23.野城廣助につい

 

・野城廣助につい

 「野城廣助の事蹟―主として足利木首事件を中心に―」:谷島一馬(市原地方史研究第13号:1983年)より、以下、カッパが抜粋。

 

 野城家は山田橋村で江戸後期には代々名主を務めた有力農民。同時に村の神主を務めていた家柄もあってか、国学を家学とするほどに代々、野城家の当主は国学の習得に励み、幕府領が多いこの市原地域には珍しい勤皇家であった。

 良右衛門のとき、跡取り息子がいるにも関わらず、福永昌須(高鍋藩江戸詰めの医師)の次男廣助と大桶(おおおけ)村伊東荒雄の二人を養子に迎え、文久2年(1862)、共に平田鉄胤(かねたね)の気吹舎(いぶきのや)に入門させた。この年の12月、鉄胤が秋田藩物頭役として上洛することになると、廣助ら門人もこれに同行した。

 当時、京都では尊王攘夷派の志士が相次いで「天誅」事件などを引き起こし、騒然たる情勢であった。一行は京都で尊攘派志士に慕われた松尾多勢子らと交流し、幕府批判の姿勢を強めていった。ちょうどこの頃、将軍家茂の上洛に備えて、各勢力に様々な動きが見られた。

 彼らは倒幕の動きを煽るため、文久3年(1863)2月23日の夜、9人で洛北の等持院に押し入って足利将軍三代(尊氏、義詮、義満)の木像の首と位牌を奪い、斬奸状を添えて三条河原に晒した。廣助はこれに直接加わっていなかったが、同志といってよい立場ではあった。斬奸状を通じて公然と幕府を批判した彼らの行為は幕府方にとって由々しき問題と捉えられ、9人の内の一人大庭恭平(会津藩士で京都守護職側の密偵だった)の通報によって2月26日、一斉に検挙された。

 

 

 しかし大庭はなぜか廣助の名は洩らさなかったため、彼は捕縛されずに済んだ。捕縛を免れた廣助らは同志の赦免を訴え、長州藩の尊攘派を動かして藩主から宥免の嘆願書を出してもらった。また土佐の山内容堂も同様の嘆願書を提出するなど、大きな動きを作り出した。そうした結果、6月、捕縛された者の多くは「御預け」などの処分となり極刑は免れることになった。

 廣助は鉄胤らとともにいったん江戸に戻ったが、一カ月ほどで再び尊攘運動に加わるべく京都に赴いた。そこで真木和泉や中山忠光らと倒幕の動きに加担。尊攘運動の活発だった讃岐で同志を増やそうと丸亀に向かった。

 丸亀の日柳燕石(くさかえんせき)と協力して四国での同志募集の活動に取り組み始めた矢先、船中で高熱を発し、丸亀に戻って臥したが9月19日、21歳の若さで急死してしまった。尊攘派同志の手によって彼は当地で手厚く葬られた。彼の日記が同志だった武蔵の豪農斎藤実平の家に保管されていたため、彼の動きがある程度掴めてきている。 

 島崎藤村の小説「夜明け前」には足利木首の一件がかなり詳細に触れられている。「…同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそれを三条河原に晒しものにしたという。…略…平田門人、三輪田綱一郎、師岡正胤なぞのやかましい連中が集まっていたという二条衣の棚―それから、同門の野代広助(野城廣助のことか?)、梅村真一郎、それに正香その人をも従えながら、秋田藩物頭役として入京していた平田鉄胤が寓居のあるところだという錦小路―…」(第一部上P.293及びP.295:新潮文庫)

 なお野城家は慶応4年(1868)、旧姓の「若菜」に復し、現在に至る

※若菜家は現在、山田橋から転居していて墓仕舞いしている。

石灯籠:安政6年(1859)野城吉兵衛奉納

 

松ヶ島養老神社の扁額:慶応3年(1867)3月15日「源有長」

 

※「源有長」=綾小路有長(1792~1881)は公卿で歌人としても有名。宇多源氏の

 末裔にあたるため源氏を称する。なぜこの時期にこれほどの人物が揮毫した額がこ

 こにあるのかは不明だが、野城や鉄胤らの尊皇倒幕にむけた文久年間以降の活発な

 動きがもたらしたものであることはほぼ間違いなかろう。なお同社には野城良右衛

 門によって平田鉄胤の揮毫した額が奉納されたという。同社本殿が市内では珍しい

 神明造りとなっていることや嘉永年間に集中的に鳥居、石灯籠が奉納されているこ

 とと、野城良右衛門らの活動とはつながりがありそうである。

  なお平田鉄胤揮毫の「正一位 養老神社」の額は野城良右衛門が信州佐久の角田

 忠行(「夜明け前」では暮田正香)を通じて依頼したものらしいがカッパは残念な

 がら見たことが無い。

 

22.神社建築の基礎

 

・神社の本殿~建築に見る神の空間~(三浦正幸 吉川弘文館 2013 歴史文化ライ

 ブラリー362)より

 以下、要旨をご紹介いたします。

 

 日本の神社建築の淵源は日本古来の宮殿建築に求められ、寺院建築は中国伝来の宮殿建築に求められる。ご神体として鏡が祀られるというのは全くの俗信に過ぎず。鏡をご神体とするのは古来においては伊勢神宮内宮など少数に過ぎない。明治以降に創始された国家祭祀の神社(明治神宮等)では鏡をご神体としているが新しいもの。

 神社建築は7世紀に仏教建築への激しい対抗意識から生み出された。本殿は神の占有空間を内包する建築で、古来の呼称では正殿、宝殿、御殿、神殿などと称された。神社の総数は9万6千社ほど。明治31年(1898)では19万1898社あったが、明治39年(1906)に内務省が出した「神社合併の達し」によって大正5年(1916)迄の間に11万7720社に整理統合された。おそらく江戸時代には20万社以上存在していたであろう。

 村社という社格の神社は中世の在地領主によって勧請されたケースが多い。武家の領主が過半を占めていたため、源氏の氏神である八幡宮が多くなった。他には熊野権現、祇園社(八坂神社)、賀茂神社、諏訪神社といった有名神を分祀していることも多い。それらの本殿は三間社流造が多く、規模や形式が比較的揃っている。

旧社格制度:1871年に制定された。村社(1938年で44823)―郷社(同年3616)

 ―県社(府社:同年1098)―国幣社(大社・中社・小社)・官幣社(大社・中社・

 小社)。これに別格官幣社(特別な功績のあった臣下を祀る)が加わる。これらの

 神社の最上位が伊勢神宮。ただし無格社は6万社以上あった。神宮号の使用が認めら

 れたのは伊勢以外では熱田、気比(福井県敦賀市にある越前一宮)、香取、鹿島

 どに限られた。

 

延喜式内社:907年に完成した延喜式神名帳に記載のある神社(2861社)を「式内社」と呼ぶ。官幣大社、官幣小社、国幣大社、国幣小社に分類され、官幣大社と国幣大社の合計は353社。内、「名神大社」(みょうじんたいしゃ:古来から霊験著しい神社とされ、名神祭の対象となる。そのすべては官幣大社か国幣大社になっている)は224社。その多くは後世、一宮などとして存続。ただし神社名(社号)はたとえ式内社であっても中世以降、八幡宮や祇園社などに変化した神社もある。また明治以降、確たる根拠も無いまま式内社の社号を名乗るケースも少なくない。

 平安中期から鎌倉時代にかけて律令体制の弛緩により、多くの官社が没落していった。その中で一握りの有力神社が台頭し、11世紀後期から12世紀前期にかけて一宮や国鎮守と呼ばれ、国司の管理に置かれるようになる。やがて管理者は守護や大名に取って代わられる。こうした一宮や名神大社(二十二社など)は新しい本殿を良しとする神道の通年によって江戸期や明治期に造替されるケースが目立つ。

 

社号と祭神社号は祭神名や地名に基づく。村の鎮守の場合には祭神名が一般的であったが、明治以降、地名に改められたケースが多い。八幡社や熊野神社のように同名の神社が数多くある場合、地名を冠したり地名そのものに替えるケースや、神社合祀によって改名されるケースが見られる。合祀の際に主祭神に加えて新たに本殿内に祀られた神を相殿神という。境内に別途、本殿を建てて祀る場合を摂社・末社という。摂社は主祭神と関係の強い神か格式の高い神を祀る。末社にはそれ以外の神(合祀された神など)を祀る。主祭神を祀る本殿と摂社の本殿を区別するために主祭神を祀る側を「本社」と呼ぶ。

 また神仏分離令(1868年に出された一連の通達の総称)によって以下のように全国的に社号が変更された。

 祇園社・牛頭天王社→八坂神社・八雲神社・素戔嗚神社

 山王権現→日吉(日枝)神社

 金毘羅大権現→金刀比羅(琴平)神社

 熊野権現→熊野神社

 弁財天(弁才天)社→厳島神社

 妙見社→千葉神社

 なお祭神と本殿の形式は一部の例外があるがほとんどの場合、無関係。全国10万社の本殿の内、6割が流造で1割が春日造。摂社・末社の場合、一間社で流造、切妻造が圧倒的。

市原市五井大宮神社本殿:三間社流造 寛政5年(1793)の棟札がある。

 

 

本殿の見方:規模は正面の柱間(はしらま)の数で示す梁間(はりま)ともいい、「一間社」「二間社」「三間社」などと表現。従って通常は桁行(けたゆき)の柱間は表記されない。また「一間」は長さの単位ではなく、柱間の数に過ぎず、混同してはならない。当然、柱間の長さはまちまちであった。

 古い本殿形式は梁間三間、桁行二間が基本で中世以降も踏襲されている。ただし一間社が圧倒的に多い。なお柱間は陽数の奇数とするのが原則。

 構造的には身舎(母屋:もや)と庇に区分される。母屋は切妻造が基本。母屋の正面が「平」の場合には「平入」と称し、「妻」の場合には「妻入」と称する。中世以降、出入り口が複数になることもあって入り口に注目するのは間違い。平入が9割以上を占め、圧倒的。妻入は大社造や住吉造、春日造に過ぎない。

 本殿内部は一室とするのが古例で神の占有空間を内陣と呼ばれ、通常は板敷きである。母屋を前後二室に分けて奥を内陣、手前を外陣とする場合もある。流造のように母屋に庇を付加した場合は母屋内が内陣、庇の下に床がある場合、そこを外陣とする。床が無い場合、木階(きざはし)の雨よけの庇に過ぎないので外陣とは言わず、向拝に該当する。

 内陣は神の占有空間であり、本来は神職と言えども参入不可本殿は外側から拝むものであり、外観の荘重さが重視される一方で本殿内部は簡素で装飾は見られない。また仏像とは違ってご神体は見せるものではなかった。ただし本殿内陣は円柱が基本とされ、略式と考えられた角柱は庇などに利用された

 柱は芯持ち材では乾燥、収縮によりひび割れが芯にまで達してしまう恐れがあり、耐久性や外観上の問題が出てしまう。丸太材を狂いの少ない芯去り材にするにはまず二分割して断面が半円形にし、それを角柱にする。角柱を八角柱に成形してさらに円柱に仕立て上げる。完全な芯去り材の円柱を得るためには円柱の直径の倍以上の太さを持つ巨木が必要となる。ただしそれでは経費が高くつくので実際には柱の中心から芯を外した芯持ち材が多く使われている。また明治以降では芯持ち材に背割りを入れて、別木で溝を埋めて隠す埋木技法がとられるようになった。

 本殿の壁は横板壁が基本厚さ2~3㎝、幅一尺以上の板を横方向に嵌めていく。円柱に縦溝を彫ってあり上から順に板(羽目板)を落とし込む。板同士は矢筈矧ぎ(凸凹)ではめ込むので風雨が入り込むのを防げる。他方、寺院では土壁や唐様の縦板壁が基本。扉は原則板扉で母屋の正面は外開きの二枚扉とする。江戸時代以降、桟唐戸框で周囲を補強し縦桟と横桟をわたして鏡板をはった禅宗様式の戸。古くは框の無い板戸であった)が増えてくるが有力神社ではほとんど採用されていない。なお外陣では板扉を使わず、格子戸や蔀戸を利用する。

 組物は柱の上の木組みとして構造材+装飾材(斗栱)が平安後期から寺院建築を真似て導入された。装飾部は斗(ます:升とも)と肘木(=栱)などを組み合わせる。明治期には神仏分離の観点から本殿の組物を取り除くケースも見られた。当初は斗を用いない「舟肘木」が桃山時代まで採用されていた。江戸期に入ると「大斗肘木」(柱の上に大きめの斗を備える。やがて肘木の表面に渦巻きなどの彫刻を施した絵様肘木が出現)「平三斗」(大斗肘木の上に斗を三つ並べる)「出三斗」(大斗上に二本の肘木を十文字に組み、その上に最大5個の斗を載せたもの」など、多様な組物が登場する。

 出三斗の外側に突き出した斗の上に壁と平行した肘木を加え、その上に三個の斗を載せた組物を「出組」といい、17世紀後半に流造本殿に出現。斗の持ち出しを手先といい、一手先、二手先、三手先(幕末)がある。三手先では尾垂木を組み込む。斗栱自体は寺院建築の手法として7世紀には中国から伝来している。組物が複雑になるにつれて外観が壮麗になると共に建物の柔軟性が増すことで地震に強い構造となるという指摘がある(これはウィキペディア)。

千木・鰹木古墳時代の宮殿建築で用いられた。流造の古例には用いられておらず、江戸時代以降の復古的な思想により採用されるようになった。

 

彩色:古くは白木造。奈良時代以降、彩色されるようになった。しかし江戸時代以降、復古主義により白木造りが復活してくる。明治期以降に造営された本殿はほぼすべてが白木造りとなっている。寺社に共通する基本的色使いは以下の通り。

