その8.伊能忠敬測量日誌より
―千葉県史史料近世篇より―
以下は伊能忠敬が数えで57歳のとき(享和元年=1801年)に行った房総測量の際の日誌から市原地区中心に抜粋したものです。
(これまで地図の話が続いてきたので、さすがに千葉県の代表的な偉人伊能忠敬の業績に触れないわけにもいきません。)
1801年6月、一行は江戸湾岸沿いを南下しながら測量しています。ここでは検見川からの行程を概略、追ってみましょう。なお通過した村の領主名、石高が必ず記載されていますが多くは省略いたします。
・20日七つ半頃に一行は検見川に到着し、一泊。家数は350軒、記録には「此夜大曇
天」とあります。
・21日朝は曇りであしたが、五つ後にはだんだん晴れてきて午前中は晴天。六つ半前
に宿を立ち、稲毛村に向かいます。稲毛村家数164軒。黒砂村25軒、登戸村150
軒、寒川村375軒「此村駅場なり」。検見川から2里(約8km)の行程。
途中略。
曽我野村600軒余り。寒川から1里。生実新田200軒余り。濱野村本行寺門前36
軒。「此所も駅場也」。村田村(ここまでは下総国千葉郡)81軒。
・八幡村(八幡宿と云、上総国市原郡)382軒、1513人、石高1256石余り。「此村
も駅場也」。五所村95軒、450人。金杉濱村(三ヶ所塩場)1軒。君塚村68軒。五
井村に八つ頃到着(宿屋と云。名主甚五左衛門=中島家か)614軒。2234石余り。
有馬備後守の陣屋あり。甚五左衛門宅が本陣であり、そこに止宿。この夜曇天の中
「少々測」。
なお一行はこの日、およそ5里(約20km)の道のりを測量しながら歩いたこと
になります。
・22日朝から晴れ、「少し白雲」。六つ半後、出立。「五井村は海へ遠し」。岩崎新
田75軒。玉前新田130軒。松ヶ嶋村55軒。青柳村184軒。今津朝山村は家数の記載
なし。姉崎村401軒。水野壱岐守領分。名主新兵衛、五郎兵衛。姉崎まで五井から
1里半(約6km)。椎津村160軒。
代宿村(ここから上総国望陀郡)64軒。久保田村120軒。蔵波村168軒。奈良輪村
162軒。姉崎からここまで2里(約8km)。牛込村80軒。中嶋村(272軒)に七
つ後、到着。
この日、木更津町まで行くはずでしたが、間に合わず、急きょ宿をとることにな
ったようです。
この夜、晴天。測量。
・この日は4里(約16km)の行程を進んでいますが、やはり当時の姉崎から袖ヶ浦
にかけての海岸部は岩場と急峻な崖にはばまれて歩きづらかったと思えます。
・23日朝から晴天。朝六つ半前、中嶋村を出立。以下略。木更津町に九つ少し前、到
着。943軒。名主八左衛門宅に宿をとる。この夜晴天、測量。
以上の記述から…
八幡宿382軒、五井614軒、姉崎401軒という記録から五井村が市原郡の海岸部では当時最大の村であったことが確認できます。養老川の水運と五大力船などによる江戸との海運、房州往還、久留里街道等、交通、物資流通の要所として五井村は発展してきたようです。なお有馬備後守の陣屋の跡地に現在、JR五井駅が置かれています。また五井村の名主甚五左衛門は五井戦争で登場する中島甚五左衛門の先祖でしょう。とすれば伊能忠敬が宿泊した屋敷は五井駅西口から出て北側へ100m弱歩いた所、旧五井小学校跡地付近にあったと思われます。
五井村は海岸線から離れており、伊能一行はあくまで宿泊のために立ち寄ったにすぎないと思われます。朝、五井村を出立した一行はおそらく吹上あたりの渡し船に乗って養老川の対岸に渡り、海岸線の測量のために岩崎新田の海岸部に出たものと思われます。
さて、時折、歴史散歩に必要な地図として伊能忠敬らの作成した「大日本沿海輿地全図」を考える方がいらっしゃるようですが、残念ながらほぼ役立ちません。なぜなら、当時としても極めて正確な測量地図ではあるのですが、基本的にはあくまで日本の輪郭、海岸線を描いているに過ぎない地図ですので、海岸線の内側は不明のままです。日本の海岸線の内側まで測量して出来上がった最初の地図が明治中頃に出来た迅速測図ですので、私たち鎌倉街道を歩く会は歴史散歩の資料を作る上で頻繁に迅速測図を利用しています。
皆さんも、迅速測図、特に迅速測図と現代の地図とを対応させた、歴史的農業環境閲覧システムが提供している比較図をご覧になってみてください。今いる自分の場所が1880年代、どのような場所だったのか、集落の様子や土地利用の様子まで分かります。これはカッパイチオシの歴史地図。地図の作成が1880年代ですから、ほぼほぼ江戸時代末期の村の様子や道路も推定できます。