§6市原の郷土史.128.岩崎開村300周年資料②
3.岩崎の開村とその後の開発
1981年の「広報いちはら」に掲載された「農協組合の村々」(落合忠一氏執筆)シリーズの31~39に「岩崎村」の歴史が取り上げられている。岩崎村の歴史は八代将軍徳川吉宗の改革によって享保7年(1722)に町人請負新田が許可されるようになった時に下谷金杉の下村清兵衛が養老川河口に可耕地があることを知り、下見に来て開墾を決意したことから始まる。清兵衛は払下げ代金を添えて代官に新田開発の許可を申し出た。この開墾話を聞きつけた人々が岩崎に大勢集まり、清兵衛の指図のもとに開墾が進められたという。
当時は寄洲の葭山を中心にまず屋敷を構え、周辺に田畑の開墾を行っていったようで2~3年かけて徐々に屋敷地と耕地が拡大し、享保13年(1728)2月、「清兵衛新田」としてほぼ完成した。幕府による検地後に清兵衛の私有地とされ、年貢は3年間、猶予された。3年後の享保15年(1730)、村名は「岩崎新田」に改められ、五井一万石の大名有馬氏倫(初代伊勢西条藩藩主で現在の五井駅に陣屋が置かれた)の領地とされた。
歴史的農業環境システムより
江戸時代、養老川は関東有数の「暴れ川」として恐れられていた。岩崎新田成立後も幾度か決壊して流路を変え、大きな被害を下流域(特に町田・廿五里周辺から下流域)の農村に及ぼしている。たとえば延享4年(1747)、養老川は出津辺りで大規模な川欠けを起こした。以後、天明8年(1788)までの40年余り、養老川は出津八雲神社のすぐ傍を流れ、松ヶ島村の端を抜けて北青柳との境あたり字塩場(メガドンキの裏手)で海に注いでいた。
洪水が収まるとかつての川床や河川敷に対して周辺の村々は先を争って開墾を行うことになる。当然その所有権を巡って訴訟沙汰に発展することもあった。また天明年間に河口が元に戻った後も川筋のわずかな変化によって「寄洲」が生じたため、そこでも開墾が行われている。
ご存知の通り、養老川下流部の土地支配は今も飛び地が多く、錯綜していて分かり辛い。その理由の一つとして、かつて養老川の度重なる氾濫とその都度繰り返された開発の歴史があったのである。
岩崎の浜辺では潮除け堤防が整備されていき、葭(葦)の生い茂る海辺の土地も一部は農地として開墾されていった(葭場⇒小字名「葭田」・「亥ノ起」)。こうした苦労の積み重ねがあって村の石高と人口は徐々に増加していった。
赤枠が寄洲(卯の起)、草色の枠内が葭場(亥の起):中村家所蔵村絵図(寛政11年=1799)
葭場の開墾が行われた後しばらくして享和元年(1801)、岩崎は領主有馬久保(ひさやす)の検地を受けている(この時の検地帳が中村家に残る→下の写真)。久保は初代の氏倫から七代目に当たるが、彼だけは五井の陣屋に住んでいたらしい(従来は家来だけが陣屋に遣わされていた。陣屋跡地は今の五井駅に相当)。検地の際には代官の伴宗蔵と早川佐太郎を検地役人とし、立会人に横目役の三神友之進と書記の坪才助とが岩崎に来たという。田畑半々で合計7反6畝27歩(76アール余り)の開墾地が確認されている。
鎗田家に伝わる名寄せ帳(検地帳の写し:下の写真)は虫食いが酷く、欠損も多いが、その後の土地所有関係の変化が追える点で有意義な資料。「寄洲禹起」と「洲崎亥起」が享和元年(1801年)に有馬氏検地の対象となった開墾地と思われる。何れもやはり地味が悪かったようで耕地のランクはほとんどが「下畑」である。
岩崎村は迅速測図(1881年)によると集落として三つのブロックに分かれている事が確認できる。村の中心部は会所の置かれた中村家のある地区。小字名で「中町」である。文字通り村の中心を意味する字地名となっている。弁天様を挟んで道沿いに細く連なる集落は小字名で「上洲崎」から「向山」にかけて。川の堤防に沿う道から岩崎地区に向かって坂道を下り、最初に入るブロックは「本山」、「元新山」。集落の字地名に「山」が多く付いていると言うことはそこが相対的に微高地であった証拠であろう。低湿地における居住地としては当然の選択であり、松ヶ島地区も同様の形で微高地中心に集落が展開している。
三つのブロックの中央部は弁天様を除くと建物は無く、明治中頃までは専ら水田として利用されていたことが迅速測図で確認できる。村を分断するようにして集落の中央部を耕地が帯状に細長く横断しているのはやや不自然であろう。おそらくこのゾーンは相対的に低地であるため、川の洪水が起きると浸水しやすかったのではあるまいか。もしかするとかつてここを川が流れていた事があったのかもしれない。とすれば当初の集落は自然堤防上に細長く展開していたと考えられる。
戦後まもなく撮影された空中写真:水色の線がかつて川の流れていたと思しき箇所。岩崎と玉前の集落は赤線のようにかつての川跡にそって帯状に形成されている。かつての自然堤防は道となり、人家が建ち並んでいったが、川跡はもっぱら水田に利用されていたようだ。黄色のゾーンは松ヶ島と北青柳の境辺りで海に注いでいた養老川が元の河口に戻った際に形成された川沿いの寄洲でここはやがて村の共有地となったようだ。