現代日本における公教育の病状と原因についての私見
参考動画
〇「社会性のない子どもを育てたい」データ×教育の専門家・成田悠輔の子育て論
新R25チャンネル 2022/04/02 28:32
◎【究極の問題提起】『生きて行く上で社会性は本当に必要だと思いますか?』人生で
一番大切なコトとは。。。 成田悠輔の教育論 半熟仮想 2024/06/14 13:27
疑うことなく子供たちの社会性を高めることを至上命題にしてきた教師は今も少なくあるまい。学校で集団生活することを通じて社会性が涵養される、との信念は日本の場合、社会全体に行き渡っているとさえ感じるが、いかがか。
社会性を身に付ける、という口実の下に資本主義的市場競争を軸とする競争社会への積極的参入をすべての児童生徒に促す…公教育の本質的狙いは、実はそこにあるのかもしれない。つまりある種の「社会性」の涵養こそが、現代の学校における社会化機能の中心なのかもしれない。
国民の「社会性」の涵養を通じて全国民を同じ土俵に乗せ,競わせる。すなわち人材の選別と配分を効率的に実現する…という古典的な社会的機能を相変わらず公教育は果たしているわけだ。「社会性の涵養」というキレイごとを掲げていれば国家的には日本の経済競争力を高めつつ、社会秩序も高い水準で保てる…
実際、強い協調性と没個性を強要しかねない同調圧力との境は私たちにとってかなり曖昧に見える。ある種の集団主義的社会性を身に付けさせることが明治期以降、日本の学校教育の究極的な目標として設定されてきた。しかしこの教育の流れは、ネット社会の進展の中でそろそろ見直されるべきかもしれない。多様性の尊重、という価値観を否定的に見る風潮が出てきている昨今、成田氏の主張は強烈なアンチテーゼとなっているように思える。
個別最適化の教育と多様性の尊重は重なることの多い重要な教育目標だ。これらはこれまでの一斉講義形式の授業に代表される画一的で管理主義的な公教育を少しでも多様性に満ちた柔軟な形に変えていく上で、高く掲げ続けるべき大切な理念である。成田氏のややトゲのある過激な口調に反発する前に、まずは学校がこれまで果たしてきた社会的機能の光と影の両面を見極めておきたい。
◎【日本の公教育は、古くて貧しい】東京と地方の差が大きい/不登校34万人/知識
の詰め込み方も多様/学校のWiFiが繋がらない/フリースクールの月謝補助を/教
育機会確保法による変化/軍隊教育マインドの名残
PIVOT 公式チャンネル 2025/03/22 29:56
白井氏が指摘しているように公教育の古さと貧しさは確かに日本の学校教育における大問題であろう。そしてフリースクールを含む学校の多様化を生み出すにはまず国家による学校教育への統制を緩めることが必要である。
公教育だから統制を厳しくするのは不可避だ、とするのは教育観の古さと貧しさに由来する側面が小さくないのではあるまいか。教育行政の画一的管理主義こそが学校教育の管理主義を蔓延らせている根源ではないのか。
軍隊教育のマインドが残存する学校教師の問題は確かにあるが、そもそも軍隊教育のマインドを持つ政治家と官僚の責任こそ、強く問われるべきであると考えるが、いかがか。教師の質の低下を問う以前に、問われるべき問題は数多くあるはずだ。
◎【車いす生徒】合格しても入学しない約束で受験?入学拒否に波紋…設備面の配慮
すべき?|ABEMA Prime #アベプラ【公式】 2025/04/16 20:00
災害時の避難場所とされている公立高校には本来、備えられてしかるべき冷房設備やエレベーター、バリアフリーの各種設備、障がい者用トイレがまったく無い、ないしは不足しているケースが千葉県の場合、決して少なくない。とりわけエレベーターは多くの公立高校に一台も存在していない。日本の「公教育の古さと貧しさ」がその背景に広く存在しているのだ。根本的にはGDPに占める教育予算の割合が先進国の中で長く最低レベルであり続けたことに平気でいられる日本の政治の問題である。にもかかわらず設備の不備をもっぱら個々の学校や各教育委員会の責任と見なすこと自体、議論としてズレ過ぎていると考えるが、いかがか。
高校の場合、ほとんどが4階建の校舎である。4月に重い教科書や機器などを幾度も往復して4階の教室まで運ぶ労力は並大抵のものではない。春を迎えるたびにエレベーターを備えている他校をうらやましく思う教師は今も圧倒的に多いだろう。
生徒の保護者にも車いすの利用者、杖などを必要とする人はいる。生徒だけではなく、障害を持つ教師や保護者、来校者、とりわけ避難時の住民たちの中には特別な配慮を必要とする人が少なからず存在する。だとすれば、インクルーシブ教育を担い、避難先をも引き受けた学校にはバリアフリーの設備が当然のごとく備わっていなければならないはず…なのに、この有様だ。
日本の公教育の余りの古さ、貧しさにうなだれるほかない。
〇【財務省】授業で四則演算やbe動詞…義務教育の内容?大学側は?“教育の質”は検
証可能?中室牧子氏「人に投資・リターンの確認を」|アベヒル
ABEMAニュース【公式】 2025/04/23 26:58
財務省の学校に対する古臭い認識、無知さ加減には呆れるばかりだ。義務教育における「落ちこぼれ」の大量発生が有効な救済措置もとられないまま高校教育に引き継がれ、高校でもほとんどが救済されないまま大学にまで引き継がれている。大学進学率が50%に達した現在、大学生でアルファベットや割合、分数が理解できない者は決して少なくあるまい。
学力どころか出席をも軽視する形式進級、形式卒業を当たり前とする義務教育の在り方が変わらない限り、日本の高校教育や大学教育を変えることはできないだろう。にもかかわらず、トップダウン的発想から高等教育、大学教育を変えるだけで教育の質の向上を図ろうとするのはまったくのナンセンスであり、教育全体を見渡すことの出来ない偏頗な発想に過ぎない。
いわゆるFラン大学の存在は、大卒という学歴を偏重する日本企業の、あからさまな手抜き採用人事のあり方にも起因するのであり、「営利追及に走っている」とばかりに難癖をつけて一方的に大学側の責任を問うのは的外れであり、片手落ちだろう。たんに需要があるから供給が生じているだけではないのか。
財務官僚のようなエリート進学校の卒業生たちに、日本におけるFラン大学の社会的な存在意義への理解がイマイチ足りないのは当然と言えば当然ではある。しかし自分たちのエリート主義的認識に大きな偏りがある事への自覚が不十分であることは認めるべきであろう。98%の進学率に達した日本の高校に存在する数多くの教育困難校もまた、それなりの存在意義はあるのだ。
