13.観音菩薩と霊場

 

 

 観音菩薩は地蔵菩薩と並んで最も身近で作例の多い仏像である。両者とも慈悲深く、無知無明の底で苦悩する衆生を救済するために自在に姿を変えて六道(天道、人道、畜生道、餓鬼道、修羅道、地獄道)の随所に顕現すると言われた。従って地蔵には六地蔵があるように観音にも六観音が存在する。そもそも密教では仏は救済相手の状況に応じて自在に姿形を変化させるという考えがあり、観音の場合にはお経に三十三の姿に変化(へんげ)すると説かれていた(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五「観音経」)。それ故、各地に設けられた観音霊場、札所(霊場を「札所」とも称するのはかつて巡礼者が観音との結縁を願ってお堂に自分の名と生国を記した木札、銅板を打ち付けたことに由来するという)も三十三箇所を基本とした。

  江戸時代に入ると参勤交代制がしかれ、商工業が発達したことによって街道や宿泊施設が急速に整備され、旅行の安全性、利便性が中世に比べて格段に高まっていった。民衆の側も元和偃武と生産性の向上によって徐々に巡礼の旅に出られるだけの生活上のゆとりが生じてきた。こうして庶民の巡礼をも視野に入れた観音霊場が江戸時代、続々と地方に設置されていったのである。

 観音が変化する前の基本形を示しているのが聖観音(正観音)である。聖観音以外は変化観音と一括りにされる一群の観音がある。代表的な変化観音が千手観音と十一面観音、それに馬頭観音や如意輪観音である。馬頭観音は本尊とされることが少なく、奈良時代まで遡れる古い作例がない。しかし江戸時代には爆発的に造像例が増えた。民衆の間でも盛んとなってきた旅の安全を祈願する仏として、また馬を飼う農家の急増に伴い、馬の健康を祈願し、亡き馬の供養のために江戸時代、篤く信仰されるようになり、盛んに造像されてきたのである。

   六観音の一つ如意輪観音は古くから祀られてきたが、江戸時代になると女性の守護神的な仏として馬頭観音と並び広範に信仰された。主に女性の墓石や十九夜講の主尊として市内でも数多くの作例を残している。

   なお地蔵が僧形を基本とする姿をとるために性別としては男性と見なされる傾向があるのに対して観音はどちらかと言えば女性的な要素が強い。本来は観音も男性的な仏であったが中国で女性的な性格を付与され、造形的にも女性らしい優美さを備えるようになったらしい。このため観音は特に女性を救済する仏として日本でも女性を中心に篤く信仰されるようになる。

   観音の功徳が説かれる法華経観世音菩薩普門品(ふもんぼん)第二十五「観音経」の一節、いわゆる「世尊偈(せそんげ)」はとりわけ安産と順調な子育てを願う女性達によって繰り返し読誦されてきた。実際、市内でも「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」と世尊偈の刻まれた江戸時代の石造物は子安講、月待ち講関係のものにかなり多く見られる。宝篋印塔に刻まれることの多い回向文(えこうもん)の「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」と並んで世尊偈は江戸時代の石造物に頻出する文言なのである。

   坂東三十三ヵ所、西国三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所は既に中世には確立していた代表的な観音霊場であった。それらの霊場をすべて合計すると百になる。江戸時代、この百箇所の巡礼を達成すると村の寄り合いでは上座に座れるほど巡礼者は尊敬されたという。四国お遍路八十八箇所や日本全国六十六カ国の廻国巡礼と並び、観音霊場百箇所の巡礼は多くの人々の憧れとなっていた。熱狂的な巡礼者の中にはお遍路八十八箇所と観音霊場百箇所とを合わせて百八十八箇所を巡礼する過酷なチャレンジを達成する人々もいたことがいくつかの巡拝塔で確認できる。

   長らく出家した僧侶のみに独占されてきた、自らの努力で功徳を積み重ね、その功徳を周囲に及ぼす(=回向)という信仰上の尊い営みはついに民衆レベルにまで解放されてきた。とはいえ巡礼の旅はただの気楽な物見遊山とは異なる過酷な側面を相変わらず持っていた。どれほどに街道が整備され、宿泊施設が整ってきたといえども、徒歩による移動はそれなりの労苦と危険を伴う苦行でもあった。しかも百八十八箇所ともなれば10年近くを要する長丁場の旅。誰もがたやすくチャレンジできる性質のものではない。従って百箇所等を達成した巡礼者の多くは生活に相当ゆとりのある村の富裕層、及びその家族であったと思われる。

   そもそも観音はよく山の頂に姿を現すとされたため、観音霊場もまた険峻な崖の上や山頂に設けられる傾向があった(※坂東三十三ヵ所一覧参照)。天台宗や真言宗などの密教では神聖な山岳に寺院を設けることが多いことも手伝って観音霊場巡りはもっぱら起伏の激しい、体力的にかなり辛いコースを縫うように辿る。巡礼は本来、中世までは仏道に専念する一部の僧侶が命がけで取り組んできた難行苦行の一つなのである。したがって体力気力が衰える高齢者になってからでは巡礼の旅は厳しかっただろう。おそらく村の富裕層の多くがまだ体力の有るうちに跡取りを定め、早めに隠居して巡礼の旅に出る事を夢見ていたのである。

 こうして近世になると僧侶だけでなく多くの民衆が様々な祈願を掲げて仏道修行の世界に参入してきた。この現象は巡礼以外にも寒念仏などの念仏行や修験道絡みの霊山登拝などにも及んだ。とりわけ富士山や出羽三山への登拝は東国では明治以降になっても頻繁に繰り返されてきた。

 これらに加えてお伊勢参りや金比羅詣でなども流行してきたため、各種のバラエティに富んだ信仰の旅は一方で人々の流動性と交流の度合いをおおいに高め、やがて村境や国境を越えた広範な経済的、政治的なつながりを民衆にもたらす一因にもなったと思われる。すなわち幕末の「世直し一揆」や明治期の自由民権運動につながる各種の反政府運動は江戸時代における民衆の巡礼熱の高まりが後の政治的運動の全国的な展開を用意していた側面があったと考えられるのである

 

参考:坂東三十三箇所の一覧(太字は千葉県内の札所)

  一番:大蔵山(だいぞうざん)杉本寺(すぎもとでら)

     十一面観世音菩薩 天台宗 神奈川県鎌倉市

  二番:海雲山(かいうんざん)岩殿寺(がんでんじ)

     十一面観世音菩薩 曹洞宗 神奈川県逗子市

  三番:祇園山(ぎおんさん)安養院(あんよういん)

     千手観世音菩薩 浄土宗 神奈川県鎌倉市

  四番:海光山(かいこうざん)長谷寺(はせでら)

     十一面観世音菩薩 浄土宗系単立 神奈川県鎌倉市

  五番:飯泉山(いいずみさん)勝福寺(しょうふくじ)

     十一面観世音菩薩 真言宗東寺派 神奈川県小田原市

  六番:飯上山(いいかみさん)長谷寺(はせでら)

     十一面観世音菩薩 高野山真言宗 神奈川県厚木市

  七番:金目山(かなめさん)光明寺(こうみょうじ)

     聖観世音菩薩 天台宗 神奈川県平塚市

  八番:妙法山(みょうほうさん)星谷寺(しょうこくじ)

     聖観世音菩薩 真言宗大覚寺派 神奈川県座間市

  九番:都幾山(ときさん)慈光寺(じこうじ)

     十一面千手千眼観世音菩薩 天台宗 埼玉県比企郡ときがわ町

  十番:巌殿山(いわどのさん)正法寺(しょうほうじ)

     千手観世音菩薩 真言宗智山派 埼玉県東松山市

  十一番:岩殿山(いわどのさん)安楽寺(あんらくじ)

     聖観世音菩薩 真言宗智山派 埼玉県比企郡吉見町

  十二番:華林山(かりんさん)慈恩寺(じおんじ)

     千手観世音菩薩 天台宗 埼玉県さいたま市岩槻区

  十三番:金龍山(きんりゅうざん)浅草寺(せんそうじ)

     聖観世音菩薩 聖観音宗 東京都台東区

  十四番:瑞応山(ずいおうさん)弘明寺(ぐみょうじ)

     十一面観世音菩薩 高野山真言宗 神奈川県横浜市南区

  十五番:白岩山(しろいわさん)長谷寺(ちょうこくじ)

     十一面観世音菩薩 金峯山修験本宗 群馬県高崎市

  十六番:五徳山(ごとくさん)水澤寺(みずさわでら)

     千手観世音菩薩 天台宗 群馬県渋川市

  十七番:出流山(いずるさん)満願寺(まんがんじ)

     千手観世音菩薩 真言宗智山派 栃木県栃木市

  十八番:日光山(にっこうさん)中禅寺(ちゅうぜんじ)

     千手観世音菩薩 天台宗 栃木県日光市

  十九番:天開山(てんかいざん)大谷寺(おおやじ)

     千手観世音菩薩 天台宗 栃木県宇都宮市

  二十番:獨鈷山(とっこさん)西明寺(さいみょうじ)

     十一面観世音菩薩 真言宗豊山派 栃木県芳賀郡益子町

  二十一番:八溝山(やみぞさん)日輪寺(にちりんじ)

     十一面観世音菩薩 天台宗 茨城県久慈郡大子町

  二十二番:妙福山(みょうふくさん)佐竹寺(さたけじ)

     十一面観世音菩薩 真言宗豊山派 茨城県常陸太田市

  二十三番:佐白山(さしろさん)正福寺(しょうふくじ)

     十一面千手観世音菩薩 真言宗系単立 茨城県笠間市

  二十四番:雨引山(あまびきさん)楽法寺(らくほうじ)

     延命観世音菩薩 真言宗豊山派 茨城県桜川市

  二十五番:筑波山(つくばさん)大御堂(おおみどう)

     千手観世音菩薩 真言宗豊山派 茨城県つくば市

  二十六番:南明山(なんめいさん)清瀧寺(きよたきじ)

     聖観世音菩薩 真言宗豊山派 茨城県土浦市

  二十七番:飯沼山(いいぬまさん)圓福寺(えんぷくじ)

     銚子観音 十一面観世音菩薩 真言宗 千葉県銚子市

  二十八番:滑河山(なめがわさん)龍正院(りゅうしょういん)

     十一面観世音菩薩 天台宗 千葉県成田市

  二十九番:海上山(かいじょうさん)千葉寺(せんようじ)

     十一面観世音菩薩 真言宗豊山派 千葉県千葉市中央区

  三十番:平野山(へいやさん)高蔵寺(こうぞうじ)

     聖観世音菩薩 真言宗豊山派 千葉県木更津市

  三十一番:大悲山(だいひさん)笠森寺(かさもりじ)

     十一面観世音菩薩 天台宗 千葉県長生郡長南町

  三十二番:音羽山(おとわさん)清水寺(きよみずでら)

     千手観世音菩薩 天台宗 千葉県いすみ市

  三十三番:補陀洛山(ふだらくさん)那古寺(なごじ)

     千手観世音菩薩 真言宗智山派 千葉県館山市

※三十三ヵ所の内、十一ヵ所が天台宗寺院、十七ヵ所が真言宗寺院、密教全体で合わせて二十八ヵ所と

 なり、山岳信仰とのつながりを強めた密教寺院が観音霊場の多くを占めていたことが分かる。

12.仏の世界(観音・地蔵・不動)

