§6市原の郷土史.130.岩崎開村300周年資料④

~岩崎の近現代史~

 

「磯のさざ波」(中村憲四郎 昭和35年)より

 岩崎では毎年八月に一家の一年の収入を左右しかねない、大切なノリ篊(ひび)の「場割」のためにクジ引きが行われていた。以下はその時の様子である。

 

 ・・・組合当局から抽選日が部落内に回覧せらるると、自分たちの日ごろ信仰している神社仏閣に、とるものもとりあえず、われ先と同志を同道して参詣するのであります。行く先を申すと、成田山が第一位のようで、次に君津郡亀山の三石観音がその第二位として近年賑々しく参詣する。

 ・・・当日となりますと、未明より斎戒沐浴して神仏に灯明を点じて、清々しく隣保相供に組合事務所へ急ぐ。・・・

 常日ごろの荒くれ男たちも、この日ばかりは、神妙不可思議、水も打ったるごとく抽選終われば家路へサッサと帰り神仏に御灯明を上げ、御神酒を供えるもまたゆえなりと思はるる。・・・

 

 明治の末から市原に導入されたノリの養殖は岩崎だけではなく、市原の沿岸部に貴重な現金収入をもたらした。ただしノリの収穫が冬であったため、ノリ船に乗っての収穫作業は寒さも手伝って非常に辛いものであった。

写真は故渡辺善雄氏提供

 

岩崎小学校の歩み

 明治5年(1872)に「国民皆学」(小学校の義務教育化)を目指してフランスをモデルとした学制が導入され、寺子屋にかわって全国に小学校が設置されるようになる。これを受けて市原では翌年の明治6年、総社、分目、宮原、深城、廿五里、五所、飯沼、島野、椎津、姉崎、田中(今津朝山)、松崎、川在、牛久、皆吉、山小川、佐是、上高根、馬立、朝生原、大久保、月出、西飯給、田淵(…以上はすべて寺院を校舎とする)、高砂(江古田)、鶴舞西、石川、外部田、古敷屋(…以上は民家を校舎とする)、鶴舞東(旧庁舎を校舎とする)の30校が設けられている。翌明治7年は22校、明治8年に6校というハイペースで小学校は設置されていった。

 学校設立は各村の負担とされたため、かなりの数の学校は当初、寺院の本堂を校舎としてあてがわれた。特に市原はその割合が圧倒的に多い。

 明治7年(1874)、玉前阿弥陀堂に玉崎小学校創設。明治16年(1883)、岩崎小学校と改称し、岩崎大御堂に移る。さらに明治17年(1884)、校舎新築なり、現在地(現在の岩崎公民館)に移る。明治23年(1890)、五井尋常小学校分校とされる。明治28年(1895)、五井尋常小学校から分離し、岩崎尋常小学校と称す。校舎は明治29年と45年に増築されている。

 岩崎小学校はその後も児童の数が少なく、たびたび統廃合の対象とされかけたが、地域住民の嘆願もあって戦後しばらくまでは学校の存続をみた。しかしついに昭和42年(1967)、玉前、出津小学校と合併して京葉小学校に吸収され、その役割を終える事となった。岩崎小学校の跡地は今、岩崎公民館に利用されて現在に至る。

 

・川岸の「海軍道路」と飛行基地建設計画

 昭和15年(1940)、海軍は帝都防衛のため川岸沖に飛行場の建設に着手し、埋め立て工事を行っている。工事車両の便宜を図るべく、直線的で当時としては幅の広い道路を敷設した。地元ではこれを「海軍道路」と呼んでいる。埋め立てがほぼ終わり、飛行場の造成に取り掛かる寸前、太平洋戦争が始まったために基地建設は行われず、埋め立て地だけが戦後も残っていた。1960年代、海岸部の埋め立てが行われ、工場地帯が造成されていくが、既に埋め立てが完了していたここだけはいち早くコスモ石油などの企業が進出している。

 仮に飛行場が完成していてここに計画通り戦闘機が配備されていればどうなっていただろう。1945年5月8日、アメリカ軍は蘇我の埋め立て地帯にあった日立の飛行機工場をターゲットとした空襲を行った。P51マスタングの機銃掃射により浜野の本行寺は焼け落ち、五井では4人(一人は岩崎の人)が亡くなっている。帝都防衛の拠点とあらば飛行場周辺はきっと繰り返し、激しい空襲に見舞われたであろう。当然、川を挟んで位置する岩崎が無傷でいられるはずはない。無論、五井の町も焼け野原となっていたはず。

 

・埋め立てと工場地帯の形成

写真は故渡辺善雄氏提供

 ※記念碑は岩崎稲荷神社境内にある

 揮毫はなぜか嶋田繁太郎(1883~1976)。嶋田は東條内閣では海軍大臣などを歴任し、敗戦後はA級戦犯となるも東京裁判では死刑を免れて無期懲役の判決を受け、1955年には釈放されている。どうみても漁協とは無縁の人物。実際、五井の大宮神社には五井漁業組合解散記念碑(千葉県知事柴田等揮毫 昭和27年=1952)と農地解放記念の碑(柴田等揮毫 昭和26年=1951)があり、海浜部の漁業組合解散記念碑の多くは当時の県知事か国会議員などが揮毫している。東京出身の嶋田が岩崎の漁場解放記念碑を揮毫するのはどうみても不可解というほかあるまい。

 しかしこの謎は嶋田繁太郎の娘を妻としている始関伊平(今津朝山出身の国会議員で、当時、市原沿岸部の埋め立てに反対する漁業組合の説得と補償金の交渉のために千葉県と漁協との仲介役をはたしていた)の存在によって説明がつきそうである。

 そういえば近くの出津にある八雲神社の忠魂碑の揮毫も嶋田が手掛けている。忠魂碑の揮毫をした人物といえば戦前は乃木希典、大山巌、戦後は鈴木孝雄を代表とする陸軍関係者、靖国神社の宮司、ないしは岸信介、鳩山一郎といった政治家が多い。基本的に海軍関係者は少ないのだが、こちらも始関伊平の影響が考えられよう。

※柴田等(1899~1974):宮崎県出身の農林官僚(京都大学卒)。1947年、旧知の間柄であった川口

 為之助が千葉県知事となると農業再建を掲げた川口に招かれ、副知事となる。1950年、川口の辞任に

 伴う選挙で知事に当選。以後三期務める。農業再生とともに川崎製鉄の誘致を実現させ、京葉工業地

 域の基礎を築く。後に知事となる友納武人を副知事に招く。やがて工業化を急ぐ川島正二郎、水田三

 喜男らが農林官僚出身の柴田を農業派と断じて批判し、対立を深める。柴田が漁民の生活を案じて東

 京湾埋め立ての推進にブレーキをかけると川島らは強く反発。このため1962年、柴田は自由民主党か

 ら除名され、次の知事選には公認されなかった。

  川島らは上総一宮藩の最後の藩主の子加納久朗(彼の先祖久通は8代将軍吉宗の側近として五井の領

 主となった有馬氏倫とともに享保の改革時に重用され、上総一ノ宮に領地を賜っている)を推し、知

 事事に当選させた。しかし加納は1963年2月、任期110日にして急死し、後任は川上紀一となる。

§6市原の郷土史.129.岩崎開村300周年資料③

 

岩崎村~苦闘の歴史~

 岩崎新田は開村後、たびたび水害に遭っている。まず養老川の決壊、それに高潮…まさに東西から挟み撃ちにあい、幾度も水害の往復ビンタを食らい続けた挙句、幕末には江戸湾沿岸の警備体制強化に伴う新たな負担や戊辰戦争の余波をも食らってかなり困窮していた様子が窺える。なお、寛政の改革で知られる松平定信は1800年代に入ると江戸湾防備の任で白河藩士を引き連れて何度も市原郡を訪れ、風の神を祀る嶋穴神社に繰り返し参拝している。

 当時の岩崎の窮状を知るために以下の資料を見てみよう。

 