 柱、長押、組物、垂木といった主要部は赤色(朱色)、木口を黄土色。壁板などの板類は白色。扉は赤色が多いが黒色とされることも。蔀は黒。蟇股は両脚を赤、脚内部の彫刻を緑青。脇障子の上の竹の節は黒。窓の連子(縦格子)は緑青、窓枠は黒か赤。赤色(朱色)の塗料は酸化鉄を主成分とする紅殻を用いることが多い。安価で耐久性もあって地方では主流。しかし明治期に酸化鉛を主成分とする鉛丹(光明丹)が登場し、明るい朱色を呈したが白色に変色しやすい。

 朱は古来、硫化水銀が用いられてきたが高価であった。また紅殻を漆に混ぜた朱漆塗りも高価であり、社格の高い神社に用いられた

 

流造本殿の構造と意匠:本殿の6割を占める主流の造切妻造の母屋の正面に庇を設けたもので、側面から見ると屋根が「へ」の字に見える。庇は本来、本殿の正面に据えられた木階(幅一間)の雨よけの屋根。参拝者は木階(きざはし)の下から礼拝する。13世紀後半から庇の下に母屋よりも低く板敷きの床を設けて外陣とする造が流行、村の鎮守に多く見られる。拝殿を別棟で設ける余力の無い中小の神社が採用した形式。この場合、母屋は円柱、庇は角柱。

 しかし室町期以降円柱を八角柱で済ますことが増えていき、江戸時代には母屋の内部もほとんどが八角柱(中には角柱)となっていく角柱は平安後期から角部分の欠損を防ぎ、見た目の優美さを狙った面取り柱が出現。面は時代が降るにつれて細くな

る傾向があり、当初は八角柱と見分けがつかないほど大きく面を取った大面取り)。江戸時代には几帳面や唐戸面なども登場する。

 長押は柱と柱をつなぐ横方向の構造材。柱に太い釘で打ち付けて柱を支える役割。奈良時代に始まる。流造では母屋の四周に廻らされる。戸口の上にわたされる内法(うちのり)長押と地覆長押、腰長押などがあり、和風建築の特色ともなっている。

 連三斗(つれみつど)は鎌倉末期から出現する。流造本殿の端部では桁が外側に突き出ている。それを下から支えるため妻側へ斗一つ分余分に延長させたもの。斗が四つ連なる。向拝によく用いられる。

 垂木は見える箇所を化粧垂木、見えない部位を野垂木とする。化粧垂木は上下二段とするのが通例で「二軒(ふたのき)」と呼ばれる。上段は飛えん垂木、下段を地垂木と呼ぶ。地垂木だけの場合は一軒(ひとのき)という。日本古来の建築は一軒である。

 垂木は密にうった繁垂木とまばらにうった疎垂木(まだらたるき:垂木に直交する木舞と呼ばれる細い棒材がわたされている)がある。鎌倉期以降、庇も繁垂木を用い、角柱や組物は面をとるようになる。

 蟇股(かえるまた)は組物と組物との間に置かれた中備という飾りの一つで日本で12世紀に考案されたもの。鎌倉時代、流造で本蟇股が庇の正面に飾られ始め、室町時代には母屋にも取り入れられた。蟇股の両脚の間に動植物などの彫刻が施されるようになる。

 屋根は流造本殿の場合、檜皮葺(ひわだぶき)が正式。檜の皮を剥いで厚さ2㎝ほど、幅9㎝、長さ30㎝くらいの板状に切り揃え、一枚ずつ重ね合わせて竹釘で打ち付ける。10枚ほど重ねるが、全体の厚みは3㎝ほど。軒先は分厚く重ねて照りと呼ばれる曲面を作る。耐用年数は30~40年ほど。瓦葺きよりも高価で贅沢。堅い瓦と違って優美な曲線美が魅力。しかし杮(こけら:古墳時代に登場したと思われる薄い板を重ねて敷き詰めたもの。「柿」とは微妙に字が違う)葺も地方では多用される。明治以降は檜皮葺に似せた銅板葺が流行した。

 廻り縁は流造では背面を除く三面に廻らせるのが一般的。背面で廻り縁が切れる箇所に「脇障子」と呼ばれる板壁を設けて背面を隠す。

 

神社本殿と寺院本堂:平安中期までは下表のごとく両者に厳然たる違いが見られた。

神社

寺院

高床式

土間式

掘立て

礎石立て

横板壁

土壁

外開きの扉

内開きの扉

切妻

寄棟

檜皮葺

瓦葺き

 ※掘立ては現在、伊勢神宮のみ。扉は寺院でも平安後期からは外開き。屋根は鎌倉

  後期から入母屋が格式高いとされ、寺社双方とも採用されるようになる。なお

  根の形式は入母屋、切妻、寄棟、宝形(方形)の四つが基本

 

和様と唐様:唐様は装飾的で組物も複雑。垂木は尾垂木、柱に粽(ちまき:柱の上下をすぼめる)を施す。長押は用いず、貫が使われ、その先端=「木鼻(きばな)」には唐草文様が彫られたりする。窓は花頭(火灯)窓。神社は和様が基本だが、室町時代から木鼻や海老虹梁といった唐様の意匠が一部取り入れられ、江戸時代になり、日光東照宮以降、本格的に導入された。

 伊勢神宮の本殿は唯一神明造と言われ、他社の神明造とは一線を画した。伊勢神宮の完全な物真似は禁止されていたからである。最古の神殿形式で母屋だけの切妻造。屋根に反りがなく、組物は使わない。垂木も一軒。棟持ち柱が目立つ特色。掘立柱で茅葺きという純然たる古式にこだわっている

 

 奈良時代には切妻造の母屋に庇を付けた形式(平入の流造、妻入の春日造)が生まれる。母屋の前後に庇を設けると両流造と呼ばれ、11世紀頃に成立。母屋の正面と両側面に庇を付けると日吉造(ひよしつくり)で10世頃に成立切妻平入の母屋を二棟前後に並べて接続すると八幡造で9世紀頃に成立。宇佐八幡は三棟並べる。神社で入母屋の本殿が登場するのは11世紀の八坂神社から入母屋造の本殿と拝殿を土間床の「石の間」で連結したのが権現造。13世紀、北野天満宮からか。

 八坂神社や北野天満宮は御霊信仰に基づく神社で、神仏習合が顕著に見られたため、寺院建築の主流であった入母屋造がいち早く導入されたものと思われる。入母屋造は江戸時代には全国的に分布していった。

 その他の特殊な造としては二階建ての本殿を持つ浅間造や吉備津造(比翼入母屋造とも言われ、天竺様式がうかがえる)。

 由緒ある祭神が複数祀られる場合、連棟式となってそれぞれの祭神を示すために千鳥破風を複数設ける本殿もある。

 明治以降、流造と神明造が政府から奨励された。檜造も奨励されたが国産の檜が枯渇し、台湾産の檜が用いられることも多かった。台湾産は経年による変色で濃い焦げ茶になるので見分け易い。なお江戸時代は欅材の使用が目立つ。また本殿と拝殿を連結させたのも明治政府の指導である。

千葉市中央区村田町新明神社

 

市原市松ヶ島養老神社:市内では滅多に見る事の出来ない神明造で明治以降の建築

 

21.神社の基礎用語集

 

・神社の由来が分かる小事典(三橋健 PHP新書 2007)より

 以下、要旨をご紹介いたします。

 

鈴:鈴緒(すずお)と呼ばれる長い紐が垂れている。これは麻苧(あさお)、あるい

 は紅白や五色の布でできた紐である。これを引いて願いを祈るために叶緒(かねの

 お)ともいう。

参拝の作法:普通は「二拝・二拍手・一拝」。出雲大社は「二拝・四拍手・一拝」

昇殿参拝の手順:お祓い=修祓(しゅばつ)→祝詞(のりと)奏上→玉串奉奠(ほう

 てん)→直会(なおらい:お神酒をいただく)

御神体=御霊代(みたましろ):神霊は目に見えず、御神体に宿ると考えられた。

祭神:主祭神と配神(はいしん)あるいは相殿神(あいどののかみ)

境内神社:境内にある小さな神社のこと。本社の祭神と関係が深い神を祀っている場

 合摂社といい、それ以外は末社という。

玉垣(瑞垣:みずがき)