仮にFラン大学が日本から消えてしまうと、一体どんな不都合な事態が発生してしまうのか、少しでも想像してみればよい。若者の失業率と犯罪発生率、貧困率は急激に高まり、いわゆる「無敵の人」が急増してしまうに違いない。
40年近く前に高校における教育困難校を「未成年失業者収容所」と表現した方(「当節定時制高校事情」佐々木賢 有斐閣新書 1987)がいたが、Fラン大学の存在意義もまたしかり、である。下手をすれば犯罪予備軍たりうる若者たちを収容する「予防拘禁施設」という社会的機能の側面から見れば、Fラン大学の存在価値をプラスに評価することも可能なはずなのだ。
確かに「高校」とか「大学」とはあくまでも名ばかりで、実態としては一部、義務教育のやり直し施設、果ては一部、少年院、鑑別所兼職業訓練施設と化している学校も無いわけではあるまい。
西欧や北欧のように高校レベルでの職業教育が発達していて、職人、技術者の社会的地位がさほど低くない社会では、大学に進学しない若者が路頭に迷い、犯罪に走る危険性は日本ほど高くはあるまい。リカレント教育が一般化した西欧や北欧ではいったん就職した後で大学進学する者が珍しくない。
しかし日本では職業高校が低迷しがちであり、職人の社会的地位も決して高くはない。中卒や高校中退で就職した若者が社会的地位を高めていく方途は、プロスポーツや芸能界を除くと日本では極めて限られている。この問題を放置しておいて、学校教育ばかりに責任を転嫁するのはいかがか。
◎【問題提起】半径2メートルの“教育観”を壊せるか|元校長が、教育は“宗教”と語
る理由【後編】#8 東修平の対話チャンネル【公式】 2025/04/25 38:24
高校教育の改革を主題とした記事や動画はこれまで極めて少なかったと思うが、いかがか。昨今の高校教育無償化を巡る論議によってようやく高校教育への注目度が高まってきたのだろうが、高校教師にとっては貴重な動画だと考える。
元高校校長の荒井氏の指摘の中で同府県立高校の一部を市町村立にして地域社会活性化の核としていく案は極めて興味深い。公民館や小中学校、高校などが一体化して地域社会の核となれれば、部活動の地域社会への移管も進むだろうし、児童生徒の異年齢間の交流も活発化するだろう。また都道府県立高校が抱える均質化、同質化の圧力を低め、各学校の個性化、自由化が進むかもしれない
〇【教員とは】新任教師の退職が過去最多に?負担が大きい?給料が安い?
ABEMA Prime #アベプラ【公式】2025/04/29 21:04
職員会議の非民主化、教育内容への過剰統制、教員人事の歪み、学校の不透明性(隠蔽体質、ブラックボックス化、発信力の弱さ…)、管理主義的で画一的な教育行政、大学での教員養成教育の不十分さ、公教育全体の貧しさと遅れ…日本の学校教育が抱えている問題を挙げればキリがない。
教員の中途退職や志望者数の減少は、そうした数多くの問題の上に次々と生起する沢山の症状の内の一つに過ぎない。教員の過剰労働ばかりに焦点を当てて教員不足の解消のみを目指す軽薄な議論では効果の極めて限られた、表層的な対症療法しか浮かんでこないだろう。
それだけ根深い問題を数多く孕むこのテーマについて、まともな識者、専門家すら招いていないこのメンバーでしっかりとした議論が尽くせるわけはない。せっかく採用試験合格を辞退した人を二人呼んだのだから、もう少し議論を深められる発言の出来る人を複数人、ゲストに呼ぶべきだろう。にもかかわらず、このレベルの軽薄な企画しか思いつかないスタッフの学校教育に関する無知無理解ぶりにはただただ呆れるほかない。
参考記事
〇「休憩ほぼなし、休日勤務が当たり前」 教員5200人調査が映す“過酷すぎる日常”
ITmedia ビジネスONLiNE 2025.8.29
なぜこんな雑な記事しか書けないのか、不思議。せっかく5000人を超える本格的な調査なのに、学校種別、年代別、性別などによる細かい分析が記事にされていないことに呆れる。おそらく調査を行った係の人たちはt手間暇かけてきちんと分析をしているはずである。編集側に問題があるのかもしれない。
学校を巡る深刻な問題の一つが学校のブラックボックス化であろう。それは頑固な学校の隠蔽体質に加えて、文科省のいい加減な調査のせいで学校の内部事情が酷くゆがめられた形でしか世間に知られてこなかった点に起因するだろう。したがって文科省や教育委員会以外の、第三者による調査結果の公表は極めて貴重であり、期待するところが大きい。しかし期待は完全に裏切られてしまった。残念の一言に尽きる。
教員は休憩無し、休日勤務が当たり前…このレベルの事はとっくの昔に周知されている。だからこそ教員志望者が減ってきているのだ。なぜ5000人を超える教員への大規模調査を行ったのに、この程度の杜撰な分析しか記事に出来なかったのか…編集者の意図がまったく理解できない。まさに「マスゴミ」そのものの稚拙な記事である。
〇日本人は世界の中でも「人を信頼する傾向が極めて低い」人種…その背景にある残念
な社会構造 プレジデントオンライン鈴木 裕介 2025.7.30
数多くのテストや試合を通じて競わせることが、必ずしも自己肯定感を高める事には通じず、むしろ自他への信頼感を損ね、自己肯定感を下げる危険性があるかもしれない…という指摘は日本の児童生徒の自己肯定感、幸福感の低さを説明する観点かもしれない。
相互監視の窮屈な社会が生み出す「安心」感は自他の効能感によって生み出され、裏切り者の排除という厳しい罰則で支えられている…という指摘は日本社会でのイジメ、パワハラ、不登校、引きこもり、自傷行為の発生要因を説明する観点かもしれない。
自己犠牲を美化し、自己効能感と協調性、集団の結束力ばかりを高めようとする日本の集団主義的学校教育風土を根本的に見直す上で、これらの観点は極めて重要ではあるまいか。
◎教育現場のリアルな実態…教員の8割が10時間以上勤務 リシード 2025.7.29
…出勤してから退勤するまでの教員の勤務時間は平均11.17時間であることが2025年7月29日、小学館が運営する教員向けWebメディア「みんなの教育技術」の調査結果から明らかになった。8割を超える教員が10時間以上、4人に1人が12時間を超えて勤務している状況にあった。
教員の勤務実態に関するアンケートは、5月20日から6月30日にかけて全国47都道府県の教育関係者を対象に実施。Webメディア「みんなの教育技術」でのアンケート形式で実施され、有効回答数は5,412人だった。…
この調査は文科省や各教育委員会による同様の調査よりも、はるかに信用できるだろう。
〇教員悲鳴、プールは限界……学校水泳、持続可能な「令和モデル」は?
