11.お寺の基礎知識(後編)
以下、市内の石造物でよく目にする、あるいは法事などでよく耳にする代表的な偈頌(げじゅ:お経の中の短い章句のことで市原市内では法華経の一説が頻繁に登場)の幾つかと多くの人々に暗唱されてきた般若心経を参考までに紹介します。なお経典は書写したり読誦するだけで大きな功徳があるとされ、お経を幾度も書写したり、読誦した記念に石塔を建てることも珍しくはなかったようです。
1.偈頌
・開経偈:作者不詳で特定の経典から引用されたものではありません。しかし読経の
際には宗派を超えて最初に唱えられることの多い最もポピュラーな偈の一つ。
一説には唐の女帝則天武后が高名な禅僧二人を長安に招き、二人の前で唱えたも
のとされます。
無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
読経の際には…
無上甚深微妙の法は 百千万劫といえども遭いあうこと難し
われ今見聞し受持するを得たり 願わくば如来の真実義を解し奉らん
・懺悔文(さんげもん):華厳経の一説。鎌倉時代の初め、華厳宗を再興した明恵上
人が死の間際に唱えたことで後に普及。法事・読経の際、開経偈と同様に冒頭で唱
えられることが多いようです。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
我、昔(=前世)より造るところの諸(もろもろ)の悪業は、皆、無始の貪(強欲なこと)瞋(怒り)痴(愚かさ)による身・語・意(=心)より生ずるところなり。一切を我、今、みな懺悔す。
読経の際は…
無始よりこのかた貪瞋痴の煩悩にまつわれて 身と口と意(こころ)とに造る
ところの諸々の罪とがを皆悉く懺悔(さんげ)し奉る
※ちなみに仏教では貪瞋痴を三毒といい、身語意は三業(さんごう)という。
・四弘誓願(しぐせいがん):原型は「魔訶止観」。禅宗は少し語句が異なる。
衆生無辺誓願度 煩悩無量誓願断 法門無尽誓願智 仏道無上誓願成
すべての衆生を救済し、あらゆる煩悩を断ち、法門をすべて知り、
無上の仏道を成ずるという誓い。
・世尊偈:「法華経」観世音菩薩普門品(ふもんぼん)は特に「観音経」と呼ばれ、
多くの宗派で唱えられる。女性はこの経文を安産・子育てに資するとして子安講な
どで頻繁に唱えた。「観音」とは「衆生の声をよく感じ取る」という意味。苦しん
でいる人々の声を観音は素早く聞き取り、人々を救い出す。そのためには様々な姿
に変化する(→三十三観音→三十三ヵ所霊場)ことができると説く。特に観音経終
わり近くの章句を世尊偈といい、観音の素晴らしさを称える詩句で終わる。子安講
関係の石造物に刻まれることの多い偈である。
具一切功徳(くいっさいくどく) 慈眼視衆生(じげんししゅじょう)
福聚海無量(ふくじゅかいむりょう) 是故応頂礼(ぜーこーおうちょうらい)
意味:観音は一切の功徳をそなえ、慈しみの目で衆生を見、その福徳を集めれば海
のごとく無量である。したがって我らはまさに観世音菩薩を頂礼(五体投地して
敬うこと)すべきである。
・回(廻)向文(えこうもん):法華経化城喩品(けじょうゆぼん)の一説で浄土系
の宗派とは若干、語句が違う。原則として読経の最後の方で唱えられる。なお回向
とは善行の果報を自分だけのものとはせず、あえて周囲の人々に廻らし、周囲の
人々の幸せと安楽を願うもの。世尊偈に次いで市内の石造物(宝篋印塔など)でよ
く見られるポピュラーな偈である。
願以此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい)
我等与衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)
願わくはこの功徳をもってあまねく一切におよぼし
我と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを
・七仏通戒偈:「増一阿含(ぞういつあごん)経」の一説で「諸々の悪をなさず、
諸々の善を奉行し、自らその心を清浄にする。これ諸仏の教え也」。釈迦以前に6人
の仏陀が存在しているとされ、釈迦と合わせて「七仏」と呼ぶ。仏の教え=法は久