「乍恐以書付奉願上候」:元治元子年(1864)九月

 御領分市原郡岩崎新田役人共一同奉申上候・・・「去年(1863)の八月、大風雨高潮の際、石垣堤は村人の努力によって辛うじて大破せずに済みました。しかし潮風が田地に吹き付けたため、収穫できない箇所が多く、なおまた川が先月(7月)、二度も洪水となり、中稲、晩稲は水腐れ、その他も「白穂」となってしまいました。お年貢はもちろん、種籾すら無い有様です。村人達が揃って困窮を訴えるので、藩の検分をお願いし、「御用捨て」に預かりたく願書を大庄屋などに差し上げました。数回お願い申し上げたところ、ご理解いただき、願書差し戻しになったことを村人にしっかりと申し聞かせたのですが、年貢米が上納できないため一同困り果て、もう一度嘆願するよう村人に迫られました。村役人も困り果てしかたなく年貢の免除を申し出ることになりました。

 以下、略(「鶴牧藩大庄屋御用留文久二戊年三月ヨリ元治元年四月」千葉精春家文書・・・市原市史資料集近世編4所収 下の資料も同じ出典)

 

「乍恐以書付奉願上候」:慶応四年(1868)四月・・・五井戦争直前

 ・・・御代官江川太郎左衛門様、神奈川宿旅籠より官軍兵食御賄い御用金、高百石につき金一両ずつ相納め候よう仰せつけらる。そのほか助合(=助郷)人足高百石につき一人半勤、日数二十日の間賃銭一日一貫文づつ。相納めるべき旨仰せ付けらる。その後品川宿総督府会計方より官軍兵食御用高百石につき白米三俵、金三両づつ、早々に相納むべく仰せつけらる。そのうえ江川太郎左衛門ほか御一人より加助(=加助郷)差し村御免仰せつけられ候趣お達しこれあり。右は重ね重ね仰せいださるもこれあり、村々一同当惑の折柄、義軍府方数千人ご通行御継ぎ立てについては右人馬差し出しかたがた、もって必至と難渋つかまつり候。前書き二手御用向きおいおいこれあり。以後、何様のご沙汰これあるもはかりがたし。一同心痛つかまつり候。この段、御賢慮なしくだされおき、なにとぞ身元献金の儀は当十二月より三カ年上納。なお高役上納の儀はいずれも身薄かつ出作の者どもに御座候間、年延べ仰せつけられ下し置かれ候様、格別のご憐愍をもってお聞き届けのほど偏に願い上げ候。 以上

  慶応四辰年四月

※岩崎新田の村役人:百姓代 半右衛門  組頭 長助  名主 惣助

 

「五井漁業史」(昭和63年)より

 1889年までは岩崎新田。1727年、江戸の大坂九兵衛、大黒屋市兵衛、下村清兵衛らが町人請負新田として開墾に乗り出し、草刈村の多左衛門らに出資して開墾させ、4年後にほぼ終了。当初、開墾に加わったのは時田、田中、高沢、霜崎、下村、斎賀、鎗田、中村、石川など13人の百姓だと言われる。1727年に領主有馬氏倫が中村次郎右衛門に土地、宅地を下し置かれ、監督のため会所を設けたという。今も小字地名として「会所下」が残っている。中村家が名主職を世襲。

 当初は「清兵衛新田」と呼ばれていた。

 寛政5年(1793)での村高449石余り、家数72軒

 ※玉前は代官見立新田

「上総国町村誌(上巻)」(明治22年)より

 明治22年(1889)に行われる町村の大合併を前にしてまとめられた貴重な統計資料。岩崎新田は戸数93、人口512人で馬5匹、荷舟漁船61隻となっている。

明治24年(1891)には戸数93軒、人口539人、厩4、船72艘

 

 他村との違いをデータから浮かび上がらせてみよう。

 隣の玉前新田は宝暦9年(1759)に代官吉田源之助が付け寄洲を開拓させて成立。当初は「見立新田」(学問的には代官見立新田)と称していた。以下「上総国町村誌」(M.22)によると戸数55軒、人口は310人、荷車2台に荷舟漁船9隻である。岩崎よりも舟数が少なく、農業への依存度が高かったようだ。

 五井町は戸数704軒、人口3478人、牛3頭に馬9頭、荷車71台、人力車17台、荷舟漁船34隻である。さすがに江戸時代から市原郡における陸運(⇒荷車の多さ)、水運の要として繁栄してきただけに、人口は周囲と比べ突出して多い。

 青柳村は戸数220軒、人口1187人、馬3頭、荷車8台、荷舟漁船116隻。こちらは古くから漁業や水運で活躍してきただけあって舟数がかなり多い。今津もほぼ同様のデータであり、この二村は古くから海に生活の糧の多くを得てきたことが分かる。

 こうした近隣の村々と比べて岩崎村はこれといった特色が見られず、半農半漁の寒村といったところであろうか。

 

汐除け堤防大破の件の県令宛嘆願書(明治14年3月)下書:中村家所蔵

 水害は明治維新後も続いていた。

「大正の大津波」(大正6年=1917)

 大正6年10月1日未明、関東の西側を950hPaちかくの強力な台風(東京の最大風速43m)が時速100㎞近くの猛スピードで通過。おりしも満潮が迫っていたため、午前2時半から3時半にかけて記録的な高潮が東京湾沿岸を襲った。関宿では普段よりも5m近く水位が上がるなどして浦安、行徳、船橋、習志野にかけては被害甚大となり、特に浦安は壊滅状態となった。

 ちなみにこの災害で大打撃を受けた行徳の塩田は以後衰退の一途を辿ることになったという。千葉県全体の被害状況は死者行方不明者併せて313人、全壊した家屋7629、流失家屋は528棟に及んだ。「大正の大津波」と呼ぶこともある。

大正6年(1917)、岩崎稲荷神社内に祀られた水神宮の祠

 

§6市原の郷土史.128.岩崎開村300周年資料②

 

3.岩崎の開村とその後の開発

 1981年の「広報いちはら」に掲載された「農協組合の村々」(落合忠一氏執筆)シリーズの31~39に「岩崎村」の歴史が取り上げられている。岩崎村の歴史は八代将軍徳川吉宗の改革によって享保7年(1722)に町人請負新田が許可されるようになった時に下谷金杉の下村清兵衛が養老川河口に可耕地があることを知り、下見に来て開墾を決意したことから始まる。清兵衛は払下げ代金を添えて代官に新田開発の許可を申し出た。この開墾話を聞きつけた人々が岩崎に大勢集まり、清兵衛の指図のもとに開墾が進められたという。

 当時は寄洲の葭山を中心にまず屋敷を構え、周辺に田畑の開墾を行っていったようで2~3年かけて徐々に屋敷地と耕地が拡大し、享保13年(1728)2月、「清兵衛新田」としてほぼ完成した。幕府による検地後に清兵衛の私有地とされ、年貢は3年間、猶予された。3年後の享保15年(1730)、村名は「岩崎新田」に改められ、五井一万石の大名有馬氏倫(初代伊勢西条藩藩主で現在の五井駅に陣屋が置かれた)の領地とされた。

 歴史的農業環境システムより

 江戸時代、養老川は関東有数の「暴れ川」として恐れられていた。岩崎新田成立後も幾度か決壊して流路を変え、大きな被害を下流域(特に町田・廿五里周辺から下流域)の農村に及ぼしている。たとえば延享4年(1747)、養老川は出津辺りで大規模な川欠けを起こした。以後、天明8年(1788)までの40年余り、養老川は出津八雲神社のすぐ傍を流れ、松ヶ島村の端を抜けて北青柳との境あたり字塩場(メガドンキの裏手)で海に注いでいた。

 洪水が収まるとかつての川床や河川敷に対して周辺の村々は先を争って開墾を行うことになる。当然その所有権を巡って訴訟沙汰に発展することもあった。また天明年間に河口が元に戻った後も川筋のわずかな変化によって「寄洲」が生じたため、そこでも開墾が行われている。

