その4.安保体制と基地問題 ①沖縄の戦後と日米関係

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

【琉球サウダーヂ】史跡と戦争 第2話「扁額」

 2021/02/15 RBCチャンネル 【琉球放送】 2:30

 この分野の導入に使えるだろう。敗戦後、トイレの用材として米軍によってくりぬかれたと言われる無惨な姿を留める扁額。乾隆3年(1737)の元号にも注目させたい。戦後の沖縄が置かれた悲惨な立場を象徴する遺産の一つであろう。できればCMをとばして視聴させたい。

日の丸と沖縄 屈折した歴史 ー復帰を知るーVol.1 (OTVライブラリ/2012

 年放送)OTV沖縄テレビ  2023/05/11 5:58

 日の丸に対する沖縄の人々の複雑な思いは一体何に起因するのか、早めに考えさせたい。特に平和憲法下への日本への復帰を熱望してきた沖縄の人々が、復帰後、なぜ日の丸を忌避し始めたのか、その理由を列挙させてから討論に持ち込みたい。

 

・敗戦と戦後の始まり

 1945年7月ポツダム宣言(アメリカ、原子爆弾の実用化に成功)で連合国は日本の無条件降伏を勧告⇒天皇制護持に執着した鈴木貫太郎内閣これを黙殺

 8月6日、広島に原子爆弾投下

   8日、ソ連、対日参戦を表明

   9日、長崎に原子爆弾(プルトニウム型)投下

    連合国側(アメリカ)、天皇制存続の可能性を留保する回答

   15日、終戦の詔勅「朕はここに国体を護持し得て・・・」

    ⇒鈴木内閣総辞職、アメリカ単独による間接統治へ(⇔ドイツ)

    ⇒東久邇宮稔彦(天皇の従姉妹で陸軍大将)内閣成立

     日本軍の武装解除と天皇制の存続が至上命題

 9月2日、日本政府代表重光葵外相と軍部代表梅津美治郎海軍大将がミズーリ号上で 

     降伏文書に調印。当初は天皇が調印する予定だった。

Q.なぜ天皇は国家元首として降伏文書の調印に参加しなかったのか?

A.天皇の権威を占領政策に利用する方向でマッカーサーは動き始めていたため、天皇

 に屈辱を与え、権威を傷つけるような調印式は控えることになった。つまりアメリ

 カ側からすれば天皇制の利用価値の低下を恐れたのであろう。

 

 9月7日、沖縄で降伏文書調印。本土と沖縄、奄美、小笠原等は区別された。本土はマッカーサー率いる国連軍(⇒GHQ)による占領となったが、沖縄などは「唯一の地上戦」を経てアメリカが獲得した戦利品という扱いで、直接的な軍政下に置かれてしまった。なお、敗戦後に焼け野原状態となった沖縄を救ったのはアメリカによる援助以外では海外の沖縄出身者による募金、物資支援(ハワイから550頭ものブタ⇒養豚業復興)が大きかった。

 東久邇宮内閣は治安維持法等の存続を図るなどGHQと対立し、総辞職へ。

 10月⇒幣原喜重郎(親英米派、協調外交)内閣成立

     財閥解体、農地解放、戦争犯罪人の逮捕、公職追放などを推進

     しかし大日本帝国憲法改正には消極的なため総辞職

 1946年5月、吉田茂(東条内閣打倒を計画)内閣成立

 1946年11月3日、日本国憲法公布

  マッカーサー三原則とGHQ草案が骨格⇒「押しつけ憲法」

  ・天皇制の存続と民主化(昭和天皇の続投を含む)

  ・平和主義(⇒日本国憲法第9条「戦争の放棄」)

  ・封建制の廃止(軍国主義の除去、非民主主義的制度・組織の廃止等)

1947年「天皇メッセージ」:昭和天皇、米国による沖縄占領を支持、長期の租借(25年以上)を提案

 ※東京裁判(1946~48)の最中であり、アメリカは天皇の自己保身と解釈。寺崎メモによると、天 

  皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得ら

  れるなどと記している。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治

  の関わりを示す文書として注目を集めた。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のた

  めに沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だっ

  たという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響については、なお論争がある。

米軍による占領・・・サンフランシスコ平和条約による独立回復?実質「占領」継続

日米安全保障体制の成立(1951~)と冷戦(米英vs.ソ連・中国)

