§6.127.岩崎開村300周年資料①

 

1. 近世五井の歩みから

 徳川家康の関東移封が行われた1590年以降、房総の地は多くの要所を徳川一門、譜代の家臣たちが支配する所となり、五井は当初、松平家信が5000石の領主として五井を支配していた。慶長6年(1601)には松平氏が移封されて五井藩は廃藩とされ、天領(幕府直轄地)に組み込まれる。
 承応元年(1652)、五井の代官として旗本の神尾守永がやってくる。五井の街並みの土台が本格的に築かれたのはおそらくこの神尾氏の時からであろう。神尾氏は松平氏の菩提寺だった理安寺を、沼地を埋め立てて現在地に移し、万治元年(1658)、守永寺(浄土宗)と改めてここを町の中心とする街並みの整備に取り掛かったようだ。実際、房総往還は守永寺を迂回するようにして「枡型」が設けられている。また神尾氏は塩田開発をも進め、五井大市を開くなどして五井の経済的な発展を計画的に推進していったという。

 上の図中の赤い星印が守永寺で五井の街並みが守永寺を中心にして形成されているのが分かる。緑の線は房総往還で街並みの両端には五街道の宿場町などに時折見られる、「枡形」、「鍵形」などと呼ばれる、直角に道が折れ曲がるクランク地点が残っていた。五井は房総往還における継立て場(継場とも:五街道では宿場町に相当する町で「下宿」「上宿」といったような、旅籠の存在を示す地名が残っている)として近世に入ってから整備されていたのである。

 不自然に道が直角に折れている箇所、黄緑の四角はかつて陣屋がおかれていた場所で、現在はJR内房線の五井駅となっている。中世から繫栄していた八幡宿もやはり継立場であったが房総往還は五井ほどはっきりとした鍵形は見られず、町中の道も五井ほどは直線的に伸びていない。すなわち五井の町は八幡宿などとは違い、17世紀になって急遽、代官指導の下、極めて計画的に造られた人工的集落だったのだ。

 五井は暴れ川として知られていた養老川の氾濫原に位置しており、江戸時代以前は湿地帯が多かったため、人家がまばらに存在するのみの寒村であったという。だからこそ江戸時代に入って町は特定の目的に沿ってほぼゼロ状態から人工的に創り上げることが可能だったともいえるだろう。計画的な街づくりの結果、五井は急速な発展を遂げ、江戸時代後期には市原郡最大の町となる。中世には港町として既に繁栄を遂げていた八幡宿や姉崎、椎津を差し置いて、寒村に過ぎなかった五井の町が発展できた背景には代官となった神尾氏の優れた街づくり構想があったと思われる。

 五井町発展のカギはおそらく神尾氏が開発した川岸地区の水運の要としての役割にあった。まず黄色の線に注目したい。五井の町から不自然なほどに北に向かって直線的に伸びる道路。現在の五井病院から先は川岸の集落に至るまでほぼ直線である。この道、おそらく江戸時代からあったと考えられる。まずはこの道が果たした役割を考えてみたい。

 なお赤線は久留里街道の「殿様道」として18世紀中ごろに整備されたもの。こちらは既に五井の町並が形成された時期に街道とされたため、住宅地を避けるようにして道は曲がりくねっている。直線的な道路は一見すると新しく敷設された現代の自動車道に思えるが、実は五井の場合、直線道路が必ずしも新しい道とはいえないのだ。

 

2.川岸の開村と発展

 

 まず細長い集落の展開に注目。さらに不自然なほどに直線的な二本の道(黄色線)と二つの水路(紺色の線:左側が旧澪、右側が新澪)に注目。川と海の表玄関として川岸は五井の代官神尾氏によって17世紀後半、計画的に造成されていったと推測するが、いかがだろう。

 川岸の開村はおそらく17世紀後半のことであり、五井守永寺(神尾氏により創建)や八幡円頓寺の檀家が川岸の旧家に見られることから、草分け百姓の一部は五井及び中世からの港町、八幡出身であることも推察できる。

 ゼンリンの住宅地図内にある緑色の★印、八幡円頓寺の檀家である中西家にもたらされた法華曼荼羅(ご本尊)のうち、1680年のものが川岸開村の年代を考える上で大きなヒントになるだろう。

 養老川の上流からもたらされた薪炭、木材、年貢米などの物資は川岸で川船から五大力船に積み替えられ、江戸に輸送されていた。また海産物は押送り船でやはり江戸へ送られていたようだ。川岸の澪はそうした船の発着に利用されていたに違いない。やがて澪は19世紀初頭、新たに追加され、波渕(現在「オリーブの丘」近く)まで五大力船が入り込む。江戸との交易がさらに発展し、五井は市原郡随一の人口を誇る町へと成長を遂げていった。

 五大力船は江戸からの帰途、様々な商品を五井にもたらしてもいた。五井と川岸は17世紀後半にはあの直線的な道によって緊密に結びついたことでお互いに急成長を遂げていったようだ。中世にはおそらく鄙びた寒村に過ぎなかったはずの五井は房総往還の継立て場となったことに加えて、海と川の水上輸送路の結節点となった川岸と強く結びつくことで大きく発展していったものと思われる。五井の繁栄は川岸の存在無くしては語れないのである。

 享保の改革で大岡忠相と肩を並べる活躍を見せたのが有馬氏倫(ありまうじのり)であった。かれは五井の代官として五井の発展に尽くし、川岸の富貴稲荷神社を創建している。なお、大岡の領地も島野など市原郡内に存在している。つまり市原は享保の改革の影響を色濃く受けた土地であった。たとえば足高の制(1723年:大岡越前や有馬氏倫らはこの制度によって一万石を数える領地を持つことになり、旗本から大名へと出世を遂げている)や町人請負新田の許可(1722年:→岩崎新田の成立)といった政策は市原に大きな変化をもたらしていたのだ。

 なお有馬氏倫と同じく紀州藩以来、将軍吉宗に側近として重用された加納久通も上総一宮藩の初代藩主とされ、その子孫久朗は戦後三代目の千葉県知事となっている。