All About 滝口 隆司 2025.7.25
まずはプールでの水泳授業のための維持費用が一校につき平均して年間いくらかかるのか、明確に公開して欲しい。消毒や水道代だけで明らかに他分野の教育予算を大きく圧迫するほどの費用となっているはずである。冷暖房費だけでなく、印刷やコピー代すらケチるのが公立学校である。ただでさえ先進国において最低レベルの教育予算しか計上してこなかった日本が、なぜ水泳にだけはそれだけの潤沢な予算を用意したのか、まったく理解できない。水泳は戦前からオリンピックでメダルを狙える数少ない種目であり、国威発揚に役立つ…これが本当の狙いだったのではあるまいか。
マリンスポーツのメッカ沖縄県では意外にもプールのある学校が少ないそうだ。実際、美しい海が身近にあってもそれなりに泳げる沖縄の人はあまり多くないと言われている。しかしかつては糸満スイミングスクールの選手がオリンピックに出場していた時もあった。学校にプールがなくとも水泳選手が誕生している過去は確かにあるのだ。やはり学校での水泳に特別な意味があるとは思えない。
現に私の周辺ではコナミなどで水泳を習う児童が少なくない。室内温水プールなので天候や季節を問わず、安心して水泳を習うことが出来る利便性がある。水泳習得の希望者には都道府県から補助を出して民間施設で習わせればよい。全校にプールを完備する費用を考えればその際の補助の金額などとるに足らぬ。水泳授業における学校の甚大な経済的、労力的負担と事件(盗撮等)、事故の危険性などを考えれば、一刻も早く学校から水泳授業とプールをなくすべきだと思うが、いかがか。
〇小規模私立大の定員充足率が急降下 強まる著名大学志向、淘汰加速か
毎日新聞 2025.7.26
少子高齢化の度合いが進んでいる地方ではとりわけ地方私大の定員割れが激しいだろう。私大が無くなってしまえば若者の流出に歯止めが利かなくなる。地域経済がいよいよ立ち行かなくなるのは目に見えているが、残念ながらそれは仕方のないこと。そもそも大学に地域経済の活性化を期待すること自体、完全な筋違いである。
むしろ他の教育予算の充実を図り、同時に国庫負担の軽減のためにもさらなる私大の淘汰は必要ですらある。結果的に、地方によっては荒廃が劇的に進むかもしれないが、その問題に関しては高等教育の社会的役割とは分けて考えるべきである。地方経済の活性化はもっぱら政治の問題であろう。
問われるべきは高等教育の存在意義であり、中等教育や初等教育とのつながりの在り方である。初等教育から高等教育まで、いずれの段階においても日本の学校教育は今や問題だらけであり、根本的な見直しを迫られている。小手先の対症療法でどうにかなるものではあるまい。
今まで「地方創生」の一環として私大を誘致し、経済の活性化に成功した自治体が一つでもあるのなら、ただちに貴重なモデルケースとなるはず。ぜひ政府においてはその詳細を広く国民に知らせて欲しいものである。
◎内申点の評価実態、名古屋市が全中学校調査へ 教育長「非常に驚き」
朝日新聞社 2025.3.25
この記事の内容には驚愕させられる。名古屋市内の中学校で一部、相対評価的性格の評価方法が適用されていることに、教育長や市長が憤激しているというのだ。中学校の内申点は進学校以外では高校入試の際に大きな評価ポイントとされることがある。したがって中学校では内申点ができるだけ公正な観点から評価され、かつ保護者や生徒にそれなりの説明責任を負えるよう、あらかじめ用心深く工夫されているはず。
教師の立場からすれば、特に五段階評定に関してはできるかぎり教師の主観を排除し、明確に数値化された客観的基準によって機械的に算出された結果であると児童生徒や保護者に説明しておきたいだろう。なぜこの評定になったのか…これも観点別に細かく数値化すれば誰に対しても説明しやすい点においていかにも公正に見える。だから部活動の実績も数値化することは好ましい…少なくとも一般的にはそう考えられているはずだ。
とはいえ、数値化できることが評価のすべてではない。しかも部活動の実績や平常点の数値化がどこまで妥当性、信頼性があるのかは極めて疑問である。いったん数値化されてしまうと、外部からは数字が独り歩きして公平性や客観性を帯びて見えてしまうが、教育的評価として怪しいケースは決して少なくあるまい。部活動で県大会に出場できたとしても、種目の状況、ブロック内の他校の状況等によってその難易度には大差があり、単純に一律、内申点として加点するのは明らかに不公平なのだ。
評価には絶対評価と相対評価に加えて他にも形成的評価のような、よりきめの細かい、かつ児童生徒個々人の学びと成長に寄り添った評価の考え方が世界にはある。どちらが真の意味での教育的評価なのか、といえばただの絶対評価や相対評価よりも形成的評価の方であるのは一目瞭然である。しかし、大勢の生徒を相手に画一的で一斉講義形式の授業を続けてきた、旧態依然の日本の学校では多様性と個性を重視した形成的評価を行うこと自体まず不可能である。
加えてこの記事も市長も教育長すらも、評価のあり方には多様性がある事、それぞれに長短がある事にきっちりと向き合おうとはしていない。単純に絶対評価が好ましく、相対評価が「悪い」と一方的に決めつけているだけである。しかもこうした人々の多くはおそらく、日本の画一的な一斉講義重視の授業と硬直化した評価方法という現実を疑うこともせずに自明の前提としている。
そもそも相対評価は「悪」なのだろうか。そんなことはあるまい。教師がこの単元の達成目標をどのあたりに設定し、これまでにどんな授業をしてきたのかによって、テスト問題は学校間、学年間、教師間で大きく異なる場合が出てくる。もちろんその年の学校やクラスの様子によって、授業のレベルや内容、テスト問題の内容や難易度を少しばかり変えることはやむを得ない時もあるだろう。テスト問題作成者が問題を簡単にしすぎたり、難しくしすぎたり、出題分野が偏り過ぎたりしないよう、状況によってテスト内容を柔軟に変えていく事自体はむしろ教師の腕の見せ所ですらある。
しかし厳密に考えれば、そうした工夫が場合によっては学年間に不公平を生み出すかもしれない。実際、教師たちの児童生徒の現状に合わせようとするそうした柔軟な工夫こそが、実はかの「悪の権化」とされがちな相対評価の考え方に通ずるものなのだ。ただ相対評価を排除し、上辺だけ絶対評価を取り入れれば事が済むほど、教育評価は単純ではない。
