんも話上手なので生徒の集中力が切れることはないでしょう。

 いきなり自殺の問題から入ると展開が余りにも重苦しくなります。とはいえ軽く冗談からはいるネタでもありません。このような、真剣に耳を傾けたくなる講演から入るのがベストと感じています。真剣に聞いてくれた生徒達はやがて「ウツの人」に対しても、また誰であっても「受け入れるという生き方」が必要であることに気付いていくはずです。

 関連してご紹介したい動画は「がんになって良かった」と言いたい 23歳でこの世を去った京大生の決意 AYA世代のがん患者たちと共有する想い」(関西テレビNEWS 2022/03/10 10:23)です。「がんになって良かった、と言いたい」との発言になぜ批判が多かったのか、討論させてみたいですね。また「人が死ぬ前に本当に後悔すること5つ 2000人を看取った医者がお伝えします」(緩和ケアちゃんねる・かんわいんちょー 2022/07/13 19:24)もオススメ。死を前にして後悔しない生き方、亡くなり方とは何だろう・・・しっかりと考えておきたいテーマです。

 

 以下は10年以上前ですが私が授業で用いたプリントの内容を教材の一例としてご紹介いたします。

 

はじめに

 心因性の問題に対してはカウンセリングを中心とした心理療法が試みられています。心身に悩みを抱えて憂鬱な日々を送っている人達を薬に頼らずに少しでも楽な気持ちで過ごせるよう、働きかけるのが心理療法です(なお薬の投与をともなう治療行為はお医者さんの資格を必要とし、普通の心理療法家では薬は扱えません)。精神科に対する偏見や心理療法に対する誤解が少なくなってきたせいか、特に気がねすることも無く精神科の外来やカウンセラーのもとを訪れる若者が徐々に増えてきたといいます。臨床心理士の資格があれば実際、就職にも事欠きません。今や、学校カウンセリング自体が小学校や中学校段階ではかなり軌道に乗り、特にカウンセリングへの興味関心は青少年の間にも非常に高まってきているようです。そこで今回はカウンセリングを中心に今、最も「ホット」な心理療法の世界を少しだけ覗いてみましょう。

1.カウンセリングの基本的考え方:来談者中心の発想とは?

 カウンセリングはアメリカのカール・ロジャースが1940年頃に来談者中心療法を確立して以来、様々な療法に枝分かれして現在に至っている。しかし来談者とカウンセラーが一対一で向かい合ったときの基本的な心構えはロジャースの唱えた原則がほぼ踏襲されているといってよい。それは「来談者中心」という言葉に表されているもので、かつての治療が治療者中心のものであったことへの反省から生まれてきた原則である。

 普通の病院を例に「来談者中心」の意味を考えてみよう。患者である我々は医者に吐き気やら痛みといった症状とその部位を告げ、医者はそれに対して触診したり、さらに詳しく症状を聞きだしたり、場合によってはレントゲンなどの検査を行うだろう。そして「ただの風邪のようです。」といった診断を下し、薬を与えたりして治療を終える。患者は普通、症状を訴えるほかはすべて医者の指示に従うのみである。専門的知識を持たない一般の人たちはこうした「治療者中心」の一方通行的な治療を当然のこととして受け入れざるを得ないのが現状である。

 身体的な症状を解決してもらうだけなら、我々も上記のような治療者中心の治療に我慢できるかもしれないが、心の異状を解決してもらうとなると話しは別であろう。何よりも自分の心の奥底を他人に見せること自体、我々に抵抗感が強い。加えて心は身体のような物体ではないから、他人が直接見ることも触れることもできないし、患者の心は結局、患者自身が主体となって変える以外に方法はあるまい。そもそも患者が主体とならなければ治療自体が成り立たないのだ。カウンセリングにおける患者中心の発想は治療における身体と心とのこうした違いから必然的に生まれてきたと思われる。

 ロジャースが来談者中心の発想を重点に置いたときに、それを具現化するための手法として最も重視すべきものとしたのが来談者に対するカウンセラーの受容的な姿勢(非指示的姿勢)であった。カウンセラーは来談者に対してできるだけ批判的な言動はとらずに共感的理解に努め、相手への無条件で肯定的な関心を持ち続けなければならないとされた。そのためカウンセラーは「…したほうが良いのでは」といった指示的なアドバイスを避け、来談者の言葉を反復して投げ返したり、不明瞭な部分を明確化してあげることに努めることになった。

カウンセラーはあくまでも相手を暖かく全面的に受け入れるという姿勢を貫き、その言動で来談者の主体性を損なわないよう、細心の注意を払った。そうすることで来談者の心理的抵抗感をなくし、来談者自らが問題の所在と解決法を気付くように仕向けられるとロジャースは考えたのである。すなわちカウンセリングとは専門家から来談者が何らかのアドバイスを受けるもの…といった通常の観念はここでは否定された。問題の発見と解決はカウンセラーが行うのではなく、来談者自らが行う、だからこれを来談者中心療法と呼ぶのである。

※ただしカウンセラー自身が自らをありのままに呈示する姿勢も無いと、来談者も安心して自由に感

 じ、考えたことを表現できなくなるかもしれない。したがって場合によってはカウンセラーが来談者

 への不満や攻撃的な感情をあえて表現することも許されるという。確かにカウンセラーが自らの感情

 を偽ってうわべだけで「受容的」な雰囲気を作り上げても、それはかえって「うそ臭さ」を伝えてし

 まい、来談者が真の自分自身に迫ることを妨害しかねないかもしれない。

2.行動療法

 カウンセリング理論とかなり対極的な立場をとるのが、この行動療法である。1959年、伝統的な心理療法に対抗し、学習理論(「学習心理学入門」参照)にそくした療法としてH.J.アイゼンクにより提唱された。彼は来談者の主観のような、科学的に実証できない曖昧なものには依拠できないとロジャースらを批判し、さらに無意識もまた実証不可能としてフロイトらの精神分析学をも批判した。行動療法ではあえて心を直接の治療対象とはせず、問題とされる行動の修正をはかり、「眠れない」といった症状の除去を最大の課題とする。問題とされる行動は過去に学習されてしまったものと捉え、その消去と好ましい行動の学習をはかるのが治療の基本となる。治療の具体例を見てみよう。

例1.「アルコール依存症に対する嫌悪療法」

 いわゆる「アル中」の患者を治療するためにまず吐き気を催す薬物を患者に投与し、吐き気(=嫌悪)が生じてきたら直ちに酒を与えるというもの。これを繰り返すことでアルコールにたいして「吐き気」を条件付け、飲酒行動の消去をはかろうとする療法である。

例2.「高所恐怖症に対する系統的脱感作療法」

 高い所が極端に苦手な患者に対して、少しずつ高所に慣らしていくと同時にその都度リラクセーションを施して、「高所」(刺激)→「恐怖感」(反応)という結びつきを消去していく治療法。ただし最近ではリラクセーションを施さずとも少しずつ恐怖場面にさらしていくエクスポージャー(曝露)だけでまったく同等の治療効果が得られるとされてきている。

 まずは不安階層表を十段階程度、作成。最初は不安の低い刺激から階層順に患者を刺激にさらしていく。その際、自覚される恐怖感を10点満点で自己採点させる。曝露される時間が経つにつれて恐怖感は必ず逓減されるので、理想的には0点になるまで曝露を続ける。0点となったら次の階層に進む。最終的には恐怖感が最高となる階層でも0点となったら治療終了。アメリカではさらにVR技術を使ったVRエクスポージャーも出現し、大きな治療成果を挙げているという。

 一般的に行動療法は精神分析と違って患者に対し過度な精神的負担を与えずに、しかも症状によっては短期間で改善されるというメリットがあるという。つまり特定の症状に対して自分の心の奥底に原因を求めていく分析的手法はヘタをすると自責の念の「アリ地獄」へと自分を追い込んでしまいかねない。しかし行動療法はどちらかといえば身体的な側面に原因を求める傾向がある分、治療を受ける際の精神的な負担が軽く済むようである。

 そもそも行動療法では自分の心の奥底を他人にのぞかれるという不安が少ない。ただし、「アル中」患者の場合でいえば確かに行動療法では短期間で症状の改善が見られるようであるが、中長期的に見た場合、やや気になる点も出てこよう。つまり、「アル中」患者の飲酒行動が嫌悪療法によって一時的に抑えられたとしても、彼が飲酒行動に耽るに至った原因(夫婦関係の破綻、仕事の失敗…etc)は未解決のままであろう。したがってたとえ嫌悪療法で一時的に症状の改善が見られたとしても、その原因が解決されない限り、やがては再発してしまう危険が残りそうである。

 重症の薬物依存のように一刻を争う場合には、行動療法で早期の症状改善をはかって健康の回復を待ちながら、折をみて根本的な原因の解決をカウンセリングや行政側の対応によって進めるという二本立ての解決法も考えられるだろう。実際、折衷的立場で治療する人も多い。ただでさえ、心の世界は謎だらけである。行動療法かカウンセリングか、それとも精神分析か…といった硬直した二者択一の発想ではなく、それぞれの長短をふまえたうえでの柔軟な発想で心理療法を捉えることが必要なのだろう。

3.認知行動療法の考え方

 アメリカのアーロン・ベックが1970年代に提唱し、デイビッド・バーンズらが普及に努めた精神療法。それまで対立的だった行動主義的立場と認知主義的立場を折衷して統合。日本でも2010年からうつ病の治療法の一つとして公的に認められ、医療保険の適用を受けられるようになりました。この治療法が普及したことでそれまでの不毛とも見えた行動主義と認知主義との激しい対立に終止符が打たれたことの功績は大きいと考えます。つまり認知行動療法は行動と認知の双方に働きかけ、二つとも好ましい方向へと変容させていく、折衷的な立場をとる治療だと考えて間違いないでしょう。

※実は私が卒業した大学の臨床心理学においては行動主義の立場が強く、精神分析などには極めて批判

 的な先生が中心にいました。個人的にはユングの思想に興味を持ち、河合隼雄氏の昔話の分析などを

 喜んで読んでいた自分にとっては正直に言って居心地の悪さを感じる環境でした。しかし、今、思う

 と確かにユングの立場は神秘思想的過ぎて科学から遠ざかっていく要素があるのは事実でしょう。と

 はいえ、夜尿症の子供に対し、治療と称してシーツから微弱な電気ショックを与えて覚醒させ、排尿

 させるという当時の行動主義の治療法にも違和感は拭い去れませんでした。双方の考え方の谷間に落

 ち、先の見通せない暗闇の中で心理学そのものから遠ざかっていた自分にとって認知行動療法の登場

 は絶妙の落としどころを自分に与えてくれたのです。

 

 認知行動療法の魅力は再発率の低さにあると言われます。薬物依存の心配も不要で短期間で一定の効果を上げられるとも喧伝されました。特に自己洞察を深め、行動を変えていく過程で自身を自分にとっての最良のカウンセラーとして訓練していく側面は再発を防ぐ上でもとても重要な発想であると感じます。

 治療としては来談者がまず自身のうつ病特有の考え方、認知の歪みに気づくことから入ります。うつ病患者には瞬間的に浮かんでくる特有の自動思考思い込み・決めつけ、白黒思考、べき思考、深読み、先読み、自己批判・・・)とスキーマ(後ろ向き、内向的・・・自動思考の根底にある思考の強固なクセ、信念)が共通して見られるため、患者自身にそのことを気付かせるのです。気付いてもらうには「認知の歪み発見スケール」(→「悩み・不安・怒りを小さくするレッスン・・・」中島美鈴)や「下向き矢印法」などがあります。両方とも授業で活用できます。

・下向き矢印法:たとえば相手からメールの返信をもらえない時、誰でも多少は不安になります。そこであなたは「その相手から自分の言動が原因で機嫌を損ねてしまったかもしれない。」と考えたとします。そこから先は「それがもし事実だとしたらどうなるのだろう?」と自問自答を繰り返させるのです。「私は相手から嫌われているのだろう」が次の答えなら、また「それがもしも事実だとしたらどうなるだろう。」と問い続けていきます。結果的に「私は多くの人から嫌われている」「自分はダメな人間だ」という答えが出たならばその答えには明らかに「思い込み・決めつけ」や「先読み」「自己批判」などの自動思考が絡んでいます。

 ベックらが指摘したうつ病特有の認知の歪みを示す自動思考は非常に重要な知見になりますのですべて紹介しておきましょう(→「いやな気分よさようならコンパクト版」D.バーンズ 星和書店)。

