その4.続地図を読む
さて、「地図を読む」のレッスン編に移りましょう。
その3で歴史散歩に必要な地図として迅速測図と現代の地図との「比較図」、それに戦後間もなくの白黒で撮影された空中写真、それらをどう読み込んでいくのか、講演会での実例を挙げて解説してまいります。
場所は養老川河口の右岸、川岸地区になります。
まず、普通のグーグルマップで見てみます。川岸は地図の右側の上半分、JR五井駅の北方、赤い字で記された五井グランドホテル付近からビジネスホテル五井温泉付近にかけての地域にあたります。
過去、高潮に再三、襲われたせいか、この地区にはあまり古文書が残されていません。どうやら村絵図もなさそうです。つまり、幸いにして苦手な古文書類の読解に悩まされることはありません。
ですから地図などからの推理で史料の不足分を相当、補っていく必要があります。しかしそれがかえって私たちの想像力をいたく刺激してくれるのです。
私の見立てでは川岸はおそらく17世紀後半に代官が開発させたいわゆる代官見立て新田です。なぜ、そう推理するのか、これから理由を申し上げてまいりましょう。
早速、比較図(歴史的農業環境閲覧システムより)を見ていきます。左側がほぼ江戸時代末期位の状況が推理できる1880年代に作成された迅速測図、右側が現代の地図。まず海辺に注目。工場地帯造成のため、1960年代から埋め立てられたので昔と今とでは海岸線がかなり異なることが分かるでしょう。この比較によって埋め立て以前の海岸線が分かるのです。
さらに拡大して集落の様子などを見ていきましょう。
さて、いかがでしょう。左側の迅速測図で確認できる川岸の集落はまるでインゲンマメのように細く長く弓なりに連なった形状です。そして川沿いにもまばらですが小屋のようなものが立ち並んでいるようです。なぜ、どのような目的があってこんな形の集落になっているのでしょうか。推理してみてください。
もう一つ、迅速測図の右上あたりからかなり太い水路=澪が集落に向かって伸びていることに注目してください。この集落、どうやら水運と関りが深そうですね。
養老川の上流から運ばれてくる年貢米、木材、薪炭(上総国の特産品だった)などが川岸(川沿いに川船が着岸できる場所があったはず。小屋は荷揚げした荷物を一旦、収納する)で陸揚げされていたのでしょう。その多くは江戸へ送るため、澪(太い水路=運河)で今度は五大力船に積み替えられたようです。もちろん当時、市原郡で最大の町だった五井に一旦、集積された物資もその多くが五井から直線的に造成された道を通じて川岸に運ばれ、澪で五大力船に乗せられて江戸へもたらされたと考えられます。
物資の流れは一方通行ではなく、逆向きで江戸の物資はまず川岸にもたらされ、陸路、五井の町に運ばれたのです。さらに川岸で川船に乗せられ、養老川の上流(養老渓谷の手前まで)にも、もたらされていたようです。
川岸はこうして主に水運の拠点となり、五井の町の発展を支えてきたのです。
今回はこれまで。
次回は推理を固めていくうえでの状況証拠を示していきましょう。