 ご存知の通り、養老川下流部の土地支配は今も飛び地が多く、錯綜していて分かり辛い。その理由の一つとして、かつて養老川の度重なる氾濫とその都度繰り返された開発の歴史があったのである。

 岩崎の浜辺では潮除け堤防が整備されていき、葭(葦)の生い茂る海辺の土地も一部は農地として開墾されていった(葭場⇒小字名「葭田」・「亥ノ起」)。こうした苦労の積み重ねがあって村の石高と人口は徐々に増加していった。

赤枠が寄洲(卯の起)、草色の枠内が葭場(亥の起):中村家所蔵村絵図(寛政11年=1799)

 葭場の開墾が行われた後しばらくして享和元年(1801)、岩崎は領主有馬久保(ひさやす)の検地を受けている(この時の検地帳が中村家に残る→下の写真)。久保は初代の氏倫から七代目に当たるが、彼だけは五井の陣屋に住んでいたらしい(従来は家来だけが陣屋に遣わされていた。陣屋跡地は今の五井駅に相当)。検地の際には代官の伴宗蔵と早川佐太郎を検地役人とし、立会人に横目役の三神友之進と書記の坪才助とが岩崎に来たという。田畑半々で合計7反6畝27歩(76アール余り)の開墾地が確認されている。

 鎗田家に伝わる名寄せ帳(検地帳の写し:下の写真)は虫食いが酷く、欠損も多いが、その後の土地所有関係の変化が追える点で有意義な資料。「寄洲禹起」と「洲崎亥起」が享和元年(1801年)に有馬氏検地の対象となった開墾地と思われる。何れもやはり地味が悪かったようで耕地のランクはほとんどが「下畑」である。

 

 岩崎村は迅速測図(1881年)によると集落として三つのブロックに分かれている事が確認できる。村の中心部は会所の置かれた中村家のある地区。小字名で「中町」である。文字通り村の中心を意味する字地名となっている。弁天様を挟んで道沿いに細く連なる集落は小字名で「上洲崎」から「向山」にかけて。川の堤防に沿う道から岩崎地区に向かって坂道を下り、最初に入るブロックは「本山」、「元新山」。集落の字地名に「山」が多く付いていると言うことはそこが相対的に微高地であった証拠であろう。低湿地における居住地としては当然の選択であり、松ヶ島地区も同様の形で微高地中心に集落が展開している。

 三つのブロックの中央部は弁天様を除くと建物は無く、明治中頃までは専ら水田として利用されていたことが迅速測図で確認できる。村を分断するようにして集落の中央部を耕地が帯状に細長く横断しているのはやや不自然であろう。おそらくこのゾーンは相対的に低地であるため、川の洪水が起きると浸水しやすかったのではあるまいか。もしかするとかつてここを川が流れていた事があったのかもしれない。とすれば当初の集落は自然堤防上に細長く展開していたと考えられる。

戦後まもなく撮影された空中写真:水色の線がかつて川の流れていたと思しき箇所。岩崎と玉前の集落は赤線のようにかつての川跡にそって帯状に形成されている。かつての自然堤防は道となり、人家が建ち並んでいったが、川跡はもっぱら水田に利用されていたようだ。黄色のゾーンは松ヶ島と北青柳の境辺りで海に注いでいた養老川が元の河口に戻った際に形成された川沿いの寄洲でここはやがて村の共有地となったようだ。

§6.127.岩崎開村300周年資料①

 

1. 近世五井の歩みから

 徳川家康の関東移封が行われた1590年以降、房総の地は多くの要所を徳川一門、譜代の家臣たちが支配する所となり、五井は当初、松平家信が5000石の領主として五井を支配していた。慶長6年(1601)には松平氏が移封されて五井藩は廃藩とされ、天領(幕府直轄地)に組み込まれる。
 承応元年(1652)、五井の代官として旗本の神尾守永がやってくる。五井の街並みの土台が本格的に築かれたのはおそらくこの神尾氏の時からであろう。神尾氏は松平氏の菩提寺だった理安寺を、沼地を埋め立てて現在地に移し、万治元年(1658)、守永寺(浄土宗)と改めてここを町の中心とする街並みの整備に取り掛かったようだ。実際、房総往還は守永寺を迂回するようにして「枡型」が設けられている。また神尾氏は塩田開発をも進め、五井大市を開くなどして五井の経済的な発展を計画的に推進していったという。

 上の図中の赤い星印が守永寺で五井の街並みが守永寺を中心にして形成されているのが分かる。緑の線は房総往還で街並みの両端には五街道の宿場町などに時折見られる、「枡形」、「鍵形」などと呼ばれる、直角に道が折れ曲がるクランク地点が残っていた。五井は房総往還における継立て場(継場とも:五街道では宿場町に相当する町で「下宿」「上宿」といったような、旅籠の存在を示す地名が残っている)として近世に入ってから整備されていたのである。

 不自然に道が直角に折れている箇所、黄緑の四角はかつて陣屋がおかれていた場所で、現在はJR内房線の五井駅となっている。中世から繫栄していた八幡宿もやはり継立場であったが房総往還は五井ほどはっきりとした鍵形は見られず、町中の道も五井ほどは直線的に伸びていない。すなわち五井の町は八幡宿などとは違い、17世紀になって急遽、代官指導の下、極めて計画的に造られた人工的集落だったのだ。

 五井は暴れ川として知られていた養老川の氾濫原に位置しており、江戸時代以前は湿地帯が多かったため、人家がまばらに存在するのみの寒村であったという。だからこそ江戸時代に入って町は特定の目的に沿ってほぼゼロ状態から人工的に創り上げることが可能だったともいえるだろう。計画的な街づくりの結果、五井は急速な発展を遂げ、江戸時代後期には市原郡最大の町となる。中世には港町として既に繁栄を遂げていた八幡宿や姉崎、椎津を差し置いて、寒村に過ぎなかった五井の町が発展できた背景には代官となった神尾氏の優れた街づくり構想があったと思われる。

 五井町発展のカギはおそらく神尾氏が開発した川岸地区の水運の要としての役割にあった。まず黄色の線に注目したい。五井の町から不自然なほどに北に向かって直線的に伸びる道路。現在の五井病院から先は川岸の集落に至るまでほぼ直線である。この道、おそらく江戸時代からあったと考えられる。まずはこの道が果たした役割を考えてみたい。

 なお赤線は久留里街道の「殿様道」として18世紀中ごろに整備されたもの。こちらは既に五井の町並が形成された時期に街道とされたため、住宅地を避けるようにして道は曲がりくねっている。直線的な道路は一見すると新しく敷設された現代の自動車道に思えるが、実は五井の場合、直線道路が必ずしも新しい道とはいえないのだ。

 

2.川岸の開村と発展

 

 まず細長い集落の展開に注目。さらに不自然なほどに直線的な二本の道(黄色線)と二つの水路(紺色の線:左側が旧澪、右側が新澪)に注目。川と海の表玄関として川岸は五井の代官神尾氏によって17世紀後半、計画的に造成されていったと推測するが、いかがだろう。

 川岸の開村はおそらく17世紀後半のことであり、五井守永寺(神尾氏により創建)や八幡円頓寺の檀家が川岸の旧家に見られることから、草分け百姓の一部は五井及び中世からの港町、八幡出身であることも推察できる。

 ゼンリンの住宅地図内にある緑色の★印、八幡円頓寺の檀家である中西家にもたらされた法華曼荼羅(ご本尊)のうち、1680年のものが川岸開村の年代を考える上で大きなヒントになるだろう。

 養老川の上流からもたらされた薪炭、木材、年貢米などの物資は川岸で川船から五大力船に積み替えられ、江戸に輸送されていた。また海産物は押送り船でやはり江戸へ送られていたようだ。川岸の澪はそうした船の発着に利用されていたに違いない。やがて澪は19世紀初頭、新たに追加され、波渕(現在「オリーブの丘」近く)まで五大力船が入り込む。江戸との交易がさらに発展し、五井は市原郡随一の人口を誇る町へと成長を遂げていった。