すべてか無か思考(白黒思考):物事を極端に、白か黒かどちらかに分けて考えよ

 うとする傾向(=二分法思考)。

一般化のしすぎ:たった一回の失敗をしたことだけで今後は常に失敗すると考えた

 りする傾向。

心のフィルター:ネガティブな「色眼鏡」をかけて物事をマイナスに見てしまう傾

 向。

マイナス化思考:何でもない普通のことや良いことですら悪いこととして考えてし

 まう傾向。

心の深読み:他人の心を確かめもせずに自分に対して負の感情を持っていると予想

 してしまう傾向。

誤った先読み:ちょっとした事を不幸の前触れと信じ込む傾向。これからは悪いこ

 としか起きないと決めつける傾向

拡大解釈と過小評価:自分のマイナス面は拡大解釈し、自分のプラス面は過小評価

 してしまう傾向。逆に他人の長所を過大評価し、他人の欠点を過小評価する傾向。

感情的決めつけ:自分のマイナス感情によってすべてを決めつけようとする傾向。

べき思考:物事をすべて「・・・すべき」「・・・しなければならない」と自分自

 身に必要以上のプレッシャーをかけてしまう傾向。自罰的傾向を生み出す。

レッテル貼り:一般化のしすぎと同様に一つの出来事で自分にマイナスのレッテル

 を貼ってしまう傾向。他人への偏見や攻撃的言動を生み出す。

個人化(自己批判):マイナスの出来事の責任、原因をすべて自分個人の責任に期

 してしまう傾向。

 ※以上の自動思考は重なる要素が多いので、どれか一つに当てはめる必要は無い。

 

 来談者の自動思考やスキーマを批判してはならず、来談者自身に気づかせ、評価させる。これはきわめて認知主義的な考え方。しかし行動を変えていくという指示的行動療法の側面も持っている(ソーシャルスキルトレーニング等)。たとえば抑うつ的で非社交的なタイプに対してD・バーンズは敢えて来談者に一人暮らしをさせて孤独の中でも自分自身を楽しませる訓練をさせている。

 自分をいたわり楽しませる訓練→人間的魅力の向上+孤独を楽しむ心のゆとり→大切なパートナーとの出会い→他人をいたわる気持ちと能力が向上→積極的な他者への関わり→人間関係の拡大と深まり=抑うつ気分からの回復

※ただしプラグマティックで理屈っぽい面があり、日本人向きでは無い、重症者にはあまり適さないと

 いう批判もある。

 

4.マインドフルネスの考え方

 認知行動療法から派生し、1990年代以降注目される。禅宗の教えに影響されて成立:「座禅呼吸法」を重視。理屈や言葉よりも体験、体感を重視(初期の理屈っぽい認知行動療法との違い)。

 「今を生きる」:過去の悲しみを反芻して落ち込み、将来への不安を先取りして落ち込む自分から・・・現在のありのままの自分の大切さ、今生きていることの素晴らしさに気づく。「マインドフルネス」とは「今この瞬間に、判断を加えることなく、能動的な注意を向けること」。呼吸法(吐くことに重点、腹式呼吸)と漸進的筋弛緩法がリラクセーションのポイント。生き生きとした五感を取り戻す。

 負の感情にも居場所を与える。恐れや不安にも存在価値。メタ認知(第三の自分)を鍛える。感情の渦に巻き込まれず、そこから距離をとってしばらく自分の感情の動きを眺めるうちにいつの間にか 負の感情は弱まってくる(脱フュージョン)。負の体験や感情に対して戦いを挑むのでも回避するのでもなく、冷静に観察し続ける目を養う。

参考動画

感情を切り離す、マインドフルネスを解説 #早稲田メンタルクリニック #精神科

 医 #益田裕介 2022/03/12 精神科医がこころの病気を解説するCh 15:08

【自己肯定感の育て方】スタンフォード式 親子でできるメンタルトレーニング/危

   険な自己肯定感・求めるべき自己肯定感/最新の脳科学・心理学200以上の研究論

   文に裏打ちされた子育てメソッド PIVOT 公式チャンネル  2023/10/31  34:41

  後編に続く

 

㊸困難校における大学受験指導の諸相

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 教員生活の後半は進路指導部に所属することが多かったため、慣れない就職指導に悪戦苦闘してきた。いわゆる教育困難校ばかりを転々としていたので就職指導にはとりわけ力を入れなければならなかったのだ。父子家庭、母子家庭で生活保護受給者が多い、という厳しい家庭環境の生徒が過半を占めているので、家計を補うためにも高校卒業後にすぐ就職しなければならない生徒が半数近くを占めていた。当然、就職指導は通常の生徒指導を上回る厳しさとなり、手を抜くことは絶対に許されない状況にあった。地元企業の状況を把握するだけでも相当の時間を要してしまい、就職指導にそれなりの自信を持てるようになるには最低でも数年はかかった。

 同時に警察のご厄介になる生徒への対応、家庭訪問を必須とする特別指導(喫煙とバイク乗車が多い)、成績や出席時数の問題で進級や卒業が危うい生徒への補習…授業や部活動、校務分掌の仕事、学校行事なども加わり、やらなければならない仕事が山ほどある。そうした中での、生徒の将来を左右しかねない、責任重大な進路指導は教師にとってかなりの肉体的、精神的重圧となってしまいがちであった。その実、多くの3学年教師たちの本音では生徒たちの進路先がたとえ決まらなくとも卒業さえしてくれればとりあえずは「御の字」だったのである。

 しかも私の場合、14年間は内陸部、それも交通不便な立地の教育困難校に勤めていたため、極めて悩ましいケースを就職指導以外でも抱えてきた。実はそうした立地の高校ではかなりの教育困難校であるにもかかわらず、自宅から駅やバス停が遠いことなどによって他の高校への通学が困難なゆえに、場違いなほどの成績優秀者が入学してくるケースが一つの学年で10人内外(学年8クラスで生徒数300人ほどの内)はいたのである。彼らの中には教師たちが少しテコ入れすれば日東駒専あたりにならば現役で軽く合格できる能力を持っている者も決して少なくなかった。中には頑張り次第で地方の国公立大学に合格することすら夢ではない力の持ち主もいたはずである。

 しかし内陸部では受験指導を行う塾や予備校がほとんど存在しないためもあって地頭は良くとも業者模試の出来がイマイチ物足りない生徒がいる。そして困難校での授業は勉強嫌いや学習の苦手な大勢の生徒たちに合わせて大学入試とは無縁の授業が多く、もしも彼らが大学受験を希望するならば、受験勉強は通信教育か、独学によるしか学習手段は無い…これはもちろんかなりマイナーなケースではあるが、こうした場合、卒業を控えた学級担任として苦渋の決断を迫られることになる。

 等高線人事のおかげでかつては教育困難校を数多く経験してきたベテラン教師が少なからず困難校に勤務していたこともあり、すくなくとも生徒指導と就職指導には手を抜けない…との認識は教員間で広く共有されていた。そのことが残念ながら数の少ない大学進学希望者への指導を二の次、三の次とする雰囲気をも作り出していたことはほぼ間違いなかろう。多くの教師も、生徒も、保護者も少数派の進学希望者への対応はほとんど意識の上にすらのぼっていなかったのが現実であった。

 とはいえ、3年の学級担任となれば三者面談などの際、大学進学希望を口にする生徒や保護者を前にすることは決して稀ではなかった。当時は総合型選抜が無かった時代であったため、大学進学となれば困難校では一般推薦か指定校推薦と相場が決まっていたが、困難校としての伝統が長い高校ではまずほとんどの大学から指定校推薦枠をもらえていない。また一般推薦で入学できそうな大学は地元Fラン大学にほぼ限定されていた。つまりFラン大学への受験を本人や保護者が渋る場合には一般受験を念頭に置いた受験指導が不可避となる。内陸部での困難校ではこうした悩ましいケースが各クラスに一人いても不思議ではなかったのだ。

 仮にその生徒が明らかに日東駒専レベルの力は持っているとしよう。家庭の経済力が無いわけではないし、奨学金の利用も考えられる。本人も保護者も心の底では日東駒専レベルの大学を狙いたいと思っている。ならば進路指導部の一員として、3学年の学級担任として本人の希望をかなえたい、と教師が考えるのは決して間違っていないはず。ところが大抵の場合、本人は塾や予備校に通えるような所に住んではおらず、通信教育も受けてはいない。はてさて、どうしたものか…

 通常、学力的に中位校以上の学校では進路指導部の働きかけで受験のための補習講座を一学期や夏休み中に設けているが、多くの困難校では面接指導を中心とした就職指導の補習しか行っていないし、実はそれだけでも手一杯である。ごく少数に過ぎない生徒相手の進学補習を組織的に実施するなぞ、そもそも現実的な話ではない。残るは一握りの教師によるボランティアとしての進学補習しかない…となればまずは率先垂範、進路指導部に属する自分が無理くり補習をやってみる他あるまい…

 困難校の教師なのに日本史のセンター試験の過去問を購入し、最近の入試動向を調べつつ、放課後や夏休み、補習を希望する生徒たちに暇を見つけては実戦的な課外授業を行う…かたや就職指導の担当者として求人票の整理、面接や履歴書の指導を行っているのだから、これはこれでかなりの難行苦行であった。

 実はこうした経験があったために、都市部の定時制高校に移った後も私は希望者がある限り、個人的な進学補習を続けていた。不登校が多く進学してくる午後部の定時制に属していたので生徒は多様さを極めていた。中には国立大やMARCHレベルに合格する生徒もおり、都市部であっても受験補習のやりがいはあったのである。

 

 以上、受験指導を巡る私の辿ってきた思考と実践の足跡をざっと整理してみた。私の場合、初任校と二校目の高校は中位の進学校であったため、初任時から毎年のように進学補習を行ってきていた。このため困難校への転勤後も受験補習自体にさほどの抵抗感が無かったのが幸いしたのだろう。

 しかし初任校が困難校であった場合、あるいは教師本人が推薦入試で大学に入学している場合にはたとえ自分のクラスの生徒が補習を希望していても快く補習を引き受ける教師は決して多くない。教師の中には受験指導は教師の仕事ではないと割り切って考えている人もかなりいる。確かに都市部の高校ならばそうして割り切ることも有り、なのかもしれないが、交通不便な内陸部の高校では心情的になかなか割り切れないものがあったのだ。

 とはいえ、素人の教師が付け焼刃で受験補習を無理くり行う必要性はもはやネット社会の進展によってかなり低下してきている。youtubeの動画でも受験に十分対応できるものが増えてきている。むしろ学校のこれ以上のブラック化を阻止するためには先々、高校教師に受験補習をさせない方向で管理職は考えていくべきだろう。

 ただし高校生への就職指導に関する有益な動画は管見ながら確認できていない。今更差し出がましいが、困難校の進路指導部としては今後、総合型選抜の指導と就職指導の充実を当面の課題として取り組んでいく方向で良いのではあるまいか。

 

その1.画一的、管理主義的教育の弊害(後編)

 

導入:欧米と日本との間に横たわる高等教育の在り方の決定的な違い

【成田悠輔のガチ友人】ハーバード式!世界で戦うための教育法【下北沢駅前で小

   田急と寮運営】 ReHacQ−リハック【公式】  2023/11/06  39:39

【成田悠輔のガチ親友】ハーバードと東大!違いとは?【けんすう衝撃】

   ReHacQリハック【公式】 2023/11/13  39:20

 日本の高等教育の最大の問題点は「リベラルアート」の果たす機能の重要性を軽く見る一方でひたすら同質的集団内,専門的学問の枠内にとどまり続けることで画一的、管理主義的教育を温存させてきた点に求められるだろう。小林氏の指摘する通り、国籍や年齢、専門などを超えた多様な出会いを保証する寮生活の重要性を見直すことは今後、日本の大学に一層求められてくるのかもしれない。

 ハーバード大学が一人の大学生に年間でつぎ込む経費は4500万円ほど、経費面で日本のトップ東京大学ですらせいぜい800万円程度に過ぎないという小林氏の指摘にも驚かされる。早稲田、慶応にいたっては何と200~300万円程度に過ぎないらしく、アメリカの有名大学には遠く及ばない現状があるらしい。こんなお寒い状況で日本の大学がアメリカを上回るような教育の成果、研究の成果を上げることなぞ、まったく不可能なのは当然。

 これまでも日本の教育関連予算は削られる一方であり、日本の学校教育の危機もまた今後、深まる一方となるのは不可避である。したがって今や高卒段階で学力にそれなりの自信がある生徒ならば日本の大学ではなく、積極的に海外留学を目指すべき時代なのだ。年収1500万円以下のご家庭出身ならばハーバード大学等では学費無料で受け入れてくれるそうなので経済的心配は日本よりも不要である。

文科省の博士増加対策には安易に賛同できない理由

   塾講師チャンネル 2024/07/17  13:11

   この問題でも文科省の官僚のあからさまな劣化が推察できるだろう。学校現場の実情を調べる事すらサボり続ける文科省官僚たちの机上の空論に近い一方的で無謀な指図にひたすら振り回される教師たちの無念さ、悲惨さが伝わってくる動画である。

