§6.124.市原における石造物の聖地その1

 

 市原市内で不思議なほどに江戸時代の石造物が集中して見られる場所が一か所あります。今回はその地域をピックアップして主な石造物をご紹介いたしましょう。まず下の歴史的農業環境システムの比較図をご覧ください。

 小湊鉄道の上総山田駅の西に向かって伸びる道路を進むと養老川を渡る橋に出ます。渡った先が安須地区になります。右の地図の上の方に緑文字で「道の駅」とありますがここも安須になります。この施設の背後には高台があり、高台には小さな円墳が残っていて古くから集落があったことが分かります。この近くにも川の近くに神社やお寺、墓地があり、興味深い江戸時代の石造物がいくつも残っています。

 ただし今回はそこから少し南の、上総山田駅から西に向かって歩いて訪れる石造物探索スポットをまずご紹介いたします。本来のポイントは安須地域から道路を挟んで反対側の高坂地域をも含みますので次回、高坂地区の石造物を見ていくことになります。トータルではかなり広い地域に思えますが、実際には3時間もあれば余裕ですべての石造物を見終えてしまう範囲でしょう。

 安須、高坂地区に江戸時代の石造物が多く見られる背景にはここに新四国八十八か所の札所が二か所あることに加えて近くには中世の美麗な石造物を伝える常住寺や平安時代の仏像を伝える日光寺、江戸時代に関宿藩主久世広周らの信仰を集めた鶴峯八幡などの有力な神社仏閣がひしめいていることが考えられます。つまりこの地域はかなり古くから、巡礼のために多くの人々が行きかう場所であり、幾筋もの巡礼の道が伸びていたのです。

 上の比較図の迅速測図(左側)では正壽院(真言宗:新四国八十八か所の二十四番札所)という寺院が記されております。現在は小さなお堂と石造物が残されているばかり。しかし日枝神社の石段付近にもいくつかの興味深い石造物があります。順に見ていきましょう。

 まず正壽院の石造物ですが、地蔵と札所塔(二十四番)、光明真言塔が残されています。それに石段付近には丁寧に浮き彫りで彫られている火炎光背をもつ不動明王が祀られております。真言宗や天台宗の寺院が多い市原ですが、意外にも不動明王の石造物は少なく、こちらは貴重な信仰遺産の一つ。

 

 

 宮物の多くを江戸の石工に頼んでいた市原の村々も、19世紀に入ると地元の石工に宮物を頻繁に発注するようになりました。青柳は海辺の村なので隣の今津村とともに古くから石工が工房を構えていたようです。なお狛犬を担当した青柳の佐吉の名は海保神社の狛犬にも登場しています。また石段を任されたのはここから少し下流に位置する大坪の石工滝瀬義恭(よしやす)です。

 鳥居を担当したのは姉崎の大嶋久兵衛で市原郡を代表する名工でした。久兵衛はまだ若く、棟梁になりたてだったのでしょうか、力強さを感じさせる明神鳥居(市内で最も多く見られるタイプ)です。

 さて石段はかなり勾配がきつくて怖いので、右手の舗装された道路を歩くことをオススメいたします。のぼった先の右手は墓地になっていますが、三山塚があり、おそらくこの付近に据えられていたであろう庚申塔や道標などもここに集積されていますので、ご紹介いたします。

 右は「標識塔」としてありますが、コンクリートのせいで下部が判読しにくくて困ります。「南無遍照金剛」とあるので「宝号塔」と称すべきかもしれません。

 

 左の二十三夜塔の主尊は観音菩薩と区別しにくい普賢菩薩です。いかにも女性好みの小さくて可憐な浮彫が魅力的。月待講の遺産ですからおそらく月に向かって手を合わせ、祈りをささげているお姿なのでしょう。右の廻国塔を兼ねた道標はこの近くにあったものがここに運ばれてきたかもしれません。「遠州」(静岡)出身の六部「正道法師」がここで病を得て亡くなったようです。

 上は三山塚上の石造物で願主はなぜか香取郡の人。

 三山塚の傍らに祀られています。この形態の石塔は市原では珍しいものです。

 

 墓地内は以上です。下から上がってきた道を右に曲がってここまで来ました。ここでUターンして戻り、さらに南に向かうと日枝神社入口の手前で馬頭観音が道から少し離れた場所に祀られています。笠付き角柱塔の、場違いなほどに贅沢な造りです。

 実は日枝神社境内には江戸時代の石造物が見当たりませんので、通り過ぎましてしばらく道なりに南へ進みますと高坂の墓地内に入ります。ここにも三山塚があり、江戸時代の石造物が残されています。

 今回はここまでといたします。次回は光風台の東の縁を抜ける広い二車線の道を挟んだ西側の地区(高坂)を見ていきましょう。