一方で毎年、同じ問題を出題することは一見、公正に見えるが、当然、生徒の先輩から当該教師の出題傾向が後輩に伝授されることもあり、それがどんなに優良な問題だからといって結果的に公正とは限らない。したがってどうしても教師は毎年、出題内容を多少、変える必要を感じている。そしてその都度、教師たちは悶々として頭を悩ませるのだ。
昨今の思考力を育てようとする試みは、場合によっては評価のあり方を、どうしても相対評価側に偏らせていくだろう。思考力育成のために論述問題を導入しようとすれば、その採点基準は大抵の場合、特定の集団の中での位置づけ、すなわち相対的評価となるほかあるまい。仮に絶対評価を絶対的な「善」と見なすのならば、社会科や国語科では論述問題の出題自体をためらうことになるはず。そして正解が一つに限られる選択問題や単語穴埋めの客観テストにいよいよ偏りがちになるだろう。説明責任を果たしやすいからだ。授業もこれまで通り、必然的に暗記中心に偏らざるを得ないはずだ。これらは論述の採点基準を誰もが納得できるように標準化して他者に説明できる余力を、ほとんどの教師が持たないのだから、仕方ない。
定期考査の重みを考えれば、評価はテスト点を評価の7割程度にして、残りの3割程度は普段の提出物や発表などをいわゆる「平常点」として加味する、といったささやかな工夫を個人的には行ってきた。テスト問題も400字程度の論述問題を1~2問出すことで思考力も問うてきた。ただし、これが必ずしも評価の理想形でないことは百も承知である。一クラス35人を基準とするクラスで様々な雑務に追われる教師が出来ることは極めて限られている。
ブラック化した学校を放置しておいて、無責任にも上から目線で自ら現場教師を「相対評価」し、一方的に責め立てている名古屋市の教育長様、かの名古屋市教育会の責任問題はどうなっているのでしょう?世間を唖然とさせたあれだけの不祥事を、ただ会を解散する事だけで済まそうとする市教委の厚顔無恥さには誰もが呆れるほかあるまい。
〇公立学校の廃校、延べ数は8,850校…現存廃校の活用は7割超
リシード 2025.4.10
このデータが意味しているのは、かつて白井智子氏が指摘したごとく、まさに日本の公教育の古さと貧しさそのもの、であると考えるが、いかがか。
将来的に児童生徒数が大幅に減少していけば、やがて学校の施設や教職員にゆとりが生まれる、一学級の児童生徒数が劇的に減少し、一人一人の児童生徒へのきめ細やかな配慮が可能となってくる…などといった30年ほど前の教師たちの期待は無残にも悉く裏切られてきた。
むしろかつてよりも教師の負担が増大し、しかも不登校やイジメ件数は増加している。一クラスの児童生徒数が最悪の50人から35人程度まで減少したにもかかわらず、教師たちの中途退職や休職は増える一方となり、教員志望者数と正規教員数とが同時進行で急速に減少し、地方によっては学校としての体裁が危ぶまれるレベルにまで不足してきている。
今後、高校の無償化が進むにつれて、公立を中心に高校の統廃合は一層加速していくに違いあるまい。そして東京や大阪に限らず、将来的に公立高校はいよいよジリ貧となり、全国規模で一気に縮小、削減されていくのかもしれぬ…
児童生徒数の大幅な減少という、少人数教育、個別最適化教育実現に向けてせっかくの追い風を有効に生かせなかったばかりか、かつて以上に負担増という形で教師への逆風を強め、教師の疲弊と若者の教職離れを徒に加速させてしまった教育行政の責任は、今こそ間違いなく「万死に値する」ほど重い…と言うべきではないのか。
〇都の新任教諭239人が1年以内に退職 過去10年で最高の5.7
朝日新聞社 2025.4.24
「都教委によると、昨年度に採用した公立小中高、特別支援学校などの新任教諭は4237人。うち、239人が1年以内に退職した。内訳は小学校146人、中学校46人、高校18人、特別支援学校28人、義務教育学校1人だった。懲戒免職も1人いた。9割にあたる217人が自己都合退職で、理由別には、精神面での不調が4割、転職などによる進路変更が3割、介護や転居など家庭の都合が1割だった。指導力不足などから正式採用に至らなかったのは22人だった。」という。
学校のブラック化がどれほど酷いものか…特に小学校は深刻である。精神面の不調による退職者の多さにも注目したい。
〇財務省VS文科省バトル再び 中学程度の私大授業に財務省「助成の在り方見直しを」
求める 産経新聞 2025.6.7
私大によっては小学校レベルの授業も必要となるはず。おそらく分数や比の問題が解けない大学生は少なからず存在しているはずだ。財務省の認識に学校教育の現実との大きな乖離を感じてしまうのは私だけではあるまい。
基礎学力の欠如した大学生が発生してしまう背景には基礎知識や基礎学力を身に付けないまま児童生徒が進級し、形式卒業していく義務教育の在り方自体により大きな要因が潜んでいると見て間違いない。
したがって財務省が「助成の在り方」の見直しを文科省に求めるのはお門違い。たとえ教育内容が大学にふさわしくないレベルだとしても、それだけで助成金をケチるほどの口実にはなるまい。社会全体から見れば「Fラン」大学にもそれなりの存在理由はある。
要は「落ちこぼれ」を黙認し、学力の底上げを怠ってきた日本の学校教育全体の問題である。特定の大学の問題ではあるまい。需要があるから供給も生まれてきたのだ。そしてこの問題においても歴代内閣が長期にわたって教育予算をケチり続けてきた政治責任の方こそ、厳しく問われるべきなのだ。
〇「部活動は教員のボランティア」のままでよい? 学校部活動が「地域移行」するこ
とで生まれる格差とは…今後保護者がお金で買うべきサービスに
集英社オンライン 2025.5.14
学校現場からこういう根拠の乏しい発言が出てくることに驚きを禁じ得ない。まず「…日本では、政治が教育に介入し、教育が戦争に加担してしまった第二次世界大戦の歴史から、政治が二度と教育に介入できないよう、教育の独立性が保障されてきました。」というが、この間違いだらけの認識には明らかにファクトチェックが必要であろう。
戦後はアメリカの占領下、GHQによって日本の教育はアメリカの政治的影響を強く受けるようになっていた。そしてサンフランシスコ講和条約後にはたちまち戦前への回帰、「Uターン」が始まり、戦前の勢力が教育の世界にも復活してくる。そもそも学校現場では戦前と大差なく、画一的な一斉講義形式の授業と管理主義、そして体罰が横行していた。1960年代にはアニメ、漫画の世界にチャンバラや戦争物が再登場し、柔道、剣道が学校体育に武道として復活してくる。
いずれにせよ日本の学校教育では政府や財界による教育への干渉が排除され、「教育の独立性が保障」されてきた…などといったことは、過去、一度たりとも無かったと言って良い。学校教育には時々の政治や経済の論理が現在に至るまで途切れることなく、強く、露骨に反映されてきたのだ。