「全て他人のせい」日本人に主体性が育たない背景とは?レジェンド校長“工藤勇

 一”が指摘する「教育の大問題」【成田修造/宮村優子/平川理恵/西村祐二】

 NewsPicks /ニューズピックス  2024/05/18  14:39

「みんな仲良くなんてできない」先生主体のいじめ対応が子ども自身の解決能力を

 奪う。当事者の生徒達が自ら考え、いじめを解決に導く方法とは?【工藤勇一/平川

 理恵/西村祐二/成田修造/宮村優子】

 NewsPicks /ニューズピックス  2024/05/25  14:31

 

参考資料

日本の教科書検定制度(文科省のホームページより)

1)教科書検定の意義

 我が国では、学校教育法により、小・中・高等学校等の教科書について教科書検定制度が採用されています。教科書の検定とは、民間で著作・編集された図書について、文部科学大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用することを認めることです。

 教科書に対する国の関与の在り方は、国によって様々ですが(表2参照)、教科書検定制度は、教科書の著作・編集を民間に委ねることにより、著作者の創意工夫に期待するとともに、検定を行うことにより、適切な教科書を確保することをねらいとして設けられているものです。

2)教科書検定の必要性

 小・中・高等学校等の学校教育においては、国民の教育を受ける権利を実質的に保障するため、全国的な教育水準の維持向上、教育の機会均等の保障、適正な教育内容の維持、教育の中立性の確保などが要請されています。文部科学省においては、このような要請にこたえるため、小・中・高等学校等の教育課程の基準として学習指導要領を定めるとともに、教科の主たる教材として重要な役割を果たしている教科書について検定を実施しています(付表2参照)。

 

   本当に日本の教科書検定制度はこのままで良いのか、きちんと問い直すべきではないのか?特に義務教育でもない高校での教科書検定制度は不要なのではあるまいか?

 

・学校における柔道・剣道の復活

「戦後の武道教育についての研究―学校における武道の取り扱いに着目して―

久保 優樹,武井 幸二,岸本 卓也 2017」によると以下のように整理できる。

・敗戦後ただちにGHQの指令により軍事教練や武道が禁止

・昭和25年(1950)、柔道が学校教育に復活 ←サンフランシスコ講和条約

・昭和27年(1952)、剣道が「しない競技」という名称で復活 ←「剣」はダメ

・昭和33年(1958)、中学校学習指導要領の改訂により柔道や剣道は「格技」

   とされ、男子のみが各学年一種目を行うこととされた。「道徳の時間」が設けられ

   たことで格技は徳育をも担う種目として従来よりも重視されるように。

・昭和44年(1969)、中学校学習指導要領の改訂で格技の授業時数が倍増。ただの

   体力作りに止まらず、公正な態度、規則遵守の精神、責任感などを育成する種目と

   して一層重視されていく。

・平成元年(1989)、中学校学習指導要領の改訂で「格技」から「武道」に改称

   れ、戦前からの呼称としての武道が復活「伝統的な行動の仕方に留意する」と定

   められ、礼法の徹底が図られた。もはや単なるスポーツという位置付けから昇格

・平成10年(1998)、中学校学習指導要領の改訂で「我が国固有の文化として伝統

   的な行動の仕方が重視される運動」や「武道に対する伝統的な考え方を理解し、そ

   れに基づく行動の仕方を身に付けることが大切である」 というようなことが示され

   た。

・平成20年(2008)、中学校学習指導要領の改訂で武道がついに必修化され、伝統

   文化の尊重、愛国心や道徳心の涵養が武道を通じて図られた。

         →教育基本法の改正(2006)

 

 以上、柔道・剣道の復活の歩みを概観してみた時、何を感じるだろう。もちろん、カッパは柔道や剣道の精神を頭から否定するつもりはない。「礼に始まり、礼に終わる」礼儀正しさ、特定の型を反復して身につける練習方法…それらは長い伝統から培われた、一定の根拠を有する大切な日本の文化でもある。ただ、その文化を学校という公教育の場で有無を言わせず強制的に学ばせることの是非は厳しく問い返さなければなるまい。

 確かに武道において「型」は重要な概念であり、決して軽視すべきものではない。しかし学校教育全体にまで型の精神を安易な形で敷衍し、一般化することは許されまい。武道の復活を通じて変に型にはまった、柔軟性に欠けるものの考え方が戦後の学校教育に浸透したとすれば事は重大である。実際、いまだに形式ばった、軍隊式の卒業式や入学式が多くの学校ではびこっていないだろうか。そこではかなりの確率で武道の顧問がこれらの式の号令をかけていないだろうか。

 こうしたことは戦前、戦中まで当然のことと考えられてきたが、戦後、人権尊重をうたう日本国憲法のもとではいかがなものだろう。「人権尊重」をうたう公教育が児童生徒の多様性、個性を踏みにじるものであってはあるまい。学校での画一的管理主義は新憲法の精神とはどうみても相性が悪い。どうやら戦前まで支配的だった日本の画一的管理主義教育は戦後、武道の復活とともに巧妙な装いをもってよみがえってしまったのではなかったか…このUターン現象をリードしてきたのは一体、誰だったのか(「昭和の妖怪」岸信介らに違いあるまいが)、どんな政治的思惑がそこに働いたのか、疑念は尽きない。

 すなわち教師ならば誰でも日本の戦後教育の歩みを大学時代にしっかりと振り返る必要があったのだが、一体、どれだけの教師がこのことについて今も真剣に考えているのか…大学における教師養成教育の貧弱な実態と教師の置かれた厳しい職場の実態を考えると実に心もとない。人権教育に関心の低い現在の日本の教師のあり方には歴史的にも大きな問題が潜んでいるのだ。

   なお、武道の禁止から復活への過程は武道を描いた漫画や時代劇の禁止から復活への過程とはほぼ平行して実現しているので、カッパの調べた範囲でそちらの動向も簡略ではあるが以下に示しておく。もちろん公職追放の解除や戦犯の社会復帰、戦争物の漫画やドラマの復活、軍隊の復活もまた武道の復活と軌を一にしている。総じて「戦前への回帰」とも捉えられるこれらの動きをもたらした最大のきっかけは朝鮮戦争時におけるアメリカの対日政策の転換と考えられる。

 

・時代劇の復活と終焉

 敗戦後、いわゆる「チャンバラ禁止令」がGHQから出され、映画などでの剣戟のシーンや仇討ちシーン(アメリカへの復讐心を煽るおそれ)は御法度に。

1951年頃から時代劇の復興が見られるように ←サンフランシスコ講和条約

 ※姿三四郎の映画化、テレビドラマ化が続々と行われ、テレビアニメも登場。漫画

  の世界でも武道を描いた作品が登場し、1952年から1954年にかけて柔道漫画

  『イガグリくん』(福井英一)が『冒険王』で連載された。この作品は講談や時

  代劇などで描かれてきた伝統的な日本人的心情に則ったもので、柔道だけでなく

  異種格闘技戦の要素も含んだ作風は熱血スポーツ漫画のルーツとも呼ばれ、後の

  作品群に大きな影響を与えることになったという。

1960年代半ば以降、時代劇の映画上映は減少する一方でテレビ放映が急増

 ※「柔道一直線」(TBS:1967~71)ブーム、スポ根ものドラマの一つ。

  「おれは男だ」(日テレ:1971~72)ブーム ⇒森田健作、青春ものスターへ

   以上は学校における柔道、剣道の復活と歩調をあわせてブラウン管に登場。当

   時の児童、青少年に与えた影響は小さくないだろう。

1990年代、いわゆるトレンディドラマの流行によって時代劇衰退へ

 

 このテーマは近年、NHKの朝ドラ「カムカム エヴリバディ」で時代劇好きの主

人公(川栄李奈主演)が登場した事で多少はタイムリーなテーマとなっている。

 ここでは時代劇復活の是非を巡って授業で討論させたい。すなわち手段や理由は何であれ、「人殺し」シーンに拍手喝采を送るドラマの是非について、西部劇や戦争物映画の歩みについても併せて討論すべきだろう。

参考動画

【禁断のテレビ史①】日本を支配した電通とテレビ局!命がけの超授業【オリラジ

 アカデミー】中田敦彦のYouTube大学  2022/11/19 57:30

【禁断のテレビ史②】業界騒然の神回!失われた30年の真相【オリラジアカデミ

 ー】 藤森慎吾のYouTubeチャンネル 2022/11/19 56:51

 戦後日本のメディア史を分かりやすく整理して、面白く語ってみせる中田氏の授業力には参考となる点も多い。2本でかなり長尺の動画だが、途中まったく飽きさせることなく、興味津々の展開が続くオススメの番組。ただしテレビ番組の内容における洗脳的側面には一切、触れていない。あくまで映画やテレビが大衆娯楽の主役を降りていき、ネットが台頭してきた過程を中心に解説したメディア興亡史の授業である点には留意すべき。オリンピックでの電通問題に関しては大いに参考となる内容。

 

・スポ根ものブームと運動部

 一般的に「スポ根」の発祥となった作品や元祖と呼ばれる作品は『週刊少年マガジン』で1965年から1971年にかけて連載された『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)。スポ根とは、1960年代から1970年代の日本の高度経済成長期に一般大衆の人気を獲得したジャンルであり、メキシコ五輪が開催された1968年前後に人気のピークを迎えたと言われる。

 日本国内のスポーツ競技の集団主義や精神主義といった事情とスポ根を結びつける指摘があり、スポ根作品がそうした価値観を美化して描いた影響により学生スポーツにおいて過度の練習や体罰を後押しする結果となったという見方が生まれた。例えば1960年代から1970年代当時、部活動などの現場ではウサギ跳びやアヒル歩きのような半月板や膝関節に負担が掛かるばかりで実質的な効果の少ない運動法が全国的に推奨されていたが、これらは運動生理学を知らない指導者達が漫画やドラマの影響を受けて部員に対して課したものだとする指摘がある。

 スポ根ブームの渦中には学校の部活動において練習中の事故や、退部を申し出た生徒が部員から暴行を受けるなどの事件が多発したらしい。組織内の上下関係を背景とした指導や、ひたすら鍛錬を積み、勝利のみを追求する価値観は第二次世界大戦後の民主化の流れの中でも温存され、とりわけスポ根作品が支持を得た1960年から1970年代当時の日本のスポーツ界では体罰も辞さない厳しい指導が常態化していたと思われる。

 1980年代以降、科学的な分析に基づく効率的なトレーニング方法の導入によりスポーツ界の内情もかなり変化してきたようだが、一部の学校現場では相変わらず「しごき」の強要といった古典的な指導法が残されているようだ。

 

・甲子園大会は必要なのか?

参考動画

【野球離れ】甲子園は高校生にとってベストなのか?20年で部員半減の厳しさも?