 五大力船は江戸からの帰途、様々な商品を五井にもたらしてもいた。五井と川岸は17世紀後半にはあの直線的な道によって緊密に結びついたことでお互いに急成長を遂げていったようだ。中世にはおそらく鄙びた寒村に過ぎなかったはずの五井は房総往還の継立て場となったことに加えて、海と川の水上輸送路の結節点となった川岸と強く結びつくことで大きく発展していったものと思われる。五井の繁栄は川岸の存在無くしては語れないのである。

 享保の改革で大岡忠相と肩を並べる活躍を見せたのが有馬氏倫(ありまうじのり)であった。かれは五井の代官として五井の発展に尽くし、川岸の富貴稲荷神社を創建している。なお、大岡の領地も島野など市原郡内に存在している。つまり市原は享保の改革の影響を色濃く受けた土地であった。たとえば足高の制(1723年:大岡越前や有馬氏倫らはこの制度によって一万石を数える領地を持つことになり、旗本から大名へと出世を遂げている)や町人請負新田の許可(1722年:→岩崎新田の成立)といった政策は市原に大きな変化をもたらしていたのだ。

 なお有馬氏倫と同じく紀州藩以来、将軍吉宗に側近として重用された加納久通も上総一宮藩の初代藩主とされ、その子孫久朗は戦後三代目の千葉県知事となっている。

 

㊸困難校における大学受験指導の諸相

 

 教員生活の後半は進路指導部に所属することが多かったため、慣れない就職指導に悪戦苦闘してきた。いわゆる教育困難校ばかりを転々としていたので就職指導にはとりわけ力を入れなければならなかったのだ。父子家庭、母子家庭で生活保護受給者が多い、という厳しい家庭環境の生徒が過半を占めているので、家計を補うためにも高校卒業後にすぐ就職しなければならない生徒が半数近くを占めていた。当然、就職指導は通常の生徒指導を上回る厳しさとなり、手を抜くことは絶対に許されない状況にあった。地元企業の状況を把握するだけでも相当の時間を要してしまい、就職指導にそれなりの自信を持てるようになるには最低でも数年はかかるはずである。

 同時に警察のご厄介になる生徒への対応、家庭訪問を必須とする特別指導(喫煙とバイク乗車が多い)、成績や出席時数の問題で進級や卒業が危うい生徒への補習…授業や部活動、校務分掌の仕事、学校行事なども加わり、誰だってやらなければならない仕事が山ほどある。そうした中での、生徒の将来を左右しかねない、責任重大な進路指導は教師にとってかなりの肉体的、精神的重圧となってしまいがちであった。その実、多くの3学年教師たちの本音では生徒たちの進路先がたとえ決まらなくとも卒業さえしてくれればとりあえずは「御の字」だったのである。

 しかも私の場合、14年間は内陸部、それも交通不便な立地の教育困難校に勤めていたため、極めて悩ましいケースを就職指導以外でも抱えてきた。実はそうした立地の高校ではかなりの教育困難校であるにもかかわらず、自宅から駅やバス停が遠いことなどによって他の高校への通学が困難なゆえに、場違いなほどの成績優秀者が入学してくるケースが一つの学年で10人内外(学年8クラスで生徒数300人ほどの内)はいたのである。彼らの中には教師たちが少しテコ入れすれば日東駒専あたりにならば現役で軽く合格できる能力を持っている者も決して少なくなかった。中には頑張り次第で地方の国公立大学に合格することが夢ではない力の持ち主もいたはずである。

 しかし内陸部では受験指導を行う塾や予備校がほとんど存在しないためもあって業者模試の出来がイマイチ物足りない生徒がいる。そして困難校での授業は勉強嫌いや学習の苦手な大勢の生徒たちに合わせて大学入試とは無縁の授業が多く、もしも彼らが大学受験を希望するならば、受験勉強は通信教育か、独学によるしか学習手段は無い…これはかなりマイナーなケースではあるが、こうした場合、卒業を控えた学級担任としても苦渋の決断を迫られる。

 等高線人事のおかげでかつては教育困難校を数多く経験してきたベテラン教師が少なからず困難校に勤務していたこともあり、すくなくとも生徒指導と就職指導には手を抜けない…との認識は教員間で広く共有されていた。そのことが残念ながら数の少ない大学進学希望者への指導を二の次とする雰囲気をも作り出していたことはほぼ間違いなかろう。多くの教師も、生徒も、保護者も少数派の進学希望者への対応はほとんど意識の上にすらのぼっていなかったのが現実であった。

 とはいえ、3年の学級担任となれば三者面談などの際、大学進学希望を口にする生徒や保護者を前にすることは決して稀ではなかった。当時は総合型選抜が無かった時代であったため、大学進学となれば困難校では一般推薦か指定校推薦と相場が決まっていたが、困難校としての伝統が長い高校ではまずほとんどの大学から指定枠をもらえていない。また一般推薦で入学できそうな大学は地元のD~Fラン大学にほぼ限定されていた。つまりD~Fラン大学への受験を本人や保護者が渋る場合には一般受験を念頭に置いた受験指導が不可避となる。内陸部での困難校ではこうした悩ましいケースが各クラスに一人いても不思議ではなかったのだ。

 仮にその生徒が明らかに日東駒専レベルの力は持っているとしよう。家庭の経済力が無いわけではないし、奨学金の利用も考えられる。本人も保護者も心の底では日東駒専レベルの大学を狙いたいと思っている。ならば進路指導部の一員として、3学年の学級担任として本人の希望をかなえたい、と教師が考えるのは決して間違っていないはず。ところが大抵の場合、本人は塾や予備校に通えるような所に住んではおらず、通信教育も受けてはいない。はてさて、どうしたものか…

 通常、学力的に中位校以上の学校では進路指導部の働きかけで受験のための補習講座を一学期や夏休み中に設けているが、多くの困難校では面接指導を中心とした就職指導の補習しか行っていないし、実はそれだけでも手一杯である。ごく少数に過ぎない生徒相手の進学補習を組織的に実施するなぞ、そもそも現実的な話ではない。残るは一握りの教師によるボランティアとしての進学補習しかない…となればまずは率先垂範、進路指導部に属する自分が無理くり補習をやってみる他あるまい…

 困難校の教師なのに日本史のセンター試験の過去問を購入し、最近の入試動向を調べつつ、放課後や夏休み、補習を希望する生徒たちに暇を見つけては実戦的な課外授業を行う…かたや就職指導の担当者として求人票の整理、面接や履歴書の指導を行っているのだから、これはこれでかなりの難行苦行であった。

 実はこうした経験があったために、都市部の定時制高校に移った後も私は希望者がある限り、個人的な進学補習を続けていた。不登校が多く進学してくる午後部の定時制に属していたので生徒は多様さを極めていた。中には国立大やMARCHレベルに合格する生徒もおり、都市部であっても受験補習のやりがいはあったのである。

 

 以上、受験指導を巡る私の辿ってきた思考と実践の足跡をざっと整理してみた。私の場合、初任校と二校目の高校は中位の進学校であったため、初任時から毎年のように進学補習を行ってきていた。このため困難校への転勤後も受験補習自体にさほどの抵抗感が無かったのは幸いしたのだろう。

 しかし初任校が困難校であった場合、あるいは教師本人が推薦入試で大学に入学している場合にはたとえ自分のクラスの生徒が補習を希望していても快く補習を引き受ける教師は決して多くない。教師の中には受験指導は教師の仕事ではないと割り切って考えている人もかなりいる。確かに都市部の高校ならばそうして割り切ることも有り、なのかもしれないが、交通不便な内陸部の高校では心情的になかなか割り切れないものがあったのだ。

