§6市原の郷土史.129.岩崎開村300周年資料③

 

岩崎村~苦闘の歴史~

 岩崎新田は開村後、たびたび水害に遭っている。まず養老川の決壊、それに高潮…まさに東西から挟み撃ちにあい、幾度も水害の往復ビンタを食らい続けた挙句、幕末には江戸湾沿岸の警備体制強化に伴う新たな負担や戊辰戦争の余波をも食らってかなり困窮していた様子が窺える。なお、寛政の改革で知られる松平定信は1800年代に入ると江戸湾防備の任で白河藩士を引き連れて何度も市原郡を訪れ、風の神を祀る嶋穴神社に繰り返し参拝している。

 当時の岩崎の窮状を知るために以下の資料を見てみよう。

 

「乍恐以書付奉願上候」:元治元子年(1864)九月

 御領分市原郡岩崎新田役人共一同奉申上候・・・「去年(1863)の八月、大風雨高潮の際、石垣堤は村人の努力によって辛うじて大破せずに済みました。しかし潮風が田地に吹き付けたため、収穫できない箇所が多く、なおまた川が先月(7月)、二度も洪水となり、中稲、晩稲は水腐れ、その他も「白穂」となってしまいました。お年貢はもちろん、種籾すら無い有様です。村人達が揃って困窮を訴えるので、藩の検分をお願いし、「御用捨て」に預かりたく願書を大庄屋などに差し上げました。数回お願い申し上げたところ、ご理解いただき、願書差し戻しになったことを村人にしっかりと申し聞かせたのですが、年貢米が上納できないため一同困り果て、もう一度嘆願するよう村人に迫られました。村役人も困り果てしかたなく年貢の免除を申し出ることになりました。

 以下、略(「鶴牧藩大庄屋御用留文久二戊年三月ヨリ元治元年四月」千葉精春家文書・・・市原市史資料集近世編4所収 下の資料も同じ出典)

 

「乍恐以書付奉願上候」:慶応四年(1868)四月・・・五井戦争直前

 ・・・御代官江川太郎左衛門様、神奈川宿旅籠より官軍兵食御賄い御用金、高百石につき金一両ずつ相納め候よう仰せつけらる。そのほか助合(=助郷)人足高百石につき一人半勤、日数二十日の間賃銭一日一貫文づつ。相納めるべき旨仰せ付けらる。その後品川宿総督府会計方より官軍兵食御用高百石につき白米三俵、金三両づつ、早々に相納むべく仰せつけらる。そのうえ江川太郎左衛門ほか御一人より加助(=加助郷)差し村御免仰せつけられ候趣お達しこれあり。右は重ね重ね仰せいださるもこれあり、村々一同当惑の折柄、義軍府方数千人ご通行御継ぎ立てについては右人馬差し出しかたがた、もって必至と難渋つかまつり候。前書き二手御用向きおいおいこれあり。以後、何様のご沙汰これあるもはかりがたし。一同心痛つかまつり候。この段、御賢慮なしくだされおき、なにとぞ身元献金の儀は当十二月より三カ年上納。なお高役上納の儀はいずれも身薄かつ出作の者どもに御座候間、年延べ仰せつけられ下し置かれ候様、格別のご憐愍をもってお聞き届けのほど偏に願い上げ候。 以上

  慶応四辰年四月

※岩崎新田の村役人:百姓代 半右衛門  組頭 長助  名主 惣助

 

「五井漁業史」(昭和63年)より

 1889年までは岩崎新田。1727年、江戸の大坂九兵衛、大黒屋市兵衛、下村清兵衛らが町人請負新田として開墾に乗り出し、草刈村の多左衛門らに出資して開墾させ、4年後にほぼ終了。当初、開墾に加わったのは時田、田中、高沢、霜崎、下村、斎賀、鎗田、中村、石川など13人の百姓だと言われる。1727年に領主有馬氏倫が中村次郎右衛門に土地、宅地を下し置かれ、監督のため会所を設けたという。今も小字地名として「会所下」が残っている。中村家が名主職を世襲。

 当初は「清兵衛新田」と呼ばれていた。

 寛政5年(1793)での村高449石余り、家数72軒

 ※玉前は代官見立新田

「上総国町村誌(上巻)」(明治22年)より

 明治22年(1889)に行われる町村の大合併を前にしてまとめられた貴重な統計資料。岩崎新田は戸数93、人口512人で馬5匹、荷舟漁船61隻となっている。

明治24年(1891)には戸数93軒、人口539人、厩4、船72艘

 

 他村との違いをデータから浮かび上がらせてみよう。

 隣の玉前新田は宝暦9年(1759)に代官吉田源之助が付け寄洲を開拓させて成立。当初は「見立新田」(学問的には代官見立新田)と称していた。以下「上総国町村誌」(M.22)によると戸数55軒、人口は310人、荷車2台に荷舟漁船9隻である。岩崎よりも舟数が少なく、農業への依存度が高かったようだ。

 五井町は戸数704軒、人口3478人、牛3頭に馬9頭、荷車71台、人力車17台、荷舟漁船34隻である。さすがに江戸時代から市原郡における陸運(⇒荷車の多さ)、水運の要として繁栄してきただけに、人口は周囲と比べ突出して多い。

 青柳村は戸数220軒、人口1187人、馬3頭、荷車8台、荷舟漁船116隻。こちらは古くから漁業や水運で活躍してきただけあって舟数がかなり多い。今津もほぼ同様のデータであり、この二村は古くから海に生活の糧の多くを得てきたことが分かる。

 こうした近隣の村々と比べて岩崎村はこれといった特色が見られず、半農半漁の寒村といったところであろうか。

 

汐除け堤防大破の件の県令宛嘆願書(明治14年3月)下書:中村家所蔵

 水害は明治維新後も続いていた。

「大正の大津波」(大正6年=1917)

 大正6年10月1日未明、関東の西側を950hPaちかくの強力な台風(東京の最大風速43m)が時速100㎞近くの猛スピードで通過。おりしも満潮が迫っていたため、午前2時半から3時半にかけて記録的な高潮が東京湾沿岸を襲った。関宿では普段よりも5m近く水位が上がるなどして浦安、行徳、船橋、習志野にかけては被害甚大となり、特に浦安は壊滅状態となった。

 ちなみにこの災害で大打撃を受けた行徳の塩田は以後衰退の一途を辿ることになったという。千葉県全体の被害状況は死者行方不明者併せて313人、全壊した家屋7629、流失家屋は528棟に及んだ。「大正の大津波」と呼ぶこともある。

大正6年(1917)、岩崎稲荷神社内に祀られた水神宮の祠