 スポーツ業界における野球の役割|《アベマで放送中》2022/05/14 12:43

[FACES いじめをこえて 30min.] いじめ、貧困生活を乗り越えた青年が始めた命

 がけの「勉強」| NHK  2023/02/08 7:49

 何のための野球部だったのか、一生付き合える仲間を作るはずの部活動が地獄となってしまうメカニズムを探りたい。彼に対して学校がどれほど無力だったのか、学校の何が問題なのか、なぜ、それほどまでの貧困が放置されてしまったのか、問うべき課題は多い。

【成田悠輔で社長退任!】320億円の会社辞めたカリスマ起業家【真の幸せは?】 

 日経テレ東大学  2022/06/28 47:14

 高野連を新聞の販売促進団体と見なす考えが新鮮。長老を頂点とする中央集権的組織がはびこる日本の問題点は日本のスポーツの在り方を見直すとよく分かると言う。莫大な赤字に終わった東京オリンピックと黒字となったロサンゼルスオリンピックとの違いから日本社会が抱える反民主主義的、非合理的体質が浮かび上がってくるらしい。日本社会を最適化するには「何が幸せなのか」を足下から真剣に問い直す必要があるという指摘に頷かされる。

【勝利至上主義】歪んだ思想を植え付ける?勝ち負けより大切な学びも?全国大会

 は必要なのか 2022/05/21 ABEMA 【公式】 16:04

 スポーツや運動部、学校体育、運動会のあり方全体が問われている。この世界にはびこる勝負至上主義、根性主義、体罰体質、集団主義、同調圧力、管理主義、イジメ…その温床としての、これまでの日本におけるスポーツの負のあり方には反省が必要。ひろゆきの「甲子園大会は不要」という提案は議論のテーマとしてかなり刺激的ではあるが、問題提起としては非常に面白い。

【日本】我々にかけられている深刻な呪いについてお話しします【山田玲司/切り抜

 き】 2022/07/09  10:42

 勝利至上主義の弊害がいかに大きいか・・・山田氏の指摘と実践は興味深い。自分にかけられている「呪い」とは何だろう、そこから目覚めるにはどうしたら良いのだろう・・・声優や漫画家などに憧れを持つ高校生は多い。十分、刺激的な内容であり、討論の材料になるだろう。

【改革】部活動民間委託・水泳自由参加…”学校の当たり前”を廃止の名物校長と考

 える学校改革「トップダウンじゃないことが一番大事」

 2022/09/01 ABEMAニュース【公式】 18:52

 ※参考記事

  休日の部活、地域移行しても教員が指導? 先行実施で浮かんだ課題

   朝日新聞社 2022.12.11

    大体予想通りの状況となっている。予算をケチるあまり、きちんとした受け皿を用意せずにた

   だ地域移行を叫んでも無理なのは当たり前であった。地方によっては教員以外の指導者や施設を

   確保すること自体が極めて難しい事も予想できていたはずである。指導者の養成や資格、施設の

   確保など、それなりの予算を必要とする措置についてきちんとした論議が尽くされていないま

   ま、「やってます」感を演出するためにきれい事の掛け声だけが先行し、徒に現場の混乱を招い

   てしまっている。政府、特に文科省の責任は極めて重いだろう。

    とは言え条件が全て揃うのを待っていられるほど悠長な状況でもあるまい。教員の負担軽減が

   主な狙いであるならば、取りあえずクラス担任や主任クラスの運動部顧問としての休日における

   指導は認めない、といった何らかの歯止めとなる原則を予め設けておかなければならなかったは

   ずである。でなければ折角の取り組みが人員や施設の不足を理由になし崩し的に後退してしま

   い、「元の木阿弥」にならないとも限るまい。いずれにせよ、官僚や政治家達がいかに学校現場

   を知らないか、知ろうともしていないのかがよく分かる調査結果である。

参考記事

甲子園で長髪旋風! 非丸刈りチームの決勝進出が確定 「高校生らしくない」に著名

 人が反論「時代は常に変化」 ENCOUNT によるストーリー 2023.8.19

 この話題から入ると高野連や運動部の抱えてきた問題点を浮き彫りにしやすいだろ

う。まずは高校野球での「丸刈り」に対して賛否を問い、それぞれの理由を挙げさ

せてみたい。

なぜ朝日新聞社は私の原稿をボツにしたのか…「夏の甲子園」との異常な癒着ぶりは

 ジャーナリズム失格である プレジデントオンライン

 玉木 正之 によるストーリー 2023.5.25

 日本のマスコミが抱える闇は日本の学校教育が抱える闇と通底するものがあることに気づきたい。ABEMAの動画視聴と併せ、討論の資料としてぜひ配布したい。

球児よりヤバいのは審判・チアガール・吹奏楽・観客…夏の甲子園でバタバタ倒れ「熱

 中症死」が出る日 プレジデントオンライン 酒井 政人  2023.8.8

【甲子園】6回に土浦日大、上田西の両チームの選手が動けなくなりベンチに運ば

 れる 今大会から暑熱対策を実施 報知新聞社 によるストーリー 2023.8.6

もう夏の甲子園はやめませんか?高校野球を巡る諸問題はやめれば解決する

 Bpress 関 瑶子 によるストーリー 2023.8.5

 児童、生徒の野球離れに危機感を持つ野球関係者は多い。大リーグでの大谷翔平選

手の活躍はあるものの、ひと頃に比べれば日本の野球への関心は確かに低下しつつあるだろう。野球部員の人数がそろわずに他校との合同チームを組むことを余儀なくされ、ついには廃部に追い込まれる、などといった残念なケースが少子化の進展も手伝って徐々に数を増しているという。

 しかし高校教育における野球の問題点はそうした野球人気の陰りとは別の観点からもこれまで数多く指摘されてきた。高校にはスポーツ指導者の団体として体育科の教師を中核とする「高体連」があるが、なぜか野球だけは別格扱いで「高野連」という野球部顧問中心の組織が高校野球を完全に仕切ってきた。そして野球部員たちにかつて丸刈りを事実上、強制してきた厳格な高野連ルールはこれまでも幾度か物議をかもしてきている。いわゆるブラック校則を側面から支えてきた高野連の体質には昔から数多くの根深い問題があったとみられるのだ。

 実は高校教師の異動に際して高野連が介入する「高野連人事」がかつて普通に見られた。もちろん「高体連人事」もあるにはあったし、スポーツ種目によってその事情は相当異なるだろうが、多くの場合、高野連ほど露骨ではなかったという個人的印象がある。皆さんの場合、いかがだろう。そこそこ有名な野球監督であるならば自ら望まない限り、野球部の存在しない女子高や定時制、通信制に異動することは私の記憶では一度も無かったと記憶している。

 他方で私生活を犠牲にして野球指導に専心する顧問の負担は極めて過酷であり、自身の家庭生活や心身の破綻を招くことも少なからず見られた。すなわちブラック校則のみならず、職場としての学校のブラック化を側面から支えてきたのも実は高野連であったといえなくもない。

 部活動過熱化の核として甲子園を頂点とする高校野球の勝利至上主義的あり方があったことは否めない。テレビ放映が地方大会レベルから行われ、高校野球の熱狂的なファンは全国に大勢ひしめいていた。根性論、鍛錬主義に基づく体罰や暴言、先輩による後輩へのしごきなどが当たり前のように繰り返されてきたのも間違いなく野球部が中心。50年以上前のテレビアニメ「巨人の星」(当時、絶大な人気を誇ったアニメだが、現在、どれほど要望があったとしてもコンプライアンス的に再放送することはできないはず)を見て育った60代の世代はとりわけ行き過ぎた熱血指導を賛美しがちであったと思われるが、いかがだろう。

※ちなみに1958年生まれのカッパはまさにスポ根ものアニメの洗礼をまともに受けた世代であり、教師

 や先輩による体罰、暴言、「しごき」などは当時、日常茶飯事の光景であった。自分自身、中学生の

 時に厳しい運動部に所属していたこともあり、体罰や暴言、しごき程度に何の違和感すら抱いていな

 かったのだ。その後、大学でカウンセリングの基礎や教育社会学を学び、頭では体罰などが良くない

 ことと思うようになれたが、いざ、自分が運動部の顧問になってしまうと、結局、時間が経つにつれ

 て鍛錬主義的発想が再び表に出てきてしまった。

  技術や知識、部員たちのチームワークよりも個々の根性を鍛えることが運動部の大切な目的である

 との信念から私がほぼ完全に解放されるのは定時制高校に転勤となり、運動部を指導しなくなってか

 らのことに過ぎない。アニメやドラマ、運動部の経験を通じて施された一種の洗脳は私の骨の髄にま

 で染み込んでいたのである。したがって運動部の指導をしていた時、厳しい練習と怒鳴り散らす叱責

 は運動部の指導に必要不可欠のものと私は固く信じて疑わなかった。一生懸命取り組むことと鍛錬主

 義的指導とは密接不可分であり、試合中でも生徒たちを怒鳴り散らすことが自分の義務であり、職務

 であるとすら考えていたわけだ。

 夏の甲子園、春の選抜はそれぞれ朝日新聞と毎日新聞が高野連と共催し、ほとんどの試合は予選の地方大会も含めてNHKによってテレビ放映されている。また予選を含めた試合での全校応援も多くの高校で見られた。まして甲子園出場ともなれば学校側は大規模な応援団を編成する必要に迫られる。当然、勝ち続ければ億単位の予算が必要となり、関係者は卒業生などに寄付を募るなど、周囲の人々に様々な労力と金銭面での大きな負担を強いてきた。甲子園大会は熱狂と美談、数々の感動的ドラマを生み出す裏側で、様々な矛盾を抱えてきたのだ。

 他のスポーツではサッカーを除くと全国大会ですら学校が組織的に応援団を送ることは稀であり、テレビ放映もかなり限定的。高体連の各専門部の資金力も多くの種目では高野連とは比較にならないほど貧弱である。様々な面でのスポーツにおける種目間格差が、特に野球と比べた際の格差の大きさが教育における公平さを欠くのでは…などとかねてから学校現場では指摘されてきていた。近年は多少の改善が見られるものの、いまだに格差解消には程遠いのが実情である。

 マスコミ各社にはぜひこうした問題にも言及していただきたい。

高校野球で「そんなの認めない」 ペッパーミルだけじゃない、審判の怒りを買っ

 た球児の行為  AERA dot. 2023.4.5

 討論のテーマとして格好の素材になるだろう。

 ※参考動画

  甲子園のペッパーミル騒動…クーニンズメンバーはこう思っている!

   qooninTV  2023/03/20 10:41

   パフォーマンスなどに対する高野連の指導についてどう思うか、けっこう意見は分かれるだろ

   う。グラブの色などの規定も含めてスポーツと学校教育との関係性について考えてみたい。夏と

   春の甲子園自体の存在意義を含めて考見直すべきポイントは多いだろう。特に近年における野球

   人気の凋落ぶりの背景には何があるのか、これを機に探ってみても良いかもしれない。

【書評】『“歪んだ法”に壊される日本』組織を支配する「空気」の存在を浮かび上

 がらせる NEWSポストセブン によるストーリー 2023.5.14

 一見、このテーマとは無関係に思える記事であるが、日本的組織を支配する保守的空気を醸成するのにこれまで大きく加担してきたのが、上下関係やメンツを偏重する日本の伝統的な学校文化、とりわけ旧来の部活動における集団主義、年功序列型の組織風土ではなかったか…なぜ、「チームの輪を乱すな」と言わんばかりに周囲への忖度を一方的に迫るような、硬直した息苦しい組織風土が日本社会に蔓延してしまったのか、ぜひ推理させたい。

53日間で休み1日だけ中学教諭の「過労死」 訴え認め約8300万円の支払い命

 じる 遺族の思いは 日テレNEWS によるストーリー 2023.7.6

 ふと気づくとそういえば一か月間、一日も休んでいなかった…若いころは疲れ気味の自分自身に対する思いやりなど持てず、有給休暇を一年間で一度もとっていないことを武勇伝であるかのように自慢する傾向が自分にもあったことは否めない。文化祭の準備でさえ午前様になることは珍しくなかった時代があったのだ。

 こうした先輩教師たちの武勇伝は美談化されることでおそらく後輩たちを相当追い詰めていただろう。無謀なまでの精神主義的根性論を柱とする心性は子供時代、「スポ根アニメ」の洗礼を浴び続けて育った、今や60代となっている元教師に多く見られたように思う。私などは間接的にではあるが、こうした過労死事件に心ならずも加担してしまった一員として深く反省しなければなるまい。

「日本一」を決める大会が多すぎる…生徒も先生も疲弊させる「ブラック部活」が一向

 に減らない根本原因 プレジデントオンライン

 中澤 篤史 によるストーリー 2023.4.16

 全国大会を行う競技数と開催頻度の増加が学校での部活動の過熱、勝利至上主義、体罰や管理主義をもたらし、一斉講義形式を柱とする授業のマンネリ化をも全国隅々まで蔓延させてきた一因であったのは事実だろう。

熱中症で帰宅中の女子中学生が死亡「なんでこんな暑さで部活やらせる?」高校野

 球にも「中止」の意見が SmartFLASH によるストーリー 2023.7.31

 直近では体育の授業で熱中症の警報が出ているのにリレーをさせて大勢の生徒たちの救急搬送を引き起こしたりする日本なのでこうしたことは十分予想できた事態であったはず。しかしこれは今や過失傷害致死事件なのだ、というコンプライアンス的認識がそろそろ学校側には必要な時代であろう。たとえ学校体育の世界であっても我慢と鍛錬という根性論、精神論で突き進んでいける時代ではない。

制裁も覚悟した…部活顧問の「強制はおかしい」職員会議で声を上げた教員

 2022.6/6(月) 9:54配信 西日本新聞

 この問題、教師にとっては極めて重大な問題である。カッパが指導してきた部活の種類は通算で6種類に及び、そのうち4種類の部活がメインの顧問であった。体育教師ならばともかく、社会科教師である私がズブの素人であるにもかかわらず、なぜ、複数のスポーツを専門的に指導できなければならないのか、まったく納得がいかなかった。いずれも私生活を犠牲にする休日返上の指導である。

 部活動人事は勤務先の学校生活全体を左右しかねないほどに重大な影響力があるため、ケースによっては教師間、生徒間ともに不公平感と不満を生みだしかねない。実際、未経験の種目を指導することになった部員から毎回、冷ややかな眼差しで見られる辛さは並大抵のものではなかった。部員の親から「なぜ素人のお前が顧問をやってるんだ」としつこくクレームの電話がかかってきたが、未知の種目を指導できないのは私の責任ではない。責任を負うべきは私の希望を無視して人事を決めた管理職の方だろう。

中1自死 関連指摘の教諭を懲戒免職に

 朝日新聞社 2022.12.3

 これも酷いケース。教育委員会や校長の責任は重い。2020年、市教委は40件もの体罰等の不適切な指導を認めておきながら2022年まで当該教諭を教壇に立たせてきた。2019年に被害生徒の一人が中学入学後に自殺しているにも関わらず、3年以上も放置してきたのだから当該教諭を懲戒免職にするだけでは済むまい。当時の校長や教育長への厳しい処罰も行うべきであろう。

なぜ部活動の暴力はなくならないのか? 背景に指導者個人の資質と過度な勝利至上

 主義 2022/08/01 07:00 AERAdot. 