※参考記事

 ◎「この部屋の中だけのお話でございます」昭和天皇の“過激な一言”…秘録に残る“戦争の悔恨”と“多

  くの人々への批判” 文春オンライン 河西 秀哉 によるストーリー 2023.8.15

 敗戦に関する昭和天皇の認識が垣間見える極めて貴重な証言。満州事変で結局は関東軍の暴走を追認

 した昭和天皇…しかしそのことには触れず、アメリカが強く日本を批判してくれたならば日米開戦は

 回避できたのでは…とアメリカ側の対応にもっぱら責任を転嫁している。張作霖爆殺事件への処罰が

 生ぬるかった田中義一内閣の時代が陸軍の増長を招き、戦争の拡大につながった大きな分岐点と天皇

 は認識。多少は自己責任に言及してはいるものの、昭和天皇に国家の最高権力者としての自覚と責任

 感がやや欠落していた点は否めないだろう。満州事変の際にも他国頼みの認識が天皇にあったという

 ことに注目したい。ただし、親英米派で海軍穏健派よりであった昭和天皇を軽視し、排除しようとい

 う動きすら陸軍の皇道派将校にはあったことも分かる。当時の昭和天皇が実際に発揮できたリーダー

 シップを過大評価してはなるまい。対米強硬派の伏見宮や秩父宮の存在が昭和天皇の立場をかなり微

 妙なものにしていた点は無視できない。天皇の戦争責任を考える際には昭和天皇の個人的責任に加え

 て天皇制を軸とする明治憲法体制の制度的・組織的欠陥に由来する責任も厳しく追及されねばならな

 い。問題は戦後日本がどの程度、明治憲法体制の制度的・組織的欠陥を是正できたのか、である。

4月28日“屈辱の日” 西銘沖縄担当大臣は

 2022/04/27 【琉球放送】RBC NEWS 1:09

 サンフランシスコ平和条約が沖縄の人々にどう受け止められていたのか、知っておくべきだろう。

沖縄県 国頭村・鹿児島県 与論町 4・28 を忘れない 絆を深めた歴史(沖縄テレ

 ビ)2022/4/28 OTV沖縄テレビ 9:38

予告編「海がつなげた、こころの絆」沖縄祖国復帰50周年記念事業映像

 2022/04/26 Yoron Island Japan 4:42

返還50年 沖縄の基地と核兵器【報道特集】

 TBS NEWS DIG Powered by JNN  2022/06/26 22:47

沖縄に生きて ~91歳の被爆者と「基地の島」~【ドキュメンタリー】

   広島テレビニュース 2023/07/19 

 沖縄にいる被爆者の問題に加えて沖縄と核兵器との関りが良く整理されている。どちらかと言えば沖縄における被爆者問題よりも沖縄における米軍基地と核兵器にかかわる映像の方が授業では利用価値が高いだろう。そこに限定して視聴させると良いかもしれない。

初の沖縄訪問で火炎瓶…「ひめゆりの塔事件」に見る、上皇ご夫婦の“沖縄への思

 い”【皇室アーカイブ】(2018年3月放送)|TBS NEWS DIG

 TBS NEWS DIG Powered by JNN  2023/05/03 3:06

 なぜ、沖縄で火炎瓶を投げられたのか…かつて昭和天皇がアメリカに対して沖縄の支配権を長期にわたって認める発言、いわゆる「沖縄メッセージ」があったことへ言及しないこの報道の姿勢については大きな疑問が湧いてくる。長年にわたるTBSの皇室報道に関するある種の忖度姿勢、偏向ぶりはマスメディア全体に対する不信感を強めるだけであろう。

 ※「沖縄メッセージ」とは、終戦から2年後の1947年9月19日、昭和天皇が側近の寺崎英成を通じ

  て、GHQ外交局長のウィリアム・ジョセフ・シーボルト氏に伝えたとされる昭和天皇の意向。

  1947年当時、天皇がアメリカによる琉球諸島の軍事占領継続を望んでいたことや、沖縄占領は日

  米双方に利益をもたらし、共産主義勢力の増大を懸念する日本国民の賛同も得られるなどと述べて

  いたことが記されていた。この発言は当然のことながら日本への復帰を望む沖縄の、多くの人々の

  気持ちを踏みにじるものであった。加えてそもそも天皇の政治的発言自体、その発言内容の是非を

  問わず、日本国憲法が施行(1947年5月3日施行)されていた1947年9月の段階では象徴天皇制を

  逸脱しており、明らかな憲法違反であった。

報道カメラマンが見た復帰の内実とは【沖縄本土復帰50年企画】(沖縄テレビ) 

 2021/08/27 OTV沖縄テレビ 6:52

 ひめゆり平和記念公園火炎瓶事件の写真撮影等、貴重な場面に立ち会ったカメラマンの証言は重く受け止めたい。

復帰50年…国会爆竹事件と沖縄の今【報道特集】

 TBS NEWS DIG Powered by JNN  2022/05/22 22:49

【沖縄の怒りと苦しみ】「本土はずるい」55年前の言葉は今も 73歳の思い 

 『news every.』18時特集 日テレNEWS  2022/05/21  16:59

【沖縄芸人】基地問題をコントに...タブーを笑いに変える葛藤「いつまでも米軍基

 地があれば」2022/05/16 ABEMAニュース【公式】 9:32

 お笑いを武器に基地問題を風刺する人気劇団の存在は若者の目を基地問題に向けさせるうえで重要な役割を果たしているようだ。重く、暗くなりがちなテーマなだけに貴重な取り組み。ぜひ、授業で視聴させたい。

【復帰50年】沖縄本土復帰に配られる予定だった「記念メダル」はなぜ配られなか

 ったのか(沖縄テレビ)2022/5/12 OTV沖縄テレビ 6:22

Q.なぜ記念メダルは配られなかったのか?

Q.「真の復帰」とはどういうことか?