 

 以下、「観音・地蔵・不動」(速水侑 吉川弘文館 2018)の要旨をご紹介いたします。これらを理解しておくと石仏や巡礼の意味が理解しやすくなるでしょう。

 

1.菩薩と明王

 観音や地蔵は如来ではなく、菩薩である。菩薩はサンスクリットのボーディ・サットバを菩提薩埵と漢字で表記し、これを略したもので「悟った人」「悟りを求める人」という意味。

 他者の救済に無関心で出家者のみの救済をはかる「小乗」の教えとして旧来の仏教を批判した極めて在家色の濃い人々が生み出した大乗仏教はおよそ2000年前に成立した。彼らは在家、出家や身分の上下を問わず、真の悟りを求めて慈悲の教えを実践する菩薩道に励む者たちは誰であっても菩薩であるとの観念を生み出す。

 現世での救済者としての性格を持つ観音菩薩はそうした大乗仏教成立の動きの中で1世紀の末頃には登場してきた。仏(如来)が遠い過去に悟りを開き、遠く離れた仏の国(浄土)に住んで説法しているのに対し、菩薩は六道に輪廻し苦悩する一切衆生の救済のために自ら六道にあって衆生の願いに応えてくれる身近な存在とされた。

 鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」(無住一円)にも「・・釈迦は信者の能力が備わった時にはじめて現れ、阿弥陀は信者の臨終の際にはじめて来迎するというが地蔵は信者の能力を問わず、いつでも六道のちまたに立ち、生きとし生けるものたちに交わって縁無き衆生をも救い給う」とある。

 

 明王の多くは恐ろしげな憤怒相を示す点で穏やかな表情の如来や慈悲深い表情の菩薩とは際だった違いが見られる。明王はことごとく密教の元で生み出された仏達であり、密教はインドにおけるヨーガの伝統と民間の呪術的信仰の上に7世紀頃、「大日経」(大毘盧遮那仏=大日如来を根本仏とする。図示したものが胎蔵界曼荼羅)及び「金剛頂経」(大日如来の悟りの智を得ることで仏と一体となれると説く。図示したものが金剛界曼荼羅)としてインド南西部で体系化された。体系化される以前の密教は雑密(ぞうみつ)といい、体系化された純密と区別する。

 大日如来は全宇宙の絶対的真理=法(ダルマ)そのものであり、凡夫が容易に感知できるものではない。真理そのものである仏の身を「自性輪身(じしょうりんじん)」と称する。凡夫にも感知できるよう仏は菩薩に姿を変えて現れた時、菩薩の身を「正法(しょうぼう)輪身」という。しかし凡夫の中には慈悲深い菩薩の説法だけでは目覚めることが出来ず、教えに従わない者もいる。また仏の教えを妨げようとする様々な悪もある。こうした度しがたい衆生を目覚めさせ、仏法を悪から守るのが明王の役割とされる。このため明王は衆生を畏怖させ、悪を破砕する「忿怒」の形相で現れることになる。そして菩薩と同様に明王もまた仏が姿を変えたものとし、明王を「教令(きょうれい)輪身」と呼ぶ。教令とは仏の教えを命令として実行すると言うほどの意味であり、忿怒の形相に秘められた仏の無限の慈愛と衆生救済への意志の力強さが衆生の信頼を集めていくことになる。この三輪身の考えは8世紀、唐の真言宗において唱えられていく。ちなみに京都の東寺講堂の諸仏は三輪身の考えによって構成されている。

 

2.観音

 仏像として年代が確認できる日本における最古の作例は651年の法隆寺献納金銅立像。サンスクリットでは「アバロキティシュバラ」といい、観自在菩薩、観世音菩薩とも漢訳された。観音のご利益を説く経典として最も古いと思われるのが「法華経」観世音菩薩普門品、いわゆる「観音経」。そこでは子供の欲しい女性が観音を礼拝供養するならば福徳と智慧のある男の子、容姿端麗で人々に愛される女の子を産むことが出来るとあり、妊娠や安産を願う女性達、子安講での信仰を集め、普門品(ふもんぼん)は繰り返し読誦された。

 また観音は救うべき相手に応じて姿を変え、説法するとして三十三種の姿を列挙したため、観音霊場を三十三箇所とすることが多かった。

 法華経はインドで紀元100年前後に成立したと考えられる。阿弥陀信仰に関わる「無量寿経」や「観無量寿経」では極楽浄土に住む菩薩の中で観音菩薩(右脇にあって阿弥陀の慈悲の徳を体現、蓮台を捧げる姿)と勢至菩薩(左脇にあって阿弥陀の智慧を体現、合掌する姿)が阿弥陀の脇侍(きょうじ、あるいは脇士:わきじ)として最高の地位にあるとされ、観音と普賢を左右に従えた阿弥陀三尊像が数多く造像された。こうした浄土教経典によって観音は現世だけでなく、来世での救済にもご利益があるとされるようになり、現当二世安楽を祈る対象となっていった。

 「華厳経」では観音は補陀落(ふだらく)山(光明山)に住んでいるとされる。日本では補陀洛渡海で有名な熊野那智や日光二荒山が補陀落山になぞらえている。「観無量寿経」では観音の宝冠に化仏があるとされ、水瓶や蓮華を手にするという。外見上よく似た勢至菩薩との区別のためによく宝冠の化仏の有無が見極めのポイントとされる。なお勢至菩薩の宝冠には水瓶があるとされる。

 観音は当初、聖観音のみであったが6~7世紀から種々の変化(へんげ)観音が派生してくる。十一面観音、千手観音蓮華王とも。手は実際には42本で造像されることが多い。慈悲の力が他の観音を圧倒するとされたため、西国三十三ヵ所のうち16箇所が本尊としている)、不空羂索観音(鎮護国家のご利益が尊ばれたため大寺に祀られる事が多く、民衆へはあまり浸透しなかった)など多面多臂の姿が目立つ。ヒンドゥーの多面多臂の神々の影響で、インド仏教が密教化していく過程で登場してきたと思われる。実際、変化観音はいずれも6世紀以降に造像されている。

 なお馬頭観音は観音の中で例外的に忿怒相をとるため「馬頭(めず)明王」とも呼ばれた。その忿怒相によって罪障を破砕し、煩悩を断つとされたが、古代においてはなじまれなかった。しかし江戸時代以降、旅の安全を祈る対象として、あるいは馬など家畜の守り神として急速に普及し、数多く造像された。

 如意輪観音は8世紀に登場し、座像で六臂、右手を頬にあてて衆生救済の思いにふけり、他の手で如意宝珠などを持つ。法輪を転じて煩悩を破砕し、富や智慧を願いのままに授ける観音で江戸時代は女性の守護神的存在とされ、月待ち塔(十九夜)の主尊や女性の墓石に多用された。

 観音霊場の参詣が急増するのは10世紀後半律令国家の衰退によって国家からの経済的な支援を期待できなくなった寺院は貴族の私的支援を当てにするようになった。本尊の霊験を宣伝し、貴族等の一族安泰、子孫繁栄などの現世利益の期待に応えようとすることで石山寺や清水寺、長谷寺、粉河寺などへの参詣者が目立って増えてくる。これらの寺院には国家的祈祷の霊場としてだけではなく、貴族参詣の霊場としての新たな性格が加わってきたことになる。

 藤原道長や藤原実資らの日記にも石山寺への参詣が度々記されているが、「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「更級日記」、「源氏物語」にも取り上げられており、石山寺が当時の貴族社会ではもっともポピュラーな観音霊場であったと考えられる。石山参詣は一泊の旅程ですむ気安さから、幾度も通う参詣者が多かった。

 しかし霊験著しいことで名声の高かった長谷寺は往復に数日を要するため、日帰りできる清水寺や一泊ですむ石山寺のような気安さはなかった。「源氏物語」や「蜻蛉日記」には道のりの険しさ、遠さを嘆く記述がある。他方で「聖」と呼ばれる教団から離れた布教者が修行を兼ねて人里離れた山寺や岩窟に住み着いていった。後に聖の名声が高まると山寺や岩窟もまた従来の貴族参詣の霊場に加え、新たな霊場として参詣人を集めた。こうして三十三ヵ所の霊場と巡礼の基礎が築かれていくことになる。

 巡礼が民衆的な広がりを持ち始めたのは15世紀中頃。おそらくこの時期の巡礼行者(江戸時代には三十三度行者ともいい、西国霊場を三十三回巡礼すると満行満願となって引退した職業的巡礼者)、勧進聖、熊野比丘尼、修験山伏などの民衆への布教活動が実を結び、次第に地方の地侍や名主、商工業者らが巡礼に加わるようになってきたのだろう。ローカル色の強い秩父札所は15世紀後半には成立したが、16世紀には西国、坂東の札所との一体化を目指して三十四ヵ所とし、観音霊場は合計百箇所の札所となっている。

 江戸時代になり、元和偃武以後の社会の安定と農業や商工業の発達、交通網の整備などによって17世紀後半、民衆の巡礼は爆発的に活発化する。巡礼の大きな波はさらに18世紀後半(宝暦、明和、安永)と19世紀初頭(文化、文政)にも訪れる。民衆化した巡礼は信仰目的に加えて物見遊山的色彩も帯びるようになり、東国では西国三十三ヵ所や四国八十八カ所の巡礼に伊勢参宮や金毘羅参り、善光寺参りもセットにした「巡礼案内記」が登場してきた。江戸時代に新たに形成された地方霊場は164箇所を数える。観音の縁日は18日、縁年は午年とされていた。浅草寺観音の居開帳は18日ともなれば大勢の人でごったがえし、午年の秩父巡礼は年間で20万人近くに達することもあったという。

 

3.地蔵菩薩

 サンスクリットで「クシチガルブハ」。クシチは大地を表し、ガルブハは胎内あるいは包蔵することを意味するため、合わせて地蔵と漢訳された。「地蔵十輪経」では「よく善根を生ずることは大地の徳のごとし」と記され、インド古来の地神信仰が起源と考えられる。

 飲食を満たし、病を除き、水火の災いを除くなどの日常的な、多種多様な現世利益に加え、六道抜苦の利益があるとされる。釈迦が滅して弥勒が下生するまでの五濁悪世(ごじょくあくせ)、無仏の時代の衆生救済を仏に委ねられた菩薩であり、末法の世の救済者として六道をくまなく巡りあらゆる場所に出現しては六道輪廻に苦しむ衆生を救うとされた。特に地獄での救済が地蔵の本願であり、民衆にとって最も身近な菩薩と考えられるようになる。

 宝珠と錫杖を持つ比丘(僧)の姿、声聞(しょうもん:仏の声を聞く者、つまり仏の教えを聞いて悟る者のことで従来は釈迦の弟子を指していた)形をとるのが一般的。衆生済度を容易にするため、人々の前では親しみやすい僧侶の姿で現れると考えられた。末法の世の救済者とされた如く、末法思想が台頭した唐の時代に地蔵信仰も盛んとなる。しかし日本では地獄での救済を最大の御利益とする地蔵は現世利益の実現を主とする貴族層にはあまり浸透しなかった。

