その5.②金八先生と脱学校論

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

本論

 私が教師となったのは1985年のことである。そこでまずは1970年代、1980年代を賑わしていた学校教育に関する教師、元教師の言説を取り上げてみよう。まず数多くの著作がある村田栄一氏(1935~2012)の活躍がこの時期は目立つ。村田氏は1958年から1980年まで川崎市立小学校勤務。退職後はしばらく著述活動に励んでいたが1996年から2004年まで国学院大学講師(教職課程/教育原理)であった。組合活動に熱心な左翼系言論人として反権力の立場から盛んに学校教育について発言し、かつてフレネ教育を推奨していたことを覚えている。

現在、私が所有している村田栄一氏の本は以下の通りである。

 ・「戦後教育論~国民教育批判の思想と主体~」(社会評論社 1970)

 ・「学級通信ガリバー」(社会評論社 1973)

 ・「飛べない教室」(田畑書店 1977)

 ・「じゃんけん党教育論」(社会評論社 1978)

 ・「戦後教育の現在」(教育出版社 1981)

 ・「生きているこども共和国~ドンキホーテの末裔たち~」(風媒社 1981)

 ・「教室のドンキホーテ~ぼくの戦後教育誌~」(筑摩書房 1982)

 里見実氏との共著「もう一つの学校へ向けて」(筑摩書房 1986)や村田氏が編集に加わった「教育実践の記録1 ことば教育」(筑摩書房 1981)もある。村田氏の著作は大学時代に課題として出されたことがあったため、就職後も読み続けていた。当時は「カバゴン」こと阿部進氏(1930~2017:やはり川崎市立小学校に勤務後、教育評論を手がける。村田氏の大学での先輩)や「山びこ学校」((1956)で知られる無着成恭氏(1927~)、灰谷健次郎氏(1934~2006:「兎の眼」、「太陽の子」などで知られる児童文学者)ら、なぜか小学校教師の経歴を持つ人物がマスコミなどにもよく登場していた時代である。

 村田氏の系列の本では他に中学校教師の相川忠亮氏(1934~2011)の「きまぐれ月報学級通信上・下」(社会評論社 1975)や同じく中学校教師の川津皓二氏(1935~)の「日常と幻視~学校空間から~」(社会評論社 1975)がある。彼らの影響もあったのか、当時は学級通信を発行する教師が私の周囲にもかなり多かったような気がする。

 先行する1970年代は校内暴力が荒れ狂った時代であったため、運動部の指導に熱心な体育会系熱血教師が学校の規律回復上の観点からもてはやされていた。実際、「校内暴力事例の総合的研究」(学事出版 1984)や「校内暴力問題講演集」(学事出版 1984)によると校内暴力で荒れた中学校の多くが秩序の回復を最優先して運動部の指導に熱心で強めの生徒指導が出来る教師を他校から数多く集めるという人事方策を取っている。

 しかしその管理主義的指導への反発からか、テレビドラマ「金八先生」(1979~2011)の影響も加わり、生徒に粘り強く、優しく寄り添う非体育会系タイプの教師が世間では次第に理想化されていく。1981年のテレビドラマ「父母の誤算」(原作は若林繁太「教育は死なず」1978)も金八先生と同じく、小山内美江子氏を脚本家として用い、金八に近い教師像を描いている。村田氏らはこの金八路線にやや近い立場と言えようか。

※参考記事

 ○金八先生以後に生じた「学校=悪という構図」「学校が良いサービスを提供して当たり前という考

      え方」…工藤勇一校長が指摘する<近年の教育現場が抱える問題点>とは 

      婦人公論.jp 工藤勇一 によるストーリー 2024.2.19

 

 ちなみに私は大学の授業で出された夏休みの課題で灰谷健次郎氏の「兎の眼」(1974)や「太陽の子」(1978)を読み、教師の道を選ぶことになった。こうした経緯から村田氏のものに加えて就職後もしばらくは灰谷氏や上野瞭氏、山中恒氏、あるいはミハエル・エンデといった児童文学作家の作品を読み続けていた。そしてもちろん灰谷氏らも金八先生と同様、徹底して子供の目線に立ち、子供に寄り添う姿勢を重視した作家であったと言えよう。