 とはいえ、素人の教師が付け焼刃で受験補習を無理くり行う必要性はもはやネット社会の進展によってかなり低下してきている。youtubeの動画でも受験に十分対応できるものが増えてきている。むしろ学校のこれ以上のブラック化を阻止するためには先々、高校教師に受験補習をさせない方向で管理職は考えていくべきだろう。

 ただし高校生への就職指導に関する有益な動画は管見ながら確認できていない。今更差し出がましいが、困難校の進路指導部としては今後、総合型選抜の指導と就職指導の充実を当面の課題として取り組んでいく方向で良いのではあるまいか。

 

§6.126.「房総の石仏百選」に見る市内の石造物

 

 今回は「房総の石仏百選」でとりあげられた市原市内の石造物をご紹介いたします。この本は房総石造文化財研究会編で執筆者はかの「日本の石仏」(青蛾書房)を発行してきた日本石仏協会の会員が中心となっています。

 すでに過去のブログで登場した石造物が多く含まれていますが、千葉県の中でも特に注目された石造物たちです。下表に紹介した順にそれぞれ注目ポイントについて簡単に解説いたしましょう。

 

「房総の石仏百選」(平成11年 たけしま出版)掲載の石造物一覧

飯沼供養塚

大日如来

寛文3年=1663

椎津路傍

馬乗り馬頭観音

安永5年=1776

不入斗医王寺門前

六地蔵(石幢)

寛永21年=1644

飯給真高寺

四国八十八所尊

寛政7年=1795

四天王

寛政7年=1795

菊間若宮八幡

大山権現

天明3年=1783

武士鹿島神社

愛宕権現

元禄7年=1694

八幡妙長寺

日蓮上人

寛文4年=1664

 

飯沼供養塚(三山塚)の大日如来

 京葉高校のすぐ近くの三山塚に祀られた大日如来(湯殿山の本地仏)です。光背などに多少の欠損が見られますが、大きさと古さもあり、県内の供養塚上の大日如来としては傑出した石仏と言えるでしょう。


椎津新田路傍の馬乗り馬頭観音

 西上総や東総地方に数多く祀られているのが馬にまたがる姿のローカル色豊かな馬頭観音。その中でもひときわ秀麗な姿で知られるのがこの石仏です。笠上観音などがある長浦方面に向かう巡礼路に祀られています。詳しくは「房総の馬乗り馬頭観音」(町田茂 たけしま出版 2004)をお読みください。

 

不入斗医王寺門前の六地蔵(石幢)

 六道を輪廻転生する衆生救済のためにそれぞれの世界に表れる地蔵を表現したものが六地蔵となります。こちらは一個の石材に六地蔵を浮き彫りにした一石六地蔵としては市内最古のものとなります。一石六地蔵には石幢型(石材を六角柱に整形し、各面に地蔵を浮き彫りにしたもの)や角柱塔の三面にそれぞれ二体ずつ地蔵を浮き彫りにしたものが市内では数多く見られます。概して石幢型は古い年代のものが多い傾向があり、こちらはその中でも非常に古い作例に属します。ちなみに六地蔵としては一体ずつ丸彫りにされたタイプも多く、その様式はかなりバラエティに富んでいます。

 

飯給真高寺四国八十八所尊の笠付き角柱塔と四天王像

 「波の伊八」の彫刻がある山門で知られる真高寺には他にも百八十八か所巡拝塔と三山供養塔を兼ねる笠付き角柱塔(安永7年=1778)があり、18世紀後半には飯給に熱心な巡礼者がいたことが分かります。市内には類例のない石造物であり、「お遍路」の地方における浸透ぶりが伝わる遺物です。

 石造物の四天王像も市内ではやはりここにしかない、貴重な作例となります。石造物の神仏像は圧倒的に浮き彫りが多く、地蔵を除くと丸彫りの像自体が希少です。

 

菊間若宮八幡の大山権現

 「大山権現」、「雨降神社」、「石尊大権現」はいずれも相模大山の神のこと。「大山詣で」は江戸時代に大流行し、大山登拝のついでに鎌倉や江の島弁天を詣でることもあって、江戸の男たちにとっては気晴らしを兼ねた小旅行でした。市内には数多くの祠が残っていますが、神像が刻まれているのはこれだけです。そもそも子安神を除きますと、市内では神像の石造物自体、きわめて希少となります。

 

武士鹿島神社の愛宕権現(勝軍地蔵)

 愛宕権現は秋葉権現とともに火伏の神として江戸時代、篤く信仰されました。しかし市内では極めて珍しく、特に本地仏の勝軍地蔵像は唯一ここだけに存在します。

 

八幡妙長寺の日蓮上人像

 日蓮宗寺院の多い市原ですが、日蓮像自体はかなり少なく、これは貴重な作例の一つです。一時期、地中に埋もれていたそうで、そのためか、保存状態はさほど悪くありません。近年、大きな題目塔などが二基、補修されました。塔の大きさから見て、かつてはかなり有力な寺院だったと思われます。

 

 

 なお2010年には続編となる「続房総の石仏百選」が刊行されており、市内の石造物が新に市原光善寺の石灯籠(15世紀前半)、下矢田・川間お塚の日記念仏塔(寛文6年=1666)、本郷西光寺の結界石(寛政7年=1795)の三点、掲載されております。

 以下、簡単にご紹介いたしましょう。

市原光善寺の石灯籠

 県内最古の石灯籠であり、古い石造物が少ない市原としてはきわめて貴重な石造物。お寺や神社などにも数多く存在する石造物でありながら、地震等で倒壊しやすく、意外にも江戸時代のものですら数は多いとは言えません。

 

下矢田・川間お塚の日記念仏塔

 基本的には女性たちの念仏講で造塔されたもの。日記念仏塔としては県内最古。毎月、特定の日(功徳日)に集まって年に十二回、念仏を唱えていたようです。この念仏塔は聖観音を主尊としていますが、このすぐ近くの墓地には阿弥陀如来を主尊とする日記念仏塔があります。市内にはこのほかに山倉共同墓地内の三山塚上と石塚墓地内に阿弥陀如来を主尊とする日記念仏塔があります。市内で合わせて5基の日記念仏塔を確認しており、希少な石造物です。

 川間お塚は基本的には三山塚(供養塚)ですが、人工的に築かれたとは思えないほどの高さと規模があり、自然の丘陵部を利用しているのかもしれません。テレビのロケ地に使われることがある小湊鉄道の川間駅のすぐ近くにあります。

 

 

本郷西光寺結界石「禁芸術͡賈買輩」

 結界石にはよく「不許葷酒入山門」などと刻まれていて、禅宗寺院に多く見られますが、他の宗派でも結界石は存在します。左手の結界石が上の写真のものですが、右側には「不許葷酒入山門」と刻まれた結界石が建てられています。

 「芸術͡賈買輩」とは旅芸人や物売りなどの俗人を指し、修行の妨げになるとされて彼らが山門内に入り込むことを禁じた石塔になりますので門前に置かれるのが普通。飯給の真高寺などにも同様の文言の結界石がありますが、市内では数が少なく、希少です。なお西光寺という寺は別に日蓮宗のお寺もありますのでお間違えなきよう。

§6.125.市原における石造物の聖地その2

 

 今回は高坂の石造物を見ていきます。高坂の集落には昔ながらの道が残っていて要所要所に江戸時代の石造物が残されております。歴史的農業環境システムの比較図で右側下にある玉前神社からスタートしましょう。神社は近年、焼失してしまったのでしょうか、新しく再建されております。写真は再建前のものですので現在の様子とはかなり異なっている点はご承知おきください。

 

 

 神社から少し坂を上って左手、高坂の集落に入る道の左手のお堂に地蔵が祀られています。玉子型の長円形の整ったお顔は享保時代の典型です。18世紀後半に入りますと倒壊して頭が落ちてしまうのを避けるためなのか、心持ち首が太くなるなどやや寸胴なスタイルが目立ってきます。

 高坂の集落内に頭の落ちてしまった地蔵と廻国塔が祀られています。廻国塔供養塔とありますが、墓石ではなく、高坂の人が六十六か国の廻国を成就した記念に建てた石塔であると考えられます。路傍に建てられており、この道が多くの巡礼者の行き交う道であったことが推察できるでしょう。