遠の過去から受け継がれてきたものであり、この偈は七仏が共に戒めとしたものと
される。仏教の根本精神とされ、市内では下矢田の道標などに刻まれている。
諸悪莫作(しょあくまくさ) 諸(衆)善奉行(しょぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
・無常偈:「涅槃(ねはん)経」の一説。
諸行無常 是生滅法 生滅々已(しょうめつめつい) 寂滅為楽
諸行は無常なり、これ生滅の法なり、生滅を滅しおわりて 寂滅を楽となす
・自我偈:法華経如来寿量品第十六の偈文。自我偈という呼び名は冒頭の「自我得仏
来(じがとくぶつらい)」に由来。
自我得仏来 所経諸劫数(しょきょうしょごうすう)
無量百千万 億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)・・・
我 仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり
意味:私が仏となってから無限のごとく長い歳月が流れた・・・
釈迦の命は永遠であるが仏は迷い苦しむ人々に自らの死を示して人々を目覚
めさせることにより、仏の道を歩むように説く。一切の人々を仏にするのが
仏の誓願である。
日蓮宗寺院の読誦塔などの石造物に刻まれることが多い。また法華経を重視する天
台宗でも当然のことながら自我偈は唱えられる。
・宝篋印陀羅尼経の一文:八幡満徳寺の宝篋印塔の銘文が典型例。
経云 況有衆人 或見塔形 或聞鐸声 或聞其名 或当其影
罪障悉滅 所求如意 現世安穏 後生極楽
「経にいわく いわんや衆人ありてあるいは塔形を見 あるいは鐸声を聞き
あるいはその名を聞き あるいはその影に当たらば 罪障ことごとく滅し
求めるところ意のごとし 現世安穏にして後に極楽に生ずと」
他に「二世(にせ)安楽 現当安穏(あんのん)」、「現世安穏 後生善処」といった語句が石造物には頻繁に登場する。法華経薬草喩品第五の一説などに由来。いずれも現世と来世の安穏を祈る言葉。来世の安穏を祈るのは浄土信仰の影響、現世安穏を祈るのは現世利益を説く密教の影響が強く反映されたものと考えられる。地蔵や観音などに刻まれることが多い。
宝篋印陀羅尼経の一文として紹介した偈の終わり「現世安穏 後生極楽」も「二世(にせ)安楽、現当安穏(あんのん)」、「現世安穏 後生善処」と同じ意味で来世の「安穏」と「後生善処」とはいずれも極楽浄土に往生することを願う文言である。
2.般若心経
紀元前一世紀に在家信者も解脱できることを説く大乗仏教が登場すると、やがて仏陀=如来は出家した僧が修行の後に悟りを開いた者という人間くさい存在から逸脱して、在家信者まで一気に悟りへ導いてくれる超人的存在と捉えられるようになる。この大乗仏教を理論的に大成した一人がナーガールジュナ(龍樹:2~3世紀に南インドで活躍)で「空」の理論を唱えた。600巻に及ぶ般若経に示された彼らの理論をわずか262文字に集約したのが「般若心経」である。その一節「色即是空 空即是色」は有名。江戸時代、巡礼や遍路の旅に出る際、般若心経を「ご詠歌」とともに唱える風習が生まれたため、庶民にとってもっとも身近なお経となった。ただし浄土真宗と日蓮宗はそれぞれ念仏と題目こそが仏教のエッセンスと捉える立場から般若心経を唱えない。また真言宗では空海が般若心経を釈迦が唱えた経と考えたため「仏説」という語句をこの般若心経の冒頭に付けて唱えている。
①摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)
※般若波羅蜜多:涅槃寂静とほぼ同じで「智慧の完成」に至ること
観自在菩薩(かんじざいぼさ) 行深(ぎょうじん)般若波羅蜜多時(はんにゃはらみたじ) 照見五薀(しょうけんごうん)皆空(かいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく) 舎利子(しゃりし) 色不異空(しきふいくう) 空不異色(くうふいしき) 色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき) 受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ)