映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』予告編

 2022/02/16 OTV沖縄テレビ 2:04

 ウチナーの心はなぜヤマトンチューに届かないのか?導入として見せたい。

【インタビュー】平良いずみ監督「リアル沖縄が主題なんですが、まずは沖縄のフ

 ァンになって欲しいという思いで作った映画」/15歳の少女が語る基地問題ドキュ

 メンタリー映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』

 2020/03/27 マガジンサミット 17:15

Q.菜の花さんが沖縄の現状に「ちむぐりさ」を感じる理由は何だろう?

 ※なお、この箇所ではyoutubeの動画で登場する図表の中に授業で利用できるものが多く見ら

  れる。しかしブログでは著作権の観点から図表の紹介は公的な資料を除き、掲載を控えることにし

  ている。授業で利用する際はスクリーンショットで動画の画面の図表を写し取り、トリミングして

  図表を拡大するなどしてからプリントに印刷しておく必要があるだろう。

RBC NEWS「ミサイル観測機「コブラボール」異例の長時間飛行」2022/05/01

 2022/05/01 【琉球放送】RBC NEWS 0:37

Q.コブラボールが嘉手納基地から長時間飛行に飛び立った目的は何?なぜ、この時に

 ミサイル観測が必要とされたのか?

Q.嘉手納基地の主な役割は何?

 

・沖縄と核

日本国民に知られないように交わされた硫黄島「核密約」の具体的な中身

 現代ビジネス 酒井 聡平(北海道新聞記者) によるストーリー 2024.5.30

なぜ小笠原諸島で「核貯蔵」が黙認されてきたのか…まったく不明だった「日米戦

 後史」の謎 現代ビジネス

 酒井 聡平(北海道新聞記者) によるストーリー 2024.5.29

日本本土で実施できない米軍訓練が硫黄島で30年間行われている実態《すさまじい

 爆音は、島全体を揺るがすほど》 現代ビジネス

 酒井 聡平(北海道新聞記者) によるストーリー 2024.6.3

 沖縄返還に先立つ小笠原諸島返還時の日米密約において「核貯蔵」を日本は黙認していたようだ。これが沖縄返還時の密約にも踏襲されたと考えられよう。世界大戦発生の原因の一つとされて秘密外交の禁止が国際社会で叫ばれた戦後に、アメリカは相変わらず対米秘密外交を日本に対して強要していたようだ。硫黄島の問題は沖縄の基地問題の縮図としてあらかじめ触れておくと沖縄の現状への理解が一層深まるに違いない。

【原発と原爆】戦後日本の原子力問題 背後にあったアメリカの核戦略|ABEMAド

 キュメンタリー 2022/08/06 ABEMAニュース【公式】 54:18

 核問題、原発問題への隠蔽体質は民主党政権下でも牢固として変わらず。原子力への反発が強かった1950年代の日本の世論を僅かの間に原子力発電導入賛成に転じさせたのは一体、どういう人々だったのかが、問われるだろう。

有馬哲夫氏:正力松太郎はなぜ日本に原発を持ち込んだのか

 2011/06/26 videonewscom 6:22

阿波根あずさの沖縄観光チャンネル:衝撃的な内容の『沖縄と核』【#4 琉球・沖

 縄本レビュー】(2019/07/19) 13:32

・・・以下「沖縄と核」の記述も参考にポイントを列挙してみる。

・沖縄への核配備

 1953~54年、アメリカ政府(アイゼンハワー大統領)は敵対する中華人民共和国やソ連の脅威に対抗するため、ヨーロッパ及びアジアに核兵器を配備。沖縄ではまず伊江島が核戦略の中心とされ、核爆弾の投下訓練が繰り返されていく。背景には1954年3月のビキニ事件(第五福竜丸事件)による本土での反核運動の高まりがあった(翌1955年8月、広島で第一回原水爆禁止世界大会)。核戦争に備えて本土内に数多く配置されていた海兵隊は次第に沖縄への移動を余儀なくされていった。同時に核兵器も沖縄へ集中配備されていく。1957年にアメリカ文化情報局が日本人に対して行った調査で本土の人達の意識が沖縄への米軍基地配置に反発が小さいことを把握、1950年代後半、沖縄への米軍基地と核兵器の集中が加速されていった。

 ※1967年には沖縄の嘉手納基地中心に1300発ほどの核兵器が配備されていたという。

 沖縄への基地集中は「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強制的な土地の接収を伴い、農地や住居を失った住民の多くは困窮を極め、危険な演習場で薬莢や模擬爆弾を金属資源として回収して売りさばき、生活を凌ぐ者も多かった。中には爆発事故で命を落とす者もいたが、米軍の部隊記録には「・・・伊江島の二人のクズ鉄収集人が自業自得の死を遂げた」という冷淡な記述があるのみであった。

 他方で米軍の高圧的な接収に反発した人々は「島ぐるみ闘争」(1956年がピーク)を引き起こした。こうした事態に米軍は1958年、住民の不満に多少、譲歩することで軍用地の接収を容易にし、かえって沖縄への基地集中を加速させていた。しかもいつの間にか核兵器が本土などから沖縄に移され、沖縄は「核の島」と化していた。