路傍に祀られた文字塔の馬頭観音:文化12年(1815)

 

 民家の中に入るかのような道に入っていくと庚申塔などが祀られています。

 

 集落から北東方向、二車線の道路に向かうと薬王寺(新四国八十八か所の二十三番)の近くに出ます。

 市内の真言宗寺院によく見られる角柱宝塔型の宝篋印塔です。基壇を階段状に複数設けて高層化させていますので、かなり重厚感があります。

 安須は道の駅近くに鎌倉街道上総道も通っていて安須や高坂近くの浅井小向、相川、光風台のある中高根、上高根地区にも数多くの見どころがあり、非常に興味深い地域です。この一帯はできれば時間をかけて丹念に見て回りたい、市内でも有数の素晴らしい歴史散策コースですので、興味のある方はぜひ散策してみて下さい。

§6.124.市原における石造物の聖地その1

 

 市原市内で不思議なほどに江戸時代の石造物が集中して見られる場所が一か所あります。今回はその地域をピックアップして主な石造物をご紹介いたしましょう。まず下の歴史的農業環境システムの比較図をご覧ください。

 小湊鉄道の上総山田駅の西に向かって伸びる道路を進むと養老川を渡る橋に出ます。渡った先が安須地区になります。右の地図の上の方に緑文字で「道の駅」とありますがここも安須になります。この施設の背後には高台があり、高台には小さな円墳が残っていて古くから集落があったことが分かります。この近くにも川の近くに神社やお寺、墓地があり、興味深い江戸時代の石造物がいくつも残っています。

 ただし今回はそこから少し南の、上総山田駅から西に向かって歩いて訪れる石造物探索スポットをまずご紹介いたします。本来のポイントは安須地域から道路を挟んで反対側の高坂地域をも含みますので次回、高坂地区の石造物を見ていくことになります。トータルではかなり広い地域に思えますが、実際には3時間もあれば余裕ですべての石造物を見終えてしまう範囲でしょう。

 安須、高坂地区に江戸時代の石造物が多く見られる背景にはここに新四国八十八か所の札所が二か所あることに加えて近くには中世の美麗な石造物を伝える常住寺や平安時代の仏像を伝える日光寺、江戸時代に関宿藩主久世広周らの信仰を集めた鶴峯八幡などの有力な神社仏閣がひしめいていることが考えられます。つまりこの地域はかなり古くから、巡礼のために多くの人々が行きかう場所であり、幾筋もの巡礼の道が伸びていたのです。

 上の比較図の迅速測図(左側)では正壽院(真言宗:新四国八十八か所の二十四番札所)という寺院が記されております。現在は小さなお堂と石造物が残されているばかり。しかし日枝神社の石段付近にもいくつかの興味深い石造物があります。順に見ていきましょう。

 まず正壽院の石造物ですが、地蔵と札所塔(二十四番)、光明真言塔が残されています。それに石段付近には丁寧に浮き彫りで彫られている火炎光背をもつ不動明王が祀られております。真言宗や天台宗の寺院が多い市原ですが、意外にも不動明王の石造物は少なく、こちらは貴重な信仰遺産の一つ。

 

 

 宮物の多くを江戸の石工に頼んでいた市原の村々も、19世紀に入ると地元の石工に宮物を頻繁に発注するようになりました。青柳は海辺の村なので隣の今津村とともに古くから石工が工房を構えていたようです。なお狛犬を担当した青柳の佐吉の名は海保神社の狛犬にも登場しています。また石段を任されたのはここから少し下流に位置する大坪の石工滝瀬義恭(よしやす)です。

 鳥居を担当したのは姉崎の大嶋久兵衛で市原郡を代表する名工でした。久兵衛はまだ若く、棟梁になりたてだったのでしょうか、力強さを感じさせる明神鳥居(市内で最も多く見られるタイプ)です。

 さて石段はかなり勾配がきつくて怖いので、右手の舗装された道路を歩くことをオススメいたします。のぼった先の右手は墓地になっていますが、三山塚があり、おそらくこの付近に据えられていたであろう庚申塔や道標などもここに集積されていますので、ご紹介いたします。

 右は「標識塔」としてありますが、コンクリートのせいで下部が判読しにくくて困ります。「南無遍照金剛」とあるので「宝号塔」と称すべきかもしれません。

 

 左の二十三夜塔の主尊は観音菩薩と区別しにくい普賢菩薩です。いかにも女性好みの小さくて可憐な浮彫が魅力的。月待講の遺産ですからおそらく月に向かって手を合わせ、祈りをささげているお姿なのでしょう。右の廻国塔を兼ねた道標はこの近くにあったものがここに運ばれてきたかもしれません。「遠州」(静岡)出身の六部「正道法師」がここで病を得て亡くなったようです。

 上は三山塚上の石造物で願主はなぜか香取郡の人。

 三山塚の傍らに祀られています。この形態の石塔は市原では珍しいものです。

 

 墓地内は以上です。下から上がってきた道を右に曲がってここまで来ました。ここでUターンして戻り、さらに南に向かうと日枝神社入口の手前で馬頭観音が道から少し離れた場所に祀られています。笠付き角柱塔の、場違いなほどに贅沢な造りです。

 実は日枝神社境内には江戸時代の石造物が見当たりませんので、通り過ぎましてしばらく道なりに南へ進みますと高坂の墓地内に入ります。ここにも三山塚があり、江戸時代の石造物が残されています。

 今回はここまでといたします。次回は光風台の東の縁を抜ける広い二車線の道を挟んだ西側の地区(高坂)を見ていきましょう。

㊷高校社会科における授業評価アンケートの試案

 

はじめに

 自身の授業を受講する生徒たちに年度末、アンケートを用いて授業の評価をしてもらっている教師は少なくあるまい。しかし本来は各学校、各教科である程度まで統一した用紙を用いて生徒たちによる本格的な授業評価を年に二回程度、所属する教師全員に対して行うべきである。当然、目の前の教師を評価することに抵抗を覚える生徒がいるだろうから、調査のタイミングは授業が無くなった学期末が適切であろう。学校全体で授業評価週間を設けて十分な時間をとり、クラス担任や副担任を中心にしっかりと取り組ませるのが理想だろうか。

 おそらく年度末は様々な業務が集中するので調査のタイミングとしては夏休み前と冬休み前がベストだろう。すなわち年に二回、実施することで教師各自の授業改善に資するようにしたいものだ。生徒たちには先生方の授業がより楽しく、分かりやすく、役立つものになるよう、生徒たちの誠実な協力を求める…といった内容で調査の目的をアンケート用紙の前書きに示しておくべきだろう。

 ただし教科によってはどうしても質問項目を変えるべきケースが出てくるだろうから、ここではあくまで高校社会科の授業評価にかんする調査案を示すにとどめる。なお調査結果の利用上の注意点は終わりの方で触れることにしたい。

 

・調査内容のポイント~観点別評価の具体例~

 授業評価はまず普通の通知表と同じく観点別評価が最適であると考える。授業評価の観点は私の独断と偏見に基づき、大きく三つに分けて論じてみたい。

 年間を通じて授業が「楽しい・面白い」、「分かりやすい」、「役に立つ」という三条件をほぼ満たすものならば生徒の授業満足度は間違いなく高いに違いないと考えるが、いかがだろう。特に「楽しい・面白い」は授業成立のための必須条件であり、加えて残りの観点の内、一つでもプラスに評価できれば十分合格点とみなすべきではないか。もちろん三つの観点はどれも重要なのだが、必ずしも一つの授業で三つの条件をすべて満たすほどの必要は無いと考える。面白くて分かりやすい、ないしは面白くて役に立つならば好ましい授業として十分、及第点と見なしたい。