本殿の無い神社:諏訪大社の上社(かみしゃ)は拝殿のみ。奈良県桜井市の大神(お

 おみわ)神社や天理市の石上神宮も本殿が無い。埼玉県の金鑽(かなさな)神社も

 かつては本殿が無かった。

神社は古くは「もり」と称した。また「みもろ、みむろ」ともいった。

木綿(ゆう)はの繊維で作った白い布のこと。

榊:「さかき」は境の木のことで神と人の世界を分かつ境に植えられた。この榊に目

 立つように白い木綿を四手(しで)にして垂らすことで禁足地を示した。

延喜式神名帳(じんみょうちょう):2861社、3132柱が記載されている。これらは

 式内社あるいは官帳社といい、神祇官(神祇官から幣帛を奉献される神社を官幣

 社)や国司(国司から幣帛を奉献される神社を国幣社)の管理下に置かれた。それ

 ぞれ大社と小社に分け、大社の中から名神大社(225箇所。大和が26社))が定め

 られた。この内、「宮」号を許されたのは伊勢神宮関係の8宮、香取、鹿島、筑前の

 筥崎宮(八幡)、豊前の宇佐八幡の11宮だけ。他の2850社は「社」号。

伊勢神宮関係は天照大神、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、万幡豊秋津姫命

 (よろづはたとよあきつひめのみこと)、天照大神の荒御魂(あらみたま)、いざ

 なみのみこと、いざなぎのみこと、月読命、月読命の荒御魂、豊受大御神、その御

 供神(みとものかみ)二座、豊受大御神の荒御魂を祀る。

  ※荒御魂にたいして和御魂(にぎみたま)が存在する。カッパ補足

香取神宮は経津主神、鹿島神宮は武甕槌神、筥崎宮(筑前一の宮)は応神天皇、神功

 皇后、玉依姫命、宇佐八幡(豊前一の宮)は応神天皇、神功皇后の他に比売大神

 (ひめのおおかみ)を祀る。

  ※若宮神社は応神天皇の子、仁徳天皇を主祭神とする神社カッパ補足

官幣大社は畿内中心に各道に存在するが、西海道には存在しない。官幣小社は畿内の

 みにあり、国幣社は大小ともに畿外にある。

明治4年(1871)に社格制度発足。上から官幣大社、官幣中社、官幣小社、国幣大

 社、国幣中社、国幣小社、府社、県社、郷社、村社、無格社に序列化された。しか

 し敗戦後の昭和21年に廃止されたので「旧社格」と言うように。

神社本庁が発行している2002年の「全国神社名簿」によると法人数は約8万

 新潟県(4769)、兵庫県(3838)、福岡県(3041)、愛知県(3317)、

 岐阜県(3218)、千葉県(3149)、福島県(3041)の順

 最も少ないのは沖縄県の11社

  ※かわりにグスクや拝所(ウガンジュ)が沢山ある。カッパ補足

 明治時代の末に神社合祀が進み、明治39年(1906)の19万6398社をピークに

 漸減していき、昭和20年(1945)には10万9733社となった。さらに2002年の

 「全国神社名簿」では法人数としては7万9116社にまで減少している。

  ※近年、少子高齢化に伴う地方での人口減少や地域社会の変質などにより、寺社

   数が減少する傾向にある。カッパ補足

神号は「~明神」といった神への尊称に相当する。明治の神仏分離令で「~大菩薩」

 や「~大権現」といった仏教系の神号が禁止された

社号は「~神宮」といった神社の格式を示す。

死は「黒不浄」と呼ばれて神道では神の最も嫌う穢れとされ、葬式を行わないのが原

 則。

三種の神器(じんぎ):記紀では「三種(みくさ)の宝(たから)物」。勾玉は穀

 霊、鏡は太陽神の象徴と言われる。

神社の本質は「杜(もり)」であり、樹木に神霊が宿るとされ、樹木は依代として神

 木の扱いを受ける。

別当寺神宮寺、神護寺、宮寺、神願寺とも本地垂迹説の立場から神は輪廻転生す

 る迷いの世界である六道の内、天道、餓鬼道、修羅道にいて迷いの世界を流転して

 いる存在とも捉えられた。神もまた迷いの世界から仏によって救い出されるべき存

 在とされ、神を救済すべく創建されたのが別当寺という。また神は仏法に帰依して

 御法神となることを欲している、とも説かれた。寺院の境内に鎮守社を勧請すると

 いう形で東大寺の手向山八幡、興福寺の春日大社、神護寺や醍醐寺の清瀧(せいり

 ゅう)権現、園城寺の新羅明神など。

神階(神位)神に朝廷から授けられた位階。社格と密接な関係にあった。なお室町

 時代後期、吉田神道で私的に発給した宗源宣旨による神階、社格が別途に存在す

 る。

国史現在社(国史見在社、国史所載社とも):延喜式神名帳には記載されていない

 が、六国史に記載のある古社。400社前後。最も有名なのは石清水八幡宮、香椎宮

 (福岡)。

国帳社(国史崇拝社):国内神名帳に記載された神社。諸国の国衙に常備されていた

 「神名帳」には新任国司が巡拝すべき主な神社が記載されていた。国司は毎月一日

 に国帳社へ幣帛を捧げた(朔幣)。二十二カ国の神名帳が現存しているが房総三カ

 国のものは現存していない。

一の宮と総社:その国における一位の神社を一の宮。上総は玉前神社、下総は香取神

 宮、安房は安房神社。総社は惣社(奏社)とも表記し、国内に鎮座する主要な祭神

 を一か所に集めて祀った神社。国司の神拝の便宜を図るため、11世紀ごろに一の宮

 の制とともに成立。

鎌倉幕府と八幡源頼朝が1180年、頼義が由比郷に勧請していた石清水八幡の分霊を

 小林郷北山に移して祀ったのが鶴ヶ岡八幡。八幡は源氏の氏神としてまた幕府の守

 護神として尊崇された。頼朝はさらに伊勢神宮や伊豆山権現、箱根権現、三嶋大社

 なども篤く崇敬した。この神事を優先する発想は受け継がれていき、御成敗式目第

 一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と規定されていく。ちなみに第

 二条は「寺塔を修造し、仏事を勤行すべき」とあり、神仏への信心の篤さを重視し

 た武家政権の姿勢が伺える。

頭屋(とうや)宮座の中心で一年交代。神社の神主をその年は勤めるので「一年神

 主」とも言われた。元来、惣村の指導者である「乙名」(年寄、長老とも)が祭祀

 を行う宮座の代表者であった。しかし江戸時代には「頭屋」を決めて年番交代で祭

 祀を行うように。

摂社・末社(枝宮、枝社とも):摂社は主祭神と縁故関係にある神を祀る。それ以外

 は末社。格的には末社が一番下になるが、中には主祭神よりも由緒の古い地主神が

 祀られている場合も。いずれにせよ境内に祀られていれば境内社(境内神社)とい

 い、境内の外であれば「境外社」(境外神社)という。

氏神本来は氏族の祖先神(租神=おやがみ)や氏族の守護神であったが、中世以

 降、土地の神を氏神として祀るように。つまり一族結合の原理は血縁中心から地縁

 中心に変った。そして氏神の周囲に居住し、祭礼に参加する人々を「氏子」と呼ぶ

 ようになった。明治時代、行政基盤を氏神・氏子区域としたため、「氏」の地縁化

 は一層、進んだ。

産土神(うぶすながみ):生まれた土地の神で、その人の一生を守護するとされた。

 転居しても、生涯、変わることは無い。

鎮守神:その土地や住民の守護神。

イザナギノミコト:神世七代(かみよななよ)の最後にイザナミノミコトとともに現

 われた。二神で漂っている土地を天の沼矛(あめのぬぼこ)でかき混ぜて国土を整

 え、次に天の御柱を周り、「みとのまぐわい」を行って日本列島を生み、神々を生

 んだ。神生みの最後にイザナミは火の神を生んで焼け死んだ。イザナギは火の神を

 剣で切り殺した後、イザナミを出雲と伯耆の国境にある比婆(ひば)山に葬った

 (「日本書紀」では熊野の有馬村)。しかしイザナギはイザナミに会いたくなり、

 黄泉の国を訪れたがイザナミに「私は黄泉の食べ物を食べてしまったのでここから

 帰ることはできない。けれども黄泉を支配する神と相談するのでその間、私の姿を

 決して見ないで待っていてほしい」と言われた。しかし長く待たされたイザナギは

 つい、イザナミの姿をのぞき見てしまう。彼女の腐敗した体には蛆がわき、八体の

 雷神が体のあちこちに住みついていた。イザナギは驚き、恐れて逃げようとする

 が、恥をかかされたイザナミは「ヨモツシコメ:黄泉の国の醜い女」に命じてイザ

 ナギを追いかけさせた。イザナギは何とか逃げ切り、黄泉比良坂(よもつひらさ

 か)の出口を巨大な岩でふさいだ。その岩を境に二人は離縁宣言をする。その際、

 イザナミは「私を離縁するなら一日に千人をくびり殺しましょう」とすごんだが、

 イザナギは「それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」と答えた。その後、イ

 ザナギは黄泉の国の穢れを洗い落とすために筑紫の日向の橘の阿波岐原(あわきは

 ら)にある港で禊を行った。その時に数々の神が生まれたが、最後に三貴子が生ま

 れた。天照大神、月読命、須佐之男命である。イザナギは天照大神に高天原(たか

 まがはら)、月読命に夜の世界、須佐之男命に海原を支配させた。その後イザナギ

 は近江の多賀に鎮座された(「日本書紀」では淡路島にかくれの宮を造っておかく

 れになったとしている)。

  イザナギを祭神とする主な神社は多賀大社、イザナギ神宮(淡路島:淡路国一

 宮)、三峰神社(秩父)、筑波山神社、熊野本宮、速玉、那智大社。

天の岩戸神話:死んだ母に会いたいスサノオは黄泉の国に行く前に天照大神に別れの

 挨拶をしようと高天原に行ったが、その荒々しいふるまいに脅威を感じたアマテラ

 スは武装して待ち受けた。これに対して身の潔白を証明しようとスサノオは「宇気

 比(うけい)」をして神意を伺うことにし、スサノオが「宇気比」に勝った。しか

 しこれで有頂点となったスサノオは高天原で数々の乱暴を働き、姉を怒らせてしま

 った。アマテラスはついに天の岩屋の戸を開き、その中にこもってしまった。高天

 原も葦原の中つ国もすべて暗闇になり、あらゆる災いが生じた。そこで八百万の

 神々が天安河原(あめのやすのかわら)に集まり、相談したところ、思慮深い「思

 金神(おもいかねのかみ)」の発案で「岩戸開き神事」を執り行うことになった。

 まず常世の長鳴き鳥(鶏)を集めて鳴かせ、「八た鏡」と「八さかにの勾玉」を造

 らせ、それらを榊にとりつけて捧げた。天児屋命が祝詞を奏上し、アメノウズメノ

 ミコトが桶の上で踊ったが、それを見た八百万の神々が一斉に笑い、どよめいた。

 この騒ぎを聞いたアマテラスが不思議に思って岩戸を少し開け、「闇夜のはずなの

 になぜ、アメノウズメは歌い、踊り、神々は笑っているのか?」と問うた。アメノ

 ウズメは「あなた様よりも貴い神が現われたので喜んでいるのです」と答えた。天

 児屋命と布刀玉命が「やたの鏡」を差しだし、アマテラスが鏡に映る自分の姿を見

 ようとして岩戸をさらに開くと脇に控えていた天手力男神が手を取って外へ引きだ

 し、すぐに布刀玉命がアマテラスの後ろにしめ縄を張って岩戸の中に戻らぬよう、

 申し上げた。

  その後スサノオは高天原を追放され、葦原の中津国の出雲において八岐大蛇を退

 治し、尾の中から天叢雲剣(→草薙剣)を取り出してアマテラスに献上の後、母の

 国 の「根堅州国(ねのかたすくに)」へ向かって、そこの支配者となった。大国

 主命はスサノオの第六世の子孫という。

アマテラスを祭神とする神社:伊勢神宮内宮(「やたの鏡」を御神体)、神明神社

 皇大神宮、天祖神社など5400社ほど。

スサノオを祭神とする神社:八坂神社、氷川神社(埼玉)、熊野本宮大社、津嶋神社 (愛知)。

八幡神:宇佐八幡では一之御殿に八幡大神(=誉田別尊)、二之御殿に比売大神

 (タキツヒメノミコト、イチキシマヒメノミコト、タキリヒメノミコト=宗像三女

 神)、三之御殿に神功皇后を祀る。「日本書紀」には日の神が生んだ三女神が宇佐

 嶋に天降り、それを宇佐の国造が祀ったという。早くから朝廷へ働きかけ、仏教に

 も接近。王城鎮護の神として伊勢神宮に次ぐ扱いを受けた。1063年、源頼義が鎌倉

 の由比郷に石清水八幡を勧請し、後の鶴岡八幡に発展していく。以降、源氏の氏神

 としてだけでなく、武士の守護神、武神として武士の時代、全国に広まった。全国

 に2万5千社。

稲荷:「稲生り」でイネの神宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=倉稲魂命を祀

 る。「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれたように江戸時代、大流行。東寺の守護神と

 もされ、真言宗と結びついて発展稲荷寿司は豊川稲荷(愛知)の門前が発祥の地

 という。ただし豊川稲荷は曹洞宗の寺院、妙厳寺の通称。約4万社有ると言われ、全

 国の神社数の三分の一近くは稲荷神社が占める。

祭祀(神事)の区分:神社本庁の規定では大祭・中祭、小祭

例祭:年に一度の祭りでその神社や祭神にとって特別に由緒のある祭り

祈年祭:「としごいのまつり」で一般には「春祭り」。2月17日(かつては2月4日)

 に行われる。かつては五穀の豊穣祈願。大祭

新嘗祭:「にいなめのまつり」で一般には「秋祭り」。11月23日に行われる収穫感謝

 の祭り。大祭

歳旦祭:元旦祭ともいう。元旦の朝に行われる、新年を寿ぎ、天壌無窮と五穀豊穣、

 人々の安寧と繁栄を天神地祇に祈る。中祭

元始祭:1月3日に天壌無窮の神勅アマテラスがニニギノミコトに三種の神器を与え

 て葦原の中津国を支配するように命じた。ニニギノミコトは高天原から日向国高千

 穂峰に天下った時、アマテラスに「日本は天皇家が支配すべき国であり、その繁栄

 は天地とともにきわまりない」という神勅をえた)を寿ぎ、天孫降臨と皇位の始ま

 りを祝う。宮中では天皇が執り行うが、各神社でも行われる。中祭。

紀元祭:建国祭ともいい、2月11日に行われる。カムヤマトイワレヒコノミコトがB.

 C.660年(辛酉年)の元旦に大和の橿原宮で即位し、初代天皇神武となったことを

 記念し、日本国の誕生日として祝われる。中祭。

大祓神事6月と12月に行われ、6月は「夏越しの祓え」、12月は「年越しの祓え」

 とも呼ぶ。人々の罪、穢れ、災いなどを形代(かたしろ)に移して取り除く。形代

 は人形(ひとがた)ともいい、これに姓名、年齢を書き、息を吹きかけて神社へ持

 っていき、お祓いをしてもらう。あるいは形代で身体をなでてもらい、罪穢れを移

 す方法もある。大祓詞(おおはらえのことば)を唱えてもらい、形代を燃やす「お

 焚き上げ」や水に流す儀式などで清める。参道に茅の輪を設けて潜らせ、罪穢れを

 祓い清めることも。

除夜祭(年越し祭):12月31日に行われる。元来、戸主が氏神を祀る神社に籠り、火

 を囲みながら徹夜する「年籠り」が中心。氏子は除夜の鐘を聞きながら神社へお参

 りする「除夜詣で」をした。代わりに今は初詣が盛ん。

月次祭(つきなみさい):毎月朔日と十五日に行われ、国家の安泰と天皇の弥栄(い

 やさか)、氏子の安寧などを祈願。

秋葉信仰静岡の秋葉神社を中心とする。愛宕神社とともに火伏せの神として有名。

 中世、修験者によって全国的に拡大し、800社ほど。秋葉神は「三尺坊」とも呼ば

 れ、戸隠から白狐にのって秋葉山に飛来したという大天狗。姿は「烏天狗」であ

 り、飯綱権現と類似。大天狗は烏天狗のような小天狗と区別されるが、飯綱権現が

 迦楼羅と習合したため、結果的に姿が烏天狗になってしまったと考えられる。江戸

 中期頃、東海道から信州方面にかけて各地に秋葉講が作られ、今も存続する所があ

 る。

愛宕信仰:京都愛宕神社を中心とし、火伏せの神として古くから信仰された。平安時

 代に修験者が入り、修験の霊場として栄えた。愛宕山には愛宕太郎坊という天狗

 住むと恐れられた。中世、愛宕の本地は勝軍地蔵とされ、武家の信仰も盛んとなっ

 た。決心の固いことを表明する「愛宕白山」という言葉がある通り、決意を固める

 神としても信仰された。

淡島信仰:和歌山の淡島神社が中心。淡島明神ともいわれ、婦人病に霊験あらたかとされた、江戸時代、願人坊主らが門付けで淡島明神の絵像を納めた厨子を持ち、鈴を振りながら祭文を唱えて家々を回った。淡島願人という。女性対象であったため、やがて安産、子授け、縁結びなども祈願された。淡島明神が海から柄杓で掬いあげられたという伝承から、安産祈願に柄杓を奉納する風習も生まれた。全国に約千社。針供養、人形供養が行われることでも有名。