 他方で「今昔物語集」の地蔵説話には地方の神官や武士、庶民が登場していた。彼らは自分たちが十悪の身として来世では地獄に落ちる運命であるとの自覚が強く、次第に地獄の救済者である地蔵への信仰を強めていた浄土への憧れから阿弥陀信仰に傾斜していく貴族層とは違い、自力作善から遠ざけられ、前世での因縁から地獄への深刻な恐怖に直面していた民衆は極楽浄土への諦めを強める一方で急速に地蔵信仰に傾斜していったとも考えられる。つまり現世で民衆として生きていること自体が来世で地獄に落ちることを必然にしているという、厳しい諦念が末法の世に生きる民衆の実感だったのかもしれない。梁塵秘抄に唄われた「はかなきこの世を過すとて 海山稼ぐとせしほどに よろずの仏にうとまれて 後生わが身をいかにせん」という切ない自覚こそ、「ただ悪趣を以てすみかとし、罪人を以て友とする」地蔵への民衆の帰依を生み出していたのだろう。中世、地蔵は「身代わり地蔵」の霊験譚などを通じて現当二世安楽に通じる仏として一層、武士や民衆の間に浸透していく。

 

4.不動明王

 サンスクリットで「アチャラ・ナータ」。アチャラは動かないもの、ナータは守護者を意味し、不動尊とも漢訳された。アチャラが基本的には大きな山を指していたため山の守護神ともされた。

 「大日経」では大日如来の使者とされ、使い走りの従僕にふさわしい童子の姿で現れる。智慧の刀(倶利伽羅剣)と羂索を持ち、頭髪は左肩に垂れ、片目をつむり、怒りの表情で身に猛炎あり、盤石の上に座る。額には波のような皺があるとされる。8世紀には大日如来の教令輪身とされたが、広範に信仰された日本とは違ってインド、中国では独立した尊像とされることは極めて稀で不動信仰は民衆的広がりを持たずに終わっている。しかし日本では浄土信仰の高まりのなかでも不動明王への信仰は根強かった。藤原道長は法成寺に「家門に怨をなす怨霊を降さんがため」二丈の巨大な不動尊を祀っている。特に天皇に嫁がせた娘達の出産に際して不動明王に調伏と安産を祈祷することが天皇家との外戚関係を維持する上で必須となっていた。

 中世になると危難の際に不動の姿に変身することで助かるという「身代わり不動」の信仰が武士や民衆の間に広がってくる。不動信仰の拡大に修験道が果たした役割は大きいだろう。修験山伏は峰入り修行を通じて不動明王の力を手に入れようとし、その出で立ちを不動明王に似せていった(・・・歌舞伎の勧進帳での山伏問答で富樫が「して山伏の出で立ちは」と弁慶に問いただす。弁慶は「すなわちその身を不動明王の尊容にかたどるなり」と答える)。室町時代には天台宗の聖護院が熊野修験者を配下において本山派をなす一方で金峯山による修験者は真言宗醍醐寺三宝院に束ねられて当山派と呼ばれるようになる。

 

5.葬式仏教と地蔵信仰

 南北朝期以降、寺社の経済基盤の一つであった荘園が武士階級による激しい侵略にさらされたため、たとえ畿内の大寺社であっても商工業者や有力農民、地方武士への布教に励まざるを得なくなっていった。こうした仏教の底辺拡大、民衆化と不可分の形で進行したのが葬式仏教化と密教化であった。14~15世紀、葬送の民俗を仏教儀礼に取り込み、それを中核として寺檀関係を固めていくことで民衆の生活に地方寺院は密着するようになる。また密教を批判する文脈で登場してきた鎌倉新仏教諸派は民衆の現世利益の欲求に応えるべく密教の修法、加持祈祷の要素を取り込んでいった。

 民衆に葬式追善を勧めるために仏教諸派は地獄への恐怖を煽り、十王信仰を利用して葬式追善の必要性を強調した。初七日にまず秦広王の審判を受け、三途の川を渡った後、十四日目に初江王の審判を受ける・・・といった具合で最後は三年後に五道転輪王の審判を受け、ある者は成仏し、それ以外の者は六道の何れかに送られる。道教に由来するこうした信仰が14世紀以降、各宗派で強調されるようになったのである。これに伴い、地蔵は閻魔王として冥府に現れると考えられるようになった。また賽の河原(三途の川の手前にあるとされた)の物語も室町時代には御伽草子に登場し、地蔵は子供の守護神として性格づけられていく。そして近世初期に「地蔵和讃」として様々なヴァリエーションを派生させつつ人口に膾炙していった。なお「賽(西院)の河原」は「塞(さえ)の神」から出たとする民俗学の説がある。柳田国男は村境や峠に道祖神を祀り、そこを通る人が石を積んで神を祀った民俗信仰が仏教に取り込まれ、「賽の河原」の物語となったと考えている。

 塞の神、道祖神信仰と地蔵信仰が習合したため、地蔵も道祖神と同様に村境や四つ辻などに祀られるようになったとも言われる。中世の初めまでは貴族であっても七歳以下の子供が死んだ場合には仏事を行わず、遺体を山野や川に棄てるのが通例であった。しかし15世紀頃から幼児の位牌が現れ始める。幼児についても大人に準じて追善すべきだとの観念が生じてきたのである。さらに古くから存在した地蔵が少年の姿を借りて現れるとの信仰が子供の守護神としての地蔵信仰の土台となったに違いあるまい。

※地蔵和讃の例

 帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化(のうけ)なり これはこの世のことならず 

 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語  聞くにつけても哀れなり

 この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つ有様は 諸事の哀れをとどめたり

 二つや三つや四つ五つ  十にも足らぬ幼子が  さいの河原に集まりて 

 苦患を受くるぞ悲しけれ 娑婆と違いて幼子の  雨露しのぐ住処さえ

 無ければ涙の絶え間無し  河原に明け暮れ野宿して

 西に向いて父恋し   東に向いて母恋し  恋し恋しと泣く声は 

 この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり

 げに頼みなきみどりごが     昔は親のなさけにて

 母の添い寝に幾度の       乳を飲まするのみならず

 荒らき風にも当てじとて  綾や錦に身をまとい  その慈しみ浅からず

 然るに今の有様は        身に一重さえ着物無く

 雨の降る日は雨に濡れ  雪降るその日は雪中に  凍えて皆みな悲しめど

 娑婆と違いて誰一人  哀れむ人があらずなの

 ここに集まる幼子は 小石小石を持ち運び これにて回向の塔を積む

 手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく からだを朱に染めなして

 一重つんでは幼子が  紅葉のような手を合わせ  父上菩提と伏し拝む

 二重つんでは手を合わし  母上菩提と回向する

 三重つんではふるさとに  残る兄弟我がためと  礼拝回向ぞしおらしや

 昼は各々遊べども  日も入相のその頃に  地獄の鬼が現れて

 幼き者の側に寄り  やれ汝らは何をする  娑婆と思うて甘えるな

 ここは冥土の旅なるぞ   娑婆に残りし父母は

 今日は初七日、二七日  四十九日や百箇日  追善供養のその暇に

 ただ明け暮れに汝らの  形見に残せし手遊びの  太鼓人形風車

 着物を見ては泣き嘆き 達者な子供を見るにつけ

 なぜに我が子は死んだかと 酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの

 責め苦を受くる種となる 必ず我を恨むなと 言いつつ金棒振り上げて

 積んだる塔を押し崩し  汝らが積むこの塔は  ゆがみがちにて見苦しく

 かくては功徳になりがたし とくとくこれを積み直し 

 成仏願えと責めかける

 やれ恐ろしと幼子は  南や北や西東  こけつまろびつ逃げ回る

 なおも獄卒金棒を   振りかざしつつ無惨にも

 あまたの幼子睨み付け    既に打たんとするときに

 幼子怖さやる瀬無く     その場に座りて手を合わせ

 熱き涙を流しつつ      許したまえと伏し拝む

 拝めど無慈悲の鬼なれば   取り付く幼子はねのけて

 汝ら罪なく思うかよ     母の胎内十月の内

 苦痛さまざま生まれ出て   三年五年七歳と

 わずか一期に先だって    父母に嘆きを掛くること

 だいいち重き罪ぞかし

 娑婆にありしその時に 母の乳房に取りついて 乳の出でざるその時は

 責まりて胸を打ち叩く 母はこれを忍べども などて報いの無かるべき

 胸を叩くその音は   奈落の底に鳴り響く

 父が抱かんとするときに 母を離れず泣く声は 八万地獄に響くなり

 父の涙は火の雨と   なりてその身に振りかかり

 母の涙は氷となりて  その身をとずる嘆きこそ  子故の闇の呵責なれ

 かかる罪とがある故に  さいの河原に迷い来て  長き苦患を受くるとぞ

 言いつつまたもや打たんとす

 やれ恐ろしと幼子が  両手合わせて伏し拝み  許したまえと泣き叫ぶ 

 鬼はそのまま消え失せる 河原の中に流れあり 娑婆にて嘆く父母の

 一念届きて影映れば  のう懐かしの父母や

 飢えを救いてたび給えと   乳房を慕いて這い寄れば

 影はたちまち消え失せて   水は炎と燃え上がり

 その身を焦がして倒れつつ  絶え入ることは数知れず

 峰の嵐が聞こえれば     父かと思うて馳せ上がり

 辺りを見れども父は来ず   谷の流れの音すれば

 母が呼ぶかと喜びて     こけつまろびつ馳せ下り

 辺りを見れども母は無く 走り回りし甲斐もなく 西や東に駆け回り

 石や木の根につまづきて  手足を血潮に染めながら

 幼子哀れな声をあげ     もう父上はおわさぬか

 のう懐かしや母上と この世の親を冥土より 慕い焦がれる不憫さよ

 泣く泣くその場に打ち倒れ 砂をひとねの石枕 泣く泣く寝入る不憫さよ

 されども河原のことなれば  さよ吹く風が身にしみて

 まちもや一度目をさまし 父上なつかし母ゆかし ここやかしこと泣き歩く

 折しも西の谷間より   能化の地蔵大菩薩

 右に如意宝の玉を持ち 左に錫杖つきたまい ゆるぎ出てさせたまいつつ

 幼き者のそばにより      何を嘆くかみどりごよ

 汝ら命短かくて        冥土の旅に来るなり

 娑婆と冥土はほど遠し     いつまで親を慕うとぞ

 娑婆の親には会えぬとぞ  今日より後は我をこそ  冥土の親と思うべし 

 幼き者を御衣(みごろも)の 袖やたもとに抱き入れて  

 哀れみたまうぞ有難や

 いまだ歩まぬみどりごも   錫杖の柄に取り付かせ

 忍辱(にんにく)慈悲の御肌(おんはだ)に  泣く幼子も抱(いだ)き上げ  

 なでさすりては地蔵尊 熱き恵みの御涙(おんなみだ)袈裟や衣にしたりつつ

 助けたまうぞ有難や   大慈大悲の深きとて   地蔵菩薩にしくはなく

 これを思えば皆人よ   子を先立てし人々は  悲しく思えば西へ行き

 残る我が身も今しばし  命の終るその時は

 同じはちすのうてなにて    導き給え地蔵尊

 両手を合して願うなり

 南無大悲の地蔵尊       南無阿弥陀仏阿弥陀仏

 

6.民衆の巡礼熱

 17世紀後半、社寺参詣の風潮が強まったとは言え、個人的な遠隔地への巡礼は一般民衆にとって金銭面でも決して容易なことではなかった。そこで様々な参詣講が設けられていった。下野国東水沼村の伊勢講では1748年当時、講員が42人で一人あたり年に三百文を積み立て、毎年正月に2人の代参者が伊勢詣でに出ている。代参者一人に六貫三百文が渡されていた。経費捻出のために村共有の田畑を講田としてあてるケースも各地で見られたという。相当の長旅である。それなりの出費は覚悟しなければならなかったのである。