 もちろん私は他の同世代の教師と同様に國分一太郎(1911~1985)氏、斎藤喜博(1911~1981)氏、特に教育困難校での授業実践で知られる林竹二氏(1906~1985)の「教育の再生を求めて 湊川でおこったこと」(筑摩書房 1977)、「教育亡国」(筑摩書房 1983)などからも授業のあり方に関して多少とも影響を受けてはいる。加えてベテラン教師となった段階で読んだ大村はま(1906~2005)氏による国語の授業を論じた「教えることの復権」(苅谷剛彦・夏子 ちくま新書 2003)は、大村氏による単元学習を軸とした教科書を独自の視点から徹底的に「使い倒す」独特の授業手法が非常に興味深かった。

 國分氏や斎藤氏、大村氏は無着氏、阿部氏、村田氏らの先行世代に属する先輩教師でもあり、1980年代の教師にとってはまだまだ影響力の大きな存在であった。他方、学者の林氏は当時、猛威をふるっていた校内暴力との絡みもあってか、マスコミから大きな注目を集めていた教育哲学者である。彼は学者にありがちな「机上の空論」を潔しとしない、優れた授業実践家でもあった。また大村はま氏の著作集は当時、どの学校図書館でも一際、目立つ存在であり続けていた。確かに彼らの世代の影響を無視しては1980年代の教育論を語ることが出来ないだろう。

 とは言え、特に林氏の授業実践に関しては早くから学校現場からの根強い反発があった事は事実である。私自身、教職に就いてからはこの二人の感嘆すべき実践について「金八先生」に対するのと同様の違和感も同時に抱いてきた。金八先生を含め、彼らは運動部の指導をしていないではないか・・・多忙な学校教師にとって明らかに実践不可能なまでに難易度の高い、準備に骨の折れる教育実践をモデルとして示されても、現場は困惑するだけであろう。難易度の高すぎる授業を普通の教師に要求することはむしろ学校のブラック化を推し進めることに他ならない。これらの希有な実践が世間で賛美されればされるほど却って教師達の無力感を深めはしないのか。そうした疑問が止めどなく湧いてくるような学校現場の過酷な労働環境が私の勤め始めた1980年代には既に広がり始めていたのである。もちろん今の学校の絶望的な状況と比べれば当時はまだまだ牧歌的レベルではあったが・・・

 もう一つ、私にとって当時、見逃せなかった論考は児童読み物作家と自称していた山中恒氏(1931~)の「ボクラ少国民シリーズ」(辺境者 全5巻、補巻1、別冊1 1974~1982)など、戦時中の学校教育を論じた著作であった。「疑問だらけの中学教科書」(森本真章・滝原俊彦 ライフ社 1981)が世情を賑わせ、中曽根内閣によって臨時教育審議会が設置されてついに戦後教育の流れが大きく変えられようとしていた1980年代当時、教育方法論、授業論以上に教育内容それ自体の是非を強く問う傾向が家永教科書裁判の経過(1965~1997)と共にしぶとく学校教育の底流に残存していたように記憶している。

 戦時中の国家総動員体制下、教育者や学者、文化人がどのように戦争に加担していたのか・・・そして敗戦後、彼らは戦時中の言動をどのように反省し、戦後はどのように振る舞ってきたのか、吉本隆明氏の「叙情の論理」(未来社 1963)をはじめ、数多くの研究者がこのテーマに関心を持ち、これに関連する多くの著作が発表されてきた。ある意味では「疑問だらけの中学教科書」もそうした著作の一つと言えるだろう。森本氏とは対極にあって、個人的に最も注目したのが山中氏の「ボクラ少国民シリーズ」であった。国民学校を「少国民」として体験した山中氏が自ら精力的に資料収集に当たり、膨大な資料を元に国民学校における教育の実相を解き明かそうとした労作である。