戦後教育の憲法とも言われる教育基本法にズラリと掲げられている理想的建前はほとんどがただのきれいごとに過ぎない。戦後における学校現場での体罰の横行などを見れば分かるように、学校は戦前からの伝統的な慣習と戦後の新たな法律に対して、常にダブルスタンダードな、矛盾した姿勢を取り続けていたと言っても過言ではあるまい。
したがって教育基本法に定められた「教育における政治的中立性」などは、公教育ですらまともには守られて来なかったと言うべきなのだ。ただし公教育が政治や経済の影響を受けてはいけない、とは一切思わない。シンギュラリティの到来が目前に迫ってきたと指摘する識者が増えてきた現在、学校での生成AIの利用は必須である。それは児童生徒たちに対して、個別最適な学習の保障にもつながるだろう。
ほとんど自浄能力を失い、自己改革の意欲にも欠ける公立学校は多い。児童生徒たちが時代の進展に取り残されないようにするためにも教育産業のみならず、特定の業界とのつながりが学校としては不可避となるであろう。学校業務や授業のDX化を推進する上でも業界のバックアップは必要となる。
授業は今後、一斉講義形式中心から議論を通じた多様性の理解、さらに学習者主体の、個別最適化を軸とする授業へと大きく切り替えていくべきである。ただし授業方法の大きな変化は教師の負担を一時的にせよかなり重くする。結果的に多くの教師たちは部活動指導を行うヒマなどほとんど無くなるに違いない。部活動の地域社会への移管は不可避であり、そのためにも学校は地元の公民館などの社会教育との連携をさらに強めていくべきであろう。
〇【独自】教職課程の必要単位見直しへ 免許取得の負担軽減、文科省
共同通信 2025.5.23
どうして文科省はこんなトンチンカンな政策を繰り返してしまうのだろう。官僚としての資質を根本的に疑わざるを得ない。教員免許取得のハードルを下げれば教員志望者が増える…という安易な発想はいい加減、やめてもらおう。これは教員採用試験の倍率低下、さらに免許を持たない人を教師に採用する動きと相まって教師の質をひたすら低下させることにつながる明らかな愚策である。各地ではやり始めた教員採用試験の早期化も有害な弥縫策の一つに過ぎない。
教員の労働負担の軽減こそが最優先させるべき課題であるはず。こちらは給与引き上げよりもはるかに重大な案件である。したがってこれからは高校においても真っ先に部活動の地域社会への移管を進めて校内での部活指導を全廃し、教員の力を授業力向上に全集中させるべきではないのか。
部活動の学校から地域への移管は間違いなく人員と経費の負担が大きく増大する政策である。そして現政権が続く限り、そのための予算がまったく確保されそうもない。そこでほとんど予算をかけないで済む安易で安価な政策を文科省は立て続けに打ち出しているのだろう。
くどいようだが、そうした「泥縄式」のゴマカシに過ぎない政策はもはや、百害あって一利無し、であろう。ただ単に旧態依然の学校教育の延命を図るに過ぎないような種々のエセ改革は、いたずらに貴重な時間と労力を空費し、いよいよ日本の教育を手詰まり状態の袋小路に追い込むだけに違いない。
これからの高校教育の改革に必要不可欠で最も急がれる重要課題とは、教師の労働条件の劇的な改善(部活動の地域社会への移管に加えて学校行事の精選、学校事務のDX化、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカー及びガイダンスカウンセラーなどの加配と待遇改善…)、それに加えて授業技術の高い教師の育成(授業技術の向上に力点を置いた大学での教員養成教育と教員免許取得要件の見直し)と採用(授業技術評価に重点を置く採用試験)、以上の二点であると考えるが、いかがか。
もちろん、こうした改革を実現していくには、根本的な改革をひたすら妨げ続け、長期にわたって教育予算をケチってきただけの自公政権の、一刻も早い退場が前提となるのは言うまでもないことなのだが…
◎避難所となる公立学校の防災機能…冷房85.5%、断水時トイレ75.1%
リシード 2025.6.26
避難所に指定されている公立学校の防災機能が急速に高まっている…こう受け止められかねないような文科省の調査結果は本当に信用できるのだろうか?
この記事では「別の調査(公立学校の体育館等における空調<冷房>設備の設置状況に係る調査)では2025年5月1日現在、公立小中学校における体育館等への冷房の設置は約2割にとどまっている。今回の調査では、災害時に避難者が滞在することを想定している部屋等(体育館のほか、会議室や教室等を含む)のうち1部屋以上、利用可能な冷房機器を保有している部屋があれば保有しているものと取り扱っているためと考えられ、災害時におもな避難先となる体育館への設置を、引き続き推進していく必要があるという。」とある。
ならば「冷房85.5%」という数字は現実的な防災機能のレベルを決して示してはいない、という事になる。よくよく注意して読めば、むしろ35度を超える猛暑日でも冷房施設のまったく無い学校=避難所がいまだに14.5%も存在している、という残念過ぎる実態の方が逆に浮かび上がってこないだろうか。
学校での避難では教室よりもまず体育館の利用が優先されてきた経緯がある。体育館では冷房どころか暖房すら不十分であることはこれまでの報道でも明らかである。
たとえジェットヒーターが数台、用意されているとしても、はたして燃料は何日分用意されているのだろう?おそらく多くの学校ではせいぜいが2~3日分に過ぎないのではあるまいか。保管上の安全面などを考慮して卒業式などに間に合う程度の燃料しか保管していないのかもしれない。
自衛隊等による燃料の補給を当てにし、防災に必要な用意をしていない学校がどれほどあるのか、文科省には学校現場に踏み込んで本当の状況を調べる意欲がなさそうだ。回答者がいくらでも嘘をつける、盛ることの出来るアンケートごときで実態が把握できる、と思うこと自体、馬鹿げているだろう。ならば実際に避難を強いられ、惨めな思いをするだろう市民自身が厳しく学校の取り組みを監視するほかあるまい。
いかにも防災にしっかりと取り組んでいます、と虚栄を張り、見栄えばかりを取り繕うとする公立学校の管理職たちの悪しき性癖を文科省が知らぬわけはあるまい。こんな杜撰な調査をして事足りる、と高をくくり、学校現場での欺瞞を平気で看過してきた文科省ごときにケチな財務省が防災に必要なだけの予算を用意してくれるとは到底思えない。馬鹿を見るのはいつでも避難する住民であることを忘れてはなるまい。