 一つ目の「楽しい・面白い」とはお笑い芸人のような、絶妙な「しゃべくり」のテクニックや話の面白さへの評価ではなく、あくまでも授業実践者としての評価観点であるべき。したがって生徒には授業中の余談の面白さを一切、評価の対象としない旨を調査の際には予め徹底させたい。ここではあくまでも授業内容と展開の仕方に評価対象を絞り込むべきである。

 「楽しい・面白い」の観点には授業のテーマやネタ、資料自体の斬新さ、ユニークさ、面白さが含まれる。教科書的なテーマや陳腐な資料を用いたありきたりの展開よりも、意外性のある切り口で問題の本質に深く、多角的に迫れるような、独自の資料を用いたユニークさのある授業こそ、他の教師からも高く評価されるべきだろう。そうした授業はそれだけで生徒の興味関心を強くひきつけるため、評価点を高めに設定したいものである。さらに今、話題になっている事象とうまく関連付けて展開することも生徒の興味をひく上で好ましいだろう。

 「楽しい・面白い」は生徒の授業への参加度を高める上で大切である。逆に生徒にとって授業への参加度の高い展開は授業の満足度をかなり高めるだろう。生徒の多くはひたすら先生の話を聞くだけの、受け身を強いる一斉講義形式の授業を嫌う。受け身の授業ばかりでは誰であっても一定の集中力を保つことすら難しいのだ。逆に自分なりの意見表明の機会を数多く設けた参加度の高い授業は生徒の主体性を引き出し、自己表現欲求も満たされる点で授業の「楽しさ」「満足度」が倍増してくるだろう。

 生徒から意見を活発に引き出すための雰囲気作りも大切である。そのためには教師や生徒たちが少数意見を軽視しないことに加え、対話的議論を通じて多様な意見を引き出す教師側の様々な工夫が欠かせない。また生徒に知識ばかりを問う発問を繰り返していると一部の生徒しか発言しなくなるだろう。多くの生徒が自ら考えたくなるような、刺激的で良質の発問が出来るかどうか、がこの観点での授業の成否を決すると言っても過言ではない。なお引っ込み思案の生徒からも次々と意見を引き出すには予め綿密に設計されたアンケートを用いることがきわめて有効となる。

 もちろん授業中、適宜、討論やアンケートを用いる展開は教師側に多くの工夫と努力を強いる。しかし様々な観点から見て極めて有効な取り組みであるのは経験上、確かである。実際、この評価観点は今後、一層推奨されていくと思われ、とりわけ配点を高くして評価すべきものと私は考える。

 「楽しい・面白い」授業は生徒たちの印象や記憶に残りやすいはず。したがって記憶に強く残った一コマ分の授業のテーマを生徒たちがどれだけの数、覚えていて記述できるのかも重要な指標となるだろう。4単位の講座で夏休み前と冬休み前に調査を実施するならば、それぞれ記憶に残った授業のテーマをクラス平均で5つ以上、挙げられればその授業はおそらく大成功の部類に入るはず。3つから4つならばそこそこの成功と言えるだろう。しかし2つ以下は残念ながら授業の面白さに多少の問題ありと見なして良いだろう。授業評価アンケートの結果が概して良好であったとしても、生徒の記憶に残らないのならばそもそも授業としてはほぼ効果なしと判断されてしまいかねない。いくつ授業テーマを思い出せるかは重視したい評価ポイントとなるはず。

 強く印象に残る授業では概してネタに対する驚きや感動が多くの生徒たちに見られる。感情を強く揺さぶられるネタ、意表を突く驚きのネタは授業の「面白さ」に直結するだろう。そうしたネタを探すのは実際、簡単ではなく、ベテランでも大いに苦労する。ぜひともこの点は高く評価すべきだろう。

 授業の「分かりやすさ」もいくつかの観点から評価したい項目。まずは教師の言葉遣いや難解な用語の解説が丁寧であることは「分かりやすさ」の重要な条件となる。また抽象的な事象や複雑な事柄を絶妙で具体的なたとえ話に置き換えて説明する能力も問われてくるだろう。当然、プロジェクターなどの視聴覚機器を適宜用い、文字資料に偏りがちな社会事象の説明を効果的に補う様々な工夫・努力は欠かせない。

 生徒一人一人の実態に合った学習を可能とする工夫は「分かりやすさ」において特に大切となる。つまり個別最適化学習の機会が頻繁に設けられているか否かが問題。これは「面白さ・楽しさ」と重複するが、授業中のアンケートの設問次第では個々の生徒の理解度をある程度まで探ることが出来る。また対話的議論の積み重ねと自説補強のための調べ学習によって他者と自分の考えとを徐々に整理できるようになることも生徒にとって十分「分かりやすさ」につながる。

 「役に立つ」とはもちろん授業内容が今すぐに役立つ、ということばかりではあるまい。今すぐに役立つとは限らないが、少なくとも生徒たちの近い将来に向けて役立つかもしれない情報を効果的に提供する義務が教師にはあるだろう。特に進学や就職関係の詳細な情報提供は政治経済の授業では必須となるはず。また学生として、労働者として、家庭人として、児童生徒の保護者として今後、いずれは必要とされるだろう心構えや知識は特定の教科や科目を超えて繰り返し、授業で取り扱うべきものである。私が社会科授業のネタとして心理学や学校教育、労働者の権利、少子高齢化、差別などの問題を重視しているのも、この点と深く関わっている。

 さらにグローバル化が進む現在、日本文化の特色と欧米との違い、地球環境問題や国際的な紛争などを知ることは切実に必要とされているだろう。ただしこの分野は教科書的に扱うとあまりにも網羅的となってしまい、深い思考力を養うことも、インパクトのある面白い展開に持ち込むことも難しくなるに違いない。この分野は欲張らずに特定のテーマに絞り込んで掘り下げていく、事例研究的な展開を志すべきだと考えるが、いかがだろう。

 ※参考記事

  ◎Z世代が選んだ「将来役に立たないと思う教科トップ10」 3位「理科」、2位「図

   画工作」、1位は? J-CASTニュース の意見 2024.4.9

   8位の道徳よりもはるかに役に立たない教科として社会科が4位に評価されている点に現在の授業

   内容と授業方法の致命的な欠陥が現れているのだろう。ただの暗記学習にとどまっている限り、

   社会科の授業は児童生徒にとって苦痛でしかあるまい。記事を読ませて授業で議論させると面白

   いだろう。

 

・調査方法と統計処理のポイント

 教科ごとのアンケートに答える生徒の負担を軽減するためには短時間で終えられる記号選択式を多くすると良いだろう。一番、簡単に答えられるのはおそらく各設問に対して「ア.とてもそう思う」、「イ.どちらかと言えばそう思う」、「ウ.どちらかと言えばそう思わない」、「エ.まったくそう思わない」の四択とし、アを選択していれば4点、イは2点、ウは1点、エは0点といったように、後で表計算ソフトを用いてすぐに点数化できるようにしておくと助かるだろう。

※評価点は抵抗感の強い減点方式ではなく、できるだけ加点方式にしたい。また「ア.とてもそう思う」 

 と平均点に近い印象がある「イ.どちらかと言えばそう思う」とは評価として明らかに大きな差がある

 と考えるので「ア」は「3点」ではなく、敢えて「4点」としてみた。この方が生徒の実感により近い

 結果となるように思う。

 「どちらとも言えない」を選択肢に入れてしまうとあまり真剣に考えずにそれを選択してしまう生徒が多くなりがちなので、折角調査しても教師にとってイマイチ授業改善には役立たなくなる危険性がある。異論はあるだろうが、そうした観点から「どちらとも言えない」を予め選択肢から排除した方が良いと個人的には考える。