 他には山中氏の「子ども達の太平洋戦争」(岩波新書 1986)、中内敏夫氏の「軍国美談と教科書」(岩波新書 1988)や櫻本富雄氏の「日の丸は見ていた」(明石書店 1982)、長浜功氏の「国民学校の研究~皇民化教育の実証的解明~」(明石書店 1985)、同「教育の戦争責任」(明石書店 1984)なども同様の関心に基づいた著作であった。これらの著作を通じて文学者や教育者の多くが戦時中は熱烈に戦争を賛美しておきながら、戦後はほとんど反省することなく、熱心な民主主義者、平和主義者になりすまして戦後も活躍を続けている事に気付かされた。中には公職追放を受けた人々もいたが、追放はたちまち解除され、かつての政治家、財界人、特高、右翼、暴力団も含めて多くの指導者層が戦後も同様に日本の指導的な立場に復帰しているのである。敗戦によって教科書自体は国定教科書から「墨塗教科書」を経て検定教科書に変わったものの、とりわけ社会科教科書の内容面での信頼性、妥当性には未だに大きな問題が残り続けていると私は感じている。

※最近の著作では「帝国日本のプロパガンダ~戦争を煽った宣伝と報道~」(貴志俊

 彦 中公新書 2022)や「大東亜共栄圏のクールジャパン~協働する文化工作~」

 (大塚英志 集英社新書 2022)も興味深かった。

 

 大学院の授業では戦後の学校教育の歩みを辿ることをテーマにした門脇先生の授業があり、大田堯(1918~2018)編「戦後日本教育史」(岩波書店 1978)が主なテキストであった。憲法などの法制面の字面だけを見れば戦前と戦後の間には確かに大きな断絶と変化があった。しかしその変化を担った人々の顔ぶれはさほど変化していなかった。この途絶えることのなかった戦前からの人脈がアメリカ軍の占領下、戦後日本の形成期において決定的とも言えるような役割を果たしていた事の持つ意味は現在においても決して小さくあるまい。

 

 学者からの発信も見てみよう。1980年代、教育社会学における学校教育研究は日本では東大が中心的役割を果たしており、清水義弘(1917~2007)氏、天野郁夫(1936~)氏や藤田英典(1944~)氏、久冨善之氏(1946~)らが大きな存在であった。彼らの門下生である苅谷剛彦氏、耳塚寛明氏、岩見和彦氏らも盛んに研究論文を発表していた時代である。当時は社会学理論の一つの柱となってきたタルコット・パーソンズ(1902~1979)の構造機能分析を手法とする社会システム理論が批判され始め、「パラダイム転換」が世に叫ばれていた。イヴァン・イリイチらの脱学校化社会論、脱専門家社会論もそうした風潮の中で注目を集めていたのである。

 私は大学時代、教育社会学のゼミを受講しており、教育社会学で論文を書くために専ら苅谷氏らの論文が掲載されていた東大の研究紀要と自分の恩師門脇厚司先生の研究に注目していた。このため教職に就いてからもしばらくの間は、教育社会学の学会員ではないにもかかわらず東洋館出版の日本教育社会学会編「教育社会学研究」を定期的に購入し、教職の仕事に日々忙殺されながらも教育社会学の研究動向の把握に努めようとしていた。

 幸い私の初任校では社会科教員が月に一回、社会科会議の時間を割いて自分の好きなテーマを選び、社会科内で発表するという自主的研修が行われていた。その準備を兼ねて大学時代の学習を続ける事が出来ていたわけである。さらに年に一回、宿泊を伴う社会科の研修旅行が行われており、足尾銅山や東海村原子力発電所、長野の松代大本営跡などで貴重な見学が経験できるなど、若手教師の成長には欠かせない職場での自主的で有意義な取り組みが幾つか存在していた。

 ただし学校現場でこのような素晴らしい取り組みが行われていたのは残念ながら初任校のみであり、二校目などは社会科準備室がただの教科書や資料集等の書庫と化していて誰も常駐しておらず、研修も日帰りだけの貧弱なものに過ぎなかった。部活の指導や進路指導の仕事があった上に通勤時間も長かったため、帰り際に書店に立ち寄ることすらほとんど出来なくなり、この二校目でたちまち「教育社会学研究」の購入がほぼ途絶えてしまった。また三校目は教育困難校ということもあって時間的、体力的、精神的余裕が無くなり、思ったような自主研修を行えない状況が続いた。しかし毎年秋には僅かな数の有志で京都、奈良旅行を実施していたのは当時、日本史担当者としてせめてもの救いだった。また社会科有志で社会科教室を舞台に文化祭での展示を行える機会も僅かながらあった点は教師による自主的な取り組みの伝統が僅かながら学校に生き残っていた証しではあるだろう。