祇園・津嶋信仰:スサノオを主祭神とする。スサノオは牛頭天王と同一視され、牛頭

 天王社も同系列。牛頭天王はもともとインドの祇園精舎の守護神であり、薬師如来

 の化身ともいわれる。スサノオはまた武塔天神とも関わりが深い。「備後国風土

 記」には武塔天神が裕福な巨旦将来に宿を求めたが断られた。一方貧しい兄の蘇民

 将来は温かくもてなしたので武塔天神は自分がスサノオであることを明かして、疫

 病が流行したときには茅の輪を腰に付けることを教えたという。夏越しの祓えに茅

 の輪くぐりを行ったり、祇園際に加わった者が「蘇民将来之子孫也」と書いた護符

 のついた粽をもらい、それを疫病除けとすることはこの話に基いている。全国に

 3000社ほど。

熊野信仰:熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)を中心とする。

 日本書紀ではイザナミが熊野に葬られていることになっており、古来、熊野は「死

 者の国」と考えられてきた。「亡者の熊野詣で」という言葉もある。また「死者の

 国」は死と再生のサイクルに関わる「生者の国」でもある。熊野は死んでから甦る

 聖地であり、「生きながらにして死ぬ」ことのできる聖地とされた。「生即死・死

 即生」の実践として始まったのが那智の浜から渡海上人が敢行した「補陀落(ふだ

 らく)渡海」。彼らは生きながらにして東の彼方にあるという観音浄土へ赴こうと

 した。海の彼方には死者の国「常世」があるともいわれた。

  他方で山岳信仰も盛んで修験道の霊場でもあり、仏教・神道・修験道の信仰のメ

 ッカとなっていた。特に院政時代、歴代の上皇が熊野御幸(ごこう)を繰り返し、

 「日本第一大霊験地」とたたえられた。その結果「蟻の熊野詣」といわれるほどに

 から道者(どうしゃ:熊野に参詣する人)が集まった。熊野御師(道者の宿泊や祈

 祷などの世話をする)や熊野比丘尼(諸国を遊行して熊野参詣曼荼羅などの絵解き

 を行い、熊野信仰を各地に広めた。熊野巫女ともいう)、熊野先達(地方に在住し

 て武士や民衆を熊野に導くために、参詣道の整備など様々な活動に従事)らの存在

 も大きかった。全国に3000を超える熊野神社が存在。

金毘羅信仰:梵語のクンビーラからきている。元はガンジス川に棲むワニの神で仏教

 の守護神に取り入れられた。室町時代に讃岐の松尾寺の境内に勧請され、航海安

 全、豊漁守護の神として海運業者や漁民から崇敬された。現在は琴平町に金刀比羅

 宮が置かれ、中心となっている(松尾寺の金堂は金刀比羅宮旭社と改称された)。

 主神は大物主神(金毘羅神の垂迹形)。江戸時代、全国に金毘羅講が成立し、伊勢

 参りと共に金毘羅参りも流行。「金毘羅船々追い手に帆かけてシュラシュシュシ

 ュ」と民謡にも歌われ、金刀比羅宮への街道も「五街道」あり、石灯籠や道標など

 が数多く残されている。全国に669社あるという。

山王信仰:日枝大社東本宮は大山咋神(おおやまくいのかみ:山の神)、西本宮は三

 輪山の神(大物主神→大宮権現とも称される)を祀る最澄が794年に延暦寺の鎮

 守神として二柱を祀った。全国に延暦寺と日枝大社の荘園が拡大するとともに各領

 地に日枝神社の分社が置かれていった。全国に3799社。

諏訪神社:全国に5089社。ほぼ全国に存在。「建御名方命(たけみなかたのみこと)」と妃神の「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」を祀る。建御名方は大国主の子で高天原からの使者である建御雷神との力比べに敗れ、諏訪湖まで逃げて降伏し、国譲りを誓った。諏訪大社は信濃国一宮。建御名方命は製鉄の神、あるいは水神、農業神、狩猟神(狩猟神事があり、「鹿食免(かじきめん)」という肉食を許した御符が出される)として崇敬され、また甲斐の武田氏は「日本第一軍神」とし、戦勝祈願を繰り返した。

浅間信仰:静岡県富士宮の富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)が中心万葉集」に「日本(ひのもと)の大和の国の鎮めともいます神かも」とあるように古くから日本国鎮護の霊峰として尊崇されてきた。火山、火、寿命、安産の神で1000社ほど存在。1779年、高田藤四郎が築いた高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社の境内)が富士塚の始まりといい、東京に69の富士塚が確認されている。

天神信仰:菅原道真(845~903)を祭神とする。全国に1万余り。京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮が中心。道真は901年、大宰府に左遷され、903年に没した。その怨霊は様々な災いをもたらし、火雷天神となって宮中に落雷したと言われる。江戸時代、寺子屋の普及によって学問の神として天神への崇敬が広がった。

 

神社参拝の手引き

 参道の中央は正中といい、神が通るとされるので参拝人は参道の端を歩くべき。手

 水舎で手を洗い、口をすすぐ。手水(てみず、ちょうず)の作法はまず軽くお辞儀

 (小揖:しょうゆう)し、右手で柄杓を取り、水盤のきれいな水を汲み、左手にか

 けて清める。左手に持ち替えて同じように右手を清める。再び右手に柄杓を持ち替

 えて左手に水を受け、その水で口をすすぐ。左手に水をかける。水の入った柄杓を

 垂直に立ててこぼれてくる水で柄を洗い、元の場所に戻す。最後に軽くお辞儀をす

 る。

本殿の様式:神明造りが古式。屋根に反りが無く、切妻造りで平入り。棟持ち柱もポ

 イント。大社造りも住吉造りも古式だが、いずれも妻入り。最も多いのが流造り

 で、屋根に反りを付けて前流れを長くし、向拝としている。賀茂神社が代表。千木

 は破風の先端が屋根の上に突き出たもので伊勢神宮のものは高く、突き出ている。

 「ちぎ」は霊威のある木という意味らしく、社殿の神聖さを示すと考えられる。賢

 魚木(かつおぎ)は鰹節に似ていることから名付けられたと言われる。ただはっき

 りしたことは不明。

幣束(御幣):幣殿の神饌案に幣帛のシンボルとして常時、供えられている。幣帛は

 本来、絹や布であったが、後世、神に奉る供物の総称となった。

御神体:「御霊代(みたましろ)」「御正体」ともいう。一般には鏡が多い。

狛犬:「高麗犬」とも記す。シルクロード伝来でペルシャ、エジプトまで起源は遡れ

 るかもしれない。伝来した当初は几帳などの揺れを防ぐ重しに利用。左右一対で

 「阿(=右)吽(=左)」。ただし「子取り(前足で子どもをあやしている)」と

 「玉(まり)取り(玉を押さえている)」という組み合わせもある。

 

 

 

 

 

20.縁日について

 

 

・「縁を結ぶ日本の寺社参り」(渡辺憲司監修 青春新書 2006)より

 以下、要旨をご紹介いたします。

 

1.春の縁日

 江戸における元旦の早朝は一家の主人が衣服を改め、桶を持って井戸端へ水を汲みに行くことから始まる。この水は「若水」といい、これで雑煮を作り、神仏に捧げる水としても使った。

 江戸の井戸は掘り抜きの井戸が少なく、ほとんどは水道から引いた水を桶にためておくものだった。年に一度は井戸浚え(井戸替え)が必要で、7月の頭頃に井戸に入って掃除をするのが習わしとなっていた。

 初詣は「恵方参り」といってその年の歳徳神(としとくじん)が来るという方角の神社にお参りした。2日からは初売りが始まる。太神楽(だいかぐら)や猿回しなどが芸を披露し、双六などを売る行商人が来た。七日までは掃除をしないという風習(幸せを掃き出さないように)もあったようで、かきいれ時とばかりに商売に励む大道芸人や行商人を除けば、ノンビリと過すのが普通であった。

 正月8日は初薬師といわれ、その年の健康を祈願する。茅場町薬師(智泉院)は特に賑わったという。10日は初金毘羅で多くの船頭や漁師が虎ノ門の琴平神社に参詣。獣肉を食べることがタブーであった当時は魚介類の需要が大きく、漁師の数も多かった。なお12月10日は終い金毘羅といって一年の感謝をするために参拝する者が多かった。

 21日は初大師(初弘法)。真言宗寺院では「御影供(みえいく)」と呼ばれる法会が行われる。西新井大師や川崎大師が有名で、特に川崎大師は「厄除け」で知られていたため、厄年(中国伝来のもので平安時代に伝わったらしい)の男女が数多く参詣した。

 24日は初地蔵。江戸六地蔵と呼ばれた正徳4年(1714)に江戸の出入り口に設置された3メートル近くの巨大な地蔵はとくに有名。

 25日は初天神28日は初不動目黒不動瀧泉寺は三代将軍家光の帰依を受け、目黒御殿と称されるほどに豪華な建物が立ち並んでいた。不動明王はシヴァ神が密教に取り入れられたものと言われ、悪魔を下し、仏道に導きがたい者を畏怖せしめ、煩悩を打ち砕くとされた。そのため、災厄を封じ、家内安全、商売繁盛にもつながると広く信仰された。

 初亥は摩利支天の縁日。インドの神で光や陽炎が神格化された神。日本では光や陽炎が実体のない、傷つかない存在であることから、武士の守り神として信仰された。猪に乗った姿で表されたため、亥の日が縁日とされた。江戸時代には大黒天、弁財天と並んで三天と称され、蓄財と福徳の神として特に商工業者に信仰されるようになった。上野の徳大寺(アメ横)の摩利支天が有名。

 初甲子は大黒天の縁日。元はインドの戦闘神だったが仏法の守護神に取り入れられ、日本では食物の神として厨房などで祀られるように。また大国主命と習合し、子孫繁栄、商売繁盛の神として信仰されるように。大国主命がスサノオに焼き殺されそうになったときにネズミに救われたという神話から子の日で特に干支の最初となる甲子が縁日とされた。この日は「甲子待ち」といって子の刻まで起きて二股大根や小豆飯、黒豆などを供えて大黒天を祀る風習があった。

 初午は二月初めての午の日。稲荷の縁日。伏見稲荷の祭神がこの日、稲荷山に降臨したことに因む。旧暦の2月は今の3月半ばにあたり、春めいてくる。初午は江戸の春祭りという趣もあった。江戸では小豆飯に辛し菜をそえて食べるのが習わしだった。特に有名なのは王子稲荷。諸祈願の絵馬を奉納し、凧市も開かれた。なおその翌日は寺子屋に入門する日とされていたため、入門をひかえていた子どもにとっては遊び納めの日でもあった。

 2月8日は針供養。関西では12月8日。淡島神社に折れたり錆びた針を奉納する。江戸では浅草寺境内にある淡島堂に多くの女性が訪れた。本社は和歌山の淡島神社で淡島願人と呼ばれる願人坊主が御利益を説いて全国を行脚し、信仰が拡大。江戸では明暦以降、針供養が行われるように。淡島様は女性の守り神、特に婦人病の神として崇敬された。

 2月15日は涅槃会で釈迦が入滅した日。現在は3月15日に行われる。江戸ではさらに春と秋の彼岸には「六阿弥陀参り」が盛んだった。

 3月18日は浅草の三社権現のお祭りで「浅草祭り」、「観音祭り」と呼ばれていた。628年のこの日に、隅田川から小さな観音が網にかかり、お堂を建てて祀ったのが浅草寺の始まり。観音の縁日が18日で重なっていることもあって、山車が繰り出す大きな祭礼となった。ただし現在は「三社祭り」と呼ばれて5月17,18日に行われている(明治時代、神仏分離によって浅草寺と浅草神社が分離したため、今は浅草神社の祭礼となっている)。

 毎月18日、28日は鬼子母神の縁日。ただし初鬼子母神というのは無い。安産子育ての神として信仰を集め、縁日には女性の参拝客が多かった。他人の子をさらって食べてしまう鬼女だったが仏法に帰依。「鬼」の角を取った漢字を当てる事も多い。江戸では入谷真源寺(明治以降、入谷の名物となった7月6・7・8日の朝顔市でも有名)と雑司ヶ谷法明寺(江戸時代、子供の玩具として人気だった「すすきみみずく」でも有名)が有名で、太田蜀山人の狂歌「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」も人口に膾炙している。鬼子母神は天女のような姿で子どもを抱き、右手に吉祥果(石榴:ざくろ)を持っている。ざくろは沢山の実を持っていることから多産の象徴。

 3月3日は上巳の節句。五節句の一つである。元来は三月最初の巳の日という意味だが、江戸時代には三日に限定されている。古来、紙で作ったひな人形を飾っていたが、やがて人形師の作る人形を飾るように。元禄以降、庶民にもひな人形が普及し、狭い町屋にも飾れるように「ひな壇」が使われだした。日本橋に「十軒店」のひな市が開かれ、2月下旬になると多くの人が日本橋を訪れた。今は4月にあたるので花見のシーズンであり、上巳の節句が終わるとやがて潮干狩りのシーズンとなった(品川、高輪、洲崎など)。

 

2.夏の縁日

 4月から6月が夏(現在の5月から7月)四月一日から衣替えで薄手の袷を着るようになる。さらに暑さが増す端午の節句(五月五日)頃からは裏地の無い単衣の着物に衣替えする。5月28日は両国の川開きで三ヶ月間、屋形船が出て花火も打ち上げられる。これは享保年間に飢饉やコレラの流行があり、両国橋付近で除霊と厄払いの打ち上げ花火を上げたのが始まりという。

 4月初めに取れ始める鰹は「初鰹」と呼ばれて江戸っ子に珍重された。文化9年には鰹一本に三両(庶民にとっては二カ月分の収入に相当)もの値がついたという。江戸っ子の夏の挨拶は「もう鰹は食ったか?」であった。ホタル狩りも流行し、谷中の蛍沢や目黒には団扇持参で人が集まり、虫籠に入れて家に持ち帰った。蛍を売る行商人もいたという。江戸中期以降は金魚も流行した。

 江戸の夏祭りは日枝神社山王権現の祭礼が有名。将軍も城内で山車を見物したことから「天下祭り」と呼ばれ、9月の神田明神の祭礼とともに江戸の二大祭りと言われた。

 4月8日は灌仏会(誕生会、仏生会などとも)といい、釈迦の誕生を祝った。灌仏会では境内に花を飾った小堂を建てた。これを花御堂という。その中に「浴仏盆」という水盤を設置し、上に釈迦の誕生仏を置いた。参拝客はこの像に小さな柄杓で甘茶を注ぐ。甘茶はユキノシタ科の木の葉を煮だしたもので、釈迦誕生時、九匹の龍が現われ、天から清浄の水を降らせて産湯としたとの説話がもと。参拝後は甘茶をいただくことができた。境内や門前では青竹の小筒が売っており、甘茶の持ち帰りもできた。これで墨をすり、「五大力菩薩」と三行書いたものを箪笥に入れておくと衣類に虫がつかない、と言われた。この日は「とうきたり」と呼ばれた乞食が現れ、灌仏像を持って家々を銭乞いして回った。また別の起源を持つ風習がこの日にはあった。卯の花を戸口に飾るもので山の神を田に迎え入れる行事が起源と考えられる。ただ灌仏会の陰に隠れて次第に簡略化されていったという。

