その5.続々地図を読む

 

 川岸の集落が川船と五大力船の船着き場を併せ持つ、水運の要として五井の町の発展に欠かせない役割を果たしてきた事は澪(みお)や河岸(かし)の存在から裏付けられるでしょう。

 なお五大力船は喫水が浅く、河口からでも侵入できる利便性の高い船として昭和時代初めまで内湾で活躍した船です。ですから潮の具合や澪の混み具合によっては河岸にも五大力船が着岸することはあったかもしれません。しかし河口部は前々回の空中写真(その3 参照)で分かる通り、養老川が上流から運んだ土砂が厚く堆積し、座礁するおそれが大きいと思われ、基本的には澪を利用したのではないかと私は推定しています。

五大力船の模型(市原市歴史博物館)

 

 実はもう一つ、利用価値の高い地図があります。ゼンリンの住宅地図です。この地図は地番と宅地の区割りが分かるので、そこから集落の歴史、旧家の立地などが推測できる場合があります。

 かつての澪は存在しません。しかしこの地図の赤い矢印で分かるように、澪のあった箇所は急に道幅が倍以上、広くなっています。

 そして特に注目すべきは宅地の区割り。まるで新興住宅の分譲地のように短冊型の整然とした区割りが観察できます。こうした区割りは集落がその成立当初から人工的に、計画的に作られた宿場町や城下町に見られるもの。川岸の場合は五井の代官が町の発展を期すべく、この土地を当初から水運の要として計画的に開発して造られた「港町」であったことが分かるでしょう。

 実は川岸、かつては「湊新田」と呼ばれていました(享保年間)。当初から川と海の港として機能するよう、きっちりと計算されて道路や街並みが造られていたと断定しても構わないのです。

 状況証拠はまだあります。

 

 まず右端、1680年の年号がある法華曼荼羅(ご本尊)に注目してください。さらに左の石造物、1692年の聖観音が川岸最古のものであることも心にとどめておきましょう。この二つ、年代的にそこそこ近接していますね。

 日蓮宗寺院が多いことで知られる千葉県なので、市原でも日蓮宗寺院は真言宗寺院につぐ数の多さを誇っています。ところが不思議なことに市内最大の町、五井には一つも日蓮宗寺院が存在しません。しかしなぜか日蓮宗寺院の門徒が五井の一画、川岸に集中して存在しています。旦那寺は隣町の八幡円頓寺。日蓮宗妙満寺派の重要な寺院です。どうして八幡の寺の檀徒が川岸にいるのでしょうか。不思議ですね。

 法華曼荼羅の持ち主はゼンリンの住宅地図で緑の印がついている場所に屋敷がありました(現在は五井に引っ越し)。この近くの住人に日蓮宗門徒が多いようです。

 さて次のポイントは八幡がどういう歴史を持つ町なのか、ということ。八幡は飯香岡八幡の門前町、そして有力な港町として中世には五井をはるかにしのぐ繁栄ぶりを示していました。17世紀にはいっても船が行きかう港町…

 代官は五井の表玄関としての発展を期したい川岸をできるだけ早く港町として機能してもらうには何が一番手っ取り早いか考えたはずです…答えは簡単です。操船と交易ともに熟練した八幡の住人を川岸に数多く引き抜き、五大力船の船主として澪に沿った細長い宅地に住まわせる…これです。

 ちなみに日蓮宗の信者はその現実的な教えから商工業者が多かったようです。

の先祖も五大力船の持ち主だったことは郷土史家の高澤恒子先生によって確認されております。

 どうですか。もう謎の多くは解けてきたと思います。五井の代官は八幡から新田開発の要員として水運に従事してきた者を引き抜き、川岸に移住させて早速、水運に携わらせたと考えます。川岸の開村は印の先祖が八幡に住む本家から分家し、円頓時の住職に法華曼荼羅を新たに書いてもらった1680年頃で間違いないでしょう。

 真ん中の1772年の法華曼荼羅は印の先祖が100年近く経ってまた分家した時、再び円頓寺住職に書いてもらったもの。その後、川岸における本家が衰退してしまったため、本家に伝わる1680年の法華曼荼羅を受け継いだものと思われます。

 

 以上、いかがでしたでしょう。推理する醍醐味を味わえたでしょうか…

 次回は今まで見てきた川岸の集落に関する昭和のゾッとするお話、「海軍道路」について眺めてみましょう。

 乞うご期待。