その7.岩崎の村絵図

 

 

 今回は養老川の河口、左岸に位置する岩崎という集落の歴史を村絵図でたどっていきたいと思います。これまで見てきた川岸の対岸にあたる集落です。上の地図(グーグルマップ)ではゼットエーボールパーク周辺になります。

 岩崎は町人請負新田として享保年間に江戸下谷の商人、下村清兵衛らにより新田開発されました。それ以前は養老川の氾濫原であり、一面、芦原、湿地帯が広がる無住の地でした。このとき、五井の領主は大岡忠相とともに将軍吉宗に重用されていた有馬氏倫(うじのり)であり、新田開発を積極的に推進する立場にあったことも、岩崎村成立の背景にあったと推測されます。

 ちなみに大岡忠相の領地も市原市内にいくつかあり、当時の市原郡には天領、旗本の領地が多かったようです。また、そのため養老川の度重なる決壊は幕府の頭痛の種だったらしく、江戸では悪名高い「暴れ川」の一つとして知られていたといいます。

 度重なる養老川の洪水と高潮によって岩崎でも多くの古文書を失ってきました。しかし幸いに代々、名主を務めてきた中村家に200年以上前の村絵図が残されております。今回はこの絵図から村の歴史を読み解いていきます。

 図中の青い矢印はかつてここを川が流れていたことを示します。そしてかつての河口にあたる湿地帯が当時も残されていて、村人の共有地「葭場(よしば)」とされていました。ここの葭は屋根を葺く材料とされていたのでしょう。また図の上部に「潮除け堤防」と記されていて、高潮の被害を防ぐための防潮堤が海岸線に築かれていました。

 集落の様子を確認するために絵図を拡大してみましょう。

 この集落(黄色の線で囲んだ部分)も河岸と同じく細長いのですが、平行線のように二列となっているのが岩崎の特色。この集落の形から以下のようなことが推測できます。

 開発に乗り込んだ人たちが最初に道を造り、家を建てたのは微高地の上であったと思われます。村域のほとんどが低湿地であったこの地域で数少ない微高地はかつて川が流れていた地帯の両側。すなわち帯状の微高地となっていたかつての自然堤防であったと推測されます。村の中央、水田の真ん中の赤い星印は水運の神様である弁天様(現在は厳島神社)であり、このことも岩崎が度重なる水害に悩まされてきた苦難の歴史を物語るのです。

 この地域の様子は空中写真でも確認できるでしょう。

 1961年の空中写真でも村の中心部をかつて川が流れていたことが確認できます。川跡の土地利用は大抵、水田であるため、戦後の空中写真でも川が流れた痕跡はかなりの精度で確認できるのです。

 

  さて、最後に養老川をはさんで対峙する川岸と岩崎、開村後、それぞれどのような歩みがあったのか、村の鎮守を比べてみましょう。

 こちらは川岸の神社で当時の領主は将軍吉宗の寵臣として権勢を誇った有馬氏倫。

その有馬氏の肝入りで創建されており、小さな神社の割にはかなり贅沢な造りとなっています。そもそも「富貴稲荷」と名付けられているではありませんか。

 社殿はおよそ200年ほど前に再建されていて本殿の壁面には手の込んだ浮彫が施されていて、贅沢そのもの。鳥居は1858年のもので、石材は関西方面から船でもたらされたであろう御影石。これも実はかなりの贅沢です。

 対して…

 コンビニの隣に立地していて社殿も贅沢なものではありません。真新しい社殿の裏には江戸時代の小さな鳥居があるのですが、水害か地震で大きく損壊したようで半分以上は新しい素材で補修されています。

 

 実はカッパの母の実家が岩崎、女房の実家が川岸なので、私はこの二つの集落の歴史にいつも興味を持って調べてきました。しかしある時、私の先祖は岩崎の人だというと、川岸の人にこう返されたことがあります。「ゲェロクイの岩崎か」

 …これ、地元の言葉でカエルを食べているほど貧しい連中、という意味。つまり岩崎への蔑みのセリフでした。面と向かって言われたので、呆然とするほかなかったのを覚えております。

 また岩崎出身の方が医院長を務めている病院のことを川岸の方が「貧乏病院」と言っているのを幾度も聞いたことがあります。

 ことほど次第、両村は経済的には対照的な歩みを辿ってきたのです。

 もちろん、カッパといたしましては川の洪水と海の高潮の往復ビンタを何度も食らわせられつつ、歯を食いしばって生きてきた岩崎の歩みにある種の誇らしさを感じないわけではありませんが…