 講の中には村の枠を超えて結成されるものもあり、富士講や成田不動講は江戸の町人によるものも多かった。江戸の町人にとって秩父の巡礼や成田山参詣、大山詣で、富士登拝、江の島弁天詣では身近で物見遊山を兼ねたレクリエーションでもあった。式亭三馬の「浮世風呂」(1808年)には「おまえかたは大山参りに御神酒を納めに行くか、成田様への旅くれえが関の山だらう」とある。幕末には江戸を中心に二百を越える成田不動講ができていた。通算で12回を数えた本尊不動明王の江戸での出開帳の成功に加え、歌舞伎の隆盛のなかで圧倒的な人気を博していた市川團十郎家が代々、成田山への信仰篤く、度々成田不動明王を舞台で演じて「成田屋」を号したことの宣伝効果は絶大だったようだ。

 こうして日本独自の不動信仰が発展してきたのである。

11.お寺の基礎知識(後編)

 

 

   以下、市内の石造物でよく目にする、あるいは法事などでよく耳にする代表的な偈頌(げじゅ:お経の中の短い章句のことで市原市内では法華経の一説が頻繁に登場)の幾つかと多くの人々に暗唱されてきた般若心経を参考までに紹介します。なお経典は書写したり読誦するだけで大きな功徳があるとされ、お経を幾度も書写したり、読誦した記念に石塔を建てることも珍しくはなかったようです。

 

1.偈頌

開経偈:作者不詳で特定の経典から引用されたものではありません。しかし読経の

 際には宗派を超えて最初に唱えられることの多い最もポピュラーな偈の一つ。

  一説には唐の女帝則天武后が高名な禅僧二人を長安に招き、二人の前で唱えたも

 のとされます。

   無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)

   百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)

   我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)

   願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

 読経の際には…

    無上甚深微妙の法は 百千万劫といえども遭いあうこと難し

    われ今見聞し受持するを得たり 願わくば如来の真実義を解し奉らん

懺悔文(さんげもん):華厳経の一説。鎌倉時代の初め、華厳宗を再興した明恵上

 人が死の間際に唱えたことで後に普及。法事・読経の際、開経偈と同様に冒頭で唱

 えられることが多いようです。

   我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

   皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)

   従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

   一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

 我、昔(=前世)より造るところの諸(もろもろ)の悪業は、皆、無始の貪(強欲なこと)瞋(怒り)痴(愚かさ)による身・語・意(=心)より生ずるところなり。一切を我、今、みな懺悔す。

 読経の際は…

   無始よりこのかた貪瞋痴の煩悩にまつわれて 身と口と意(こころ)とに造る

   ところの諸々の罪とがを皆悉く懺悔(さんげ)し奉る

 ※ちなみに仏教では貪瞋痴を三毒といい、身語意は三業(さんごう)という。

四弘誓願(しぐせいがん):原型は「魔訶止観」。禅宗は少し語句が異なる。

   衆生無辺誓願度 煩悩無量誓願断 法門無尽誓願智 仏道無上誓願成

   すべての衆生を救済し、あらゆる煩悩を断ち、法門をすべて知り、

   無上の仏道を成ずるという誓い。

世尊偈:「法華経」観世音菩薩普門品(ふもんぼん)は特に「観音経」と呼ばれ、

 多くの宗派で唱えられる。女性はこの経文を安産・子育てに資するとして子安講な

 どで頻繁に唱えた。「観音」とは「衆生の声をよく感じ取る」という意味。苦しん

 でいる人々の声を観音は素早く聞き取り、人々を救い出す。そのためには様々な姿

 に変化する(→三十三観音三十三ヵ所霊場)ことができると説く。特に観音経終

 わり近くの章句を世尊偈といい、観音の素晴らしさを称える詩句で終わる。子安講

 関係の石造物に刻まれることの多い偈である。

  具一切功徳(くいっさいくどく) 慈眼視衆生(じげんししゅじょう)

  福聚海無量(ふくじゅかいむりょう) 是故応頂礼(ぜーこーおうちょうらい)

 意味:観音は一切の功徳をそなえ、慈しみの目で衆生を見、その福徳を集めれば海

  のごとく無量である。したがって我らはまさに観世音菩薩を頂礼(五体投地して

  敬うこと)すべきである。

回(廻)向文(えこうもん):法華経化城喩品(けじょうゆぼん)の一説で浄土系

 の宗派とは若干、語句が違う。原則として読経の最後の方で唱えられる。なお回向

 とは善行の果報を自分だけのものとはせず、あえて周囲の人々に廻らし、周囲の

 人々の幸せと安楽を願うもの。世尊偈に次いで市内の石造物(宝篋印塔など)でよ

 く見られるポピュラーな偈である。

   願以此功徳(がんにしくどく)   普及於一切(ふぎゅうおいっさい)

   我等与衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)

   願わくはこの功徳をもってあまねく一切におよぼし

   我と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

七仏通戒偈:「増一阿含(ぞういつあごん)経」の一説で「諸々の悪をなさず、

 諸々の善を奉行し、自らその心を清浄にする。これ諸仏の教え也」。釈迦以前に6人

 の仏陀が存在しているとされ、釈迦と合わせて「七仏」と呼ぶ。仏の教え=法は久

 遠の過去から受け継がれてきたものであり、この偈は七仏が共に戒めとしたものと

 される。仏教の根本精神とされ、市内では下矢田の道標などに刻まれている。

   諸悪莫作(しょあくまくさ) 諸(衆)善奉行(しょぜんぶぎょう)

   自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

無常偈:「涅槃(ねはん)経」の一説。

   諸行無常 是生滅法 生滅々已(しょうめつめつい) 寂滅為楽

   諸行は無常なり、これ生滅の法なり、生滅を滅しおわりて 寂滅を楽となす

自我偈:法華経如来寿量品第十六の偈文。自我偈という呼び名は冒頭の「自我得仏

 来(じがとくぶつらい)」に由来。

   自我得仏来 所経諸劫数(しょきょうしょごうすう)

   無量百千万 億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)・・・

   我 仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり

 意味:私が仏となってから無限のごとく長い歳月が流れた・・・

    釈迦の命は永遠であるが仏は迷い苦しむ人々に自らの死を示して人々を目覚 

    めさせることにより、仏の道を歩むように説く。一切の人々を仏にするのが

    仏の誓願である。

 日蓮宗寺院の読誦塔などの石造物に刻まれることが多い。また法華経を重視する天

 台宗でも当然のことながら自我偈は唱えられる。

宝篋印陀羅尼経の一文:八幡満徳寺の宝篋印塔の銘文が典型例。

    経云 況有衆人 或見塔形 或聞鐸声 或聞其名 或当其影 

    罪障悉滅 所求如意 現世安穏 後生極楽

   「経にいわく いわんや衆人ありてあるいは塔形を見 あるいは鐸声を聞き

    あるいはその名を聞き あるいはその影に当たらば 罪障ことごとく滅し

    求めるところ意のごとし 現世安穏にして後に極楽に生ずと」

 

 他に二世(にせ)安楽 現当安穏(あんのん」、「現世安穏 後生善処」といった語句が石造物には頻繁に登場する。法華経薬草喩品第五の一説などに由来。いずれも現世と来世の安穏を祈る言葉。来世の安穏を祈るのは浄土信仰の影響、現世安穏を祈るのは現世利益を説く密教の影響が強く反映されたものと考えられる。地蔵や観音などに刻まれることが多い。

 宝篋印陀羅尼経の一文として紹介した偈の終わり「現世安穏 後生極楽」も「二世(にせ)安楽、現当安穏(あんのん)」、「現世安穏 後生善処」と同じ意味で来世の「安穏」と「後生善処」とはいずれも極楽浄土に往生することを願う文言である。

 

2.般若心経

 紀元前一世紀に在家信者も解脱できることを説く大乗仏教が登場すると、やがて仏陀=如来は出家した僧が修行の後に悟りを開いた者という人間くさい存在から逸脱して、在家信者まで一気に悟りへ導いてくれる超人的存在と捉えられるようになる。この大乗仏教を理論的に大成した一人がナーガールジュナ(龍樹:2~3世紀に南インドで活躍)で「空」の理論を唱えた。600巻に及ぶ般若経に示された彼らの理論をわずか262文字に集約したのが「般若心経」である。その一節「色即是空 空即是色」は有名。江戸時代、巡礼や遍路の旅に出る際、般若心経を「ご詠歌」とともに唱える風習が生まれたため、庶民にとってもっとも身近なお経となった。ただし浄土真宗と日蓮宗はそれぞれ念仏と題目こそが仏教のエッセンスと捉える立場から般若心経を唱えない。また真言宗では空海が般若心経を釈迦が唱えた経と考えたため「仏説」という語句をこの般若心経の冒頭に付けて唱えている

摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)

 ※般若波羅蜜多:涅槃寂静とほぼ同じで「智慧の完成」に至ること

 観自在菩薩(かんじざいぼさ) 行深(ぎょうじん)般若波羅蜜多時(はんにゃはらみたじ) 照見五薀(しょうけんごうん)皆空(かいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく) 舎利子(しゃりし) 色不異空(しきふいくう) 空不異色(くうふいしき) 色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき) 受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ)

 舎利子(しゃりし) 是諸法(ぜしょほう)空相(くうそう) 不生不滅(ふしょうふめつ) 不垢不浄(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん) 

 是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 無眼(むげん)耳鼻舌身意(にびぜっしんに) 無色(むしき)声香味触法(しょうこうみそくほう) 無限界(むげんかい)乃至(ないし)無意識界(むいしきかい) 無無明(むむみょう) 亦無無明尽(やくむむみょうじん) 乃至無老死(ないしむろうし) 亦無老死尽(やくむろうしじん)

 無苦集滅道(むくしゅうめつどう) 無智亦無得(むちやくむとく) 以無所得故(いむしょとくこ) 菩提薩埵(ぼだいさつた) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみたこ) 心無罣礙(しんむけげ) 無罣礙故(むけげこ) 無有恐怖(むうくふ) 遠離一切顚倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃(くぎょうねはん) 三世諸仏(さんぜしょぶつ) 依般若波羅蜜多(えはんにゃはらみた) 故得阿耨多羅三藐三菩提(ことくあのくたらさんみゃくさんぼだい) 

故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみた) 是大神咒(ぜだいじんしゅう) 是大明咒(ぜだいみょうしゅう) 是無上咒(ぜむじょうしゅう) 是無等等咒(ぜむとうどうしゅう) 能除一切苦(のうじょいっさいく) 真実不虚(しんじつふこ) 

故説般若波羅蜜多咒(こせつはんにゃはらみたしゅう) 即説咒曰(そくせつしゅうわつ)

 羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)波羅羯諦(はらぎゃてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼうじそわか)  般若心経(はんにゃしんぎょう)