 印象に残っている授業のテーマ数の場合、5つ以上記述できた場合は4点、3~4は2点、1~2は1点、0は0点くらいが妥当ではあるまいか。

 なおアンケートの最後は自由記述で授業の感想や授業への注文などを書かせておくと一層丁寧で有意義なものとなるだろう。

 統計処理はまず講座ごとのアンケート回答者数の確認に加え、教師個人における設問ごとの総得点を出し、さらに「面白い・楽しい」、「分かりやすい」、「役立つ」の三つの観点ごとの総得点、全体の総得点も算出しておく。ここまでは授業担当教師の仕事。社会科主任は各教師から集計結果を提出してもらい、社会科教師全員の集計を出す。そして教科全体および科目別の総得点の平均値、それぞれの観点別得点の平均値、設問ごとの平均値を出しておき、結果を表およびグラフ化して社会科教師たちに配布すると非常に分かりやすいだろう。この程度のものでも教師の授業改善には十分役立つに違いない。

 社会科教師の数が少ない定時制のような学校ではここまでで十分であるが、5人以上いるような規模の学校ならば、参考のために最高得点の教師の授業参観を後日、他の社会科教師に奨励するのは今後のために良い試みとなるだろう。

 

・アンケートでの設問例

 回答する生徒の負担と集計・分析する教師の負担を軽減すべく、設問数を出来る限り絞り込む必要があるので、まず回答に要する時間を20~25分程度にして設問数を少なめにしてみた。回答に際してはあまり深く考えずに素早く直観的に答えるべき旨を予め周知させておくと生徒たちの率直な意見が反映されやすいかもしれない。

①「楽しい・面白い」に関わる四択の設問群

 良い意味で強く印象に残る授業が多い

 多くの授業に教師の工夫やアイディアの良さが感じられる

 視聴覚教材や独自教材を適宜、活用して面白さ、分かりやすさに努めている

 プリントなどで独自の資料を使ってタイムリーな話題を扱っている

 対話的討論を通じて生徒たちの意見表明の機会を数多く用意している

 要所でアンケートを用いて大人しい生徒の意見も汲み上げている

 ネット検索などを通じて調べ学習の機会を数多く設けている

 特定の考え、価値観を押し付けてはいない

 多様な見方、考え方を紹介してくれる

  ※太字は他の観点とも深く関わるので倍の配点としても良いだろう。また学校やクラスの特性に応

   じて各設問の配点を微妙に変えることも検討すべきだろう。

②「楽しい・面白い」に関わる記述式設問

 「これまで印象に残っている授業一コマ分のテーマをできるだけ数多く挙げてみて

 下さい。テーマは例で挙げたように簡略な記述で構いません。」

  回答例:「錯視体験」「ブラック校則問題」「イジメ事件の隠蔽」…

③「分かりやすい」に関わる四択の設問群

 説明が丁寧であり、分かりやすい

 たとえ話や身近な具体例が適切に示されるので分かりやすい

 しっかりと問題を理解し、自分で考える時間が十分に用意されている

 本当に生徒が理解できているのか、様々な手段を用いて確認している

④「役に立つ」に関わる四択の設問群

 自分の将来の進路を決めていく上で役立つ知識、考え方を学べている

 家庭人として、労働者として、地域社会の一員として今後生きていく上で役立つ知

  識、考え方を学べている

 国際社会の中で日本人として今後生きていく上で必要とされる知識、考え方を学べ

  ている

 日本社会が今後、どうあるべきかを考える上で役立つ知識、考え方を学べている

 国際社会が今後、どうあるべきかを考える上で役立つ知識、考え方を学べている

 

・調査の実施と結果の利用に際して

 以上、私が提案した授業評価アンケートはあくまでも教師集団による自主的研修の一環に位置づけて実施されるべきものであり、管理職や教育委員会などから強制されて行うべきものではない。またこれを本格的に実施するには幾つかの厳しい条件をクリア出来ていなければならない。特に教師の職務精選が断行され、部活動等の負担が完全に地域社会に移行されていることがまず、最低限の前提条件となる。

 授業こそが教師の本分、との共通認識が成立していないような現状のブラック化した多くの高校ではこうした取り組みはむしろ教師の負担を増やすだけで逆効果を生じかねないだろう。さらに学校が行っている無意味な研修や目標申告などを徹底的に無くことを通じて各教科でのアンケートがしっかりと実施可能になる程度まで、学期末の時間的余裕が確保できることも実施上、不可欠の前提条件となる。

 またこのアンケート案が教師の職務軽減を伴わない中で管理職の得点稼ぎや教員管理の手段として悪用されることは決してあってはなるまい。

 もちろんアンケート結果は教師の授業改善に資することが唯一の狙いであり、特に教師の人事などに影響を与えることも絶対にあってはならない。繰り返しになるが調査結果が管理職や教育委員会に悪用されないよう、結果の取り扱いには十分留意すべきである。

 

 というわけで実際には残念至極ではあるが、今のところ社会科全体でこの調査を実行に移すのは多くの高校では無理であり、百害あって一利なし。明らかに時期尚早だと私は考えている。そこで当分の間、授業改善に熱心な教師が個人的に参考にしてもらえれば幸い…という思いでとりあえずこのプランを示してみた次第である。

 くどいようだが何より急ぐべき改革が教師の職務軽減であることは論をまたない。

§6.市原の郷土史123.深城の見どころ

 市原市深城は東京湾に面した姉崎からやや内陸部に向かった所に位置し、集落の北側を館山自動車道が通っている。歴史散歩に特に適しているのは深城の南側半分であり、特に上の地図の上端、谷津田が細長く東西に伸びている場所で、古くから谷津の北側に沿って集落が形成され、歴史的景観を味わえる神社やお寺がある。

 

 

 下の迅速測図(左側)を見ると、この地区の地理的特徴がつかみやすい。台地状の丘陵地帯の奥深くまで谷津地形が複雑に食い込んでいる。縄文海進の昔にはおそらくリアス海岸だったのだろう。谷津の縁に沿って集落と道が東西に伸びていて、両側は丘陵部となっているため、集落内に入ると、都市部の喧騒とは無縁の、他とは隔絶されたような長閑な田園風景が楽しめる。丘陵の上は比較的平坦で名産の大根などの畑地が一面に広がっている。

 

 今回、ご紹介するのは集落内の熊野神社と無量寿寺(真言宗)、丘陵上の三山塚(少年野球のグランド脇)と不動明王を祀る塚(上のグーグル地図の右下隅に位置)。

 なお、集落の南端に上総鎌倉街道が一部、残っており、御所覧塚がある。

 

 

・熊野神社

 

狛犬:天保8年(1837)

 

川上南洞書「日韓合邦紀念銀杏樹」碑:年代判読困難。明治末年か? 日韓併合は1910年

 

石灯籠:嘉永3年(1850)  石工 御園藤吉(袖ケ浦林村)

 

手水鉢:文久2年(1862) 石工 御園藤吉

 

庚申塔:延宝3年(1675)

 

本殿は一間四方の流造で小さな割に丁寧な彫刻が随所に施されおり、石垣に上に建つ。彫刻には江戸後期の特色が伺える。いかにも村の鎮守らしく、本社も集落を見下ろす高台に立地している。

 

・無量寿寺

 

二基とも光明真言読誦塔:左 判読困難・右 嘉永元年(1848)

 

    地蔵台座・基礎:文化6年(1809)      六地蔵台座・基礎:正徳2年(1712

地蔵は倒壊しやすく、欠損が多い。ここも多くが台座のみ残っている。

 

庚申塔:宝暦11年(1761)

 

石段塔:寛政4年(1792)石工 姉崎村 古川辰五郎

 

宝篋印塔:文字の磨滅が激しく判読困難。石工は木更津の高橋八郎右衛門なので1760年代前後に造塔か?(→西国吉医光寺のものは宝暦14年=1764)

 

・三山塚(野球グランド脇)

 

大日如来(湯殿山供養塔):享保12年(1727)

 

大日如来(湯殿山供養塔):寛政9年(1797)

 

湯殿山供養塔(文字塔):明和2年(1765)

 

・不動明王

塚状の盛り土の傍らに建つ

 

不動明王塔:文政7年(1824)

密教で尊崇される不動明王の石造物は真言宗寺院の多い市原市内では意外にも残存数が少ない。