 恐ろしい事に四校目以降(およそ20年前以降)、そうした教科単位での自主的試みは皆無となってしまった。これはもっぱら県教委が国の施策に基づき、初任研(1989年導入)や経験者研(2003年導入)、管理職の指導による校内研修(四校目の学校では何と年に20回以上!)などを次から次へと設置、拡充してみっちりと日程を組んでしまったことにより、現場での自主研修の機会が奪われてしまったからである。なお私の学校教育に関する読書習慣もこの四校目でほぼ完全に断たれてしまった。

 県教委や管理職が実施する校外、校内での強制的研修が授業力向上に繋がる有意義なものであるならばまだしも、その多くは現場感覚からズレまくった完全にトンチンカンな内容であり、総花的で時間の無駄と言えるものが多かった。現在の若手教師の研修はそうした官製研修ばかりとなってしまったため、特に勤務校の実情に沿った授業に関わる研修の薄さは教師の中途退職や精神疾患の増大などの問題を生み出す大きな原因の一つにさえなっていると私は考える。

 こうして生徒に寄り添う時間や楽しく分かりやすい授業を創り出すための現場での創意工夫のチャンスを教師達から根こそぎ奪い去っておきながら自らの責任を棚上げし、学校の不祥事を他人事のように騒ぎ立てて「不適格教師」のレッテル貼りに専念する、極めて冷酷無比な教育行政がこの20年の間に確立してきたと言えるのではないか。肝心の授業を蔑ろにして生徒指導や進路指導、部活指導に現を抜かす学校のブラックな体質は上からのお粗末な官製研修の一方的な押しつけによるところが決して小さくはないと考えるがいかがだろう。

 

 さて学者による発信の中で私が特に魅了されたのは久冨氏の著作の随所に見られた、現場の教師に寄り添うようなきめ細やかで温かい教育者の視点であった。教育社会学の立場から久冨氏(「教員文化の社会学的研究」多賀出版 1990年)は教員の置かれている、傷つきやすい不安定な立場をこう説明している。「学校という所は、少数ないし一人の教員が、多数の生徒たちを相手にし、彼らがもともと必ずしも好んでいない学習活動へと導かねばならない。その状況が教員の特別の権威と、教員の生徒に対する統制を不可避にしている。したがって、ディシプリン(統制の生徒への内面化過程)に失敗すると、教授活動においても失敗するだけでなく、父母・住民からの信頼を決定的に失う原因となる。…その意味では、教員がディシプリンに特別の関心を示すのは、その仕事の性格に起因する当然のことであり、そこに教員たちの苦心があり、苦悩もあるのだ・・・」

 すなわち学校現場でいたずらにマンツーマン的対応を前提とした「カウンセリング・マインド」(20年ほど前の学校では一世を風靡した流行語だった)を唱えることは教師の依って立つ基盤を自ら突き崩す危険性を孕んでいたのである。久冨氏のこうした学校現場への深い洞察と共感的理解は教育困難校で苦悩する教師にとってまさに得がたい魅力であった。そして氏の著書の多くが実は編著であるのだが、これは若手研究者に発表の機会を出来るだけ多く与えることに尽くしてきた、優れた教育者としての久冨氏の人柄が偲ばれる証左だ…と当時の私は感嘆のまなざしで捉えていた。

 久冨氏に加え、天野氏の後継者と目された苅谷氏の広い視野から下される鋭い洞察力にも私は圧倒されていた。もちろん恩師門脇厚司先生の著作は主に高校教育を対象としていたため私にとって必要不可欠なものであった。以下、この3人が執筆された、私が所有する著書を一部だけ紹介してみる。おそらく本のテーマからだけでも一定の傾向、時代の風潮が伝わると思う。