 ※最後の真言(呪文)は本来の読みでは「ガテー ガテー パーラガテー パーラ

  サムガテー ボーディー スヴァーハー」という発音が近い。

②現代語訳:玄侑宗久「現代語訳 般若心経」(2006ちくま新書)を元に以下、カッ

 パが少しだけ改変を加えている。

実相を自在に観る眼を持つ菩薩(観音菩薩)は深い瞑想を続ける内に身も心もすべて実体のない現象(=空)であることを悟られ、一切の苦しみから解放された。シャーリープトラよ(智慧第一とされた釈迦の弟子で舎利仏、舎利子ともいう。十大弟子の一人)、あらゆる物質的現象(=色)には実体がなく、しかも実体がないという実相(すべては縁起と呼ばれる関係性の中で変化し続けているので固定的な実体は存在しないということ)は常に物質的現象という姿をとる。およそ物質的現象というのはすべて実体がないのであり、逆に実体がなく生滅するからこそ物質的現象が成り立つ。同じように感覚も表象も意志も意識、無意識を含めたどんな認識も、それ自体には実体がなく、幻影と同じく無常に生滅している。シャーリープトラよ、この世においては全ての存在や現象は実体がないと言えるだろう。だから実相としては生ずることもなければ滅することもなく、汚れもなければ清浄であることもない。また減ることもなければ増えることもない。それゆえ実体がないことを見極めれば感覚にも表象にも意志にも認識にも実体はなく、また眼にも耳にも鼻にも舌にも身体にも心にも実体はない。形も声も香りも味も触れられるものも、幻影に過ぎないのである。であるとすれば無明(むみょう)もなく、無明のつきることもない。老いや死もなく、老いや死がなくなることもない。もちろん苦が生ずることもなく、苦を滅する方法もない。悟りは知ることができず、悟りを得ることもない。真の求道者である菩薩は深い悟りに達したがゆえに心にわだかまりを持たず、わだかまりがないので恐れもなく、一切の偏見から自由になり、永遠の心の静寂を得られたのである。過去・現在・未来のすべて仏と呼ばれる人々はこの悟りの道をたどることで最高の境地に達せられた。だから今知るべきなのである。「般若波羅蜜多」とは大いに神秘的な真言なのであり、それは光り輝ける真言であり、他に比類のない最高の真言なのである。つまりこの真言は世の一切の苦悩を取り除くことにおいてまさしく真実であり、一点の虚妄もない。ではその「般若波羅蜜多」の真言を示そう。

ガテー ガテー パーラガテー パーラサムガテー ボーディ スヴァーハー

ここに深遠なる智慧の完成のための教えを終える。

③解説

 「般若」と呼ばれる深遠なる智慧は言葉では表せないとされる。言葉もまた幻影に過ぎず、般若を表す道具にはなりえないというのである。この般若の教えは般若経600巻に延々と説かれていると言うが、その教えのエッセンスとしてまとめられたのが般若心経である。

 言葉にならぬ教えを言葉で伝えることの難しさはスポーツの高度なテクニックやスポーツの喜びを言葉だけで伝えようとする時に感じる難しさに似ていよう。結局は実践する中で身に付けていき、おのおのが実感していただくしかないようである。とはいえ、ある程度までは理屈を言葉で理解していないと高度なテクニックはなかなか身につかない。そこでお経が存在することになるわけである。そして般若心経も結局は言葉で言い尽くせない「悟り」の深遠な世界を、結末においては理屈や意味を超えた音の世界、真言(呪文)に託すかたちで終わる。

 般若心経のポイントはこの世に存在し、現象しているすべては「空」であるとともに、その空からすべての存在と現象が生じているとされる点にある。したがって空とは虚無や非在ということを意味するのではなく、種々の関係性の中で生起しつつ常に変容する、固定的な実体を持たないこの世の特性、本質、実相を指していると解釈できる。そしてこの世が空であることを深く心身ともに納得し、智慧として生きていくことができるようになればあらゆる苦悩から解放されると説いているのである。もちろん苦痛がなくなるわけではない。心の平安を揺るがす余分な苦悩から解放されるのである。

 玄侑宗久はこうした教えが中国に広く、深く浸透していった背景に老荘思想の存在を指摘している。老子と釈迦牟尼とはほぼ同時代の人であるが、言葉や概念の持つ危険性を早くから指摘していた点も両者に共通しているというのである。悟りは言葉で表現された理屈を理解しようとする分別だけで得られるものではない。むしろ分別こそが差別を生み出し、悟りを妨げる妄想なのかもしれないと「不立文字」を説く禅僧の玄侑宗久は記している(「荘子と遊ぶ」玄侑宗久 筑摩書房 2010)。般若が理屈を超えた実践的知であるのと同様にして老子は「道(タオ)」を説き、体験知としての道家思想を説いた。こうした中国の伝統的な思想が仏教の受容を容易にしたと彼は指摘しているのである。

 現代を席巻しつつある科学万能主義は確かにすべてを合理的に理知によって説明できると信じているように見える。しかし「しあわせ」や「いのち」の実相ははたして理知だけで解明できるのだろうか?合理的な説明、理屈がかえって体験の実相、クオリア(質感)をつかむことを妨げる危険性はおおいにあるだろう。もちろん幸せの実感は科学的に説明できる領域もある。悟りによってもたらされた心の平安をある程度までは脳内の化学物質(セロトニン等)で説明できないわけでもない。しかし悟りに至るプロセスのすべてを科学の理屈で説明するのはまだまだ不可能であろう。

 当然のことながら般若心経の説くような真言(呪文)だけで現代人が悟りに至れるとは思われない。体験知と理知との間に横たわる溝、闇はまだまだ深いのかもしれない。とは言え禅宗から派生し、近年、爆発的に欧米に広まりつつあるマインドフルネス等の心理療法はうつ病や身体的な痛みの軽減などに優れた治療効果を上げているという。座禅における瞑想や呼吸法の効果は脳の研究からそのメカニズムが少しずつ解明されてきている(「マインドフルネス・レクチャー」貝谷久宣・熊野宏昭・玄侑宗久 金剛出版 2018)。

 体験知と理知との溝は今、脳の研究の急速な進展によって僅かながら埋められつつあるのだろう。

その10.お寺の基礎知識(中編)

 

・宗派について(概論)

 日本に仏教が公式に伝来したのは6世紀のこと。インドからシルクロードさらに中国・朝鮮半島を経由して伝来しましたからいわゆる「北伝仏教」と呼ばれます。北伝仏教は個人の救済を前提とする上座部仏教(=南伝仏教)と違い、一時に大勢の人々を救済しようとする大乗仏教です。このため、上座部仏教での仏(=解脱した者)とは違って一時に大勢の人々を救済できる不可思議なパワーを持つ人間離れした存在が大乗仏教の仏とされていきました。結果的に大乗仏教で崇拝される諸仏は、特に菩薩や明王などの場合、異形の形(千手観音、十一面観音…)をとることが多いです。

 大乗仏教の根本聖典とされたのが法華経でした。このため法華経を「大乗妙典」と呼んで特別に尊崇する流れが出てきます。8世紀に入りますと「南都六宗」(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律)と呼ばれる宗派のような存在が出てきますが、これはどのお経を主として学ぶのかによって分かれた僧侶の学習グループのようなものであって、独自の教団を持つ宗派とは異なります。

 多くの場合、郷土史においては南都六宗に触れる必要はあまりないのですが、鎌倉時代になると律宗から忍性らが出てきて積極的に社会事業に取り組んだこともあり、鎌倉幕府から招かれて関東にも進出しています。忍性は鎌倉に極楽寺を創建していますが、関東進出の際、宋の寧波出身の石工の流れを引く職人たちを率いていました。大蔵派と呼ばれたその石工集団は相模、常陸を中心に新しい様式の石造物を関東各地に残しており、影響は房総にも及んでいます。

 平安時代には二つの宗派が「平安仏教」と呼ばれて大きな影響力を持ちます。天台宗真言宗です。最澄が唐からもたらした天台宗は兼学・兼修の立場(様々な仏典に学び、様々な修行方法を通じて仏の世界に迫る)から仏教の「総合大学」的な存在となります。鎌倉新仏教の開祖たちが皆、一度は天台宗で修業し、学んだ経歴を持つのも、天台宗の持つ教えの幅広さ、包容力があったからかもしれません。

 空海が唐からもたらした真言宗は密教と呼ばれるグループに属します。それまでの日本の仏教は顕教と呼ばれて南都六宗のようにお経から学び取る側面が大きく、学問的性格が強かったと言えます。しかし顕教の場合、文字だけで語りつくせない仏教の深遠さを実感する上でどうしても物足りない側面があるのは否めません。

 文字では十全に示せない教えの本質を重視する立場を密教と言い、不可思議な儀式や真言(お釈迦様の時代の言葉)を唱えることなどを通じて仏と一体となる(=即身成仏)ことを目指します。当時の貴族たちはその目新しい儀式や聞きなれない真言の響きに驚嘆し、現世利益的魅力もあって瞬く間に真言宗の虜になったといいます。

 真言宗の修行における中心は和歌山の金剛峯寺に置かれました。房総は黒潮の流れも手伝って弥生時代の終わりごろから既に和歌山や阿波などから人々が新しい文物を携えて移住してきましたから、真言宗もたちまち房総に伝来し、定着していきます。これが千葉県で真言宗寺院が最大の多い理由だと考えられます。

 

 やがて天台宗でも密教の魅力を取り込もうとして次第に密教化していきます。

 

 平安仏教は平安時代後半に入りますと、寄進地形荘園の拡大も手伝って次第に世俗化していき、様々な腐敗が目立つようになってきます。12世紀以降、武士が政治勢力として急激に台頭してきますと、腐敗し、貴族化した平安仏教を批判する傍ら、武士や民衆をも救済対象とする新しい教えが天台宗の中から続々と登場してきます。

 まず念仏系の宗派からまいりましょう。念仏系最初の宗派である浄土宗は10世紀から広がった末法思想によって力を得た浄土信仰が宗派として成立するうえでの土台となります。末法思想によりますと、日本では1052年から末法の世に突入するとされ、末法の世では戦乱や天災が相次いでこの世は地獄の様相を呈してくるだろうと予言します。したがって来世は阿弥陀如来のお導きにより極楽浄土に生まれ変われるよう、造寺造仏に励み、ひたすら念仏「南無阿弥陀仏」を唱えて阿弥陀如来におすがりなさいと説いたのが浄土信仰でした。

 法然は浄土信仰の教えをさらに発展させました。貴族らとは違って造寺造仏など論外で、難しい経文を読むこともできない民衆にも慈悲深い阿弥陀如来は救いの手を差し伸べてくれる(他力本願)とし、ただ一言、念仏だけ唱えなさいと法然は説いたのです。

 以後、念仏系の流れは誰もが等しく阿弥陀によって救われる、という平等性を徹底して追求していくことになります。

 法然の弟子、親鸞は毎日、念仏を繰り返し唱えるゆとりすらない、最下層の人々をも救済の対象に据えていきます。虚飾と不誠実を嫌う親鸞は自ら肉食(にくじき)・妻帯の破戒僧としてふるまうことで阿弥陀の慈悲の力がいかに絶大であるかを身をもって示そうとしました。

 有名な「悪人正機説」は破戒を繰り返さなければ生きていけない人びとに対して、阿弥陀にすがる信心さえあれば必ずや救われることを説いたものです。

 以上が浄土真宗の基本的考えです。

 一遍は一層、阿弥陀の慈悲の力を絶対視し、既にすべての人々は阿弥陀によって来世、極楽浄土にいく(=往生)ことは約束されていると説きました。したがって人々は慈悲深い阿弥陀にただ感謝すればそれで良い…これが時宗です。一遍の教えは極楽往生のためには信心すら不要と説く点で宗教の枠すら超えかねない、究極の平等思想に到達した教えと言えましょう。