 ※AERA 2022年8月1日号より抜粋

部活の体罰、なぜ絶えない? 専門家「悩ましいのは指導者の評価が競技成績という

 事実」 神戸新聞NEXT/神戸新聞社 2022/11/05 18:04

 学校教育をもっとオープンにすべきなのは当然であるが、牢固な隠蔽体質を持つ学校が多い中で掛け声だけではオープンにはなるまい。ではどうすべきなのか、生徒にも問いたい。おそらく本質的な問題は部活動にのみ限定されず、伝統的な日本社会の体質、学校教育の深層領域にも潜んでいるのではあるまいか。

国が進める「部活動改革」を専門家は危惧 生徒にも影響「学校から活気なくなる」  Full-Count  2022/10/18

 部活ではなく学校の授業にこそ活気を取り戻すべきではないか。

学校単位の部活どころか高校そのものがなくなる? 先が見えない日本の少子化問題

 を考える Sportiva 鈴木雅光 2022.12.26

 

荻窪小クギ問題「事故直後に校庭を使うなんて理解できない」…負傷児童の保護者

 が本紙取材に明かした経緯 東京新聞 2023.5.24

 運動会などの際、グランドに釘を打つことはどこでも普通に見られよう。当然、釘は後片付けの際に撤去されてきたはず。ところが杉並区の小中学校全体で4263本ものクギがグランドから発見されたという。事故のあった荻窪小だけで500本以上も見つかったというから驚きだ。つまり杉並区ではグランドの釘は基本的に後片付けの対象とされていなかったということらしい。グランド内に釘などの危険物が(ほとんどは土中ではあろうが)数多く埋まっていても、それが危険だとの認識は教職員間に共有されていなかったと推察できる。しかも運動会が行われるたびに杉並区では新品の釘を用意していた可能性もある。

 であるとするならば金額的には少額であっても明らかにムダな出費であろう。おそらくこれだけの非常識なことを平然と見逃し続け、誰もが気づくはずの無責任で杜撰な行為を10年以上も繰り返すことのできた荻窪小や杉並区の学校教育風土には教育委員会を含めて相当大きな問題が潜んでいると思われる。徹底的に追求すべきはその点なのではあるまいか。

校庭のくぎ問題、続々見つかる 江東、北、江戸川区の小中学校、幼稚園などから

 計1236本 東京ニュース 江東区 2023年6月1日

 何と校庭への釘放置問題は杉並区にとどまらず、北区、江東区、江戸川区でも広範に確認されたという。私としてはビックリ仰天の出来事なのだが、おそらく他の区でも、いや全国の学校でもこれは少なからず露見してしまうようなありふれた事象なのであろう。だとすればこの問題は日本の教師たちが普遍的に抱える、子供たちに対する人権感覚の低さが学校風土全体にはびこっていることを示しているのかもしれない。でなければ20年近くもの間、クギは放置されてこなかったはずである。

 確かに高校の校庭でも小さからぬ数の石が埋もれていたことは幾度か体験している。部活動で生徒たちが転倒やスライディングなどした際に危険なので見つけ次第掘り起こして校庭の端に捨てていたが、この場合は誰かが故意に石を埋めていたわけではあるまい。精々、事務長か誰かがグランドの土を入れ替える際に費用を節約するため、砂礫の混じる安い土を業者から購入してしまったのが最大の原因なのだろう。釘を故意に放置していた東京都の案件と比べればそれほどの「悪意」は覚えない。むしろただでさえ少ない学校の予算の中での、苦しいやり繰りから生じてしまった、ある程度はやむを得ない出来事だったとさえ思われる。

 それにしても校庭の釘問題、なかなか奥は深そうだ。二言目には子供たちの健康と安全を口にしながら、性懲りもなく体育祭や運動会での事故、熱中症の集団発生を繰り返してしまう日本の学校教育の持つ人権意識の低さは本来、最優先されるべき子供たちの安全への配慮に綻びをうみ、肝心な場面での気の緩みを招く。積年、校庭に放置された釘の数々はそうした教師たちの心理を雄弁に物語っているに違いない。

小学校の校庭の“くぎ”で児童が大けが 校庭の大量のくぎはなぜ見逃されていた?

 【news23】 TBS NEWS DIG_Microsoft の意見 2023.6.2

 「校庭のくぎはなぜ見逃されていたのか?」

校庭を金属探知機で調べたら…クギ以外も続々 鉄筋、空き缶、蛇口も

 朝日新聞社 によるストーリー 2023.6.9

 校庭の土に対する学校側の関心は伝統的に低かったようで、グランドにはあまり金をかけない傾向が個人的には感じられた。高校時代にグランドの土には破傷風菌がいる可能性があるので注意してほしいと体育教師から言われた記憶がある。本来なら学校側がグランドの殺菌に取り組むべきなのだろうが、日本では基本的にすべて自己責任。ケガをしたり、ケガが化膿してしまっても、これまではもっぱら生徒側の不注意が原因であり、傷の治療や消毒をきちんとしなかった生徒、および保護者の責任とされていたのではあるまいか。しかも多くの学校ではかなり安い土をグランドに投入しており、石以外にも様々な危険物が土に混じっているのが普通だといってよい。教育予算の少なさと学校の安全軽視の伝統がこうした事件を生み出す背景にはある。

【独自】 立川市 小中学校の校庭でくぎ4012本

 TOKYO MX+ によるストーリー 2023.6.19

小学校校庭の大量くぎ問題 実効性ある安全点検は「学校任せ」でよいのか

 東京新聞 2023.6.19

 案の定、校庭の釘放置は都内各所で確認されている。都や区の教育委員会の指導がこれまでどうだったのかが、厳しく問われよう。小学校では近年、相次いで英語や情報といった新しい授業が導入され、教師はその対応に追われている。確かに多くの教師たちには時間的、体力的余裕がない。しかし本来、児童生徒の安全確保ほど教師が優先すべき作業・点検項目はないはず。教師のゆとりが無いからといってこれを業者任せにする発想はどう考えても芳しくないだろう。むしろ教師たちが校庭の安全点検をきっちりと行えるだけの時間的、体力的ゆとりを確保していくことこそが最も優先される課題と思うが、いかがか。

 安全性の確保・点検は校庭だけではなく、当然、各種教室や階段、駐車場、体育館、遊具、U字溝のフタなど、学校の隅々まで実施できなければなるまい。児童生徒と日常的に向き合っている教師でなければ、目が行き届くことの難しい箇所だって少なくない。様々な施設・用具があり、死角の多い学校空間である。ごく短時間しか学校に来られない業者が児童生徒の予想しがたい動きをも想定した点検ができるのか、疑わしくはないだろうか。たとえ予算がついて特定の業者に任せられたとしても、本当に実効性のある安全確保など外部の業者には極めて難しいと思うが、いかがか。

 もちろん、児童生徒の健康や安全確保を最優先する心構え自体が従来の日本の学校には圧倒的に欠けていた側面があることも否めないだろう。深刻な組体操の事故が相次いでいても決して止めようとしない学校はいまだに少なくない。また暑い日であるにも拘わらず敢えて運動会や長距離走を強行したり、蒸し暑い体育館で長時間にわたり全校集会、学年集会を強行して大勢の児童生徒を体調不良に陥れることを繰り返す学校も少なくない。今や傷害罪に問われるかもしれないような、我慢大会と化した学校行事の数々…そうした戦前からの集団主義的、鍛錬主義的な教育の在り方は時間をかけて徹底的に見直すべきであろう。そしてそのためにこそ、教師たちには児童生徒の健康と安全を確保する地道な点検作業だけはむしろ万難を排してでもすべからく、怠りなくやり続けていくべきである…今後、様々な学校事故を少しでも着実に減らしていくにはそれしかあるまい…と思うのだが、いかがだろう。

 実は学校でのケガ、体調不良の発生を安易に児童生徒の自己責任・自己管理能力の欠如と決めつけるような、学校事故・事件の当事者意識に欠ける教師は現在も決して少なくない…というのが私の正直な実感である。

 

・東京オリンピックとは何だったのか?

【恐怖】洗脳教育を受けた韓国人が韓国を嫌いになったワケ

 2021/08/07 コリプロ「ファンカイと韓国語」 14:18

 オリンピックの隠れた目的が見えてくるのでは?

【東京五輪の闇】日本経済衰退の戦犯「利権ビジネス」とは?【ドーム元社長・安

 田秀一】日経テレ東大学  2022/12/08 38:07

小泉演説 2021年7月 都内某所 (松下アキラ)

 イヌとネコ  2023/01/18 6:11

 東京オリンピックの問題の導入として利用価値が高い動画。かなり笑える。

汚職日本代表の活躍を見逃すな!

 ワラしがみ  2022/09/23 7:55

 東京オリンピックの問題点が分かりやすく面白く解説されている。

【なぜ儲からない】スポーツビジネスの転換が必要?【東京オリンピック汚職】日

 経テレ東大学  2022/12/13 37:42

【五輪汚職安倍政治と検察①】東京五輪でなぜ汚職が相次いで起きてしまったの 

 か?政権と検察の関係にも迫る!

 2022/09/24 中田敦彦のYouTube大学 -37:46

【五輪汚職安倍政治と検察②】戦後最長の安倍政権vs検察人事への介入

 2022/09/25 中田敦彦のYouTube大学 - 28:19

【五輪汚職】の授業を終えて中田が感じた事は?

 2022/09/26 中田敦彦のトーク - NAKATA ATSUHIKO TALKS 22:24

 中田氏が危険を冒してまで真情を吐露するに至った理由について討論させたい。これまでアマチュアスポーツ界における利害を超えた平和の祭典と美化されてきたオリンピックであるが、1984年のロサンゼルスオリンピック以来、プロスポーツ選手の参加が許され、運営上の巨額な経費を賄う上で企業の関与が一気に拡大していった。

 今回、東京オリンピックに絡む贈収賄が疑われている事件は巨額の資金が投じられるオリンピックに目を付けた企業と政治家との汚い関係が背後に潜んでいるようだ。コロナ禍のもと、開催に反対の動きが見られる中でオリンピックを強行した政権の隠れた意図が見え隠れしていよう。さらに安倍元首相殺害事件が加わり、オリンピック開催と統一教会の改名に深く関わってきたかつての安倍政権が目指した政治の実相が暴かれつつある。にもかかわらず、現岸田政権のもとで安倍氏の「国葬儀」が強行された。なぜ安倍政権が2016年から検察人事に強引な介入を繰り返したのか、その理由が疑われるだろう。

 2020年に安倍政権が検察人事介入に失敗した事が安倍氏の体調不良を理由とした退陣に繋がるとすれば安倍氏がこれまで行ってきた「忖度」政治の危うさがいかなるものかも深く考えていくべきである。2030年の札幌冬季オリンピック実現に向けて既に動き始めた現在、森友事件、桜を見る会の疑惑などとともに東京オリンピックに関わる贈収賄事件への徹底的な解明が待たれる。

 政治やスポーツの世界にはびこる年功序列の権威主義的体質はどうやら人脈を利用した汚職事件と親和性が高いように思われる。そうした中で事件に関与したと疑われている元首相で文教族出身の森喜朗元オリンピック組織委員長の功績を称えて森氏の銅像を建てようとの動きがスポーツ界に見られるとのこと。これまたどう見ても疑問だらけの動きだろう。疑惑の渦中にある安倍、森二人の元首相をこのタイミングで臆面も無く顕彰しようとする政治家達の動きに日本のスポーツ界が関与するとすれば高体連や高野連はどう対応するのか…公教育における政治上、宗教上の中立性が改めて問われるに違いない。

 統一教会についてはぜひとも「◎【YouTubeとの向き合い方】旧統一教会の授業をするまでの葛藤と覚悟 2022/09/01 中田敦彦のトーク 39:29」を参照していただきたい。中田氏が真剣に自己肯定感を高める上で何を失い、何を得てきたか、深く考えさせられる内容。民主主義の孕んでいる危険性が見えてきて社会科学習の究極的目標の一つが中田氏の発言に潜んでいるようだ。