〇猛暑と熱中症対策で夏休み延長の学校が全国に拡大中!教育現場のホンネは
アサ芸biz 2025.7.10
ろくに自分で現場を取材せずに教育専門誌の記者の言葉を鵜呑みにするような記事を「アサ芸」はネット上に晒していても良いのだろうか。そもそも記者はどんな調査結果を元にしてこんなにも無責任な事を語っているのだろうか。
…文部科学省が昨年発表した『公立学校施設における空調(冷房)設備の設置状況調査』によると、教室冷房設置率は小学校99.1%・中学校98.9%・高校99.4%といずれもほぼ100%近い。学校関係者からは、『気温の高い日は屋外での体育の授業を避ける必要はあるが、わざわざ夏休みを延長しなくても対応できる』との意見もあります…とのご指摘、呆れるほかない。真面目に取材する意欲の欠片も見えないような、いい加減極まりない杜撰そのものの記事であろう。
暑い日にわざわざ児童生徒たちを学校に来させるのならば、学校はせめて普通のご家庭並みの冷暖房を完備できていなければなるまい。しかし体育館に冷房が備わっているのだろうか、芸術科目の教室などの特別教室にも冷房は完備しているのだろうか、冷房費を節約するために、教室内の気温を無視して冷房時間を厳しく制限していないだろうか…児童生徒の命にもかかわりかねないほどの猛暑が続く現状の中で、「わざわざ夏休みを延長しなくても対応できる」という、誰のものとも分からない発言をあたかも教育現場のホンネであるかのように紹介する、その鈍感で無責任な報道姿勢には怒りすら覚える。
〇公立中35人学級、教員1万7000人増必要 400億円の予算見込む
毎日新聞 2025.6.17
少子化が急速に進む先進国であり、いまだに経済大国の端くれであるはずなのに、何とした事か、デレダラと何十年もの間、40人学級を放置してきた国があった…この日本と言う国は少子化という、学級の定員削減に絶好の追い風が吹き続ける中で、学級定員の見直しすら、まともに取り組もうとはしてこなかった。その国力から見ても35人学級程度の事くらい、とっくの昔に実現できていたはずである。マスプロ教育の弊害が叫ばれてから一体どれほどの歳月が経ったと思っているのだろう。
にもかかわらず、21世紀に入って四半世紀が過ぎ、マスプロ教育という言葉自体が既に死語となった今の今となってようやくにして法改正を行い、35人学級を徐々に実現させていくのだという。かねてから口では「個別最適化」を唱えて生徒の個性、多様性に応じた丁寧な教育の実現を謳ってきたクセに、「個別最適化」の足を引っ張る張本人たる40人学級を文科省は長らく放置してきた。
何という怠慢であろう。何という欺瞞であろう。国家百年の大計たるべき学校教育ですらこのザマである。この国の無策ぶりに呆れ果てるしかあるまい。しかも政府の無策ぶりが祟って学校のブラック化が進行し、近年は教職離れが顕著となって深刻な教員不足が慢性化している。
こうした状況下、一体、どうやって公立中学校の教員を17000人も増やそうというのか。文科省はこれまで通り、自らの責任は棚に上げて厚顔無恥にも各教育委員会に、ひたすら困難を極めつつある教員募集という難題を平気で丸投げするつもりなのだろうか。このニュース、個人的には絶望しか感じられないのだが…
〇【参院選】「再生の道」またしても全敗! 石丸伸二氏の〝戦略ミス〟を指摘する声続
出 東スポWEB 2025.7.21
都議選に続く大敗であり、ついに再生の道の致命的な欠陥が露呈してしまったようだ。女性候補者を数多く送り出した国民民主党や参政党、立憲民主党とは違い、吉田氏以外は男性陣ばかり。しかも若さにやや欠けるという再生の道の顔ぶれには不安を感じた人は少なくあるまい。またひろゆき氏の指摘した通り、石丸氏の不出馬も敗因の一つである。が、それらは戦略としての欠点に過ぎず、敗因の大きなポイントではないだろう。本質的な敗因は以下の二つに集約できると考えるが、いかがか。
一つは人選ミス。比例で石丸氏が選出した候補者は本当にこれで良かったのだろうか?都議選の際には「シゴデキ」を強調し、地方議会での財政チェック機能における候補者の優秀さをアピールしていた。
しかし今回の参院選では国政であるため、外交から内政にわたる各種の政策立案能力といった、地方議会議員とは相当異なる能力が候補者には必要となる。とりわけ党が公教育の再生を訴えていたからには、再生の道独自の公教育に対する現状分析と具体的な改革案を各候補者がそれぞれ繰り返し明確に示すべきであった。候補者の主張が石丸氏の主張の二番煎じ、コピーの劣化版に過ぎないとすれば、政治家としての能力や適性が疑われてしまっても仕方あるまい。全員落選の原因は決して候補者の知名度の低さだけではない、と考えるが、いかがか。
教育への投資額を増やす、といった程度の、実にボンヤリとした、精度に欠けるアピールなど、教育に関してほとんど無知な人間でも主張できるだろう。公教育のどこに問題があるのか、どこをどう変えていけば良いのか、候補者らは修正すべき法制度や改革へのキメ細やかな道筋を具体的に指摘できていただろうか…石丸氏らしさのある鋭い指摘が実際に候補者から公教育に関してなされてきたのだろうか…極めて疑問である。そもそも政策立案の基本的前提となる日本の公教育の実態把握すら、候補者によっては十分に出来ていたと感じられることがなかった。
こうした疑問や不信を国民に抱かせてしまった責任は石丸氏にもあるだろう。再生の道の立ち上げから国政選挙までの日程の短さが、各候補者の主張に潜む公教育に対する知識、理解の底の浅さをあからさまに露呈させてしまった、と私は考えている。教育に関する勉強会を地道に繰り返してきた、とは到底思えないほどに、陳腐で皮相な綺麗ごとを並べただけの候補者たちを、私は結局、最後まで信用できなかった。
もちろん石丸氏と再生の道が候補者の公募と選考のプロセスの透明化によって国民の間に広く政治への関心を高めてきた、その功績には計り知れないものがある。候補者らの勇気と努力に応えようとひろゆき氏が応援に駆け付けた理由も十分に理解できる。しかし致命的に足りなかったのは候補者の公教育に対する知識と理解の、それなりの広がりと深さだったのではないのか…
せっかく立ち上げた再生の道がこのまま沈んでしまって良いはずがない。今後はぜひとも日本の公教育に関する学習会、学校現場への視察を地道に繰り返していき、しっかりとした教育政策を練り上げ、いつの日にか問題だらけの日本の公教育を再生していく、一つの現実的な力になっていくことを祈念してやまない。