 ※伊江島に関しての視聴覚教材にはRBC NEWS「阿波根昌鴻さんが写した伊江島住民の素顔」

  2022/02/21 【琉球放送】RBC NEWS 1:12、○戦後70年の地平から「伊江島での戦闘」

  2015/05/08 【琉球放送】RBC NEWS 8:26などがある。

隠されていた核事故

 1959.6.19那覇空港に隣接する基地に配備されていた戦術核(都市を壊滅させる攻撃的な戦略核に対して防御的、迎撃的役割を担う核兵器。この戦術核の登場はその使いやすさから核戦争へのハードルを下げ、かえって人類滅亡の恐怖を高めたとも言われる)の核ミサイル(ナイキ・ハーキュリー)が一基、水平の状態で誤射され、海中へ。沖縄ではただの事故として報道。しかし搭載されていた核弾頭は広島に落とされたものとほぼ同じ破壊力があった。もしも安全装置の不具合が重なり、核爆発を誘発すれば那覇市の過半が灰燼に帰す可能性は無きにしも非ず。当時の隊員の中には沖縄の人々に伝える必要があったと回想する者も。

 ※同年同月、現在のうるま市宮森小学校に嘉手納基地の戦闘機が墜落し、児童、住民合わせて18人が

  死亡、220人が負傷している。

・核兵器を楽しんだ子供達

 1967.1~3月読谷村の残波岬で核ミサイル(攻撃型核ミサイル「メースB」で1961年から配備が進んでいた。中距離弾道ミサイルで射程は2400㎞ほど。専ら中国の都市部やソ連のウラジオストクなどに向けられていた)の発射訓練が行われていたが、周辺の子供達は花火大会か航空ショーのような感覚でそれを楽しみにしていた。住民の誰一人としてそれが核ミサイルの発射訓練だったことを知らされていなかった(そもそもアメリカは国外に配置した核兵器の存在を肯定もせず、否定もしないという原則=NCNDを楯にして核兵器の機密保持と威嚇効果を狙っているので、沖縄に限らず、核兵器の情報の多くは基本的には公表されていない)。

 なお、沖縄には読谷村の他に勝連半島のホワイトビーチ、金武村(今は町)、恩納村にもメースBが配備された、各基地に8発のミサイルが備えられ、一発の威力は広島型原爆の50倍以上もあった。1962年のキューバ危機の際にはそれらのミサイルが発射寸前のスタンバイとなり、核ミサイルの一部は嘉手納基地からソ連と中国により近い韓国の基地に運ばれている。核ミサイルを運んだ元米兵はソ連や中国との戦争が始まれば真っ先に沖縄への反撃が集中的に行われ、沖縄が滅ぶことは不可避となると覚悟したとの証言を残している。当時、沖縄は世界最大級の核兵器基地であった。もしも沖縄への核攻撃があればアメリカ軍は自軍の核兵器の奪取を避けるべく、自ら沖縄の主要基地を爆破する作戦であったため、沖縄本島が完全な「焦土」と化してしまう可能性は決して小さくなかっただろう。

・核密約

 「核抜き、本土並み」、「非核三原則を沖縄にも適用」を口にしていた佐藤栄作首相(当時)は裏でアメリカに対して核兵器の撤去をお願いしたものの、国民には極秘で核兵器の再持ち込みは認めていた。2009年、佐藤の遺品整理で密約を記した記録が発見され、密約の存在が確認された。

Q.沖縄の核兵器は本当に撤去されたままなのか?

 A.一旦は撤去されたようだが、「一時的持ち込み」の可能性は否定できない。密約 

  と隠蔽ばかりで真相は藪の中。国民の知る権利は蹂躙されたままである。

Q.本土にも核兵器は保管、持ち込みされていたのでは?

 A.Yes.当然、その後も領海内や領空を核兵器は幾度も持ち込まれていると考える

  べき。残念ながら阿波根氏の見方は甘過ぎると言うほかない。実際、1966年に岩

  国基地で核兵器が保管されていたことが発覚し、1981年のライシャワー発言によ

  って核兵器搭載の艦船が日本の港に寄港していることは明か。 

  ⇒日米合同委員会というラスボス的存在が視野に入っていない。

中華人民共和国成立(1949年)⇒朝鮮戦争(1950~53年)、中ソ接近

サンフランシスコ講和条約(1951年)調印:吉田茂内閣

日米安全保障条約(1951年)・・・旧安保、日米行政協定、吉田・アチソン交換公文

 第1条「平和条約および安保条約の効力が発生すると同時に、米軍を日本国内およ 

  びその周辺に配備する権利を、日本は認め、アメリカは受け入れる」

 交換公文:日本は主権回復後も米軍への支援を義務づけられる

 「占領軍」から「駐留軍」へと名称が変わっただけで実質的占領状態は継続

Q.「米軍基地は日本国内のどこに配備できる?」

A.全土基地方式(日本国内ならどこでもOK)