 ※森元首相による女性差別的発言の件は§4「差別問題」で触れます。

 

・不登校とイジメの背景

参考動画

【坂井風太】「生存者バイアス問題」と若手の不本意離職を防ぐにはReHacQ

   ハック【公式】  2024/01/17  52:35

 組織マネージメントの専門的見地を学校組織に当てはめると、学校での不祥事、隠ぺい事件の背景にどのような組織文化があるのか、探っていく必要があるだろう。坂井氏の指摘には非常に有意義なポイントが数多く含まれているようだ。特に「生存者バイアス」は極めて重要な観点で、このバイアスこそ学校をダメにしている大きなポイントではないだろうか。バイアスを自覚し、さらに新人教師の教師としての自己効力感を高めるマインドセットをどう創り出すのかを探ることは大学での教員養成教育においても必要不可欠なはず。

今世紀に反抗期は無い

 宮台真司の部屋 2022/11/04 8:16

 醜悪な現代社会において「キョロメ、ヒラメ」であることがいかに危険なのか、確かに留意すべきだろう。「承認虫」と呼ばれるようなクズにだけはなりたくない、と思うならば大人社会とは安易な妥協をせずに自らの価値観の軸をずらさない努力が必要となる…思春期における反抗期を無くしてしまった現代においては、むしろ大人になってからの反抗期を永続させるような覚悟が不可欠なのかもしれない。刺激的で考えさせられる内容。やや難易度が高いが、是非、生徒達の意見を募りたい。

【不登校】全ての親御さんへ【山田玲司/切り抜き】

 山田玲司の原作が10倍おもしろくなる解説【山田玲司 切り抜き】

  2023/02/07  16:28

【教育】不登校ははっきり言って○常ですよ…。学校嫌いとその親に知っておいて

 ほしい現実【山田玲司/切り抜き】

 2022/08/18  11:36

日本で自○が異常なほど多い理由…【山田玲司/切り抜き】

 2022/06/04  8:21

 山田氏は今の学校がどんなにダメなのか、かなり過激にこきおろしているが、このような視点を学校教師が多少とでも理解できているのかは疑問。とはいえ、意識、無意識のうちにイジメを放置し、隠蔽してしまう学校の無様な現状の背景に何があるのかを見ていく必要もあるだろう。

歴史的偉人が現代人を論破するアニメ【第34弾】「なぜいじめが起きるのか教えて

 やるよ カール・ポパー」ピヨピーヨ速報 2021/12/26 4:02

小学校担任50代男教諭「スルーしよう」児童に相次ぎいじめ行為滋賀・野洲市教

 委が謝罪|TBS NEWS DIG  2022/09/30 5:10

 いじめの扇動を指導方法の一つとする教師が出てくる背景に、イジメられる側の責任を強く問う考えが多くの教師に共有されている可能性は指摘できよう。大抵、イジメる側がクラスの生徒では多数派であるため、担任には生徒の多数派にすり寄ることでクラス経営を楽にしようとするインセンティブがどうしても働きがち。

 かなり昔に有名になった担任による「葬式ごっこ」事件(東京都中野富士見中学いじめ自殺事件:1986年)以降もこうした事件はほとんどが表面化しないまま一定程度、各地で続発していたのではあるまいか。

【成田悠輔】評価と仕事と学校教育|好き勝手なことをやる意志|他人の評価、分

 類、肩書きに捉われない生き方|無感覚観

 日本経営合理化協会  2022/08/20  8:23

 不登校経験者の学校論。他人の評価ばかりを気にせず、自分のやりたいことを優先すべき…強力な同調圧力のもと、イジメを恐れて周りの空気を読み続けるうちに自分を見失いがちになる、息苦しい現在の学校社会から自立していくにはどのような心構えが必要なのか、考えてみたい。これは児童生徒だけの問題ではなく、教師の学校におけるあり方の問題でもある。

【成田悠輔】学校、会社の強制してくる価値観から逃げ出す能力を作るために社会

   性をどう削ぎ落としていくかが教育の重要な約割。成田悠輔の子育て論

 【成田悠輔/切り抜き】 ゆうすけの部屋   2022/04/03  4:51

   社会性が無いことでむしろ学校が押し付けてくる価値観から守られる自分らしさ、自分なりの価値観があることが示唆されている。成田氏らしい個性が光る言説。

【ネタバレ注意】“かがみの孤城"に隠された謎!【本の紹介・レビュー】

 文学YouTuberベル  2018/05/05  10:25

 不登校問題を考える上で最良の入り口の一つが近年、アニメ化された「かがみの孤城」だろう。同調することばかりを強いて多様性を尊重できない日本の学校文化に潜む排他性がスクールカーストと陰湿なイジメを生み出す集団心理の土壌となっていると思える。作家の辻村氏が描く作品の多くはそうした社会の中で個性的な自分という存在を持て余しながらも、不器用に生きている人たちをどのように支えていくのか、その方途を指し示しているようである。

学校を休むことの重大さが日本とアメリカで違いすぎる!日本 VS アメリカ

 #Shorts 2021/05/28 Kevin's English Room / 掛山ケビ志郎 0:40

 こういう、ちょっとした身近な話題から日本の学校社会の異様さを浮かび上がらせる工夫は大切だろう。

参考記事

給食に生徒が「ふりかけ持参」で賛否 「弁当と給食は別物」猛反発した市議が語っ

 た問題の本質 AERA dot. 米倉昭仁 の意見 2024.3.17

 賛否相半ばする議題としてぜひ授業で取り上げたい記事。ふりかけ持参に反対するのはいかにも全体主義的な傾向をにじませる共産党議員。激怒するところなぞはまるっきり中国や北朝鮮の反応に近く、そのことにむしろ恐怖を感じてしまうのだが、いかがだろう。

 大の大人がなぜ、こんなことで激論を交わさなくてはならないのか、個人的にはまったく理解できない。件の市議、全国隅々まで画一的に統制することを美徳とするような気味の悪い全体主義を平等の理想とすっかり取り違えているのではあるまいか。

 「弁当と給食は別物」と決めつける思想には個性や多様性、自由を危険視するファシズムの臭いが強烈に漂う。児童生徒個々人が必要としている栄養バランスは間違いなく、多様性に満ちているだろう。どんなに栄養バランスを考慮したメニューであっても、全員一律のメニューである限り、栄養面で全ての要求を一人一人適性に満たすことなど不可能に決まっている。児童生徒からすれば昨日の夕飯や今朝の朝食メニューと給食のメニューとが折悪しく重なってしまうことだって十分ありうる事態だ。

 そんなに栄養のバランスをとりたいのなら給食担当者は手分けして各御家庭の食卓に突入し、一日三食、一年365日すべてのメニュー指導を厳格に実施するほかあるまい。硬直し切った薄気味悪さを発散する共産党市議に猛反発したくなるのはおそらく私だけではないだろう。

元気な小学生が中学生になると面白みのない生徒になる…「みんなも我慢している

 んだから我慢しろ」無能教師がはびこる日本の同調圧力教育

 集英社オンライン 2023.08.07

なぜ多くの日本人は昔から、同調圧力が「好き」なのか…自由を「わがまま」や

 「自分勝手」ととらえ、厳しい校則で圧をかける教師もいる

 集英社オンライン 2023.8.8

「不登校の原因はいじめ=0.2%」という文科省と学校を信用できないワケ

 JBpress 石井 志昂,湯浅 大輝 によるストーリー 2023.8.18

 これほど違和感の強い調査結果を一体、誰が信用できるだろう。どれだけ文科省や教育委員会、学校が世間からズレてしまっているのかを雄弁に物語るデータ。

「いじめ」が生まれる「深刻な構造」の正体…多くの人が意外と知らない「学校」

 とはなにか 現代ビジネス 内藤 朝雄 の意見 2023.5.25

日本の学校の「深すぎる闇」…私たちが「理不尽なこと」を受け入れてしまう「根

 本原因」の正体 現代ビジネス 内藤 朝雄 の意見 2023.5.26

 極論も含まれているが、刺激的な分、訴求力はあるだろう。日本の学校ははたして子供たちが成長していく上で本当にふさわしい条件を備えているのか、冷静に問い直してみる必要はあるに違いない。子供たちにとって本質的に害悪となる側面も学校教育にあるはず。少なくとも「学校という場では教育という素晴らしい営みが行われている」という幻想、思い込みだけは捨てておかなければなるまい。ならば日本の学校のどういう点が良くないのか、討論させる上で一つのたたき台にはなるだろう。

公立小が98%の日本で「オルタナティブスクール」が増える本当の価値「モンテッソ

 ーリやシュタイナー」日本でも脚光 東洋経済オンライン 2022/11/01

 日本の場合、98%以上の子ども達が公立の小学校に通うという異常な選択肢の狭さに、国民意識を植え付けるための洗脳装置としての学校という国家戦略が明治以降も変わること無く続いてきたという近代日本の普遍的な流れが示されているようである。学校の在り方にも今後、更なる多様性が切実に必要とされているのではあるまいか。ただし、本来はどの学校においても尊重されるべき多様性を圧殺してきた日本社会のあり方そのものへの反省がまずは求められよう。

「日本人には自由な精神が足りていない」安藤忠雄が世界とわたりあって知った"本当

 に大切なもの" プレジデントオンライン 高橋 克明 2022.12.5

 大学に行かなかった安藤氏が世界的に活躍する建築家にまで登り詰めた背景に何があったのか、刺激に富む内容。国家の行く末と青年達の進路を重ね合わせて考える上で格好の素材となるだろう。

多数派の考え方を変えるために少数派の人たちができることとは?【社会心理学】

  ラブすぽ の意見 2023.6.22

 少数派の意見が多数派に影響を与えられるようになる条件として、少数派の意見が一貫している(多数派に阿らない)、他の論点では多数派の意見を持っている(ただの天邪鬼ではない)、多数派が現状に満足できず、改革を求めている、などがあるという。集団の同調圧力に屈せず、イジメと戦う、あるいは学校社会を変えていこうとする少数派には大いに参考となる知見だろう。

 

参考文献

○「学校ってなんだ!~日本の教育はなぜ息苦しいのか~」

 工藤勇一・鴻上尚史 講談社現代新書 2021

 

 ※イジメなどをめぐる学校側の隠蔽体質については後に配信する予定です。

 

カッパの伝言板

スポ根もの、戦争ものと学校教育との関係についての私的試論

 

・始めに

 昭和100年、戦後80年、あるいは前回の東京オリンピック、大阪万博から半世紀余りを経ての昨今のオリンピック、万博の再開催…何かと昭和時代を振り返りたくなるような機運が高まってきた現在、私が個人的に最も注目するのは、戦後日本におけるマスコミと学校が子供たちに果たしてきた役割の大きさとその内容である。

 家族を除けば、マスコミと学校の二つこそが当時の子供たちの心に最も大きな影響を与える張本人であることはほぼ間違いないだろう。学校教育の子どもたちへの影響力が甚大であることはもはや言うまでもないが、テレビを中心としたマスコミの力も実際には相当、強烈なものがあった。ちなみに私の家にテレビが据えられたのは多くのご家庭と同様、東京オリンピックをまじかに控えた1963年の末のこと。以後、テレビはラジオにとって代わり、たちまちお茶の間の王者として君臨するようになった。やがてテレビの無い生活が考えられないほどまで、テレビは私たちの日常に必須のものとなる。

 何せ私たちは当時、「テレビっ子」と呼ばれた世代に属していた。とりわけ子供向けのドラマやアニメが私たちの心の持ちように与えた影響には計り知れないものがあるはずだ。それは一体、どんな影響だったのか、誰がはたしてどんな目的をもって私たちを洗脳していたのか…それを探らない内は安心してボケることもできまい…

 私は昭和33年(1958)生まれなので、物心がつく幼少期は既に高度成長期のど真ん中であった。ひなびた房総、市原の海浜部はたちまち埋め立てられて煙突の立ち並ぶ工場地帯となり、ついには「市原ゼンソク」が脚光を浴び、中学校時代には光化学スモッグ警報が繰り返される日々を送っていた。田んぼや畑は次々と整地されて家や店舗が建ち、山林原野もまた続々と開発されて広大な新興住宅地や団地群と化していき、工場地帯の労働者たちの住まいに変貌を遂げていった。

 他方で私たちの周りにはいくつもの土管、ドラム缶が置かれた空き地が次々と出現しては消えていった。子どもたちの遊びの聖地は短期間で移動を余儀なくされながらも、しばらくは消えることが無かった。

 

 