 なお以下に紹介した著作(特に21世紀になってから出版された本)を私はすべて読了してはいない。その事情は既に記したとおりである。

久冨善之(1946~)氏

 編著「教員文化の社会学的研究<普及版>」(多賀出版 1990)」

 編著「豊かさの底辺に生きる~学校システムと弱者の再生産~」(青木書店

   1993)

 「競争の教育~なぜ受験競争はかくも激化するのか~」(労働旬報社 1993)

 編著「日本の教師文化」(稲垣忠彦氏との共編 東京大学出版会 1994)

 編著「希望をつむぐ学力」(田中孝彦氏との共編 明石書店 2005)

 編著「教師の専門性とアイデンティティ~教育改革時代の国際比較調査と国際シン

   ポジウムから~」(勁草書房 2008)

苅谷剛彦(1955~)氏

 「学校・職業・選抜の社会学~高卒就職の日本的メカニズム~」(東京大学出版会 

   1991)

 「大衆教育社会のゆくえ」(中公新書 1995)

 「学校って何だろう」(講談社 1998)

 「教育改革の幻想」(ちくま新書 2002)

 編著「学力の社会学~調査が示す学力の変化と学習の課題~」(志水宏吉氏との共

   編 岩波書店 2004)

 編著「教員評価」(諸田裕子、妹尾渉、金子真理子氏との共著 岩波ブックレット 

   2009)

 編著「教員評価の社会学」(金子真理子氏との共編 岩波書店 2010)

 「コロナ後の教育へ~オックスフォードからの提唱~」(中公新書ラクレ 2020)

 「コロナ後の教育へ・・・」で日本の教育行政に対し「・・・エセ演繹型思考と法治主義をセット

   にしたアプローチでは、設計段階での欠点や欠陥を見過ごし、思った成果を上げられるかどうか

   を不明にしたままでも制度改革が出来てしまう。さまざまな副作用についても思慮の外に置かれ

   る」(p.63)との指摘は実に鋭い。立て続けに断行されてきた教育改革の発想の根幹を揺さぶる

   ものであろう。また政治家や官僚側が常に自分達の謬見や過ちを棚に上げて学校を一方的に断罪

   し、改革と称する学校現場の破壊的政策をひたすら推進してきたこれまでの経緯の背景が見えて

   くる点で教師必読の書と考える。

門脇厚司(1940~)氏

 「現代学校論~生徒と教師の社会学~」(亜紀書房 1982)

 編著「高校教育の社会学~教育を蝕むみえざるメカニズムの解明~」(陣内靖彦氏

   との共編 東信堂 1992)

 編著「高等学校の社会史~新制高校の予期せぬ帰結~」(飯田浩之氏との共編 東

   信堂 1992)

 「子供と若者の異界」(東洋館出版 1992)

 「異界を生きる少年・少女」(東洋館出版 1995)

 「大人の条件~社会力を問う~」(佐高信氏との対談 岩波書店 2001)

 「学校の社会力~チカラのある子どもの育て方~」(朝日新聞社 2002)

 

 以上、挙げた本の題名からだけでも1990年代以降、日本の学校がお上からの息つく暇すら与えない「~改革」の洗礼を浴び続け、徐々に疲弊していった様が思い浮かぶ。学校教育の行き詰まりの原因を不適格教師の存在と決めつけて管理職による教員評価を強化し、免許更新制を導入して不適格者の排除を図る、官製研修を増やして現場の創意工夫を根絶やしにする傍らで「教師の質向上を図る・・・」とのご託宣。これらすべては教育行政の失敗を現場の教師へ一方的に転嫁する傍ら、肝心の改革(教師の仕事の精選、教科書検定制度の見直し、高校教師養成教育の見直し等)をサボり続けた行政側の欺瞞と怠慢の歴史の反映であると考えるがいかがだろう。

 なお私は他に藤田英典氏、天野郁夫氏、柴野昌山氏、竹内洋氏、今津孝次郎氏、岩見和彦氏、岩木英夫氏、志水宏吉氏、広田照幸氏、古賀正義氏、柳治男氏、油布佐和子氏、本田由紀氏、教育社会学者以外では中内敏夫氏、佐藤学氏、諸冨祥彦氏、小林正幸氏などの著作も読んでみている。