Q.「その周辺とはどの辺りまでを指している?」

A.当時アメリカが念頭に置いていたのは沖縄、朝鮮半島、台湾、北方領土。

指揮権密約(1952.7.23)吉田首相と米軍司令官マーク・クラーク大将との口頭による密約。同様の密約が2年後にも結ばれている。

 ⇒戦争状態の下では自衛隊はアメリカ軍の指揮下に置かれる

 ⇒シビリアンコントロール(文民統制)の形骸化、日本の属国化

日米合同委員会密約(1953.9.29) 「日本国の当局は、所在地の如何を問わず米軍の財産について、捜索、差し押さえ、または検証をおこなう権利を行使しない」

 日米合同委員会:1952年発足。「日米合同委員会の研究」(吉田敏治 創元社)によるとアメ

  リカ側の言いなりで「密約製造マシーン」とも。本会議にはアメリカ側7人(内6人は軍人)、日本

  側6人(官僚)が出席。会合は月二回程度開かれる。話し合いの内容は国会に報告する義務も外部

  に公表されることも無い米軍が事実上の占領政策を続けるための、日本政府や裁判所を操る、不

  可視の「リモコン装置」的存在。この会議で決められた「密約」は国会や憲法をも上回る効力を持

  つという点で、明治憲法体制下の「憲法外機関」のような存在。国権の最高機関とされた国会が完

  全に無視されている事から日本は「半主権国家」、「半法治国家」に過ぎない。有事の場合には自

  衛他の指揮権が米軍に移るとされる現状の下で日本における「文民統制」もあり得ないし、三権分

  立などあり得ない。そもそも日米合同委員会自体、アメリカ軍のゴリ押しを実現すべく、日本の官

  僚が日本の法体系との矛盾を突かれないよう、表面的な帳尻合わせをしつつ密約を練り上げてい

  く、本質的な意味での対米従属機関に過ぎない・・・ということになる。

   今後、吉田氏や矢部氏の指摘が定説となれば、社会科教科書の記述は大幅に改められる必要があ

  る。カッパ個人としては吉田氏らの指摘でこれまでモヤモヤし続けてきた日本の戦後史の闇にパッ

  と光がさしてきたような感慨を覚えている。と同時に検定教科書への不信感が一層、増してきた。

  皆さんはどちらを信じられるだろう?

 ※参考記事

  ◎「戦後日本」のヤバすぎる現実…「東京上空」に存在する「奇妙な空域」の「衝撃的な正体」

   現代ビジネス 矢部 宏治の意見 2023.07.23

  ◎なぜ日本はこれほど歪んだのか…ヤバすぎる「9つのオキテ」が招いた「日本の悲劇」

   現代ビジネス 矢部 宏治の意見 2023.07.23

  ぜったいに「米軍」にさからえない「日本の悲劇」…なぜ日本はこれほど歪んだのか

   現代ビジネス 矢部 宏治 の意見 2023.7.28

  【速報】「大東亜戦争」と表現のSNS修正 陸自部隊の活動紹介「誤解を招いた」

   FNNプライムオンライン によるストーリー 2024.4.8

   沖縄の米軍基地が少しずつではあるが削減されつつある一方で、自衛隊の施設は急速に増えてき

   ている。自衛隊の体質に問題があるとすればこれは沖縄の新たな基地問題となりうる事象だろ

   う。自衛隊に潜むかもしれない、危険で古い体質から目を逸らせてはいけないことを今回の件は

   改めて気づかせてくれる。授業では「大東亜戦争」という呼称がなぜ問題視されるのか、生徒に

   考えさせることから始めたい。

 

 1953年以降、米軍基地建設のために「銃剣とブルドーザー」・・・強制的な退

  去と土地収用が本格化

・原発推進:「原子力の平和利用」の裏側

第五福竜丸事件(1954年)⇒本土での反米感情高まる⇒米軍基地、核兵器と海兵隊を

 沖縄へ集中させて本土の世論に配慮。しかし日本の核基地化と日本への原子力発電

 導入を推進していたアメリカとしては極めて困難な状況へ。

 そこで・・・1955年、正力松太郎、読売新聞を通じてアメリカの「平和のための原子力」キャンペーンに協力し、衆議院議員に当選。1956年、原子力基本法成立⇒

原子力委員会発足、初代委員長に正力就任。科学技術庁発足、初代長官に正力。原発建設地候補が横須賀から茨城県東海村に変更。1957年、岸信介内閣の国務大臣として原発導入を継続。

 正力は戦時中、大政翼賛会幹部で内閣情報局参与、貴族院議員、小磯内閣顧問等を

歴任し、戦後は岸信介らとA級戦争犯罪容疑者として拘留。しかし1947年にいち早く不起訴となり、釈放されるとたちまち「プロ野球の父」「テレビの父」(日テレ初代社長で、電通にも影響力)「原子力の父」と呼ばれる存在へのし上がる。背後にはCIA(テレビや新聞を通じてアメリカが都合の良いように日本人を洗脳する目的で岸や正力らをエージェントとして利用)がおり、やはりA級犯罪容疑者だった岸信介