 

 念仏系宗派の教えにあからさまな嫌悪感を表明したのが日蓮でした。日蓮は法華経の教え以外は不要とし、ひたすら法華経に学び、お題目「南無妙法蓮華経」と唱えることを説きます。そして鎌倉の辻に立ち、「四箇格言」のような激しい表現で他の宗派を攻撃しました。ちなみに「真言亡国禅天魔念仏無間律国賊」という言葉から、当時の鎌倉で流行していたのが真言宗、禅宗、念仏系、律宗であったことが分かります。

 法華経の教えに基づく政治改革を唱えてどんな迫害をも恐れず、鎌倉幕府に「立正安国論」を突き付けた戦闘的な日蓮からすれば、現世を諦めて来世での極楽往生を願う念仏系はとりわけ無気力で堕落した教えと見えたのでしょう。

 現世での社会のあり方を重視する現実的な性格から日蓮宗はもっぱら都市部の商工業者の間で広がり、次の室町時代には京都で大きな力を持ちます。仏教嫌いの織田信長が京都の宿泊所に日蓮宗の本能寺を選んだ背景には日蓮宗のもつ現実的でチャレンジングな性格が寄与したのかもしれません。また日蓮宗寺院の多い千葉県で念仏系宗派の寺院が妙に少ない理由も察せられますね。

 

 ちなみに日蓮が四箇格言から外した天台宗では「朝題目、夕念仏」といわれ、「南阿妙法蓮華経」は決して日蓮の専売特許ではありません。もちろん「南無阿弥陀仏」も念仏系の専売特許ではなく、座禅すら、天台宗の修行の一つだったのです。天台宗が鎌倉新仏教の生みの親的存在だったことがよく分かるエピソードです。

 

 しかし天台宗と鎌倉新仏教には決定的な違いがあります。様々なお経や修行方法の功徳を説く兼学兼修の天台宗に対して鎌倉新仏教は的をピンポイントに絞る「選択・専修」の教えだった、ということです。沢山のお経を読んだり、様々な修行をするゆとりや力の無い民衆をも対象に救済を唱えるには「選択・専修」の教えは必須だったのでしょう。

 振り返りますと天台宗はあらゆるお経を読解し、様々な修行を試すことが出来る専業の仏教従事者である僧侶と造寺・造仏が可能な貴族層といったエリート層、上流階級限定の教えだった…といえるかもしれません。

 

 最後は禅宗です。念仏系や日蓮宗は日本でかなり独自の発展を見せた宗派といえるのでしょうが、こちらは宋からもたらされた宗派です。特に臨済宗はその厳しい教えが武士の精神修養に役立つとの観点から歴代の武家政権によって手厚い保護を受けたため、急速に広まりました。

 禅宗は曹洞宗の「只管打坐」という表現に見られるように座禅による修行を最重視し、徹底的な出家主義をとって厳しい戒律を課す点で他の宗派とは際立った違いを見せます。ある意味で超エリート主義であり、その禁欲性の強さからも、決して一般民衆向けとは言えないでしょう。しかし次の室町幕府も臨済宗を重視し、世俗化する中でたちまち全国に広がります。なお江戸時代には曹洞宗が急速に力をつけて臨済宗を逆転し、現在に至ります。

 栄西の書いた「興禅護国論」の題名から察せられるように、禅宗も大乗仏教に属するのですが、修行を通じて個々人の悟りを深めていくことを重視する点で上座部仏教と似通った性格が伺えます。

 

 中世に入ると鎌倉新仏教に押されて平安仏教がやや衰退気味となり、天台宗でも、真言宗でも守旧派と改革派に分かれて激しく対立しました。そのうち真言宗では高野山金剛峰寺の守旧派から分かれ出た改革派の勢力が根来寺を創建。やがて根来寺が大きな力を持ち始め、戦国時代には鉄砲衆も加わって一大勢力となります。

 しかし豊臣秀吉によって焼き討ちに会い、大勢の僧侶らは一旦散り散りになりますが、京都の智積院に再結集した勢力と奈良の長谷寺に再結集した勢力とにほぼ二分されました。それぞれ智山派豊山派とよびますが、本質的な教えの違いは見られないといって良いでしょう。また根来寺に戻り、再興させたグループは真義真言宗と呼ばれます。市原市内ではこの三つのグループを知っていれば十分です。

 また日蓮宗でも14世紀、京都妙満寺を拠点とするグループが日什を頂点に妙満寺派(顕本法華宗…日蓮原理主義的な強硬派からなる日蓮宗内のグループ)を結成しています。

 15世紀末、妙満寺派の日泰が土気の領主酒井定隆に重用され、酒井の命令で「七里法華」(酒井氏の領地の寺をすべて日蓮宗に改宗させた?)が実現していったといわれます。また江戸時代、キリスト教と同様に危険視された不受不施派も妙満寺派の流れに属し、幕府から処刑されたり、島流しになった信者や僧侶が「七里法華」地帯から出ています。他の宗派を排撃した日蓮の流れを強く引くのが妙満寺派(顕本法華宗)と見てよいでしょう。この辺りは千葉県の郷土史の基本的知識となります。

 

 

 

 

その9.お寺の基礎知識(前編)

 

 市原市に限らず、地元にどんなお寺や神社があるのかを知っておくと、地元の歴史を知る上で大いに役立ちます。もちろん、日頃の散歩やサイクリングコースの設定にも関わってくるでしょう。多くの場合、寺社には歴史的な味わいに加えて緑豊かな所が多く、自然にも癒されます。

 そこでまずお寺からご案内いたしましょう。まずお寺の場合は神社と違っていつもいつも気安く、足を踏み入れることができない場合があるので要注意。法事や墓参りなどの時には特に配慮に欠けた行為(写真や動画の撮影など)は禁物です。

 さてお寺に立ち寄る前に予め知っておくと便利なことがあります。お寺の宗派です。実は地域によって宗派別の寺院数には大きな違いがあります。地元にはどんな宗派の寺院が多いのか、またなぜその宗派が多いのか…ということを探ると郷土史への理解が深まります。

 以下、参考までにカッパの地元、千葉県や市原市の状況をご覧いただきましょう。データは10年以上前のものですが、この間、寺社数はそれほど大きな増減がないだろうと考えています。少なくともおおよその傾向はつかめるでしょう。

 なお、神社を含めて地域の寺社の概要をつかむには都道府県(教育委員会の場合も)のホームページから「宗教法人名簿」の一覧を眺めるのが一番。ただし各市町村での宗派別寺院数は県の宗教法人名簿の記載を元に、かなり面倒ですが、ご自分でカウントしなければならないかもしれません。

 

地元の宗派別寺院数:宗教法人名簿より

1.市原市

宗派

寺院数

真言宗

 

 

 

 

 

豊山派

59

智山派(含む宝性寺)

13

新義真言宗

16

善通寺派

1

信貴山真言宗

1

山階派

1

真言宗全体

91(44.8%)

天台宗

24(11.8%)

浄土宗

5(2.5%)

浄土真宗本願寺派

2(1%)

日蓮宗

 

日蓮宗

24

顕本法華宗

16

日蓮宗全体

40(19.7%)

臨済宗

 

0

曹洞宗(含む橘禅寺)

38(18.7%)

単立(本伝寺・妙典寺・寶徳寺)

3(1.5%)

総計

203

 浄土真宗の二寺は近代以降、新設された寺院。全国では最も多い浄土真宗の寺院が市原では極めて少ないこと、臨済宗寺院が一つも見当たらないこと、真言宗が突出しており、次いで日蓮宗と曹洞宗が伯仲していること、天台宗寺院の立地が内陸部に偏っていること、などが市の特色として指摘できよう。なお真言宗智山派の有名寺院としては成田山新勝寺や川崎大師、豊山派では東京の護国寺、西新井大師がある。

 神社数は228(内、神社本庁に属さないものは3で神習教2、御嶽教1)。

 なお「市原郡誌」(大正5年)では養老などを含まない郡内で真言宗105、日蓮宗49、曹洞宗41、天台宗40(→24)、浄土宗6(計241カ寺)となっており、この百年近くの間にも多くの寺院が消滅している事が分かる。特に天台宗寺院の減少ぶりが目立っていよう。

 

2.隣接する地域の数値

①袖ケ浦市の宗派別寺院数

宗派

寺院数

真言宗

豊山派

1

智山派

26

新義真言宗

7

信貴山真言

1

真言宗全体

35(64.8%)

天台宗

0

浄土宗

1(2%)

浄土真宗(本願寺派)

1(2%)

日蓮宗(顕本法華宗)

2(3.7%)

曹洞宗

9(16.7%)

臨済宗

0

単立

6

総計

54

   真言宗が突出している中で市原と違って智山派の多さが目立つ。また天台宗が0なのも注目されよう。臨済宗が皆無で浄土宗、浄土真宗も極めて少ない点は市原市と同じ傾向である。ただ日蓮宗の少なさは市原とは大きな違いといえよう。同じ上総国で隣接する、と言っても姉崎と長浦間の交通がかなり不便だったこともあったようで、意外なほどに宗派別の構成が市原とは異なる。

 

②木更津市の宗派別寺院数

宗派

寺院数

真言宗

豊山派

36

智山派

19

高野山

1

真言宗全体

56(62.2%)

天台宗

0

浄土宗

4(4.4%)

浄土真宗

1(1.1%)

日蓮宗

日蓮宗

5

日蓮正宗

1

顕本法華宗

2

本門佛立宗

1

日蓮宗全体

9(10%)

臨済宗

3(3.3%)

曹洞宗

13(14.4%)

黄檗宗

1(1.1%)

単立

3(3.3%)

総計

90

       

 隣接する袖ケ浦市と違って市原市と同様に真言宗では豊山派が多い。日蓮宗は袖ケ浦ほどではないが、県内としては少ない方であろう。また真言宗が圧倒的に多いのも袖ケ浦と似ている。智山派か豊山派かを問わなければ基本的には袖ケ浦と似た構成といえよう。とすれば市原の宗派別寺院数は下表で見られるように千葉市の影響(真言宗豊山派が多い、日蓮宗が多い)と袖ケ浦方面の影響(曹洞宗がやや多い)とを受けて折衷的に形成されてきたのかもしれない。

 

③千葉市の宗派別寺院数

宗派

寺院数

真言宗

 

 

豊山派

41

高野山派

1

真言宗全体

42(34.4%)

天台宗

7(5.7%)

浄土宗

4(3.3%)

浄土真宗

 

 

本願寺派

2

大谷派

2

浄土真宗全体

4(3.3%)

日蓮宗

 

 

 

 

 

日蓮宗

23

顕本法華宗

13

日蓮正宗

5

本門流

2

陣門流

1

本門佛立宗

2

 

日蓮宗全体

46(37.7%)

曹洞宗

10(8.2%)

臨済宗(妙心寺派)

1(0.8%)

単立

8

総計

122

       