 外部からの発信という点ではジャーナリストの役割も大きい。林雅行(1953~)氏の「天皇を愛する子どもたち」(青木書店 1987)、鎌田慧(1938~)氏の「生きるための学校」(岩波書店同時代ライブラリー 1995)及び「「教育工場の子どもたち」(講談社文庫 1986)、吉岡忍(1948~)氏の「ルポ 学校の力」(朝日文庫 1992)、「ルポ 教師の休日」(朝日文庫 1992)、「街の夢 学校の力」(日本書籍 1981)、日垣隆(1958~)氏の「ルポ 高校って何だ」(岩波書店1992)、最近では朝比奈なを氏の「教員という仕事~なぜブラック化したのか~」(朝日新書 2020)など、いずれも大いに参考となった。

 

 現場からの発信に戻ろう。1980年代の後半以降、都内の定時制高校教師であった佐々木賢(1933~)氏の本を読むようになる。私は初任校や二校目の高校は中堅どころの進学校であったが、実は大学時代の恩師が教育困難校の調査をしていて神奈川県の高校調査にお供したことがあり、学校改革を論文のテーマとしたことから、困難校の実態には強い関心を抱いてきた。三校目の転勤先に敢えて困難校を希望したのも恩師や佐々木氏の影響が決定的に大きい。

 1980年代は山本哲士氏らの推奨でイヴァン・イリイチの脱学校化社会論がブームとなっていて私もその系列の本をそれなりに読んでいたが、佐々木氏もイリイチの影響を受けた言説を展開していた一人である。ただし山本氏の硬直した難解な言葉遣いとは違って佐々木氏は教師としての経験を踏まえた具体的で分かりやすい内容であり、その文章はたいへん魅力的であった。

 イリイチは学校や教師の機能の肥大化を警告し、それらの機能を縮小させて国家や学校から民衆の手に学びの主権を取り戻すことを主張していた。佐々木氏も同じ主張に属し、同時にこれまで賛美されてきた体育会系熱血教師像への批判をも試みたと考える。

 以下、私が所有する佐々木賢氏の著作を列挙しておこう。

 ・「学校はもうダメなのか~学校内格差と非行問題~」(三一書房 1981)

 ・「学校を疑う~学校化社会と生徒たち~」(三一書房 1984)

 ・「当節定時制高校事情」(有斐閣 1987)

 ・「怠学の研究~新資格社会と若者たち~」(三・一書房 1991)

 ・「商品化された教育~先生も生徒も困っている~」(青土社 2009)

 他に松田博公(1945~:ジャーナリスト)氏との共著で「教育という謎~消費社会の文化変容~」(北斗出版 1992)と「果てしない教育?~教育を超える対話~」(北斗出版 1986)の二冊がある。

 

 1980年代後半から佐々木氏とは異なる、やや保守的な立場から精力的に発言してきたのが「プロ教師の会」である。中心人物は埼玉県立高校の教師だった諏訪哲二(1941~)氏と埼玉県川越市立中学校教師だった河上亮一(1943~)氏。教職員組合が学校をダメにしてきたとして左派を攻撃し、学校経営の現実的観点から秩序回復のためには厳しい指導も有り、とする主張を展開した。主に別冊宝島で「プロ教師の会」の特集が相次いで組まれ、中曽根内閣の臨時教育審議会の方針に一部沿いつつ左派の平等主義が持つ欠陥を鋭く指摘していた。

 彼らに関して、立場によってはただの保守反動であると簡単に切り捨ててしまう向きがあるかもしれない。しかし彼らの多くは校内暴力が吹き荒れた、疾風怒濤の時代を目の当たりにしてきた。その中で生徒集団の狂騒的な集団心理の恐ろしさ、御しがたさを痛感してきたはずである。一人の教師が40人を超える生徒達を狭い教室に閉じ込め、好きでもない勉強を長時間強いることの難しさを少しでも分かっている教師ならば、彼らの主張にはそれなりに共感できる側面があったはず。とりわけ心理的に不安定となりがちな思春期の中学生集団を相手にする難しさは時に想像を絶する瞬間があるものだ。