〇【参院選】「再生の道」また議席ゼロ 石丸伸二氏が出馬しなかった理由 & 敗因を参
謀が告白 東スポWEB 2025.7.22
参謀たる者がこの程度の敗因分析しかできないのであるならば、今後、再生の道に期待できることは少ない。有権者の教育に対する関心の低さを敗因に挙げる時点で既に失格である。そもそも各候補者が日本の公教育の危機をどれだけ切迫したものであるのか、十分な説得力をもって語れたか否か…が、まず問われるだろう。私はこの点で候補者たちに大きな不満を感じていたが、いかがか。
◎「授業なんてできません」控室にひきこもった実習生…教育実習で心が折れた若者
たちのリアル「同じような授業の繰り返しのはずなのに、毎日が本当にしんどかっ
た」集英社オンライン 2025.7.20
授業の実習に恐怖を感じる実習生は少なくない。そもそも多忙にあえぐ教師の中には教育実習生を邪魔者扱いする先生が実際、かなりの割合で存在していた。数は多くないが実習生に敵意さえ抱く教師すらいた。個人的な感想にはなるが、教師の過半は教育実習生を担当したくない、という本音を隠そうとすらしていなかったと思う。これは教育実習生にとっても不幸な状況であり、教育実習をきっかけにして若者が教職を諦めてしまうといった事態は教師不足の解消を相当難しくしているに違いない。教師の負担軽減が急がれる所以である。
しかしここにはもう一つ大きな問題が隠れているはずだ。なぜ、教育実習生は授業の実習に対して大きな不安や恐怖を覚えてしまうのか、その原因をしっかりと考えてみるべきなのだ。もちろん指導教官の多忙感に由来する指導の厳しさ、威圧感も実習生が委縮してしまう原因の一つではあるだろうが、はたしてそれだけであろうか。
個人的に再三にわたって指摘してきた事なのだが、実習生が委縮する最大の原因は教育実習前の大学における事前指導の欠陥、不十分さにあると思うが、いかがか。仮に教育実習前、ゼミ形式で実戦さながらの授業体験を大学で幾度も積み重ねていたならば、実習本番での不安や緊張はかなり軽減されるはずである。すなわち大学での的外れで非実戦的な教員養成講座の欠陥こそが、実習生の教員志望を挫けさせてしまう最大の要因であると私は考える。したがって教師負担の軽減とともに大学での教員養成教育の徹底的な見直しも同時に急がれるはずである。いかがか。
◎名古屋の教諭死亡で和解 市が5600万円支払い 共同通信 2025.7.17
はたしてこれで良いのだろうか…どうも釈然としない。自殺してしまった教諭に対する仕事の集中はうつ病による休職後も続けられてしまっている。復職後に部活動や教育課程の編成にあたらせる、と言う明らかに非常識な校内人事を行った(あるいは許容した)校長ら、管理職の責任は一体どこまで追求されたのだろう。管理職だけではなく、関係した他の教師たちにも多少の責任はあるはずだ。にもかかわらず「市側に安全配慮義務違反があった」と監督庁の名古屋市の責任ばかりをクローズアップするような報道がなされるのは実に解せない。
うつ病を理由に休職した教師に対しては管理職や周囲の教師たちが特別な配慮をすべきであることは言をまたない。しかし校務の分担を巡っては学校として特別な配慮がなされたとは思えない。なぜ配慮しなかったのか、故人に配慮できなかった理由をしっかりと公に明らかにしない限り、同様の事件が繰り返されても不思議ではあるまい。
一義的に責任を問われるべきは当該学校の管理職たちであろう。したがって賠償義務は当時の管理職らにもあると考えるのが世間的に見ても筋なのではあるまいか。いずれ多額の退職金を受け取れる管理職の責任が厳しく問われるのは当然の理である。当事者に一義的な責任を問うことなく、徒に血税を賠償金に充てる今回の決定は、事件の真相を曖昧にしてしまうと同時に、当該管理職たちの逃げ得を許してしまうことにもつながるのではあるまいか。
校務分担を巡っての問題はあくまでも当該校の管理職が責を負うべきであり、二度とこのような悲劇が繰り返されないようにするためにも、管理職への厳しい責任追及とそれなりの処罰を行うべきであると考えるが、いかがか。
◎日本の高校生が「社会に出たら理科は役に立たない」と考える理由
ニューズウィーク日本版 舞田敏彦(教育社会学者) 2025.7.16
最も実験を必要とし、討論などを通じて児童生徒たち自身で仮説を練り上げ、検証していくことを授業の軸とすべき理科の授業実態が日本の場合、いかにお粗末なものであるのか、改めて痛感させられる。探究的な授業展開は何も理科だけのものではあるまい。社会科においても、探究的展開は興味関心を高めるために極めて有効な授業方法であろう。
社会科の授業でも理科のような実験や調査を用いて探究的な授業が数多く展開できたなら…と常々考えてきた自分としてはこの調査結果は残念でならない。間違いなく理科以上に日本の社会科の授業は「社会に出たら役に立たない」教科となっているはずである。授業の在り方の改善はもはや日本の政治的課題であり、一刻を争う焦眉の急であろう。「国家百年の大計」である日本の公教育の現状はお寒い限りなのだ。
◎「えっ、体育の先生が技術の授業するの?」教員不足の学校の裏技“免許外教科担任
制度”は違憲の可能性も…いちばんの被害者は生徒たち
集英社オンライン 2025.7.8
〇「教員は減っても行事は減らない」全国で約200万人の子どもたちが無免許の臨時教
員に教わっているという実態…教員免許の存在意義はいずこに
集英社オンライン 2025.7.9
昨今、教員の不祥事が性加害問題を中心に数多くマスコミで取り上げられている。教員による不祥事発生の背景を深堀せずに、ひたすら「学校叩き」「教員叩き」につながるような、偏ったマスコミの取り上げ方も結果的には教師志望者の減少につながっているように個人的には思える。
もちろん、教師による不法行為はあってはならない事である。しかし学校現場では明らかな不法行為が以前から野放し状態であった。体罰は明治時代から違法であったが、この法律がまともに守られた形跡は戦後に至るまで無かった。もちろん、昭和の時代は戦後も1980年代まで、教師や保護者による体罰が公然と認められてきたはず。
違法行為は教師に対しても横行してきた。教師の違法レベルの過重労働問題を日本政府、教育委員会は違法にも漫然と放置してきた。授業負担に限ってみても、自分の専門教科以外の教科や科目を受け持たされることは普通であった。決してそれは特別な事ではなく、特定の学校(例えば生徒数の少ない小規模校や、職業高校、定時制高校など)ではとっくの昔から常態化していたとすら言ってよいだろう。さすがに高校の場合には専門外の教科を担当することは滅多にないだろうが、中学校では3教科の授業を担当することもあったと聞いている。