 端午の節句も本来は月初めの午の日であった。5日に固定された理由については「午」と「五」が同音だから、など諸説ある中国伝来の風習で薬草を摘んだり、ヨモギで作った人形を魔除けとして門にかけたり、菖蒲湯や菖蒲酒を飲む風習があった。日本ではこの時期、梅雨時で疫病が流行する季節であり、台風の被害もあって五月は「物忌み月」とも言われていた。また早乙女が身を清めて田植えの神を迎える儀式もあった。日本の風習と中国の風習が合体して現在の行事に発展していったものと考えられる。本来は女性の節句だったが、武士の時代が続くうちに菖蒲が「勝負」「尚武」に通ずるため、男子の行事に変っていった。鯉のぼりは江戸中期からで「後漢書」の登竜門の故事にある、鯉が黄河の急流を上りきれば龍となる、という話に基く。

 6月1日は富士山の山開きで、江戸中期から流行した富士信仰から山頂の富士権現社へ参拝するため、大勢が富士山登頂を目指した。特に食行身禄(伊藤伊兵衛)が富士山中で1733年、断食の末に亡くなって以降、弟子たちの布教もあって江戸市中に次々と富士講が作られ、「江戸八百八講」と言われた。また実際に登山できない人々の為に富士塚が神社の境内に築かれ、この日に参拝することも流行した。富士参りのお土産として代表的な麦わら細工の蛇は疫病除け、火事除けに効験があると言われた。

 6月15日は山王権現の祭礼で、江戸っ子の氏神様の大祭礼として熱狂的なお祭りとなった。山車の行列が町を練り歩き、見物人は家の入口や軒先に席を設けて見物した。奢侈が目立ってきたため、天和年間(1681~84)以降、神田明神の祭礼と一年交代で行われるようになった。

 6月の晦日は「夏越しの祓え」が行われる。半年間の穢れや厄を払う行事で12月の大晦日に行われる「年越しの祓え」と対になっている。この二つを「大祓え」といい、大宝律令に宮中の年中行事として規定されている。各神社では茅の輪くぐりが行われる。

 6月末から7月上旬(6月28日~7月17日)にかけて「大山詣で」が行われる。江戸からは富士山を背にきれいな三角の大山がよく見えた。大山講は鳶や職人、棒手振、歌舞伎役者などが多かった。女人禁制の山だったことから男性中心の講であった。江戸からは二、三泊で参拝できる手軽な距離であった事も手伝い、男中心に大勢の参拝客が押し寄せた。参拝後は江ノ島や鎌倉見物、あるいは品川遊郭などに立ち寄るなど、娯楽性も強かった。あらかじめ両国などで先達の法螺貝の音と共に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えて水垢離をした。その際、木太刀(奉納大山石尊大権現と書かれた)を携え、山頂の阿夫利神社に奉納し、代わりに他人が納めた木太刀を持ち帰って家の守りとする風習もあった。なお7月14日はその年上半期の節季で支払いの決算期だったので、大山詣でに名を借りて江戸より借金取りから逃げる者もいたという。

 

3.秋の縁日

 江戸の秋はお盆から始まる。旧暦の7月は今の8月であり、まだまだ暑いが7月1日から軒下に盆提灯をつるして故人の供養が始まった。7月15,16日は「藪入り」で奉公人は新しい着物と小遣いが渡され、親元に帰ることが許された。閻魔様の縁日とも重なり、親元に帰る前に奉公人は芝増上寺や品川東海寺へ立ち寄る者もいた。お盆が終わると本格的な実りの季節。8月15日にはお月見があり、畑作物の豊作を祈願した。またこの日は問屋や材木商が集まる深川の富岡八幡で大きな祭礼があった。

 7月7日は「七夕」。中国の伝説と日本の「棚機女(たなばたつめ)」の信仰が融合したもの。奈良時代から宮中で儀式があったが、民衆へは江戸時代に広まった。里芋の葉にたまった朝露で墨をすると字が上達すると言われ、その墨で短冊に願い事を書いて竹に結んだ。江戸の街中では竹売りの行商が出た。竹には短冊だけでなく、ホオズキや紙製の硯、筆、算盤、大福帳なども吊るされ、竹は屋根の上に立てられていたという。年に一度の井戸浚えも行われた。墓や仏具の掃除を行うところもあり、盆に入る前の禊の意味を持つ風習であろう。竹飾りは祭りが終わるとすぐに川に流された。

 7月9日、10日に浅草寺にお参りすると四万六千日お参りしたのと同じ功徳があると言われている。室町時代には正月元旦にお参りすると百日分、11月7日は六千日分の効果があるとされた。功徳日と呼ばれる特定の日にお参りする風習は江戸時代に一層広まった。観音様の功徳日として一番効果的なのは7月10日の四万六千日分。この数は一升枡に入る米粒が四万六千粒で、一生と一升をかけて長寿を祈ったもの。

 七月早々から江戸では盂蘭盆会に備えて苧殻(おがら:迎え火を焚くために使う。繊維原料となる麻の茎から繊維を取った後の殻で、焚きつけに用いられた)売りや竹売りが歩き回る。当時は仏壇が無いので、盆の時だけ魂棚(たまだな)を飾りつけた。菰の上に位牌などを置き、竹を立てて菰縄で囲み、野菜や栗、米を供えた。15日は中元といって祖先をお迎えするかたわら、子どもの奉公先に贈り物を届けた(→「お中元」)。盆踊りも江戸時代から広まり、佃島では13日の夜から15日の夜まで佃踊りで露店まで出て賑わった。

 八月朔日(ついたち)は「八朔」といい、五穀豊穣を祈願した。農家では田の実りを祈り、田の実=「頼み」にかけて、普段、頼りにしている人に初穂などの贈り物をする風習が鎌倉時代に広まった。徳川家康は八朔に江戸城に入ったので、江戸時代、八朔を祝って諸大名が白帷子(しろかたびら)を着て登城する習慣が生まれた。

 吉原の遊女もこれを真似して白無垢を着るように。なお吉原の遊女は借金のかたなどで売られてきた少女だった事が多く、十年間の奉公で、上客に連れ出されなければ病気療養以外に吉原を出ることは許されなかった。小さな時は「禿(かむろ)」、14歳くらいで「新造(しんぞ)」。年季があけるのは28歳くらいで、その時までに伴侶として引き取ってくれる(身請け)ことができれば吉原の外に出られた。年季があけても引き取り手が無ければ遊女を仕切る「遣手(やりて)」となった。死んだ場合は身寄りが無ければ近くの浄閑寺に埋葬された。しかし無縁仏は大きな穴に投げ込まれたので「投げ込み寺」とも呼ばれた。

 7月26日は「二十六夜待ち」が行われた。夜中の二時頃まで芝高輪の海岸や湯島、九段、日暮里の高台に大勢が出かけ、飲めや歌えの大騒ぎが続いたという。高輪の近くは岡場所で有名な品川宿があり、ついでに…ということもあったという。

 8月15日は仲秋の名月にあたる。また深川富岡八幡の祭礼の日でもあった。山王祭り、神田祭りと並んで三大祭りに数えられる大きな祭り。深川らしい庶民的な性格と威勢の良さがあり、大勢が押し掛けた。とくに豪華な神輿は見もので文化4年(1807)、あまりにも大勢の人が一斉に永代橋を渡ろうとして橋が落下し、次から次へと人々が転落して千人以上が溺れ死んだという。このため明治まで祭礼が禁止されてしまった。永代橋は大川橋、新大橋と並んで江戸の「三橋」と呼ばれた。この日には放生会(本来は仏教上の儀式)が行われ、魚や鳥が放たれた。

 9月9日は菊の節句で「重陽」と呼ばれた。一番大きな陽(奇数)の数である九が二つ重なるため「重陽」という。中国の行事で五節句の最後に位置し、不老長寿の薬と考えられていた菊の酒を飲んで長寿を願った。平安時代、宮中に取り入れられたが、江戸時代、幕府が重視したため庶民の間にも広まった。菊の栽培も流行し、品種が爆発的に増えた。この日より単衣から袷に着替え、習い事をしているものは師匠へ挨拶に出向くというけじめの日でもあった。

 9月13日は「十三夜」といい、8月15日の仲秋の名月だけを拝むのは「片見月」といって忌むべきこととされた。「十三夜」は栗名月、豆名月といわれた。月にすすきや栗、サトイモ、枝豆などを供える点は「十五夜」と変らない。江戸では川船に乗って眺めるのが流行した。

 9月15日は神田明神の祭礼将門を祭神とする二年に一度の大祭。山王神社は百六十町に、神田明神は六十町に氏子を持ち、山車の数も四十五と三十六で他の祭りとは群を抜いていた。家康は江戸に幕府を置いた際、将門を関東の守り神として尊崇し、秀忠の時の1616年には江戸城の表鬼門に位置する現在地に移転させ、江戸総鎮守として保護を加えた。

 9月11日から21日まで通称「だらだら祭り」と呼ばれた芝飯倉神明宮(現在は芝大神明宮)の祭礼が行われた。ここは関東の「お伊勢様」とされ、市がたち、興行も行われて大勢の見物客で賑わったという。

 

4.冬の縁日

 十月には大きな法要が二つ営まれる。一つは浄土宗の「お十夜」で、十日間、念仏を唱え続ける。6日から15日までで、芝増上寺のものが有名。もう一つは日蓮宗で日蓮が入滅した13日に「お会式」を行う。日蓮が亡くなった時、冬にも関わらず、桜が咲いたという言い伝えに因んで万燈行列を行う。

 十月最初の亥の日は玄猪(げんちょ)といい、摩利支天の縁日。亥の刻(夜の9時~11時)に亥の子の形をした玄猪餅(豆の入った餅)を食べると万病が除かれ、子々孫々繁栄すると言われた。平安時代、宮中で行われたが、江戸時代に庶民にも普及。この玄猪餅が牡丹餅(ぼたもち)となる「ぼたん」は「いのしし」のことでもあった。江戸では上野の徳大寺の摩利支天が有名でこの日にお参りすれば四万六千日分の功徳が得られる功徳日であった。

 10月5日からは十夜法要。13日は日蓮の命日でお会式。池上本門寺が特に祭りのような賑わいを見せた。20日は商人の場合が恵比寿、鍛冶は稲荷、大工が聖徳太子、芝居関係者は客人(まろうど)大明神を祀ってそれぞれ商売繁盛を願い、宴会を開いた。

 11月9日はふいご祭り。江戸は神田鍛冶町、鍋町に鍛冶師や鋳物師、釜師が集まり、刃物や鍋釜などの金物がつくられていた。この日だけは職人たちがふいごを休ませ、稲荷にお参りした。鍛冶屋が子どもたちにミカンを配る風習もあった。

 15日は七五三男女三歳(髪置き:短くしていた髪を伸ばすようにする)、男子5歳(袴着:初めて袴をはく)、女子7歳(帯解:幼児用に付いていた紐を取り、帯で着物を着る)を節目に祝い事をした。元々は公家、武家の習わしだったが江戸時代、民衆にも普及。15日はすべての祝い事に良い日とされていたので、この日に定まった。土地の産土神に父親が子どもを肩車してお参りし、子どもはお神酒を飲まされた。元禄から宝永にかけて浅草の飴売り七兵衛という者が「千年飴」という名の飴を売りだしたのが「千歳飴」の始まりという。子どもが引きずるほどの長さがあり、その長さが健康と長寿を願う縁起物として喜ばれた。

 酉の日は酉の市福をかき集める熊手を買い、商売繁盛を祈願する行事で、浅草の鷲(おおとり)神社が有名。隣は吉原であったため神社詣での帰りに立ち寄る人も多かったという。

 12月13日は煤払い。古くから正月を迎えるための準備が始まる日であった。一年間の煤を払い落すのと同時に一年間の穢れ、厄を払うという神事でもあった。掃除道具として当時は笹竹を良く用いたので、笹竹売りの行商人が町に出た。歳の市もこの頃から各地で開かれた。江戸では14日の富岡八幡を皮切りに新年を迎えるために必要な品々が売られた。最大の歳の市は17・18日の浅草観音市。門松、羽子板(邪気を払う力があるとして江戸時代に子どもへの贈り物となっていた。羽の方の玉は「無患子(むくろじ)」といって子の無病息災のお守りでもあった)、凧、火箸、注連縄などあらゆるものがそろい、大勢の客で賑わった。

 節分は年末の12月12,13日。家の軒下に柊と鰯の頭を吊るし、魔除けとした。家の主人が神前仏前に灯りをともし、かまどを清めて鬼打ち豆を煎る。煎った豆は枡に入れて三方へ載せ、その年の歳男が恵方に向かって豆を打ち、次に神棚、部屋へ豆をまく。そして自分の年齢よりも一粒多い豆を食べて健康を祈った。鬼王権現を祀っている新宿の稲荷鬼王神社では「鬼は内、福は内」と唱える。一般に節分の日には里芋、大根、牛蒡、焼き豆腐、黒豆、蓮根の煮物、田作りの重と数の子を肴に酒を酌み交わす習いだった。これがお節料理の起源という説もある。また「年取り物」といってお年玉のようなものを家の主人は家内全員に配っていた。浅草寺の節分会は盛大で大勢の人が集まった。

 大晦日は除夜の鐘を聞きながら一年の厄を落とす。108回鳴らされる鐘は107回までを年内に鳴らし、108回目は新年に撞く。手打ちそばは宝暦年間に始まったと言われ、年越し蕎麦を食べる風潮も江戸時代に始まった。

 

鬼子母神:縁日は8日、18日、28日。法華経護持の神。鬼神ハシシカの妻で千人とも万人ともいわれるほど子沢山であったが他人の子供を奪って食べてしまう鬼女でもあった。そこで仏は鬼子母神が最も愛していた末っ子を隠して、子どもを失った母親の悲しみを悟らせた。以後、鬼子母神は仏法の守護神となり、安産・育児の守り神となった。訶梨帝母とも呼ばれる。法華経信者の守護神でもあるため、中山法華経寺にも鬼子母神堂があり、日蓮が自ら彫ったという鬼子母神像が祀られている。