 観念的な理想論、教条主義的なイデオロギーに寄りかかった立場からのプロ教師の会批判はまったくの見当外れであると私は考える。40人以上の集団を相手にする場合、何らかの政治的権力が発生しないわけにはいくまい。経営論的観点も必要とされるに違いない。それらをリアルに感じて「管理」を武器に秩序回復を第一と定め、普通の教師と生徒達を校内暴力の嵐から救い出そうとした試みこそがプロ教師の会の目指したものではなかったか、と思う。

 ※ちなみに諏訪哲二氏は教育社会学研究NO.50「教育社会学のパラダイム展開」(東洋館出版

  1992)の「Ⅲ転換期の教師モデル」(P.421~423)で報告者の一人として発表している。

 

 組合員であった私がプロ教師の会からの発信を数多く、重く受け止めようとしてきたのは以上のような理由からである。加えて彼らの多くは管理の必要性を主張したが、行き過ぎた管理主義には基本的に反対していたという点も忘れてはなるまい。

 以下、私が所有する別冊宝島の特集、諏訪氏と河上氏の著作、及びプロ教師の会の喜入克氏の著作を列挙してみる。

別冊宝島の特集

 ・78号「ザ・中学教師~プロ教師へのステップ編~」(JICC出版局 1988)

 ・95号「ザ・中学教師~親を粉砕するやり方編~」(略 1989)

 ・108号「ザ・中学教師~ダメ教師殲滅作戦編~」(略 1990)

 ・129号「ザ・中学教師~子どもが変だ!~」(略 1991)

 ・プロ教師読本Vol.2「プロ教師の学校大論争!」(略 1993)

 ・プロ教師読本vol.3「プロ教師の教育改革総点検!」(略 1995)

  他に洋泉社MOOKプロ教師・読本Vol.4「プロ教師のしつけ論」(洋泉社 

  1997)

諏訪哲二氏の著作

 ・「反動的!~学校、この民主主義パラダイス~」(JICC出版局 1990)

 ・「日の丸」(JICC出版局 1991)

 ・「学校の終わり」(宝島社 1993)

 ・「平等主義が学校を殺した」(洋泉社 1997)

 ・「ただの教師に何ができるか」(洋泉社 1998)

 ・「なぜ勉強させるのか?~教育再生を根本から考える~」(光文社 2007)

河上亮一氏の著作

 ・「プロ教師の道~豊かな管理教育をつくるために~」(JICC出版局 1991)

 ・「プロ教師の生き方~学校バッシングに負けない極意と指針」(洋泉社 1996)

 ・「学校崩壊」(草思社 1999)

喜入克(1963~都立高校教師:)氏の著作

 ・「高校が崩壊する」(草思社 1999)

 ・「教師の仕事がブラック化する本当の理由」(草思社 2021)

 ※喜入氏の「教師の仕事・・・」には一部見当外れと思われる指摘があり、学校が変わるべき本質的

  課題を少しばかり見誤っているように思える。教育が商品化され教師が万能ロボットの「ドラえも

  ん」と化している、官僚制が肥大化し、強権的となった教育行政が「スクラップアンドビルド」の

  原則から外れて際限なく「ビルドアンドビルド」を繰り返すようになり、学校現場を極度に疲弊さ

  せている・・・といった指摘には大いに共感するが、従来の「学校という枠」をアプリオリに前提

  とする傾向が見られるのは残念。今、学校側が見直すべきポイントの一つは旧態依然の「学校とい

  う枠」であり、知識詰め込みと一斉講義形式に偏る授業方法であると思うが、いかがか。同じプロ

  教師の会では諏訪氏、河上氏の著作の方がより説得力があると私は感じている。

参考記事

 日本の教育を縛る「金八先生・泣き虫先生」モデル ーー教師のブラック環境が消

  えない「意外な難点」

  文春オンライン 永島 孝嗣 によるストーリー  2023.12.30