舎利子(しゃりし) 是諸法(ぜしょほう)空相(くうそう) 不生不滅(ふしょうふめつ) 不垢不浄(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)
是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 無眼(むげん)耳鼻舌身意(にびぜっしんに) 無色(むしき)声香味触法(しょうこうみそくほう) 無限界(むげんかい)乃至(ないし)無意識界(むいしきかい) 無無明(むむみょう) 亦無無明尽(やくむむみょうじん) 乃至無老死(ないしむろうし) 亦無老死尽(やくむろうしじん)
無苦集滅道(むくしゅうめつどう) 無智亦無得(むちやくむとく) 以無所得故(いむしょとくこ) 菩提薩埵(ぼだいさつた) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみたこ) 心無罣礙(しんむけげ) 無罣礙故(むけげこ) 無有恐怖(むうくふ) 遠離一切顚倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃(くぎょうねはん) 三世諸仏(さんぜしょぶつ) 依般若波羅蜜多(えはんにゃはらみた) 故得阿耨多羅三藐三菩提(ことくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみた) 是大神咒(ぜだいじんしゅう) 是大明咒(ぜだいみょうしゅう) 是無上咒(ぜむじょうしゅう) 是無等等咒(ぜむとうどうしゅう) 能除一切苦(のうじょいっさいく) 真実不虚(しんじつふこ)
故説般若波羅蜜多咒(こせつはんにゃはらみたしゅう) 即説咒曰(そくせつしゅうわつ)
羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)波羅羯諦(はらぎゃてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼうじそわか) 般若心経(はんにゃしんぎょう)
※最後の真言(呪文)は本来の読みでは「ガテー ガテー パーラガテー パーラ
サムガテー ボーディー スヴァーハー」という発音が近い。
②現代語訳:玄侑宗久「現代語訳 般若心経」(2006ちくま新書)を元に以下、カッ
パが少しだけ改変を加えている。
実相を自在に観る眼を持つ菩薩(観音菩薩)は深い瞑想を続ける内に身も心もすべて実体のない現象(=空)であることを悟られ、一切の苦しみから解放された。シャーリープトラよ(智慧第一とされた釈迦の弟子で舎利仏、舎利子ともいう。十大弟子の一人)、あらゆる物質的現象(=色)には実体がなく、しかも実体がないという実相(すべては縁起と呼ばれる関係性の中で変化し続けているので固定的な実体は存在しないということ)は常に物質的現象という姿をとる。およそ物質的現象というのはすべて実体がないのであり、逆に実体がなく生滅するからこそ物質的現象が成り立つ。同じように感覚も表象も意志も意識、無意識を含めたどんな認識も、それ自体には実体がなく、幻影と同じく無常に生滅している。シャーリープトラよ、この世においては全ての存在や現象は実体がないと言えるだろう。だから実相としては生ずることもなければ滅することもなく、汚れもなければ清浄であることもない。また減ることもなければ増えることもない。それゆえ実体がないことを見極めれば感覚にも表象にも意志にも認識にも実体はなく、また眼にも耳にも鼻にも舌にも身体にも心にも実体はない。形も声も香りも味も触れられるものも、幻影に過ぎないのである。であるとすれば無明(むみょう)もなく、無明のつきることもない。老いや死もなく、老いや死がなくなることもない。もちろん苦が生ずることもなく、苦を滅する方法もない。悟りは知ることができず、悟りを得ることもない。真の求道者である菩薩は深い悟りに達したがゆえに心にわだかまりを持たず、わだかまりがないので恐れもなく、一切の偏見から自由になり、永遠の心の静寂を得られたのである。過去・現在・未来のすべて仏と呼ばれる人々はこの悟りの道をたどることで最高の境地に達せられた。だから今知るべきなのである。「般若波羅蜜多」とは大いに神秘的な真言なのであり、それは光り輝ける真言であり、他に比類のない最高の真言なのである。つまりこの真言は世の一切の苦悩を取り除くことにおいてまさしく真実であり、一点の虚妄もない。ではその「般若波羅蜜多」の真言を示そう。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサムガテー ボーディ スヴァーハー