児玉誉士夫博報堂に影響力)もCIAのエージェントとして登録されていたらしい。

 アメリカはソ連の急成長(1957年、「スプートニクショック」:ソ連、アメリカに先駆けて人類初の人工衛星打ち上げ成功)に焦り、日本を強力な「反共の砦」とすべく日本の再軍備と沖縄の核基地化を推進すると共に反共産主義キャンペーン、および原発導入推進キャンペーンを戦前から警視庁で活躍し、プロパガンダの得意な正力等に行わせていたと思われる。

 ※1955年9月、嘉手納基地の米兵が現うるま市の6歳の少女を暴行、殺害。

検証】第五福竜丸被ばくはアメリカの人体実験だった?ビキニ事件の真実|

 ABEMAドキュメンタリー 2022/08/13 ABEMAニュース【公式】 39:18

ジラード事件(1957) 群馬県で21歳の米兵が主婦を射殺⇒懲役3年、執行猶予4年

 の判決⇒2週間後には帰国(事実上の無罪判決)

・・・米兵は治外法権の対象

1954~64年にかけて米軍関係者による事件の受理人数は日本全体で48257人にのぼる。その内、

 訴されたのは2147人で全体の約4%に過ぎない。強姦ですら11%しか起訴されず、詐欺・横領・脅

 迫に至っては起訴率0%である。同時期の一般刑法犯の起訴率が45.4%なのでその10分の1にも満た

 ない。

アメリカ戦闘機墜落事故(1959) 宮森小学校に墜落、死者17人、負傷者220人

砂川裁判で東京地裁の判決:「在日米軍基地は日本国憲法第九条に違反」との判決が

 最高裁では「統治行為論」により覆される(1959)。実は事前に田中耕太郎最高裁長官がマッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)と密会し、調整⇒最高裁長官自ら情報漏洩及び「司法の独立」を侵犯。実は日米合同委員会のメンバーが最高裁の判事となる慣例統治行為論は原子力発電の可否を巡る裁判などにも適用され、憲法の形骸化を「憲法の番人」たる最高裁自らの手で進めていた。

安保条約の改訂(1960年) 岸信介内閣:新安保、日米地位協定

 旧安保に無かった在日米軍の日本を守る義務が明記された。しかし実際は基地権密

 約などによって在日米軍に実質的な変化は見られない。

 「日米安全保障条約(旧)=日米安全保障条約(新)+密約

 「日米行政協定=日米地位協定+密約

 という方程式が成り立つようである(「日米合同委員会の研究」吉田敏浩より)。

 同書によるとアメリカ側はこうした条約改訂で日本政府のメンツをたてつつ、日米合同委員会での実務的詰めの作業を通じて「一歩後退、二歩前進」を図ってきたらしい。1968年と1973年、富士演習場が日本に返還された際も、返還は上辺だけで、年270日間は米軍が優先的に使用できるようになっており、しかも演習場の維持管理費等はすべて日本の負担とされたため、実際には米軍のメリットの方が大きいという。とすれば「日本とアメリカとの関係を対等なものにしていく」と言った岸首相の言葉も上辺だけの結果に終わっていると考えて良いだろう。

キューバ危機(1962)以降、核戦略の要に。対中国、ソ連を睨む要衝の地沖縄で人類

 存亡の危機がひそかに進行。

【ガレッジセール・ゴリ】“日本でもアメリカでもない時代の沖縄”を描いたワケ 

 2022/04/29 日テレNEWS 4:55

Q.沖縄の核と基地問題はどうなったか?

 

・本土復帰と核密約

【ガレッジセール・ゴリ】“復帰っ子”から見た沖縄本土復帰50年

 2022/05/16 日テレNEWS 3:24

沖縄復帰50周年 屋良朝苗と復帰運動の歩み(沖縄テレビ)2022/04/07 OTV

 沖縄テレビ 8:29

機密文書から読み解く日米の思惑 沖縄返還交渉【本土復帰50年企画】(沖縄テレ

 ビ)2022/01/07 OTV沖縄テレビ 8:02

 参考文献

  「徹底検証 沖縄密約~新文書から浮かぶ実像~」藤田直央 朝日新聞出版 2023

復帰50周年】不条理が続く沖縄県民 主権はいつ帰ってくるのか(沖縄テレビ)

 2022/04/14 OTV沖縄テレビ 9:14

「へいりの様に踏みにじられた」建議書 沖縄復帰50年、変わらぬ願い

 2021/11/23 毎日新聞 6:53

昭和のノーベル賞 非核三原則・沖縄返還などで日本人初の平和賞 佐藤栄作氏

 (1974年)【映像記録 news archive】2021/10/08 ANNnewsCH 9:23

外務省元高官が法廷で沖縄返還での密約の存在認める(2009/12/01) 

 ANNnewsCH 1:29

「核兵器めぐる日米密約は存在した」岡田外務大臣(10/03/10) 