歓喜天(かんぎてん):16日が縁日。インドの神でシヴァ神の子といわれるが、仏教に取り込まれ、護法神となった。人身象頭の姿で四本(六本)の腕を持つ。日本では男女二体が抱擁した姿の像が多い。本来の歓喜天は乱暴な神であったが、それを治めるために十一面観音が天女に姿を変えて抱擁することで歓喜天の衝動を抑えたと言われ、その姿が抱擁像の由来という。この姿から夫婦和合、子宝の神として信仰を集めた。また単身での歓喜天は摩神を支配する神とされ、事業の成功を祈願するためにも祀られる。基本的には秘仏扱いにされる事が多い。

 なお、ガネーシャ(サンスクリット語)が象頭なのはシヴァ神が誤って頭を切り落としてしまって、頭が見つからなくなってしまったので代わりに象の頭をつけたという。浅草の通称「待乳山(まつちやま)聖天」本龍院が有名。境内では大根と巾着がいたるところで目に入る。大根は健康、良縁、夫婦和合を、巾着は商売繁盛を祈願する縁起物。浴油祈祷が毎朝、行われ、聖天の煩悩を落として聖天の徳や力を増す。さもなくば本来持っている荒々しい聖天の欲望がたちまち、復活してしまうので毎日、清め続けなければならないという。「日本三大聖天」は他に奈良生駒の寶山寺(通称「生駒聖天」)、埼玉妻沼の歓喜院(通称「妻沼聖天」)が有名。

水天:5日が縁日。十二天の一つでヴァルナといい、インドでは水の神、龍神であった。水難除けや雨乞いの祈願が行われ、漁業・水運業・水商売の関係者に崇敬された。また安産にも御利益があるといわれる。妊娠五カ月目の戌の日に岩田帯という腹帯を締めて安産を願う風習が古くからあり、水天宮でも戌の日に安産祈願の祈祷を行う。総本社は福岡久留米の水天宮で、ここには安徳天皇が祀られている。東京の中央区にある水天宮は1818年に久留米藩主有馬頼徳が久留米から江戸屋敷内に分霊し、祀ったことに始まる。1872年、現在地に移転。

愛宕権現:24日が縁日。火の神で防火に御利益がある。京都の愛宕大権現が中心。役行者が火之迦具土神(破壊と生成の両極を象徴。イザナミはこの神を生み、焼け死んだので、イザナギによって殺されたという)を祀ったことに始まる。徳川家康は防火の守り神として江戸の愛宕山に祀り、諸大名もこれに見習って国元で愛宕神社を創建させたため、全国に流布。「火迺要慎(ひのようじん)」のお札で有名。港区の愛宕神社は6月24日が功徳日で千日分の御利益があるとされ、前日には「ほおずき市」がたつことでも有名。また急こう配の石段は「出世の階段」とも呼ばれ、曲垣平九郎という武士が馬に乗って階段を上がったことで三代将軍家光に称賛されたという故事で知られる。

天神:25日が縁日江戸では亀戸天神と湯島天満宮が有名。亀戸天神は1662年に太宰府天満宮より勧請したもので、「東の大宰府」と呼ばれたほど大勢の参拝客を集めた。梅だけでなく、藤の花でも有名。初天神の1月25日には「鷽替え」の神事(1820年から始まったという)も行われる。木彫りの「鷽」を奉納し、古いものと交換する神事で、今までの悪いことはすべて「ウソ」となり、良い方に「とりかえる」事で良運をもたらす神事。8月25日は例大祭で二十五基の神輿が氏子の町内をまわり、四年に一度の渡御祭では神輿を黒牛にひかせる、最大の祭りとなる。湯島天満宮は幕府公認の「御免富」という富くじの販売が認められていた(他には感応寺、目黒不動)。ここの例大祭は5月25日。

摩利支天:亥の日が縁日。インドではマリシという神(太陽や月の光を意味)だったが仏教に取り込まれて、護身の御利益がある守護神として武士の間に広まった楠木正成の信仰もあり、江戸時代には大黒天、弁天とならんで三天と称されるほど人気があった。多くは天女の姿だが男の場合もある。上野徳大寺は上野寛永寺の門前に位置し、「気力・体力・財力」を与え、開運の御利益がある徳大寺への参拝も欠かさなかったという。11月最初の亥の日は功徳日であり、厄除け黒札が配られる。京都東山建仁寺禅居庵も三大摩利支天の一つ。1333年に摩利支天堂が建てられたという。元の高僧がもたらしたという摩利支天像は七匹の猪に乗っており、ここから猪が摩利支天の使いとされるようになった。境内には狛犬のように猪の像が対になっている。

大黒天:甲子の日が縁日(年6回)。シヴァの別名マハーカーラ(マハーは大いなる、カーラは黒)から。本来は破壊、戦闘の神だが大国主命と習合してからは豊穣の神、田の神として信仰されるように。ネズミが使い。神田明神の一宮には「オオナムチノミコト」=大黒天が祀られる。

毘沙門天:寅の日が縁日。インドの神クヴェーラが起源。すべてを聞き洩らさぬ知恵者だったが、戦い、勝運の神となる。四天王の一つの場合には北を守る多聞天と呼ばれる。江戸では神楽坂の毘沙門天として知られる善国寺が有名。

金毘羅:10日が縁日。ガンジス川のワニが神格化されたものでクーベラ。仏教に取り込まれて十二神将の筆頭宮比羅大将となった。

恵比寿:縁日は地方によって異なる。兵庫県の西宮神社、大阪の今宮戎神社が有名。1月10日を中心とする今宮の十日戎の縁日では「商売繁盛で笹もってこい」という掛け声が響き、縁起物の福笹などを持ち帰る。

弁天:己巳の日が縁日。インドではサラスヴァティという川、水の神。日本では芸能の神でもある。宇賀神(人頭蛇身)と習合し、蛇を従える。鎌倉の銭洗い弁天=宇賀福神社は北条時頼がここの水で銭を洗い、一家繁栄を祈ったという話に基き、洗ったお金が倍になって還ってくるという信仰になったという。

 特に巳の日は数十倍、数百倍、数千倍になって還ってくるといわれ、特に初巳の日は多くの参拝客で混み合う。江の島弁天=江島神社は大山詣での帰りに立ち寄る人も多く、賑わった。八臂弁財天は鎌倉初期のもの。妙音弁財天は鎌倉中期のもので琵琶を抱えた裸体の坐像。特に音楽芸能の上達を願う人がお参りする。4月の巳の日に例大祭が行われる。

稲荷:初午は2月最初の午の日。伏見稲荷の祭神が稲荷山に現われた日とされる。今は三月中頃に当たり、春の行事であった。伏見稲荷の一万にものぼる鳥居は江戸時代以降、願いが「通る」あるいは「通った」お礼に鳥居を奉納する習わしから。江戸では千束稲荷(台東区)が有名で初午の日には地口行灯が百余り飾られた。地口と戯画がかかれた行灯で江戸中期に流行したという。

元三(がんさん)大師:1月3日が縁日。延暦寺を再興した良源(慈恵大師)は985年の1月3日に没したので。伝説も多く、三匹の鬼を法力で退散させたということから鬼の描かれたお札(魔除け札)がある。「角大師」「厄除け大師」とも呼ばれる。また「おみくじ」の創始者とも言われる。栃木の佐野厄除け大師(惣宗寺)は関東三大大師(川崎大師と西新井大師は弘法大師)の一つで慈恵大師を祀る。正月には百万人以上が訪れる。

妙見菩薩:1日と15日が縁日。中国古代の星宿思想に由来。北極星、北斗七星への信仰と仏教とが習合。明治期に神仏分離が進められた結果、多くの妙見宮、北斗宮が消えていった。奈良の斑鳩にある法輪寺は江戸時代、寶祐上人が荒廃した寺の復興のため聖徳太子が信仰したという妙見菩薩の信仰を復活させて勧進を進めた。大阪の能勢妙見山は日蓮宗。その別院が東京墨田区にある。1774年に創建され、庶民にも信仰されるようになった。勝海舟の父が犬にかまれた海舟の全快のために水垢離をそこで行ったという。

薬師如来:8日が縁日。バイジシャジヤグル。東方の薬師如来の浄土である浄瑠璃世界の主。瑠璃光をもって無明の世界から衆生救済をはかる。日光・月光(がっこう)菩薩を従える三尊形式も多い。江戸では新井薬師(中野区)=梅松院が有名で二代将軍秀忠の娘が眼病にかかった際、ここで祈願したらたちまち治ったということで「眼の薬師」としても信仰された。高尾山薬王院(八王子)も川崎大師、成田山新勝寺と並んで関東三本山の一つ。飯綱権現も祀られ、薬師信仰とともに霊山として知られる。徳川家からも手厚い保護を受け、たびたび出開帳がおこなわれた。

・虚空蔵菩薩:縁日は地方によって異なる。宇宙の如く無限の智恵と福徳を蔵した仏。

観音菩薩:18日が縁日。アヴァローキテシュバラ。世界の出来事を自在に観察することができるという意味。救いを求める者の心に合わせて自在に変化することができることから三十三の姿に変化した三十三観音が各地で祀られている。中世、観音霊場の巡礼が流行。坂東三十三ヶ所、秩父三十四か所、西国三十三ヵ所、あわせて百か所、百観音を巡礼することもあった。浅草寺、京都清水寺が有名。

不動明王:28日が縁日。アチャラナータで不動の守護者を意味する。空海がもたらした明王の一人。成田山新勝寺の不動明王は五代将軍綱吉の母、桂昌院の希望で大奥での開帳が行われたこともあった。立春の前日に「福は内」の掛け声だけの豆まきが行われる。不動明王の慈悲は大きく、不動明王の前では鬼も鬼ではなくなるから、という。出開帳の場所として深川永代寺内の富岡八幡の境内に不動堂が建てられた。明治になって神仏分離により永代寺が廃寺になった際、不動堂が正式に新勝寺の別院として深川不動堂となった。

・地蔵菩薩:24日が縁日。クシチガルバ。大地と胎内を意味する言葉の合成語。

江戸では「とげぬき地蔵」で知られる高岩寺の本尊、延命地蔵が有名。毛利家に仕えていた女中が呑み込んだ針を抜いたことに由来するという。かつては上野(下谷屏風坂)にあったが、明治24年(1891)に豊島区巣鴨に移った。。

19.神社の基礎知識

 

「知っておきたい日本の神様」(武光誠 角川ソフィア文庫 2005)より

 以下、その要旨をご紹介いたします。

 

 国内には約12万もの神社がある。

 神社本庁では伊勢神宮を別格として、全国の神社を氏神神社崇敬神社とに分けている。氏神神社は地域の守り神として公認されたもの。崇敬神社は私的に祀られたもの。

 「御魂(みたま)」とは良い魂のこと。すべての人間は体の中に魂があるとされ、肉体を持たない魂が「神」。「命」は「み言」で命令を下す存在を示す。


1.稲荷社

 山城国の秦氏が祀った伏見稲荷が中心。宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祭神でイネに宿る精霊をさす。穀霊であるが五穀豊穣の神ともされるように。

 ※稲荷は「いねなり」からきている言葉だという説がある。宇迦之御魂神は雷とな

  って伏見の山に降臨し、祀られたともいわれる。実際、山の上の高木や岩にはよ

  く落雷するが、伏見の山は現在も特に落雷の多い山だという。雷=「かみなり」

  とはすなわち「神鳴り」というわけである。

   また「稲妻」とは稲を実らすもの、という意味を持ち、「雷」という漢字も田

  に実りをもたらすものという意味を表すという見方があるようだ。カッパ補足

 秦氏は地方に進出し「宇賀神」「畑」「波多野」「畑野」「畑山」といった地名や名字を残した。宇迦之御魂神の化身、あるいは使いは「狐」とされる。平清盛が陀枳尼天(だきにてん)の化身という狐を助けたために政権を握れたと信じたことがきっかけという。

 陀枳尼天は本来、インドの悪神で死者の心臓や肝をくらう、恐ろしい神であったが仏教に取り込まれ、仏法を守護する神とされた。しかしその恐ろしい印象は残り、墓場に現われる火を「狐火」と称したりもした。他方で春になり、山から里に下りてきてネズミを食べてくれるキツネを田の神とする風習も古くからあり、これらのイメージが習合して神の化身とされたようだ。すなわち稲荷社を祀れば狐の災いを避けられるとともに五穀豊穣も願うことができる。

 室町時代に入って商工業が発達すると農耕神としての性格のほかに商売繁盛の神としての性格も併せ持つようになった。江戸時代、稲荷信仰を持つ商人が幾人も成功すると江戸では庶民にいたるまで稲荷神を祀るようになった。

2.八幡神社

 豊前宇佐八幡宮が中心。古来、宇佐は瀬戸内海と大陸に向かう航路の中継ポイントとして重んじられ、航海民を束ねる宇佐氏がいた。彼らは海神を祀ってきたがやがて八幡の神と称せられるようになった。船に多くの幡を立てられた様子から名付けられたようである4世紀に大和政権は宇佐氏の力を借りて九州支配を確立した。以来、天皇家は宇佐八幡宮を重視してきたという。さらに東大寺建立の際には宇佐八幡の巫女に「奈良に赴いて大仏作りを助けたい」という神託が下り、手向山八幡宮が勧請されている。宇佐八幡には6世紀の欽明天皇のとき、神職に「我は応神天皇である」との託宣があったという平安時代の言い伝えがあり、以後、八幡神は応神天皇であるとされるようになった。おそらく源氏が石清水八幡への信仰を強め、八幡神を朝鮮遠征にまつわる応神天皇と結びつけたようである

 鎌倉、室町、江戸と歴代の幕府が長らく源氏政権であったため、八幡神も全国に普及していったものと思われる。

3.天神社

 菅原道真を祀る、北野天満宮が中心。かつては御霊信仰として祀られたが、江戸時代、朱子学者達が数多く、天神を信仰したため、学業成就、学問の神となった。寺子屋が普及した江戸時代後半、天神社も急増していったと思われる。