 地域によって大きく事情は異なるだろうが、私たちまではいわゆるギャングエイジに辛うじて属しており、まだまだ草野球が盛んだった。異年齢集団でにぎやかに遊び暮らす日々は少しだけだが、私たち世代にはわずかながら残されていたのだ。

 しかし1960年代の中ごろからだろうか、経済成長期の活気が感じられる一方で、多くの私と同じ世代の子どもたちはある種の悪夢にうなされるようにもなっていたように思うが、いかがだろう。何か怖いものに追いかけられ、ひたすら逃げようとしてもがく…後味の悪い夢を少なくとも私は執拗に繰り返し見るようになっていた。

 落ちる夢、落ちそうになる夢、アリ地獄にはまる夢、追いかけられる夢、逃げるために空を必死に飛ぶ夢、空から落ちていく夢、殺される夢、テストで白紙のまま時間が迫り、焦る夢…それらの夢は一体、何に由来していたのだろう。

 まずは自分の悪夢の正体を探りたい、当時の私(あるいは私たち)に悪夢を見せ続けた張本人を見つけ出したい…もちろん、今更、フロイトの説を参照するつもりは無いのだが…

 

武道の復活

 敗戦後間もなく、日本は早速、GHQからいわゆるチャンバラ禁止令を出され、映画や演劇における剣劇の場面や、仇討ち劇(日本人のアメリカへの復讐心を煽るおそれから)が禁止されてしまった。また軍国主義的であるとされて学校における軍事教練や武道の授業が禁止された。

 あれから80年近く経ち、剣劇や武道を巡る状況は一変している。この間の劇的な変化がどのような目的でもたらされたのか、漫画やアニメ、さらに学校における武道の扱いの変化に注目して、その時代背景を絡めながら私的な考察を加えてみたい。

 以下、「戦後の武道教育についての研究―学校における武道の取り扱いに着目して―久保 優樹,武井 幸二,岸本 卓也 2017」の内容の概略を年代順に示しておこう。なおこの論文は非常に良く整理されていて武道復活の歴史的経過をザックリと知るにはもってこいの資料である。

ア.武道の復活

・敗戦後ただちにGHQの指令により軍事教練や武道が禁止

・昭和25年(1950)、柔道が学校教育に復活サンフランシスコ講和条約

・昭和27年(1952)、剣道が「しない競技」という名称で復活

・昭和33年(1958)、中学校学習指導要領の改訂により柔道や剣道は「格技」とさ

 れ、男子のみが各学年一種目を行うこととされた。

 「道徳の時間」が設けられたことで格技は徳育をも担う種目として従来よりも重視さ

 れるように。

・昭和44年(1969)、中学校学習指導要領の改訂で格技の授業時数が倍増。ただの体

 力作りに止まらず、公正な態度、規則遵守の精神、責任感などを育成する種目とし

 て一層重視されていく。

・平成元年(1989)、中学校学習指導要領の改訂で「格技」から「武道」に改称され、

 戦前からの呼称としての武道が復活。「伝統的な行動の仕方に留意する」と定めら

 れ、礼法の徹底が図られた。もはや数あるスポーツの中の一競技という位置付けか

 ら別格扱いに。

・平成10年(1998)、中学校学習指導要領の改訂で「我が国固有の文化として伝統的

 な行動の仕方が重視される運動」や「武道に対する伝統的な考え方を理解し、それ

 に基づく行動の仕方を身に付けることが大切である」 

・平成20年(2008)、中学校学習指導要領の改訂で武道がついに必修化され、伝統文

 化の尊重、愛国心や道徳心の涵養が武道を通じて図られた。

  ←教育基本法の改正(2006):第一次安倍晋三内閣

 なお、武道の禁止から復活への過程は武道を描いた漫画や時代劇の禁止から復活への過程とはほぼ平行して実現しているので、そちらの動向も以下に示しておく。もちろん公職追放の解除や戦犯の社会復帰、戦争物の漫画やドラマの復活、軍隊の復活もまた武道の復活と軌を一にしている。総じて「戦前への回帰」とも捉えられるこれらの動きをもたらした最大のきっかけは朝鮮戦争によるアメリカの対日政策の転換と考えられる。

イ.時代劇の復活と終焉

・敗戦後、いわゆる「チャンバラ禁止令」がGHQから出され、剣戟のシーンや仇討

 ちシーン(アメリカへの復讐心を煽るおそれ)は御法度に。

1951年頃から時代劇の復興が見られるように←サンフランシスコ講和条約

 姿三四郎の映画化、テレビドラマ化が続々と行われ、テレビアニメも登場。

 漫画の世界でも武道を描いた作品が登場し、1952年から1954年にかけて柔道漫画

 『イガグリくん』(福井英一)が『冒険王』で連載された。この作品は講談や時代劇

 などで描かれてきた伝統的な日本人的心情に則ったもので、柔道だけでなく異種格

 闘技戦の要素も含んだ作風は熱血スポーツ漫画のルーツとも呼ばれ、後の作品群に

 大きな影響を与えることになったという。

・1960年代半ば以降、時代劇の映画上映は減少する一方でテレビ放映が急増

・「柔道一直線」(TBS:1967~71)ブーム、スポ根ものドラマの一つ。

・「おれは男だ」(日テレ:1971~72)ブーム

・1990年代、いわゆるトレンディドラマの流行によって時代劇衰退

 なお、手段や理由が何であれ、「人殺し」シーンに子供たちまで拍手喝采を送るドラマの是非については、西部劇や戦争物の映画を含めてきちんと議論すべきだろう。

ウ.武士道と武道と阿部選手号泣の件

 戦争ネタと体育での格技の導入は子どもたちをより戦闘好みの競争的気質に変えていったのでは…うがった見方をすれば武士道と臣民の道の復活なのか…

 パリオリンピックでの柔道で阿部詩選手号泣の件をめぐり話題となった東国原氏の否定的意見をどうとらえるのかは、こうした点で興味深い。

 この問題に関して、柔道をあくまで武道として捉えるのか、国際的なスポーツの一種目として捉えるのか、どちらの観点に軸足を置くかで意見は分かれる、とする見方があるだろう。しかし、最も重要なのは戦後の武道を戦前までの武道と異なる視点で捉え直すことではあるまいか。かつての武道は基本的に神道や武士道と強く結びついており、道場は神聖な場として常に清められる必要があった。

 とりわけ剣道を中心に武道は武士道とも分かちがたく結びついていた。武道界にはびこる年功序列の体質は武士道の影響抜きでは語られないだろう。柔道をオリンピックの種目として維持していきたいのであれば柔道連盟は武道の持つ神道的な要素を薄め、かつ年功序列型の師弟関係を排除していく必要があるに違いない。

 他方で「礼を持って始まり、礼を持って終わる」武道精神は平和の祭典たるオリンピックにふさわしいものがあり、むしろ日本はこれを積極的に世界に広めていくべきであろう。すなわち武道を国際的なスポーツとしてより一層発展させたいのであるならば、まずは武道と神道及び武士道とを切り分けて考えていくことが肝要ではあるまいか。

 逆に剣道界の様に日本の伝統に固守する勢力が強いのであるならば、剣道がオリンピックの種目とされることは諦めるべきだろう。また学校体育や部活動においてもすべからく神棚を撤去し、暴力的な鍛錬主義を一掃できない限り、剣道は体育の種目および部活動からから全面的に外すべきと考えるが、いかがか。

 

少年向け戦争ものの隆盛(1960年代中頃)

 少年向け戦争物の先駆的番組「快傑ハリマオ」(1960~1961)は日本テレビ系ほかで放送。太平洋戦争直前の東南アジアやモンゴルを舞台に、正義の日本人男性・ハリマオが、東南アジア(第4部を除く)を支配する某国の軍事機関、彼らと結託する死の商人や秘密結社、スパイ団と戦う冒険活劇。

 太平洋戦争直前、マレー半島に大日本帝国陸軍に協力した義賊「マレーの虎」「ハリマオ」こと谷豊という人物がハリマオのモデル。谷の活躍は当時のマスコミで宣伝され、大映が現地ロケを行って『マライの虎』という映画を制作し、戦時中に大ヒットさせている(1943年)。

 敗戦後しばらくの間、軍国主義のシンボルとしてその存在は忘れ去られていたが、「昭和の妖怪」(1960年当時の首相は岸信介)の如く、なぜか子供向け番組のヒーローとしてブラウン管に復活していた。

 1960年代に少年時代を送った世代は本格的にテレビの洗礼を受けている。したがってテレビが家庭に普及し始めた頃に登場した「怪傑ハリマオ」が当時の少年たちに与えた影響は決して小さくなかったと思われる。

 当時の男子たちが楽しんでいたごっこ遊びは圧倒的にチャンバラが多かったが、やがて戦争ごっこも加わっていく。いずれにせよ、人の命を奪うシーンが繰り返されるような、殺伐としたごっこ遊びの増加は当時の子どもたちに一体どんな爪痕を残していたのだろう。しつこいようだが、個人的にはひどく気になるのだ。

 

    東京オリンピック開催の前年にあたる1963年、少年マンガの世界はどんな特色が見られたのか?少年キング創刊と戦争漫画の出現は一体、何を意味するのか?ヒトラー政権の下で開催されたベルリンオリンピックを思い出したい。

 実は切磋琢磨してメダル獲得を目指し、競い合うスポーツと戦争とは極めて相性が良い。日本のプロ野球の父、メディア王の正力松太郎が最初に目を付けたのはそこではなかったか?

    1968年創刊のジャンプが掲げるスローガンは「友情・努力・勝利」。見事に勝利至上主義、そして根性と協調性を偏重する日本の学校での運動部の伝統と響き合う。、

 

 

 高度経済成長をもたらした池田勇人内閣の時におけるこの集中豪雨的な戦争ネタの多さは当時の子供たちの好み、感性を戦闘好き、競争好きに変えていったはず。1964年の東京オリンピックをはさんだ時期における戦争ネタの洪水は同じ1964年、トンキン湾事件を機にベトナム戦争へのアメリカの介入に刺激されて国威高揚と日米安保体制の強化、再軍備の推進を図ろうとする日本政府の密かな意図が見え隠れする。

 罪深いのはテレビ局や新聞社、学校だけではない。講談社や集英社、小学館といったマンガ週刊誌を出していた出版社も同罪だろう。

 

 チャンバラごっこに加えて戦争ごっこという遊びも流行。これは身もふたもない言い方をすれば戦時中にも見られた人殺しを遊びにしてしまうような風潮が子供の世界に急速に復活してきた、ということに違いない。それは日本の再軍備の歩みと教育の管理統制強化とが平行しつつ、きな臭さを強めていたこの時代の空気感を素直に反映しているに違いない。

 1960年代に入り、突如として戦争ものの漫画、アニメ、ドラマ、プラモデル、玩具が激増する。この時期、子供たちにあたかも集中豪雨のようにして浴びせられた戦争ネタによる洗脳がその後、私たちテレビっ子世代にどのような精神面での爪痕を残していったのか、少しばかり考えてみたい。

 

学校教育とマスメディアの責任

 学ランとセーラー服が陸軍、海軍(水兵)の軍服に由来することは周知の事実。学帽やランドセルも軍隊由来。テレビ局や新聞社、出版社も罪深いが、最も罪が重いのは学校教育であると私は考える。マスコミと学校教育とが今の日本人の精神性を根底で形作ってきた二大戦犯ではないのか。

 特に近年はマスコミへの批判が集中し、「マスゴミ」などと揶揄されているが、子どもたちの洗脳という観点で一層罪深いのは学校教育の方なのだ。明治以降の150年以上の長期間にわたって国民がそのことに気付けないのは、私たちが幼い時から繰り返し無意識のレベルにも及ぶ学校での洗脳の成果に他なるまい。

 なお運動会の原点はイギリス海軍の指導で1874年、海軍兵学寮に導入された「競闘遊戯」である。組体操と騎馬戦は団結力と闘争心の養成に役立つため、児童生徒への危険性は承知の上で戦後においても強行されてきた。

 そもそも学校には早くから丸刈りの強制、体罰の容認など人権軽視、コンプライアンス度外視の伝統が根付いていたといって良い。たとえば学校での体罰は明治中頃、教育令(1879)、小学校令(1890)によってとっくの昔に禁止されていた。が、その当時から既に体罰禁止規定が学校現場で守られた試しはほとんどなかったのだ。

※なお学校の兵営化は戦時中、実際に行われた地域もあり、また校舎が軍需工場に利用された場合もあ

 った。こうした結果、学校は戦闘機による機銃掃射のターゲットとなり、教職員や児童生徒らにも数

 多くの犠牲者が生まれてしまった。

 