 ANNnewsCH 1:50

沖縄返還「密約文書」不開示が確定 最高裁 西山元記者らの上告棄却

 2014/07/14 KyodoNews 2:46

【復帰50年】茨の道だった沖縄返還の時代の言論の自由を守るために闘った記者

 (沖縄テレビ)2022/5/17 2022/05/18 OTV沖縄テレビ 8:43

 ここでの導入としてはこの動画が使いやすいだろう。

西山太吉×宮台真司×神保哲生:偽りの沖縄返還を暴いた伝説の記者・西山太吉の遺言【ダイジェスト】 2022/05/14 videonewscom 10:33

衆議院で“復帰50年決議採択 基地負担軽減など政府に求める

 2022/04/28 【琉球放送】RBC NEWS 1:10

【世界一】具志堅用高が語る沖縄と本土「先輩は本土でアパートが借りられなかっ

 た」 2022/05/16 ABEMAニュース【公式】13:01・・但し7:10でカット

 返還後に変わった事とは何か、が生々しく語られているが、変わらなかった事についてはほとんど語られていない。

 

特集「沖縄返還を巡る問題点」

 佐藤栄作は当初、日中国交回復に熱心であり、沖縄返還にそれほどの関心は無かったと言われる。佐藤が沖縄返還に拘るようになったのは師と仰ぐ吉田茂の助言があったようだ。自民党総裁選で争う相手は経済政策で実績のあった池田勇人であり、池田に対抗して佐藤の独自色を出すには失われた国土の返還という愛国心を刺激する沖縄返還こそ、最適のスローガンだと佐藤も考えるようになったらしい(「沖縄50年の憂鬱~新検証・対米返還交渉~」より。以下も同書を参考としている)。

 1965年、池田の病死によって首相になった佐藤は早速、沖縄を訪問して「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております。」と沖縄返還を公約する大胆な宣言を行った。ただし佐藤の狙いは決して沖縄の人々を喜ばすことではなかった。彼が最も恐れていた事態は兄岸信介が苦心して改訂した日米安全保障条約を見直しする1970年にあった。その時、50年安保の時と同様に再び安保闘争が高まり、左翼政党の台頭によってついには政権与党の座から自民党が滑り落ちてしまう・・・これこそが避けなければならぬ最悪の事態。この事態を回避するには国民の支持を集められる沖縄返還協定の締結を安保見直しまでの日程に上らせておく必要があったのである。

 アメリカ側としても反共産主義で親米派からなる佐藤政権は好ましい存在であり、日米安全保障体制の継続は沖縄の施政権維持よりも遙かに重視すべき課題であった。また沖縄での反米感情の高まりに苦慮してきた軍部内でも沖縄基地の移転論が出現していた。すなわちアメリカ側にも沖縄返還を巡って佐藤政権との交渉の余地が生じていたのである。佐藤は専らこの流れに乗って沖縄返還の手柄を挙げつつ、政権の維持を目指していたと言って良いだろう。

 佐藤の狙いに水を差したのはむしろ日本の外務省であった。当時の外務省は情報収集を怠っていたせいかアメリカの変化に気付かず、沖縄返還の可能性を低く見積もっていたらしい。結局、佐藤は返還交渉に後ろ向きだった外務省を見限り、沖縄問題等懇談会を1966年に創設。やがて若泉敬ら、密使を重用することになる。

 1967年時点で沖縄からすべての核兵器を撤去しても軍事的なダメージはない、とマクナマラ国防長官は述べているように、アメリカでは既に沖縄の施政権返還を「核抜き本土並み」という現実的な路線に据えて考えていた。佐藤が「核抜き本土並み」を口にしたのは1969年3月の事であり、これは密使の若泉敬がアメリカで収集した情報に基づき、佐藤が決断したもの。アメリカが率先して動き、それに日本が追随する形で沖縄返還交渉は進んでいたのである。

 佐藤自身は「相手が核を持ったならば、みずから核を持つのは常識的なことである」と1965年12月に発言しているように、根っからの反核論者ではなかった。しかし1969年1月、知日派のニクソンが大統領に就任すると沖縄返還交渉は加速していき、「核抜き本土並み」の返還交渉がアメリカのペースで詰められていく。受け身に立たされた日本は交渉の場でのしたたかな自己主張を欠き、「専守防衛」の原則を揺るがす決定を強いられていく。米軍による沖縄への核の再持ち込みと沖縄基地の自由使用である。

※その結果、自衛隊の役割は専守防衛から国際貢献に重心を移し、とりわけ対米貢献が主たる任務にな

 りつつあるようだ。特に安倍政権下での特定秘密保護法(2013年、武器輸出三原則の撤廃(2014

 年)、集団的自衛権の行使容認(2015年)はいずれもアメリカの要請に従ったものであり、日本は

 対米追従の度合いを強める一方となっていると言えよう。

 他方、佐藤政権は70年安保を見据えて沖縄の早期返還と核兵器の撤去を優先するあまり、核の再持ち込みなどの密約を飲まされてしまったようだ。1969年11月、日米共同声明で「1972年の沖縄核抜き本土並みの返還」が発表され、返還を喜ぶ声にかき消されたかのように70年の安保闘争は60年安保ほどの広がりを持つことは出来ずに収束する中で1970年6月、日米安保条約の自動延長が決定する。