 市域の南部が七里法華地帯に属するため、トップは日蓮宗寺院であり、二位に真言宗。ただし真言宗智山派は皆無である。現在の人口の割にはそもそも寺院数が少ない(市原が人口24万人で203なのに千葉市は人口96万人に対して122。割合的には7倍近くの格差がある)。ちなみに袖ケ浦市は人口6万人に対して寺院数は54であり、割合としては市原市と大差がない。他方でキリスト教や天理教などの施設は市原よりも多いようだ。天台宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗は市原や袖ケ浦と同様、数が少ない。外部からの人口流入の多さが伺えよう。

 

3.千葉県全体と国全体の数値:宗教年鑑より

 

真言宗

日蓮宗

天台宗

曹洞宗

浄土宗

臨済宗

浄土真宗

その他

県内

2999

1109

(34%)

1位

809

(27%)

2位

367

(12%)

3位

324

(11%)

4位

150

(5%)

5位

73

(2.4%)

6位

48

(1.6%)

7位

119

単立103

市内

200

90

(45%)

1位

40

(20%)

2位

24

(12%)

4位

37

(18.5%)

3位

(2.5%)

5位

無し

無し

全国

73287

12105

(16.5%)

3位

6763

(9.2%)

5位

4054

(5.5%)

7位

14562

(19.9%)

2位

8076

(11%)

4位

5692

(7.8%)

6位

20517

(28%)

1位

1518

※市原市のデータは1992年のもので古いため、現況と少しだけ数値が異なる。

 千葉県全体ではやはり真言宗が多く、日蓮宗がこれに続く。ただし3位に天台宗が入る点が、市原市、袖ケ浦市、千葉市と食い違うポイント。つまり市原周辺では市原を除いて天台宗が極めて少ない点が県とは異なり、非常に注目される地域的特色といえよう。浄土系の宗派と臨済宗も極めて少ないがこれは県全体の傾向。浄土真宗が全国レベルでは最も多いのに対して県内では6位である点と全国で5位の日蓮宗が3位の天台宗に大差を付けて2位に食い込む点は千葉県としての最大の特色と考えられる。

 

4.茨城県との違い

 

茨城県

千葉県

1位

真言宗 467

真言宗 1109

2位

曹洞宗 194

日蓮宗 809

3位

天台宗 191

天台宗 367

4位

浄土真宗 108

曹洞宗 324

5位

浄土宗 102

浄土宗 150

6位

日蓮宗 91

臨済宗 73

7位

時宗 53

浄土真宗 48

8位

臨済宗 38

時宗 8

 隣接する茨城県との大きな違いは日蓮宗の順位と念仏系宗派の順位の差であろう。親鸞が長く滞在した茨城では浄土真宗寺院が多い。また一遍も滞在しており、全国的にはかなりマイナーな存在の時宗が意外に多いことにも気付く。その分、日蓮宗は少なく、全国レベルと大差ない。他方で真言宗寺院の多さと臨済宗寺院の少なさは千葉県とよく似ている。

 

その8.伊能忠敬測量日誌より

―千葉県史史料近世篇より―

 

   以下は伊能忠敬が数えで57歳のとき(享和元年=1801年)に行った房総測量の際の日誌から市原地区中心に抜粋したものです。

(これまで地図の話が続いてきたので、さすがに千葉県の代表的な偉人伊能忠敬の業績に触れないわけにもいきません。)

 

 1801年6月、一行は江戸湾岸沿いを南下しながら測量しています。ここでは検見川からの行程を概略、追ってみましょう。なお通過した村の領主名、石高が必ず記載されていますが多くは省略いたします。

 

・20日七つ半頃に一行は検見川に到着し、一泊。家数は350軒、記録には「此夜大曇

 天」とあります。

・21日朝は曇りであしたが、五つ後にはだんだん晴れてきて午前中は晴天。六つ半前

 に宿を立ち、稲毛村に向かいます。稲毛村家数164軒。黒砂村25軒、登戸村150

 軒、寒川村375軒「此村駅場なり」。検見川から2里(約8km)の行程。

 途中略。

 曽我野村600軒余り。寒川から1里。生実新田200軒余り。濱野村本行寺門前36

 軒。「此所も駅場也」。村田村(ここまでは下総国千葉郡)81軒。

 

・八幡村(八幡宿と云、上総国市原郡)382軒、1513人、石高1256石余り。「此村

 も駅場也」。五所村95軒、450人。金杉濱村(三ヶ所塩場)1軒。君塚村68軒。五

 井村に八つ頃到着(宿屋と云。名主甚五左衛門=中島家か)614軒。2234石余り。

 有馬備後守の陣屋あり。甚五左衛門宅が本陣であり、そこに止宿。この夜曇天の中

 「少々測」。

  なお一行はこの日、およそ5里(約20km)の道のりを測量しながら歩いたこと

 になります。

・22日朝から晴れ、「少し白雲」。六つ半後、出立。「五井村は海へ遠し」。岩崎新

 田75軒。玉前新田130軒。松ヶ嶋村55軒。青柳村184軒。今津朝山村は家数の記載

 なし。姉崎村401軒。水野壱岐守領分。名主新兵衛、五郎兵衛。姉崎まで五井から

 1里半(約6km)。椎津村160軒。

 代宿村(ここから上総国望陀郡)64軒。久保田村120軒。蔵波村168軒。奈良輪村

 162軒。姉崎からここまで2里(約8km)。牛込村80軒。中嶋村(272軒)に七

 つ後、到着。

  この日、木更津町まで行くはずでしたが、間に合わず、急きょ宿をとることにな

 ったようです。

 この夜、晴天。測量。

・この日は4里(約16km)の行程を進んでいますが、やはり当時の姉崎から袖ヶ浦

 にかけての海岸部は岩場と急峻な崖にはばまれて歩きづらかったと思えます。

・23日朝から晴天。朝六つ半前、中嶋村を出立。以下略。木更津町に九つ少し前、到

 着。943軒。名主八左衛門宅に宿をとる。この夜晴天、測量。

 

 以上の記述から…

 八幡宿382軒、五井614軒、姉崎401軒という記録から五井村が市原郡の海岸部では当時最大の村であったことが確認できます。養老川の水運と五大力船などによる江戸との海運、房州往還、久留里街道等、交通、物資流通の要所として五井村は発展してきたようです。なお有馬備後守の陣屋の跡地に現在、JR五井駅が置かれています。また五井村の名主甚五左衛門は五井戦争で登場する中島甚五左衛門の先祖でしょう。とすれば伊能忠敬が宿泊した屋敷は五井駅西口から出て北側へ100m弱歩いた所、旧五井小学校跡地付近にあったと思われます。

 五井村は海岸線から離れており、伊能一行はあくまで宿泊のために立ち寄ったにすぎないと思われます。朝、五井村を出立した一行はおそらく吹上あたりの渡し船に乗って養老川の対岸に渡り、海岸線の測量のために岩崎新田の海岸部に出たものと思われます。

 

 さて、時折、歴史散歩に必要な地図として伊能忠敬らの作成した「大日本沿海輿地全図」を考える方がいらっしゃるようですが、残念ながらほぼ役立ちません。なぜなら、当時としても極めて正確な測量地図ではあるのですが、基本的にはあくまで日本の輪郭、海岸線を描いているに過ぎない地図ですので、海岸線の内側は不明のままです。日本の海岸線の内側まで測量して出来上がった最初の地図が明治中頃に出来た迅速測図ですので、私たち鎌倉街道を歩く会は歴史散歩の資料を作る上で頻繁に迅速測図を利用しています。

 

 皆さんも、迅速測図、特に迅速測図と現代の地図とを対応させた歴史的農業環境閲覧システムが提供している比較図をご覧になってみてください。今いる自分の場所が1880年代、どのような場所だったのか、集落の様子や土地利用の様子まで分かります。これはカッパイチオシの歴史地図。地図の作成が1880年代ですから、ほぼほぼ江戸時代末期の村の様子や道路も推定できます。

その7.岩崎の村絵図

 

 

 今回は養老川の河口、左岸に位置する岩崎という集落の歴史を村絵図でたどっていきたいと思います。これまで見てきた川岸の対岸にあたる集落です。上の地図(グーグルマップ)ではゼットエーボールパーク周辺になります。

 岩崎は町人請負新田として享保年間に江戸下谷の商人、下村清兵衛らにより新田開発されました。それ以前は養老川の氾濫原であり、一面、芦原、湿地帯が広がる無住の地でした。このとき、五井の領主は大岡忠相とともに将軍吉宗に重用されていた有馬氏倫(うじのり)であり、新田開発を積極的に推進する立場にあったことも、岩崎村成立の背景にあったと推測されます。

 ちなみに大岡忠相の領地も市原市内にいくつかあり、当時の市原郡には天領、旗本の領地が多かったようです。また、そのため養老川の度重なる決壊は幕府の頭痛の種だったらしく、江戸では悪名高い「暴れ川」の一つとして知られていたといいます。

 度重なる養老川の洪水と高潮によって岩崎でも多くの古文書を失ってきました。しかし幸いに代々、名主を務めてきた中村家に200年以上前の村絵図が残されております。今回はこの絵図から村の歴史を読み解いていきます。

 図中の青い矢印はかつてここを川が流れていたことを示します。そしてかつての河口にあたる湿地帯が当時も残されていて、村人の共有地「葭場(よしば)」とされていました。ここの葭は屋根を葺く材料とされていたのでしょう。また図の上部に「潮除け堤防」と記されていて、高潮の被害を防ぐための防潮堤が海岸線に築かれていました。

 集落の様子を確認するために絵図を拡大してみましょう。

 この集落(黄色の線で囲んだ部分)も河岸と同じく細長いのですが、平行線のように二列となっているのが岩崎の特色。この集落の形から以下のようなことが推測できます。

 開発に乗り込んだ人たちが最初に道を造り、家を建てたのは微高地の上であったと思われます。村域のほとんどが低湿地であったこの地域で数少ない微高地はかつて川が流れていた地帯の両側。すなわち帯状の微高地となっていたかつての自然堤防であったと推測されます。村の中央、水田の真ん中の赤い星印は水運の神様である弁天様(現在は厳島神社)であり、このことも岩崎が度重なる水害に悩まされてきた苦難の歴史を物語るのです。

 この地域の様子は空中写真でも確認できるでしょう。

 1961年の空中写真でも村の中心部をかつて川が流れていたことが確認できます。川跡の土地利用は大抵、水田であるため、戦後の空中写真でも川が流れた痕跡はかなりの精度で確認できるのです。

 

  さて、最後に養老川をはさんで対峙する川岸と岩崎、開村後、それぞれどのような歩みがあったのか、村の鎮守を比べてみましょう。

 こちらは川岸の神社で当時の領主は将軍吉宗の寵臣として権勢を誇った有馬氏倫。

その有馬氏の肝入りで創建されており、小さな神社の割にはかなり贅沢な造りとなっています。そもそも「富貴稲荷」と名付けられているではありませんか。

 社殿はおよそ200年ほど前に再建されていて本殿の壁面には手の込んだ浮彫が施されていて、贅沢そのもの。鳥居は1858年のもので、石材は関西方面から船でもたらされたであろう御影石。これも実はかなりの贅沢です。

 対して…

 コンビニの隣に立地していて社殿も贅沢なものではありません。真新しい社殿の裏には江戸時代の小さな鳥居があるのですが、水害か地震で大きく損壊したようで半分以上は新しい素材で補修されています。

 

 実はカッパの母の実家が岩崎、女房の実家が川岸なので、私はこの二つの集落の歴史にいつも興味を持って調べてきました。しかしある時、私の先祖は岩崎の人だというと、川岸の人にこう返されたことがあります。「ゲェロクイの岩崎か」

 …これ、地元の言葉でカエルを食べているほど貧しい連中、という意味。つまり岩崎への蔑みのセリフでした。面と向かって言われたので、呆然とするほかなかったのを覚えております。

 また岩崎出身の方が医院長を務めている病院のことを川岸の方が「貧乏病院」と言っているのを幾度も聞いたことがあります。

 ことほど次第、両村は経済的には対照的な歩みを辿ってきたのです。

 もちろん、カッパといたしましては川の洪水と海の高潮の往復ビンタを何度も食らわせられつつ、歯を食いしばって生きてきた岩崎の歩みにある種の誇らしさを感じないわけではありませんが…

 

その6.川岸の「海軍道路」

 

 今回は「その3」で予告していた空中写真の解説をいたします。確か下の写真でしたね。敗戦後間もなくの1947年2月に撮影されたものです。市原の海浜部の埋め立てはその多くが基本的には1957年以降の高度成長期に行わています。

 しかし10年前の1947年の写真で既に埋め立てられていたと思しき真ん中の白い部分、特にやや右下のほぼ四角形に区画された箇所。それに白い四角形の左辺につながる縦の南北に伸びた細い直線がかすかに見えるでしょうか。

 何だか大規模な建設現場を思わせるこれらは、一体何なのでしょう?