 学校は何よりも子供たちの心身の鍛錬の場であった。したがってクーラーが普及した時代でも長い間、学校だけは教室にクーラーが設置されていなかった。特に体育館はいまだにクーラーの設置率が低く、夏の間、住民が豪雨などの災害で避難のために殺到してしまうと地獄を見るはず。

 冬も床が冷えてきて小さなストーブでは安眠できず、ほとんど防寒としての意味をなさない。このことは東日本大震災で一度、世間に知れ渡っていたはずだが、能登半島での地震で、またもや学校の避難所としての設備不足、機能面に大きな懸念と疑惑が浮上してしまった。私たちは先進国で最低レベルの低予算で教育を切り盛りしてきたのが日本であることに、災害発生時、改めて痛感させられるのだ。

 敗戦後、日本の学校はアメリカの指導下、民主主義的な方向で大きく変えられていったはずだが、実際はそうでもなかった。たとえば高校はアメリカのハイスクールをモデルとしながらも、その実、新制高校の三大原則であった「男女共学、小学区制、総合制」の中で一部でも実現できたのは恐ろしいことに男女共学だけであった。しかもその男女共学ですら埼玉県などではいまだに不十分なままである。

 すなわち戦後の学校教育は実際には戦前と大差なく、相変わらず皇国民錬成の場におけるがごとく体罰を是認し、根性を鍛える精神主義的志向が強かったのだ。さらに一斉講義形式を中心とした画一的授業に見られる管理主義的で同調圧力の極めて強い集団主義が随所に色濃く残存していた。戦前から法的には禁止されていたはずの体罰や時代遅れのブラック校則の存在がそれを雄弁に物語っているのだ

 こうした学校の非民主主義的で非合理主義的な体質は、たとえば軍事教練を起源にした組体操(ことに人間ピラミッド)や騎馬戦、棒倒しといった危険な種目を戦後も長らく学校行事や体育の世界に温存させてきた。大阪府や神戸市で執拗に続けられた人間ピラミッドにおける重大な事故の数々はいまだ記憶に新しいだろう。

 学校での軍隊式鍛錬と次に述べるマスメディアが提供するスポ根ものとは、ともに協調性と根性を重視する精神主義的性格において共通しており、極めて両者は相性が良かった。そして心身の鍛錬を名目とする勝利至上主義は広陵高校野球部の件を例に出すまでもなく、校内での暴力やイジメを生み出す土壌となっていたはずである。

 

スポ根ものの隆盛(1970年前後)

 

 

 スポコンものの代表格である「巨人の星」(1968年から読売テレビ・日本テレビ放送、作画は川崎のぼるで原作は梶原一騎)は現在ではコンプライアンス上、放映の許されない描写が続く。しかし当時の少年達の多くは大リーグ養成ギプスにすっかり感化されて親にエキスパンダー(1954年発売開始)を買ってもらい、自分なりに巨人の星を目指して筋トレに励んでいた。1969年にベストセラーとなった石原慎太郎の「スパルタ教育:強い子どもに育てる本」(カッパホームス:光文社1969年)もその後のスポ根ブームを招来した土壌の一つに数えられるだろう。

 女子向け「スポ根もの」アニメの代表格が「アタックNO.1」(浦野千賀子原作)。1968年から週刊「マーガレット」連載。テレビアニメとしては1969年からフジテレビ系列で放送。現在では絶対に許されないレベルのスパルタ式猛特訓、まさに「不適切にも程がある」描写は東京オリンピック(1964)で女バレチームが金メダルを獲得した際の大松監督の指導を想起させる。なお女子向けスポ根ものは他にも「サインはV」、「エースをねらえ!」などがあった。

 スポ根ものの代表的な原作者である梶原一騎(1936~1987)は知的エリートの父と体格の秀でた豪放な母との間に長男として生まれる。戦時中、戦後間もなくの厳しい時代に少年期を送り、疎開などで九州、東京を転々とする中、小学生から中学生にかけて軽犯罪を繰り返し、4年間を教護院(現児童自立支援施設)で過ごす。しかし17歳でボクシング小説が「少年画報」で入選。1962年、プロレス漫画の原作が「週刊少年マガジンに連載され、26歳で人気作家となる。

 彼は「巨人の星」(1966~)、「柔道一直線」(1967~)、「明日のジョー」(1968~)、「タイガーマスク」(1968~)「キックの鬼」」(1969~)、「赤吉のイレブン」(1970~)、「空手バカ一代」(1971~)、「侍ジャイアンツ」」(1971~」などの作品を通じて底辺から這い上がろうとする男の子を主人公に据えてきた。彼らは皆、様々な試練を乗り越え、限界を突破しようとするスポーツマン、熱血漢であった。彼らの物語は敗戦の焼け跡から必死で立ち上がろうとしてきた世代からも大きな共感を呼び、10代の少年だけではなく20代、30代の若者をも虜にしていった。

 1970年3月31日に発生した『よど号ハイジャック事件』では、犯人らが「われわれは明日のジョーである」〔ママ〕と声明を残している。そういえばあしたのジョーの主題歌を作詞した寺山修司(1935~1983)の作品に「 マッチ擦るつかのま 海に霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや 」がある。

 「身捨つる」に足る何かを求める激しい捨て身の思いは「滅私奉公」を強いられた戦時に育った者に特有の精神なのかもしれない。彼は1935年生まれ、つまり国民学校世代に属していた。47歳という若さで肝硬変で亡くなる死にざまもこの世代らしさを強く感じる。

 寺山と一歳差、1936年生まれの梶原一騎は川崎のぼるの作画で「巨人の星」を少年マガジンに1966~1971年にかけて連載し、1968~1971年、テレビアニメ化された。大ヒット作となったが、父親の星一徹による暴力シーンは現在、コンプライアンス上の問題でテレビでの再放送を不可能にしている。また大リーグボール1号などは現在のスポーツマンシップとは明らかに相容れないものである。この作品、どう見ても青少年の健全な育成の反するレベルでの、手段を択ばぬ勝利至上主義の危険な臭いが濃厚に漂ってくるだろう。

 すなわち梶原一騎の作品にはどうやら目的のためには手段を択ばぬテロリストの論理のような気配が見え隠れする。後の過激派による捨て身のテロ行為、内ゲバを正当化する側面があったのかもしれない。しかし何はともあれ、現在の60代から70代の世代は間違いなく、こうした激しい闘争心を骨の髄まで沁み込ませられていたのではなかったか。

 「あしたのジョー」の最後で主人公矢吹ジョーが燃え尽きた姿を見せた時、日本人の過労死を美化しかねないほどの「燃え尽き症候群」的精神は私たちの世代にしっかりと充填されてしまっていたようでもある。

 これはもしかしたら三島由紀夫(1925~1970)の武士道的美学にも通じていたのではあるまいか?それは生き様よりも散り際の潔さを尊ぶ、「死に狂い」の武士道に通じる美学につながりかねない危うさを持っていたのではあるまいか?

 梶原一騎の晩年は傷害事件、麻薬疑惑(萩原健一に大麻を渡していた疑惑…)などのスキャンダルを連発させていた。そしてたちまち人気を失い、暴飲暴食もあって1987年に急死している。

 

 「明日のジョー」には熱狂的なファンが多く、作中キャラに過ぎない力石徹の死を惜しんで1970年3月24日、講談社で葬式が盛大に執り行われたことは有名である。

 マンガやアニメに熱狂したテレビっ子世代は他方で、60年安保、70年安保の敗退、学園紛争の収束に伴い、若者に成長していく過程で急激に政治離れを進めていった。かつての「テレビっ子」の多くは結局のところ、三無主義の「シラケ世代」と呼ばれるノンポリ青年となっていったのである。

 

 昭和世代の日本人には敗戦後の焼け跡から星一徹の如く逞しく裸一貫でのし上がってきたというそれなりの一体感と自負とがあった、と指摘する人がいる。おそらく戦後しばらくは普通の人々の間に現代ほどの経済的格差による大きな社会的亀裂は生じていなかったのではあるまいか。即ち1970年代の日本が「一億総中流社会」と懐古されるゆえんである。

 しかし1970年代後半からは簡単には埋められぬほどの経済的格差が随所に目立ち始めていた。その格差を何とかして努力と根性で埋められなければ周囲から怠け者、根性無しと罵られかねない・・・子供達はそのように身構えながら、毎日手に汗を握り、ブラウン管から繰り出される「スポ根もの」アニメの洗礼を不用意にも放射能のように毎日、浴び続けていたのかもしれない。

 少しでも怠けたり油断して手足を休めようものならズルズルと奈落の底まで堕ちてしまうかもしれないアリ地獄のような恐怖と悲壮感…自分の将来への得体の知れない重苦しい不安・・・いつ果てるとも分からない競争社会の闇にやがて多くのテレビっ子世代は飲み込まれていくことになる。

 

 

 酷薄な受験戦争とモーレツ社員の時代の到来である。どうやら軍国主義的な風潮の復活によって甦った精神主義、「滅私奉公」の集団主義は「スポ根もの」という平和主義的な装いを得て「社畜」とも呼ばれた企業戦士を力強く支えていく、闘争心あふれる精神を自らの魂に装填していたのかもしれない。  

 「血の汗流し、涙を拭くな…」といった体罰とシゴキを前提とする軍隊式、スパルタ式鍛錬の積み重ねこそが勝利をもたらす・・・そんな戦時中の「大和魂」の根性論に限りなく近い精神主義が当時の少年達に繰り返し刷り込まれていた。1972年の札幌オリンピックは「日の丸飛行隊」の活躍などにより、スポ根精神論を再活性化するのに大きな役割を果たしたに違いない。

 これは当時の少年達にとって実に効果的な洗脳策であったように思える。実際、この世代はやがて「受験戦士」として受験戦争を戦い、「企業戦士」となってからは苛烈な経済戦争の渦に巻き込まれて長時間の残業を耐え忍び、挙げ句の果てに「24時間戦えますか」(リゲインCM:1989~91))などと「過労死」まがいの世界へ向けてひたすら叱咤激励されていく。

 「シラケ世代」と揶揄されてはいたが、熱血スポ根アニメの影響力は私たちの世代から決して消え去ったわけでは無かった。彼らは長じて企業に就職するや否や「産業戦士」として新たな熱血ドラマの世界を駆け抜けていく。その多くは確かに政治的にはシラケていたが、勉学においては激しい受験戦争を努力の末に勝ち抜こうとする受験戦士であり、労働においては意外にも多くが熱血漢であったのだ。子ども時代にマンガやアニメから繰り返し受けてきた努力と根性の「熱血漢」として、精魂尽き果てるまで戦い続けるべし、という教え、呪縛から私たちははたして今、自由になれているのか、否か…

 

 テレビっ子世代はこうして常に激しい競争社会に踊らされ、煽られ、燃え尽きるべく強力に駆動されてきた、市場競争におけるただの駒の一つであり続けたのだろうか。そして私たちは「一旦緩急有れば義勇公に奉じ」…本物の戦士として潔く戦場に赴く「醜の御楯」となれるよう、学校や漫画、アニメによって洗脳されてきた…そうした側面をあわせ持つのかもしれない。武道が学校体育においてひときわ重視されたのは、それがスポ根ものと戦争ものとを密かに結びつける接着剤の役割を期待されていたからなのではあるまいか。

 

 今、体育教師に厳しく問うべきは武道の精神と武士道との違いとは何か、という一つの重大な疑問、疑念だろう。その境界が曖昧にされてしまうようなら、学校スポーツを軸とする日本の学校教育は、いつの間にか武道と言う名の戦場へと通じる通路を利用していずれ児童生徒たちを再び戦場へ送り込むことになるのかもしれない。

 とは言え、朝ドラの「あんぱん」で国民学校の教師だった主人公のぶが犯した過ちを、今さら現代の教師たちが繰り返すわけにはいくまい。私たちは今一度、立ち止まって戦後日本の歴史をじっくりと振り返ってみるべきであろう。

 

 人類はこれまで競い、争うことにあまりにも過剰なレベルで情熱を注いできたように思う。戦争やスポーツ、出世競争、受験勉強…ドラゴンボール、ナルト、ワンピースそして進撃の巨人、鬼滅の刃、チェンソーマン…マンガ、アニメの世界でも延々と何がしかの闘争が繰り返されている。闘争は自己目的化して次々とゲーム化し、エンタメ化して装いを新たにしつつ私たちを虜にし、いつまでも飽きさせない。

 あたかも魔法にかけられたかのように、私たちは考えることなく闘争というゲームに没頭してきたのではあるまいか。しかし、まさか私たちは競い、争うためだけに生まれてきたわけではあるまい。そろそろ闘争の場から少し距離を置いて、闘争がもたらした負の側面にもテレビっ子世代として目を向けてみる必要があるのではないか。