これらは明らかに違法状態であり、学校現場にはとっくの昔から違法を違法と感じられないレベルに至るほど、正常なコンプライアンス機能が存在していなかった、とみるべきであろう。根本的には違法、合法よりも優先されてきたある種の教育への偏った、アンバランスで強固な信念、教師聖職論の残存が敗戦後、より厳しく問われるべきであったのではあるまいか。
少子化の中で小規模校が増えている。現状の規定で教員の数を減らしてしまえば、今後は高校においても複数科目どころか、複数教科を担当することになるだろう。生徒数が減った分に比例して授業の教科数や科目数が減るのならば特に新たな問題は生じない。しかし機械的に教員の数が減らされてしまうのが、現在の規定である。
せっかく少子化が進み、ようやく生徒一人一人に目が行き届く環境が整いつつあるのに、政府はひたすら少子化を口実にした教員の削減、すなわち教育予算の削減を進めてきた。教員の数が減ってしまっては生徒一人一人に目が行き届く手厚い教育の実現は不可能である。そればかりか、複数教科や複数科目を負担する、となれば今まで以上に教師の負担は重くなる。ただでさえ情報、英語、金融教育、探究学習…と教科数や科目数が一気に増えてきていた。この状況は教師にとって地獄そのものなのだ。
生徒数の減少に応じて学校行事も削減されるならばよいのだが、授業の教科数や科目数と同様にこちらも減らされていない。とすれば学校現場はいよいよ極限までブラック化が進むだろう。せめて部活動の地域移行くらいは一刻も早く実現してくれないと、教員志望者の減少と教員の休職、中途退職が増える一方となる。つまり日本の公教育は既に致命的な人手不足によって一気に破綻しつつある、と見るべきなのだ。
・教師不足
まず看過できない悪性の症状として挙げられるのが各学校での正教員の不足であろう。これに休職者や中途退職者数の増加も加わり、一人一人の教師にかかる負担は重くなる一方…という学校が特に義務教育中心に増えてきている。さらに教師志望者の減少もこうした事態の悪化をもたらしているに違いない。しかも教員不足が休職者や退職者の増加につながるという、悪循環が既に生まれてきている現場もあるようだ。
なお教師不足の一因としては景気回復傾向がもたらした民間企業への就職志向の高まりに伴う若者の公務員離れが考えられるが、それは主因というほどのものではあるまい。最大の原因と考えられるのは画一的管理主義の息苦しさに加えて、止まることの無い仕事量の増大による学校のブラック化がもたらした若者の教職離れである。
残業手当・休日手当がつかない部活動指導の過熱化、数が多過ぎる上にそれぞれが過重な負担となっている学校行事、不登校やイジメの多発とそれに伴う保護者対応の増加、新教科・科目の設置などによる仕事の量と難易度の上昇、説明責任を果たすためだけの記録作成等のアリバイ作り(管理職や教育委員会への報告書、提出書類の増加が顕著でその多くは煩雑かつ形式的なものに過ぎず、教師の力量を向上させることにはほとんどつながらない。つまりほとんどがブルシットジョブ)の増加、教育行政による教員への過剰な統制・管理強化がもたらす心身両面への重圧(教師の創意工夫を挫く無意味な官製研修の増加、授業内容・方法への過剰な介入等)、残業時間短縮による持ち帰り仕事の増大、年齢構成の偏りや管理職の能力不足による職務分担の不均衡、進路の多様化による進路指導の煩雑さ、職員会議の形骸化や教職の階層化などによる職員集団の分断と対立、教職の社会的地位の低下、管理職のパワハラや教師間のイジメの横行等々、数え上げればきりがない。
こうした事態に対して文科省や都道府県教委は上辺だけの対症療法、その場しのぎの誤魔化しをひたすら繰り返してきた。教育行政による対応を医療行為になぞらえれば、高熱を発した患者に漫然と解熱剤を処方するだけの藪医者のようなものである。
医者は本来、高熱の原因を様々な検査結果から割り出していき、症状を抑えるだけではなく、症状の主な原因となっている病気などを治療対象としていくべきであるのは言うまでもない。しかし文科省、都道府県教委は教員不足という症状に対して、揃いもそろって教職の魅力をアピールし、採用試験日程を増やしたり、早めたりして試験のハードルを下げることに専念してきた。
もちろん「働き方改革」を推進して部活動の地域移行と残業時間の短縮を通じて学校のブラック化を押しとどめようとしているのも事実ではあるが、「持ち帰り残業」の問題を見ると、さほどの効果は上がってきていない。
なぜ教職の魅力が低下してきたのか、教員が不足してきたのか、その原因には高熱の原因と同様、様々な要因が考えられるに違いない。ただ兎にも角にも教育行政側の最大の過ちは、その原因が自分たちにも少なからず存在する、という自覚を決定的に欠いてきた点であると思うが、いかがか。
不登校の増加やイジメ事件の隠蔽、教員の不祥事の多発、教師の疲弊、授業における児童生徒の落ちこぼし、吹きこぼし…どれをとっても教育行政の過ち、不備に淵源する側面が大いにあるだろう。そのことの反省と改善を抜きに、ただ教職のやりがいと就職しやすさを追求しても、若者は二度と騙されないに決まっているのだ。
教師不足以外の公教育における主な病状を以下に列挙しておく。
・不登校児童生徒の増加
・イジメ事件とその隠蔽、加害者側への指導不足、被害者側への配慮不足
・過剰な管理主義、画一主義
・一斉講義形式の残存による落ちこぼれと吹きこぼれ現象、形式卒業の弊害
・DX化の遅れ
さらに各症状の主な原因として考えられるものを以下に列挙しておく。
・学校教育行政の体質悪化:悪しき前例主義と年功序列社会、上意下達の横行
・教員養成教育の貧弱さ:授業技術の向上への努力不足
・職務、職責の曖昧さ:教師の「何でも屋」化による弊害
・教育予算の貧弱さ:圧倒的な施設設備、人員の不足
・画一的管理主義の弊害:横並び主義(自らの頭では考えない…が習慣化)
他にも論ずべき点は多いが、いったんこれで切り上げておく。
なお石丸氏が立ち上げた再生の道が「公教育の立て直し」を基本政策として動き始めている。今後は日本の公教育をどうすべきかをめぐる議論が活発化してくるに違いない。ただ、残念ながらこれまでの再生の道が打ち出している公教育の「再生」プランにはまだまだ突っ込みが足りないように感じている。
公教育において何が問題であり、何をどうすべきなのか…今後も再生の道の歩みを追っていきたい。