ここに深遠なる智慧の完成のための教えを終える。
③解説
「般若」と呼ばれる深遠なる智慧は言葉では表せないとされる。言葉もまた幻影に過ぎず、般若を表す道具にはなりえないというのである。この般若の教えは般若経600巻に延々と説かれていると言うが、その教えのエッセンスとしてまとめられたのが般若心経である。
言葉にならぬ教えを言葉で伝えることの難しさはスポーツの高度なテクニックやスポーツの喜びを言葉だけで伝えようとする時に感じる難しさに似ていよう。結局は実践する中で身に付けていき、おのおのが実感していただくしかないようである。とはいえ、ある程度までは理屈を言葉で理解していないと高度なテクニックはなかなか身につかない。そこでお経が存在することになるわけである。そして般若心経も結局は言葉で言い尽くせない「悟り」の深遠な世界を、結末においては理屈や意味を超えた音の世界、真言(呪文)に託すかたちで終わる。
般若心経のポイントはこの世に存在し、現象しているすべては「空」であるとともに、その空からすべての存在と現象が生じているとされる点にある。したがって空とは虚無や非在ということを意味するのではなく、種々の関係性の中で生起しつつ常に変容する、固定的な実体を持たないこの世の特性、本質、実相を指していると解釈できる。そしてこの世が空であることを深く心身ともに納得し、智慧として生きていくことができるようになればあらゆる苦悩から解放されると説いているのである。もちろん苦痛がなくなるわけではない。心の平安を揺るがす余分な苦悩から解放されるのである。
玄侑宗久はこうした教えが中国に広く、深く浸透していった背景に老荘思想の存在を指摘している。老子と釈迦牟尼とはほぼ同時代の人であるが、言葉や概念の持つ危険性を早くから指摘していた点も両者に共通しているというのである。悟りは言葉で表現された理屈を理解しようとする分別だけで得られるものではない。むしろ分別こそが差別を生み出し、悟りを妨げる妄想なのかもしれないと「不立文字」を説く禅僧の玄侑宗久は記している(「荘子と遊ぶ」玄侑宗久 筑摩書房 2010)。般若が理屈を超えた実践的知であるのと同様にして老子は「道(タオ)」を説き、体験知としての道家思想を説いた。こうした中国の伝統的な思想が仏教の受容を容易にしたと彼は指摘しているのである。
現代を席巻しつつある科学万能主義は確かにすべてを合理的に理知によって説明できると信じているように見える。しかし「しあわせ」や「いのち」の実相ははたして理知だけで解明できるのだろうか?合理的な説明、理屈がかえって体験の実相、クオリア(質感)をつかむことを妨げる危険性はおおいにあるだろう。もちろん幸せの実感は科学的に説明できる領域もある。悟りによってもたらされた心の平安をある程度までは脳内の化学物質(セロトニン等)で説明できないわけでもない。しかし悟りに至るプロセスのすべてを科学の理屈で説明するのはまだまだ不可能であろう。
当然のことながら般若心経の説くような真言(呪文)だけで現代人が悟りに至れるとは思われない。体験知と理知との間に横たわる溝、闇はまだまだ深いのかもしれない。とは言え禅宗から派生し、近年、爆発的に欧米に広まりつつあるマインドフルネス等の心理療法はうつ病や身体的な痛みの軽減などに優れた治療効果を上げているという。座禅における瞑想や呼吸法の効果は脳の研究からそのメカニズムが少しずつ解明されてきている(「マインドフルネス・レクチャー」貝谷久宣・熊野宏昭・玄侑宗久 金剛出版 2018)。
体験知と理知との溝は今、脳の研究の急速な進展によって僅かながら埋められつつあるのだろう。