4.諏訪神社

 諏訪湖の周辺で祀られてきた地方神で、当初は弓矢に長じた狩猟神。諏訪上社の御頭祭(おんとうさい)では今も鹿の頭を神前にささげる神事が続いている。現在、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ:大国主命の子)という。古事記では高天原から来た武甕槌神(たけみかづちのかみ)と争い、敗れて諏訪に隠遁した神としている。

 中世、武芸神として武家から尊崇され、弓術の上達を祈願した。しかし信濃に1000社、越後に1500社と特定の地域に濃密に分布しており、基本的には地方神としての特色を持ち続けている諏訪大社は大国主神(おおくにぬしのかみ)の子、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祭る古来有名な大社で、諏訪湖を中心に四つの社殿が鎮座している。いずれも本殿は無く、上社(本宮と前宮)は神体山を、下社(春社と秋社)は神木を祭る。それぞれの宮には四隅に樅(もみ)の大木の「御柱」が立っており、この四本ずつの計16本の柱を寅の年と申(さる)の年に新しく建て直すことになっている。中世までは鳥居も含め、すべての社殿を建て替えていたが、江戸時代以降、御柱と宝殿だけが建て替えられるようになった。「御柱祭り」はこの御柱を建て替える神事である。

※御柱祭り:神木にふさわしい大木を一年以上も前から見立てて、その木を清い状態

 にしばらく保った後、清浄な方法で切り倒して材木にし、山から曳き下ろす。さら

 に神社まで運び、曳き立てて遷座祭を行い、祭りは終わる。木を「御柱山」と呼ば

 れる山(上社は八ヶ岳西麓、下社は霧ケ峰西麓)で見立て、切り出すのは「ヤマ

 ミ」と呼ばれる世襲の集団で、御柱祭りの年には伐採の21日前から物忌みに入る。

 様々な儀式を経て3月に切り倒された木は枝打ちされて、4月、祭りの最高潮とな

 る山出し祭りを迎える。大木を三日かけて山から中継地点の「御柱屋敷」まで曳い

 ていくのだ。特に山出し祭りの「木落とし」は最大の見せ場で、上社は約50メー

 トル、最大斜度30度の坂、下社は約100メートル、最大斜度35度の坂を大勢

 の男達を乗せた御柱が地響きをたてながら滑り落ちていく。途中でふるい落とされ

 る者が続出し、負傷者も絶えない、勇壮で危険な祭りである。祭神は国津神(天皇

 家は天津神の子孫)であり、荒ぶる神である。祭りもかなり荒っぽい場面が多い。 

  諏訪地方ではかつて御柱祭りの年には葬式も婚礼も行わなかったという。祭りに

 あまりにも労力とお金がかかり、冠婚葬祭をやる余力も残されていなかったそうで

 ある。山出し、里曳きの日には学校も休みになったほど、この祭りは地元の人にと

 って重大なことであったのだ。今なお神と氏子の絆の深さを感じさせ、日本の祭り

 の原点を彷彿とさせてくれる貴重な祭礼といえよう。

 ※市原に諏訪神社が散見されるのはもっぱら、諏訪の村上氏が武田氏に信州を追わ

  れて市原の村上に拠点を置いたからである。カッパ補足

5.神明社

 天照大神(…天津神)を祀る。伊勢の内宮を中心とする。伊勢の御師が各地に広め、江戸時代、お伊勢参りの流行もあって各地に神明社が建てられた。棟持ち柱が特色の神明造りも江戸時代後半、普及していった。

6.熊野神社

 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つを熊野三社という。杣人らが山中の巨木を祀ったのが始まりと考えられる。本宮大社の祭神「家都御子神(けつみこのかみ)」は「木の神子の神」であったようだ(後にスサノオノミコトと同一視された)。熊野信仰は平安時代中頃、山岳仏教と結びつき、熊野山中で修行する僧侶が多くなった。やがて彼らは半分僧侶で半分俗人である修験者(山伏)となっていった。

 熊野山伏の本拠地が那智大社の隣にある青岸渡寺

 修験者は強い呪力を持つとされ、院は彼らの力を借りて争乱を鎮めようとして、幾度も熊野詣を繰り返した。皇室のバックアップを得て修験者は地方に布教を展開し、皇室を支え、国土安穏をもたらす神として各地に熊野神社を建てた。修験者は民衆にも広めるため、病気回復などの祈祷も行ったので延命長寿、無病息災の神としても祀られるようになった。

7.八坂神社と氷川神社

 出雲の地方神であったと考えられる素戔鳴尊(スサノオノミコト)が祭神。仏教の祇園信仰と習合し、全国に拡大。釈迦が説教を行った祇園精舎の守護神牛頭天王は元来、牛の頭を持つ恐ろしいインドの神であったが仏教に取り込まれ、疫病を鎮めて人々を守る神になった

 言い伝えでは備後国に蘇民将来という名の貧しい若者がある旅人を手厚くもてなした。数年後にその旅人が再び彼の元を訪れて「自分は牛頭天王である」と告げた。そして彼に疫病除けの茅の輪を与えた。これによって6月と12月の末に大きな茅の輪(ちのわ)をくぐって厄除けをする習俗が生まれたという。また牛頭天王は蘇民将来の家を去る時に「我は素戔鳴尊なり」とも語ったという。中世の京都では牛頭天王信仰が盛んになり、厄病除けの祭りが八坂神社で行われるようになった。

 なお東国では出雲系の神社が多く、日本海航路によって大国主命信仰が早い時期に北陸から越後、出羽方面に広がり、さらに太平洋岸に拡大していったようである。さいたま市の氷川神社は素戔鳴尊と妻の奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、大国主命を祭神とする。元来は大国主命を祀っていたのが記紀で素戔鳴尊を上位に置くようになり、素戔鳴尊を主祭神のように祀ることになったのであろう。

 当初は土地の守り神としての農耕神であったが、中世、関東の武士達が八岐大蛇退治で知られた素戔鳴尊を武芸の神として尊崇し始めた。平貞盛や源頼朝らが武運長久を祈願したとの言い伝えもあり、江戸幕府も保護してきた。武蔵国に200社以上、関東全域で400社余り存在するが、それ以外の地域にはほとんど存在しない、関東特有の神社といえる。

 大国主命の国づくりに協力した常世国(とこよのくに:海の彼方にある神の国)から来た神に少彦名命(すくなひこなのみこと)がいる。大国主命が美保の岬(出雲)に来た時に海の彼方から「ガガイモ」の殻の舟に乗ってやってきた小さな神で、知恵があり、病気の治療法や酒造りにも通じていたため漢方医や酒造家の信仰を集めた。なお命は粟の茎で遊ぶうちにはじきとばされてそのまま常世の国に帰ったという。茨城県大洗の磯崎神社など各地に祀られている。

 ※天照大神を最上位におく大和政権によって神の国の中心は常世国から高天原に移

  され、出雲神話の古い神々の多くは国つ神として天つ神の下位に置かれることに

  なった。

   なお、明治以降、神仏分離令の影響で仏教的な色彩の神号が否定されたため、

  祇園社、牛頭天王社は八坂神社、八雲神社などに改称されている。カッパ補足

8.美保神社

 事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主命の子神で、蛭児(ひるこ)神とともに漁業の神「恵比寿」様として祀られる。大国主命が農耕の神とされる一方で副食となる漁業の神は格下とされ、子神となったようである。出雲の美保神社の主祭神で、海の果てにいる神々の世界(常世国)から出された指令を人間に伝える役割を持ち自由に海上を往来できる力を持つとされた。記紀では国譲り神話のなかで高天原からの使者の言葉を聞いて海の彼方に去っていったとされるが、美保神社では時折、人々を助けるために海の彼方からやってくると信じられてきた。

9.三輪神社と伊勢神宮

 弥生時代には土地の守り神として大物主神が三輪山で祀られていた。しかし6世紀初頭、大和政権は太陽神=天照大神を祖先神として祀ることで地方豪族の神々とは段違いの権威を得ようとした。大和という一地方の土地の守り神=大物主神(ローカルな存在)を捨てて、全国支配の要として太陽神を頂点とする国家的祭祀を執り行う王家の祭祀が急速に整備されてきたのである。

 天皇家の祖先神を天照大神とし、高天原の神=天つ神の中心に据え、かつ畿内に本拠を置く有力豪族の祖先神も同時に天つ神の一員に加えられていった。他方で地方豪族の祀る神の多くは国つ神として天つ神の格下とされていった。

 こうして記紀神話が造られる過程で神々の序列化も行われたのである。

 7世紀末、天武天皇の時に伊勢神宮が造営されたと考えられる。それまでは笠縫邑(現在の桜井市。「元伊勢」と呼ばれ、現在も太陽神を祀る檜原(ひばら)神社がある)で天照大神の祭りが行われていたようだ。伊勢神宮の御神体は三種の神器の一つ、八た鏡で伝承では瓊々杵尊(ににぎのみこと)が天照大神から授かったものとされる。内宮は天照大神を主祭神とするが外宮は農耕神の豊受大神(とようけおおかみ)で記紀には登場しない。平安時代に記された書物に丹波国から招かれた神とされている。8世紀初頭頃、太陽神の配下に置かれた地方由来の神の一つであったようだ。

10.多賀大社

 イザナギノミコトは黄泉の国に下ったイザナミノミコトと袂を分かち、天照大神、月読尊、素戔鳴尊を生んだ。このときイザナギノミコトはすぐれた子どもができたことを喜び、天照大神にすべてを託して身を隠したという。イザナギノミコトは記紀の国生み神話で淡路島を最初に生み、四国、隠岐、九州…といった順で「大八州(おおやしま)」瑞穂の国を完成させていく。おそらく淡路島の一部で祀られていた神であろう。兵庫県一宮町にはイザナギ神社がある。

 壮大な国生み神話は記紀に取り込まれ、6世紀末ごろに天照大神の父神とされたのだろう。国土を作り出した強い力を持つ神として産業繁栄や商売繁盛を祈願する対象となり、多賀大社の祭神となった。同社は近江商人の信仰を集め、近江商人が全国に進出する過程でイザナギ信仰も拡大していったようだ。

11.西宮神社(兵庫県西宮市)

 蛭児神(ひるこがみ)=恵比寿を主祭神とする。イザナギとイザナミとの間に生まれた蛭児は骨のないクラゲのような姿で三歳になっても立てなかったため、葦舟に乗せて海に流された。蛭児は西宮に辿りつき、現地で「恵比寿三郎」という名を与えられ、神として祀られた。当初は海から来たので豊漁や航海安全の神として祀られたが、西宮周辺が貿易で発展すると金運や商売繁盛の神として尊崇されるようになった。

12.三島神社

 大山祇神(おおやまつみのかみ)を主祭神とする。大山祇神は山の神の最上位にあって娘の木花之開耶姫(このはなさくやひめ)は瓊々杵尊の妻になったとされ、皇室とも縁続きの神である。中心は大山祇神社(愛媛県大三島町)で航海民の阿曇(あずみ)氏が祀ってきた。別名「和多志(わたし)大神」で本来海の神であった。阿曇氏の水軍が大和政権のなかで重きをなしていたため、山の神を代表する神として記紀に取り入れられたようである。このため単なる山の神にとどまらず、本来の航海守護、漁業の神でもあり続けた。山から注ぐ川にも関わることから農耕の神とも、穀物から酒が造られることから酒造の神ともされた。大山祇神社から分かれた大三島神社、三島明神、三島神社などが全国に分布している。

13.鹿島神宮

 武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀る。中心は常陸国の鹿島神宮。イザナギが火の神カグツチを斬った時に生まれたとされる。国譲りの使者として地上に降り、十握剣(とつかのつるぎ)を地面に突き立ててその上に座り、大国主命を威圧した。この剣は雷を意味し、「ミカヅチ」の部分は「御厳雷(みいかづち)」を表すという。つまり本来は雷神である。

 古来、雷は豊かな水をもたらす農耕神として祀られてきた。記紀によって皇室を守る武神とされ、以降、武術の神、国家鎮護の神となった。おそらく東国に領地を持っていた中臣氏が記紀に取り込んだようである。中臣氏は出雲支配に大きく関わったようで大国主命を屈服させる神話に領地に祀られてきた雷神を登場させ、天皇家の権威を後ろ盾として出雲を従わせたのだろう。

14.香取神宮

 経津主神を祭神とする。武甕槌神と同様にカグツチを斬った際、生まれた。剣が物を斬る際に生じる「ふつ」という古代語(→「ぷっつり」「ぶっつり」)から生まれた名であろう。霊剣の神とされ、「悪霊を斬り、退けてくれる神」とされた。武甕槌神と同様、武芸の神とされ、また海上守護、交通安全の神、出世、開運招福の神としても尊崇を集めた。

 香取神宮は鹿島神宮と隣接することもあり、強いつながりがある。秋の御船祭りでは鹿島から香取まで御船の神幸が行われる。両神宮とも中臣氏の支配下に置かれていた。中臣氏は鹿島の神を上位においていたらしいが、関東では経津主神の方が人気があったようで香取系の神社は広範に存在している。

 ※香取神宮と鹿島神宮は平安時代には「神宮」号という最高レベルの格式を朝廷か

  ら与えられていた、東国随一の古社であった。これは全盛を誇った藤原氏との絡

  みも大きいが、大和政権の時代から蝦夷支配の東国における最大の拠点がこの地

  域に置かれ、軍事的に長く大きな役割を果たしてきたからであろう。両神宮の主

  祭神がいずれも武神、軍神であることも偶然ではあるまい。カッパ補足

15.春日大社

 主祭神は天児屋根命(あまのこやねのみこと)。藤原氏の祖先神で、天照大神に仕えた祭事担当の神とされる。天照大神が天岩戸に隠れた時、天児屋根命が素晴らしい祝詞を唱えたという。このことから祝詞の神とされ、祝詞を通じて良い言霊を与えてくれるとされた。