   以下、田所真氏の「三寒四温 京葉工業地帯の誕生」の記述に基づいて当時の出来事を解説してまいりましょう。

養老川河口付近の空中写真(国土地理院)

 

 もう少し拡大して見てみましょう(下図)。前にもふれた五井の町中から川岸に向けて直線的な道が江戸時代からありました。その道が川岸の集落に達したあたり(左手にセブンイレブン)で右(東方向)に急カーブし、やがてまた緩やかに左へカーブしながら工場地帯が広がる北に向かい、約1㎞ほど真っすぐに伸びていく道路…これが黄色の線です。この道、どうやら海浜部の埋め立てに先立って設けられたようです。おそらく埋め立て工事用の直線道路。道理でこの時代にしては幅の広い道。ここを土砂を満載したトラックがひっきりなしに海へ向かって走っていたのでしょう。

 これこそが地元の古老が口にする、通称「海軍道路」。

 実は田所氏によると米英との決戦が近づき、帝都防衛を強く意識した海軍が敵軍の帝都来襲を直前で阻止するため、東京湾上のしかるべき場所に飛行場を建設する計画が開戦以前からあったようなのです。そしてここ、川岸に戦闘機の飛び立つ海軍航空基地建設のための埋め立てが行われた…それが白く見える箇所でした。1940年にはほぼ埋め立てが終わり、飛行場建設に着手しようとした矢先の1941年、太平洋戦争がぼっ発。戦争に追われた海軍は忙しさのあまり、せっかくの飛行場建設を諦めざるを得なくなった、とのことだそうです。

 ちなみに戦後しばらくして、日本の戦死者を慰霊するため、忠魂碑が各地に建てられますが、その多くは陸軍出身者か靖国神社の宮司、ないしは政治家(首相、県知事ら)が揮ごうしています。しかし市内には海軍出身者が揮ごうした忠魂碑が少なからず存在する背景に、「海軍道路」などの建設を通じて結ばれた市原と海軍との縁があったのかもしれません。

黄色の直線が「海軍道路」

 

 ところで仮に海軍航空基地建設が開戦に間に合っていたとしたら、どんな事態がこの地に訪れていたのでしょう。隣の千葉市蘇我では埋め立て地に日立の戦闘機工場などがあったため、大戦末期には繰り返し空襲を受けています。

 おそらくアメリカ空軍なら真っ先にここ、市原の海浜部を執拗に猛攻撃し、焼け野原にしていたはず。きっと五井の町も巻き添えを受けて空襲で相当、やられてしまったと思います。

 …とすればカッパはこの世に存在していない…はずでした。

その5.続々地図を読む

 

 川岸の集落が川船と五大力船の船着き場を併せ持つ、水運の要として五井の町の発展に欠かせない役割を果たしてきた事は澪(みお)や河岸(かし)の存在から裏付けられるでしょう。

 なお五大力船は喫水が浅く、河口からでも侵入できる利便性の高い船として昭和時代初めまで内湾で活躍した船です。ですから潮の具合や澪の混み具合によっては河岸にも五大力船が着岸することはあったかもしれません。しかし河口部は前々回の空中写真(その3 参照)で分かる通り、養老川が上流から運んだ土砂が厚く堆積し、座礁するおそれが大きいと思われ、基本的には澪を利用したのではないかと私は推定しています。

五大力船の模型(市原市歴史博物館)

 

 実はもう一つ、利用価値の高い地図があります。ゼンリンの住宅地図です。この地図は地番と宅地の区割りが分かるので、そこから集落の歴史、旧家の立地などが推測できる場合があります。

 かつての澪は存在しません。しかしこの地図の赤い矢印で分かるように、澪のあった箇所は急に道幅が倍以上、広くなっています。

 そして特に注目すべきは宅地の区割り。まるで新興住宅の分譲地のように短冊型の整然とした区割りが観察できます。こうした区割りは集落がその成立当初から人工的に、計画的に作られた宿場町や城下町に見られるもの。川岸の場合は五井の代官が町の発展を期すべく、この土地を当初から水運の要として計画的に開発して造られた「港町」であったことが分かるでしょう。

 実は川岸、かつては「湊新田」と呼ばれていました(享保年間)。当初から川と海の港として機能するよう、きっちりと計算されて道路や街並みが造られていたと断定しても構わないのです。

 状況証拠はまだあります。

 

 まず右端、1680年の年号がある法華曼荼羅(ご本尊)に注目してください。さらに左の石造物、1692年の聖観音が川岸最古のものであることも心にとどめておきましょう。この二つ、年代的にそこそこ近接していますね。

 日蓮宗寺院が多いことで知られる千葉県なので、市原でも日蓮宗寺院は真言宗寺院につぐ数の多さを誇っています。ところが不思議なことに市内最大の町、五井には一つも日蓮宗寺院が存在しません。しかしなぜか日蓮宗寺院の門徒が五井の一画、川岸に集中して存在しています。旦那寺は隣町の八幡円頓寺。日蓮宗妙満寺派の重要な寺院です。どうして八幡の寺の檀徒が川岸にいるのでしょうか。不思議ですね。

 法華曼荼羅の持ち主はゼンリンの住宅地図で緑の印がついている場所に屋敷がありました(現在は五井に引っ越し)。この近くの住人に日蓮宗門徒が多いようです。

 さて次のポイントは八幡がどういう歴史を持つ町なのか、ということ。八幡は飯香岡八幡の門前町、そして有力な港町として中世には五井をはるかにしのぐ繁栄ぶりを示していました。17世紀にはいっても船が行きかう港町…

 代官は五井の表玄関としての発展を期したい川岸をできるだけ早く港町として機能してもらうには何が一番手っ取り早いか考えたはずです…答えは簡単です。操船と交易ともに熟練した八幡の住人を川岸に数多く引き抜き、五大力船の船主として澪に沿った細長い宅地に住まわせる…これです。

 ちなみに日蓮宗の信者はその現実的な教えから商工業者が多かったようです。

の先祖も五大力船の持ち主だったことは郷土史家の高澤恒子先生によって確認されております。

 どうですか。もう謎の多くは解けてきたと思います。五井の代官は八幡から新田開発の要員として水運に従事してきた者を引き抜き、川岸に移住させて早速、水運に携わらせたと考えます。川岸の開村は印の先祖が八幡に住む本家から分家し、円頓時の住職に法華曼荼羅を新たに書いてもらった1680年頃で間違いないでしょう。

 真ん中の1772年の法華曼荼羅は印の先祖が100年近く経ってまた分家した時、再び円頓寺住職に書いてもらったもの。その後、川岸における本家が衰退してしまったため、本家に伝わる1680年の法華曼荼羅を受け継いだものと思われます。

 

 以上、いかがでしたでしょう。推理する醍醐味を味わえたでしょうか…

 次回は今まで見てきた川岸の集落に関する昭和のゾッとするお話、「海軍道路」について眺めてみましょう。

 乞うご期待。

 

その4.続地図を読む

 

 さて、「地図を読む」のレッスン編に移りましょう。

 その3で歴史散歩に必要な地図として迅速測図と現代の地図との「比較図」、それに戦後間もなくの白黒で撮影された空中写真、それらをどう読み込んでいくのか、講演会での実例を挙げて解説してまいります。

 場所は養老川河口の右岸、川岸地区になります。

 まず、普通のグーグルマップで見てみます。川岸は地図の右側の上半分、JR五井駅の北方、赤い字で記された五井グランドホテル付近からビジネスホテル五井温泉付近にかけての地域にあたります。

 過去、高潮に再三、襲われたせいか、この地区にはあまり古文書が残されていません。どうやら村絵図もなさそうです。つまり、幸いにして苦手な古文書類の読解に悩まされることはありません。

 ですから地図などからの推理で史料の不足分を相当、補っていく必要があります。しかしそれがかえって私たちの想像力をいたく刺激してくれるのです。

 私の見立てでは川岸はおそらく17世紀後半に代官が開発させたいわゆる代官見立て新田です。なぜ、そう推理するのか、これから理由を申し上げてまいりましょう。 

 早速、比較図(歴史的農業環境閲覧システムより)を見ていきます。左側がほぼ江戸時代末期位の状況が推理できる1880年代に作成された迅速測図、右側が現代の地図。まず海辺に注目。工場地帯造成のため、1960年代から埋め立てられたので昔と今とでは海岸線がかなり異なることが分かるでしょう。この比較によって埋め立て以前の海岸線が分かるのです。

 さらに拡大して集落の様子などを見ていきましょう。

 さて、いかがでしょう。左側の迅速測図で確認できる川岸の集落はまるでインゲンマメのように細く長く弓なりに連なった形状です。そして川沿いにもまばらですが小屋のようなものが立ち並んでいるようです。なぜ、どのような目的があってこんな形の集落になっているのでしょうか。推理してみてください。

 もう一つ、迅速測図の右上あたりからかなり太い水路=澪が集落に向かって伸びていることに注目してください。この集落、どうやら水運と関りが深そうですね。

 養老川の上流から運ばれてくる年貢米、木材、薪炭(上総国の特産品だった)などが川岸(川沿いに川船が着岸できる場所があったはず。小屋は荷揚げした荷物を一旦、収納する)で陸揚げされていたのでしょう。その多くは江戸へ送るため、澪(太い水路=運河)で今度は五大力船に積み替えられたようです。もちろん当時、市原郡で最大の町だった五井に一旦、集積された物資もその多くが五井から直線的に造成された道を通じて川岸に運ばれ、澪で五大力船に乗せられて江戸へもたらされたと考えられます。

 物資の流れは一方通行ではなく、逆向きで江戸の物資はまず川岸にもたらされ、陸路、五井の町に運ばれたのです。さらに川岸で川船に乗せられ、養老川の上流(養老渓谷の手前まで)にも、もたらされていたようです。

 川岸はこうして主に水運の拠点となり、五井の町の発展を支えてきたのです。

 今回はこれまで。

 次回は推理を固めていくうえでの状況証拠を示していきましょう。