その6.川岸の「海軍道路」

 

 今回は「その3」で予告していた空中写真の解説をいたします。確か下の写真でしたね。敗戦後間もなくの1947年2月に撮影されたものです。市原の海浜部の埋め立てはその多くが基本的には1957年以降の高度成長期に行わています。

 しかし10年前の1947年の写真で既に埋め立てられていたと思しき真ん中の白い部分、特にやや右下のほぼ四角形に区画された箇所。それに白い四角形の左辺につながる縦の南北に伸びた細い直線がかすかに見えるでしょうか。

 何だか大規模な建設現場を思わせるこれらは、一体何なのでしょう?

   以下、田所真氏の「三寒四温 京葉工業地帯の誕生」の記述に基づいて当時の出来事を解説してまいりましょう。

養老川河口付近の空中写真(国土地理院)

 

 もう少し拡大して見てみましょう(下図)。前にもふれた五井の町中から川岸に向けて直線的な道が江戸時代からありました。その道が川岸の集落に達したあたり(左手にセブンイレブン)で右(東方向)に急カーブし、やがてまた緩やかに左へカーブしながら工場地帯が広がる北に向かい、約1㎞ほど真っすぐに伸びていく道路…これが黄色の線です。この道、どうやら海浜部の埋め立てに先立って設けられたようです。おそらく埋め立て工事用の直線道路。道理でこの時代にしては幅の広い道。ここを土砂を満載したトラックがひっきりなしに海へ向かって走っていたのでしょう。

 これこそが地元の古老が口にする、通称「海軍道路」。

 実は田所氏によると米英との決戦が近づき、帝都防衛を強く意識した海軍が敵軍の帝都来襲を直前で阻止するため、東京湾上のしかるべき場所に飛行場を建設する計画が開戦以前からあったようなのです。そしてここ、川岸に戦闘機の飛び立つ海軍航空基地建設のための埋め立てが行われた…それが白く見える箇所でした。1940年にはほぼ埋め立てが終わり、飛行場建設に着手しようとした矢先の1941年、太平洋戦争がぼっ発。戦争に追われた海軍は忙しさのあまり、せっかくの飛行場建設を諦めざるを得なくなった、とのことだそうです。

 ちなみに戦後しばらくして、日本の戦死者を慰霊するため、忠魂碑が各地に建てられますが、その多くは陸軍出身者か靖国神社の宮司、ないしは政治家(首相、県知事ら)が揮ごうしています。しかし市内には海軍出身者が揮ごうした忠魂碑が少なからず存在する背景に、「海軍道路」などの建設を通じて結ばれた市原と海軍との縁があったのかもしれません。

黄色の直線が「海軍道路」

 

 ところで仮に海軍航空基地建設が開戦に間に合っていたとしたら、どんな事態がこの地に訪れていたのでしょう。隣の千葉市蘇我では埋め立て地に日立の戦闘機工場などがあったため、大戦末期には繰り返し空襲を受けています。

 おそらくアメリカ空軍なら真っ先にここ、市原の海浜部を執拗に猛攻撃し、焼け野原にしていたはず。きっと五井の町も巻き添えを受けて空襲で相当、やられてしまったと思います。

 …とすればカッパはこの世に存在していない…はずでした。