 1971年(昭和46年)6月、沖縄返還協定が調印され、7月にキッシンジャーが訪中して米中間の対立が緩和された。11月17日、屋良朝苗の米軍基地削減を求めた建議書は日の目を見ること無く、返還協定は強行採決され24日、佐藤栄作は最終的に非核三原則を沖縄にも適用させるべきと決断。衆議院で沖縄返還協定の付帯決議として「非核兵器ならびに沖繩米軍基地縮小に関する決議」を議決した。

 1972年5月15日、沖縄、本土復帰。翌年、復帰を記念して沖縄特別国体開会非核三原則を示したことによって1974年(昭和49年)に、佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞した。受賞理由と佐藤の実態との乖離から、ノーベル平和委員会が発行した記念誌の執筆者の一人であるオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル委員会が犯した最大の誤り」とのちに見解を述べた。実際、2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が佐藤氏の遺品整理中、明らかになっている。非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになってもいる。「核の持たず、つくらず」は堅持した上で「核の持ち込み」については日本の領土に配置を認めないが、日本の領海において寄港や通航を認めることを「非核二・五原則」と揶揄することがある。

・国是としての非核三原則の歩み

 1957年(昭和32年)に岸信介(安倍晋三の祖父)内閣総理大臣が「私はこの原子部隊を日本に進駐せしめるというような申し出がありました場合においても、政府としてこれに承諾を与える意思はもっておりません」と国会で答弁し、核兵器を装備した部隊の日本駐留を拒否する答弁を行った。

 核の持ち込みについて、日本政府は以下のような表明を行っていた。

・岸・ハーター交換公文において、日本への核の持込には事前協議が必要。

・事前協議が行われたことは一度もないので、核が持ち込まれたことも無い。

・事前協議があれば核持ち込みを拒否する。

 この見解は、1960年に旧安保条約から新安保条約へと改訂した際に、横路節雄の質問に対して岸内閣の防衛庁長官であった赤城宗徳が行った答弁から一貫して続いていた。1967年(昭和42年)に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。それ以降の歴代内閣は三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も遵守を表明していた。

 アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としてきたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られていたかどうかは疑わしい点が多い(事前協議を行えば拒否されるのは明白だからそれさえもしない可能性がある)。日本政府は自国民にもあからさまなウソを堂々と繰り返し公言してきたということになろう。

 佐藤の密使を務めたとされる若泉敬が「1969年(昭和44年)11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と1994年に発表した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で証言した。

※若泉 敬(わかいずみ けい:1930年3月29日 –~1996年7月27日)は、日本の国際政治学者。沖縄返

 還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たしたとされる人物。「核抜き・本土並み

 返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年(昭和44年)9月30日、国家安全保障担

 当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーより、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再

 び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された(なお、密使

 としての活動で、若泉はコードネーム「ヨシダ」、キッシンジャーは「ジョーンズ」を用いた)。同

 年11月10日 - 11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を

 得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、11月21日に発せられた佐藤=ニクソン共

 同声明で、3年後の沖縄返還が決定されることとなった。

  なお若泉は極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)に

 おいて、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。同

 書によれば、佐藤とニクソンは、ウエストウイング・オーバルルーム隣の「書斎」で、二人きりにな

 って署名したという。この覚書は佐藤により持ち去られ、のち2009年(平成21年)に本人宅で発見

 された。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の上梓後、6月23日付で沖縄県知事・大田昌秀宛に「歴史

 に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁します」とする遺書

 を送り、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。

  その後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996

 年(平成8年)7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということ

 になっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。若泉の自殺の報を聞いた大田昌秀は「核密

 約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』

 を果たした。人間としては信頼できます」とコメントしている。

沖縄返還交渉:アメリカ政府と日本政府との裏取引・・・核密約

   「持ち込ませず」に疑問符、

 新安保条約の自動延長と沖縄・70年安保と学園紛争の敗北

  ⇒学校教育から政治色一掃(→政治学習の空洞化=主権者意識の後退)

   国防や安保を論ずることのタブー化→低投票率

  →組織票の比重大→自由民主党有利

  ⇒自国の防衛問題をアメリカと沖縄に丸投げ→安全保障体制の見直しが進まず、 

   防衛問題は他人事へ、沖縄の基地問題の不可視化、他人事化

安保闘争・反米闘争の衰退→なし崩し的な再軍備

  ⇒「日本における米国の好感度調査」(時事通信)によると

   1970年代の前半24%→1970年代の後半30%

    →1980年代前半39%→1990年代前半43%

    →2000年47%・・・アメリカの好感度は順調に上昇

Q.安保タダ乗り論についてどう思うか?

Q.本土にも核兵器は持ち込まれてきたのではあるまいか?

Q.日米安全保障条約を見直すべきか?

Q.日米地位協定を見直すべきか?

Q.自衛のための先制攻撃は可能か?

Q.憲法第9条の改正は必要か?

Q.非核三原則を見直すべきか?

※参考記事

「マイノリティーは存在しない」から四半世紀たっても…国連の勧告を突っぱね続

 ける日本 「今こそ学び直して」東京新聞 2024.6.17

 一体いつになったら日本は「人権後進国」の汚名を晴らせるのか。アイヌや沖縄への偏見、差別がどこに由来するのか、考えさせたい。