§6市原の郷土史.130.岩崎開村300周年資料④

~岩崎の近現代史~

 

「磯のさざ波」(中村憲四郎 昭和35年)より

 岩崎では毎年八月に一家の一年の収入を左右しかねない、大切なノリ篊(ひび)の「場割」のためにクジ引きが行われていた。以下はその時の様子である。

 

 ・・・組合当局から抽選日が部落内に回覧せらるると、自分たちの日ごろ信仰している神社仏閣に、とるものもとりあえず、われ先と同志を同道して参詣するのであります。行く先を申すと、成田山が第一位のようで、次に君津郡亀山の三石観音がその第二位として近年賑々しく参詣する。

 ・・・当日となりますと、未明より斎戒沐浴して神仏に灯明を点じて、清々しく隣保相供に組合事務所へ急ぐ。・・・

 常日ごろの荒くれ男たちも、この日ばかりは、神妙不可思議、水も打ったるごとく抽選終われば家路へサッサと帰り神仏に御灯明を上げ、御神酒を供えるもまたゆえなりと思はるる。・・・

 

 明治の末から市原に導入されたノリの養殖は岩崎だけではなく、市原の沿岸部に貴重な現金収入をもたらした。ただしノリの収穫が冬であったため、ノリ船に乗っての収穫作業は寒さも手伝って非常に辛いものであった。

写真は故渡辺善雄氏提供

 

岩崎小学校の歩み

 明治5年(1872)に「国民皆学」(小学校の義務教育化)を目指してフランスをモデルとした学制が導入され、寺子屋にかわって全国に小学校が設置されるようになる。これを受けて市原では翌年の明治6年、総社、分目、宮原、深城、廿五里、五所、飯沼、島野、椎津、姉崎、田中(今津朝山)、松崎、川在、牛久、皆吉、山小川、佐是、上高根、馬立、朝生原、大久保、月出、西飯給、田淵(…以上はすべて寺院を校舎とする)、高砂(江古田)、鶴舞西、石川、外部田、古敷屋(…以上は民家を校舎とする)、鶴舞東(旧庁舎を校舎とする)の30校が設けられている。翌明治7年は22校、明治8年に6校というハイペースで小学校は設置されていった。

 学校設立は各村の負担とされたため、かなりの数の学校は当初、寺院の本堂を校舎としてあてがわれた。特に市原はその割合が圧倒的に多い。

 明治7年(1874)、玉前阿弥陀堂に玉崎小学校創設。明治16年(1883)、岩崎小学校と改称し、岩崎大御堂に移る。さらに明治17年(1884)、校舎新築なり、現在地(現在の岩崎公民館)に移る。明治23年(1890)、五井尋常小学校分校とされる。明治28年(1895)、五井尋常小学校から分離し、岩崎尋常小学校と称す。校舎は明治29年と45年に増築されている。

 岩崎小学校はその後も児童の数が少なく、たびたび統廃合の対象とされかけたが、地域住民の嘆願もあって戦後しばらくまでは学校の存続をみた。しかしついに昭和42年(1967)、玉前、出津小学校と合併して京葉小学校に吸収され、その役割を終える事となった。岩崎小学校の跡地は今、岩崎公民館に利用されて現在に至る。

 

・川岸の「海軍道路」と飛行基地建設計画

 昭和15年(1940)、海軍は帝都防衛のため川岸沖に飛行場の建設に着手し、埋め立て工事を行っている。工事車両の便宜を図るべく、直線的で当時としては幅の広い道路を敷設した。地元ではこれを「海軍道路」と呼んでいる。埋め立てがほぼ終わり、飛行場の造成に取り掛かる寸前、太平洋戦争が始まったために基地建設は行われず、埋め立て地だけが戦後も残っていた。1960年代、海岸部の埋め立てが行われ、工場地帯が造成されていくが、既に埋め立てが完了していたここだけはいち早くコスモ石油などの企業が進出している。

 仮に飛行場が完成していてここに計画通り戦闘機が配備されていればどうなっていただろう。1945年5月8日、アメリカ軍は蘇我の埋め立て地帯にあった日立の飛行機工場をターゲットとした空襲を行った。P51マスタングの機銃掃射により浜野の本行寺は焼け落ち、五井では4人(一人は岩崎の人)が亡くなっている。帝都防衛の拠点とあらば飛行場周辺はきっと繰り返し、激しい空襲に見舞われたであろう。当然、川を挟んで位置する岩崎が無傷でいられるはずはない。無論、五井の町も焼け野原となっていたはず。

 

・埋め立てと工場地帯の形成

写真は故渡辺善雄氏提供

 ※記念碑は岩崎稲荷神社境内にある

 揮毫はなぜか嶋田繁太郎(1883~1976)。嶋田は東條内閣では海軍大臣などを歴任し、敗戦後はA級戦犯となるも東京裁判では死刑を免れて無期懲役の判決を受け、1955年には釈放されている。どうみても漁協とは無縁の人物。実際、五井の大宮神社には五井漁業組合解散記念碑(千葉県知事柴田等揮毫 昭和27年=1952)と農地解放記念の碑(柴田等揮毫 昭和26年=1951)があり、海浜部の漁業組合解散記念碑の多くは当時の県知事か国会議員などが揮毫している。東京出身の嶋田が岩崎の漁場解放記念碑を揮毫するのはどうみても不可解というほかあるまい。

 しかしこの謎は嶋田繁太郎の娘を妻としている始関伊平(今津朝山出身の国会議員で、当時、市原沿岸部の埋め立てに反対する漁業組合の説得と補償金の交渉のために千葉県と漁協との仲介役をはたしていた)の存在によって説明がつきそうである。

 そういえば近くの出津にある八雲神社の忠魂碑の揮毫も嶋田が手掛けている。忠魂碑の揮毫をした人物といえば戦前は乃木希典、大山巌、戦後は鈴木孝雄を代表とする陸軍関係者、靖国神社の宮司、ないしは岸信介、鳩山一郎といった政治家が多い。基本的に海軍関係者は少ないのだが、こちらも始関伊平の影響が考えられよう。

※柴田等(1899~1974):宮崎県出身の農林官僚(京都大学卒)。1947年、旧知の間柄であった川口

 為之助が千葉県知事となると農業再建を掲げた川口に招かれ、副知事となる。1950年、川口の辞任に

 伴う選挙で知事に当選。以後三期務める。農業再生とともに川崎製鉄の誘致を実現させ、京葉工業地

 域の基礎を築く。後に知事となる友納武人を副知事に招く。やがて工業化を急ぐ川島正二郎、水田三

 喜男らが農林官僚出身の柴田を農業派と断じて批判し、対立を深める。柴田が漁民の生活を案じて東

 京湾埋め立ての推進にブレーキをかけると川島らは強く反発。このため1962年、柴田は自由民主党か

 ら除名され、次の知事選には公認されなかった。

  川島らは上総一宮藩の最後の藩主の子加納久朗(彼の先祖久通は8代将軍吉宗の側近として五井の領

 主となった有馬氏倫とともに享保の改革時に重用され、上総一ノ宮に領地を賜っている)を推し、知

 事事に当選させた。しかし加納は1963年2月、任期110日にして急死し、後任は川上紀一となる。