 古くは河内国の枚岡(ひらおか)神社(現在東大阪市)で天児屋根命を祀っていた。鎌足の活躍で藤原姓を与えられ、文人官僚として鎌足の子孫の藤原氏が大躍進すると祭祀担当の中臣氏とは完全に分かれてしまった。

 藤原氏は平城京に春日大社を造った際、祭神に天児屋根命だけでなく中臣氏が祀ってきた武甕槌神と経津主神も加え、さらに巫女の神とされる比売神も加えた。平安時代以降、藤原氏が地方に進出すると春日神社も広がっていった。  

16.椿大(つばきだい)神社と椿岸(つばきぎし)神社(三重県鈴鹿市)

 二つの神社は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)をそれぞれ祭神とし、隣接している。猿田彦大神は天孫降臨の際、瓊々杵尊の案内人となって協力した。瓊々杵尊一行が雲の中を進んでいると天の道の分かれるところ「八衢(やちまた)」にいたのが猿田彦。「七あた(=1.2m)」もの長大な鼻と丸く大きい目に光る口を持つ奇怪な姿であったため、天鈿女命が男装して詰問したところ「私は天孫に逆らうつもりはない」と答え、案内役を務めて、日向の高千穂の峯に一行を導いたという。これが縁で後に天鈿女命は猿田彦大神と夫婦になり、彼の故郷、伊勢国へ向かったという。

 後世、天狗信仰が流行ると猿田彦が天狗と同一視された。祭礼ではよく神輿の先導役を務める。また旅人の安全を守る神とされて道祖神ともなっている。今は交通安全の神でもあり、災難除け、方位除け、延命長寿の御利益もあるとされている。本来は伊勢の地方神であったようだ。

 天鈿女命は天照大神に仕える巫女神で天岩戸の神話で知られ、技芸上達の神として芸能界、花柳界の信仰を集めている。

17.日吉大社と松尾大社

 祭神は「大山神(おおやまくいのかみ)」で仏教風には「山王権現」とも呼ばれる。天台山国清寺に大地の神を祀る山王祠という道教の祠があったことにちなんで「日吉山王」と名付けられたのが始まり。大山神は記紀には登場しない地方神であったが、天台宗の拡大と延暦寺の荘園の拡大によって全国に2000社ほど存在する。

 ※祇園社と同様に、明治維新で神仏分離令が出された結果、山王権現といった名称

  から日吉神社、日枝神社などに改称されている。カッパ補足 

 同じく大山咋神を祭神とするのが松尾大社。天台宗の日吉信仰とは別口の神社。最初は丹波国の山の神だったようで、秦氏が5世紀末に朝鮮半島南部から山城国や丹波国に移り住んできた時に、丹波の大山咋神信仰を取り入れて本拠地である山城の松尾山に祀ったのが同社の由来。京都最古の神社とされる。秦氏の氏寺が同じ桂川沿いにある太秦広隆寺。秦氏の地方進出にともない、各地に松尾神社が建てられ、およそ1000社存在する。

18.貴船(きふね)神社と賀茂神社

 賀茂川の上流にあり、豊かな水をもたらす貴船山の神で「高靇神(たかおかみのかみ)」と呼ばれるが記紀には登場しない。蛇の姿をして雷を操るとされた。平安遷都後、京都の守り神として朝廷が重視、雨乞いや止雨のために度々祈祷が行われた。全国に約300社存在。

 貴船神社の下流に位置するのが賀茂神社。古代豪族鴨氏の祀る神社。御子神の別雷神を祀る上賀茂神社と母神玉依姫、姫の父「建角身命(たけつぬみのみこと)」を祀る下賀茂神社とからなる。これも記紀には登場しない地方神であったが、平安京造営にあたって現地の有力豪族鴨氏の協力をあてにした朝廷は賀茂神社を京都の守り神として尊崇するように。貴船周辺も鴨氏の勢力圏にあったと考えられる。京都三大祭りの一つ「葵祭り」は賀茂神社の祭礼に由来する。鴨氏の子孫が各地に賀茂神社を建てた。

 ※市原の高滝神社は江戸時代、「加茂大明神」という名で広く知られ、多くの参詣

  者を集めた。カッパ補足

18.市原市内の神社

 

・「市原市内の神社考」小幡重康:「市原地方史研究第13号」1984より

 以下、要旨をご紹介いたします。

 

1.式内社

 「延喜式」神名帳に記載された神社のこと。延喜式は22年かけて927年に完成。全50巻で内、10巻までが「神祇の巻」。そのうち巻9と巻10に全国の3132座、2861所の神社=官社の名が国郡ごとに記載。これらの神社には神祇官か国司が一定の奉幣を行うべきとされた。

①房総の式内社:計22社

 安房:6座

 上総:5座…玉前神社(埴生郡)・橘神社(長柄郡)・姉崎神社、嶋穴神社(海北 

    郡)・飫富神社(望陀郡)

 下総:11座

②国史現在社(国史見在社ともいい三代実録に記載)計7社

 安房:無し

 上総:6社…前広神社・高滝神社・神代神社・建市神社・常代神社・田原神社

 下総:1社

※前之園亮一氏は本書の「関東国造の性格と諸類型」で関東にいた26の国造を以下の

 三つに類型化している。

A.毛野氏のように独立性に富む「君」姓の豪族

B.伊甚国造、上海上国造や菊麻国造のように自立性に富んだ「直」姓の豪族

C.須恵国造や馬来田国造のような伴造系の宗教的性格の希薄な豪族

 房総ではBとCタイプの豪族が存在。Bタイプは宗教的な性格が強く、その支配地には有力な神社(=式内社)がたいてい存在するが、Cにはそうした神社が皆無に近いという。確かに伊甚国造には玉前神社と橘神社、上海上国造には姉崎神社と嶋穴神社が存在する。その一方で須恵、馬来田国造の支配地には大きな古墳群があっても式内社はわずか飫富神社の一つに過ぎない。しかも同社は馬来田国造とは無関係で太臣一族の神社と前之園氏は捉えている。

 だとしても菊麻国造の領内に式内社や国史現在社が一つも存在しないのは不思議である。菊間八幡や飯香岡八幡は「八幡社」と捉える限り、国造の存在した時代まではさかのぼれない。ただし市内では大きな古墳群を擁する場所柄、菊間八幡は「八幡」となる以前の歴史を有していた可能性が大きいだろう。

 社伝によれば祭神は久々麻国造大鹿国直となっており、菊間国造が祀る氏神と考えられる。とすれば創建は古墳時代までさかのぼれるはずである。にも関わらず菊間周辺に式内社が存在しない理由としては菊間国造一族が何らかの理由でいち早く没落してしまったために、彼らの祀っていた神社が平安時代までの間に有力な神社として存続することが難しくなってしまったせいではあるまいか?

 

2.近世の神社

 戦国時代、多くの神社が社領を失い、衰退。徳川家康が天正19年、主な神社に朱印状を与えて社領を安堵したことで復興。その基準は安房、上総の場合、かつての領主里見氏が与えていた社領であったようだが、必ずしも里見時代と同じ領地が安堵されたわけではない(高滝神社は17石から10石に減らされている)。

 市内トップの社領を誇るのは飯香岡八幡で朱印高150石。房総全体では香取神宮の1000石が突出している。なお社地は朱印状、黒印状により寄進されるか、除地(よけち:中世の支配者より給与されたもので税は免除された)として認められた。社領の大きい神社は飯香岡八幡以下、磯ヶ谷八幡(朱印地50石)、高滝神社(朱印地10石+除地26石余り)、姉崎神社(除地35石)、菊間八幡(朱印地20石)、椎津八坂神社(朱印地10石余り)の順。

 やがて香取神宮などの一部は除き、寺請制が確立すると多くの神社は別当寺の支配下に置かれた。

 神職は京都の吉田家、白川家などから神道裁許状などを与えられ、「和泉正」「近江守」といった受領名を与えられた。慶応元年の記録によると飯香岡八幡の宮司は「市川伊賀」(同社の寛文年間の手水鉢に「伊賀守」の銘がある)、菊間八幡は「根本大隅」、嶋穴神社は「和田豊後」、姉崎神社は「海上(うなかみ)伊予」、佐是村神主は「鶴岡大和」、今津朝山の鷲神社は「始関山城」、青柳若宮八幡は「小倉河内」、山田橋村神主は「野城丹後」、岩崎村神主は「武田左近」、磯ヶ谷八幡は「柏伊勢」(社家に馬立出雲)であった。

 内、現在も宮司を世襲しているのは飯香岡八幡、嶋穴神社、姉崎神社、佐是村神主などに過ぎないという。明治以降、太政官の布告によって神職の世襲が好ましくないとされたことや、身分制度の解体と職業選択の自由化、経営面での悪化などが重なったのであろう。多くの神社は神職不在となり、有力な神社の宮司が場合によっては十以上もの神社の神職を兼任するようになってきている。

 なお菊間八幡は宮司以外に社家(特定の神社の神職を世襲してきた一族)が5家(市川主膳、天羽主計、菊地庄司、宮崎主水、市川掃部)も挙げられている。当神社の歴史の古さと重要性を示唆しているのかもしれない。

※吉田家:室町期の吉田兼倶の代から神道裁許状を出していた(1482年~)。

 寛政時代には吉田家を本所とする神職は20万人近くに及んだ。

 

 以上です。次からはカッパのデータを示します。

 

3.千葉県宗教法人名簿(昭和48年)に基づくカッパの分析

 市原市内の神社総数は225社(摂社、末社を除く)。おそらく江戸時代には500社以上あったはずだが、明治以降の廃社、合祀の進展によって半減してしまったと思われる。祭神として多いのは1位大山祇神(オオヤマツミノカミ:山の神とされ、加茂、南総地域に圧倒的に多い)、2位スサノオノミコト(素盞鳴尊:八坂神社系)、3位応神天皇(八幡神社系)。他に平野部では江戸時代、最大の流行神であった稲荷神社の倉稲魂命(ウカノミタマノカミ)も目立つ。

 

※参考:「全国の神社(約12万)の内訳」:「知っておきたい日本の神様」(武光誠)

1位

稲荷社

約2万

2位

八幡社

約1万5千

3位

天神社

約1万

4位

諏訪神社

5700

5位

熊野神社

3300

6位

春日神社

3100

7位

八坂神社

2900

8位

白山神社

2700

9位

住吉神社

2100

10位

日吉神社

2000

11位

金比羅神社

1900

12位

恵比寿神社

1500

 

・「市内の神社(228法人)の内訳」…宗教法人名簿よりカッパ作成

熊野

八幡

八坂

大宮

稲荷

日吉

(日枝)

大山祇

白幡

(白旗)

25

21

14

12

10

10

10

諏訪

浅間

白山

天神

春日

三嶋

玉前

 

 全国統計と比べて目立つ市原の特色は法人数1位に「熊野神社」(全国では5位)がきていること。八坂神社が3位(全国では7位)、大宮神社が4位、浅間神社が10位(全国では12位以内にはランクインしていない)に来ている点も注目されよう。

 熊野神社の多さは黒潮に乗って紀州の影響を強く受けている房総各地に共通の特色でもある。 

 八幡神社の多さは中世以降、近世に至るまで、市原を含めて房総が長く源氏の支配を受けてきたことに起因するだろう。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の将軍は基本的に八幡神を守護神としてきた源氏の末裔が世襲してきた。このため白幡神社(…平家は紅旗、源氏は白旗)と八幡神社を足すと総数は30となり、熊野神社を抜いて神社数1位となってしまう。また源頼朝にまつわる伝説は八幡神社や白幡神社に限らずとも沿岸部中心に数多くの神社が伝えているところである。

 八坂神社(祇園、八雲、天王社…)の多さは大都市江戸に近く、五大力船が沿岸部を頻繁に行き交い、かつ幾つもの街道が交差する市原の地理的特徴に由来するものと推察している。物資や人々が行き交う交通の要所は疫病の伝染も頻繁だったと思われる。疱瘡や麻疹などの流行が繰り返す中で庚申信仰と並行するように病魔退散を祈願する八坂神社が近世を中心に数多く創建されたのではないか?

 浅間神社は幕末の内房における富士信仰の急速な盛り上がりがあったことと関連しよう。大宮神社の多さは江戸時代の後半、伊勢参りがブームとなった点に由来するのではないか?伊勢講の存在を示す五井若宮八幡の鳥居に見るまでもなく、江戸期後半、多くの人々が富士山、相模大山、秩父御嶽、出羽三山、善光寺、そして伊勢神宮に参拝した。また近場では各種の札所があり、人々は頻繁に出かけては物見遊山を兼ねて神仏に祈願するようになる。そうした伊勢神宮に限定されない巡礼ブームがあって、伊勢参りのついでに熊野神社、金比羅様や京都の八坂神社、諏訪大社、富士山などにも立ち寄ったことが多かったようである。

 実際、社として独立して祀られなくとも石祠の形でこれらの神々は市内各地に数多く、祀られている。また出羽三山も市内では多くの三山塚に見られるように数多く参拝されてきた。出羽に行くついでに白山、筑波山、大杉神社(あんば様)などにも立ち寄ることが多かったようで、やはり摂社、末社の形でこれらの神々が数多く祀られている。

 ただ市内の特色としては浅間神社や出羽三山、相模大山(石尊大権現)、御嶽、白山、諏訪神社などの山岳信仰に関わる神社、祠、塚(富士塚、三山塚)が極めて多いという点であろう。47都道府県中、最も起伏が少なく、高い山が無い房総の地に熱烈な山岳信仰が近世後半から近代において深く根付いていったということは大いに注目される現象といえよう。

 

・石祠に祀られた神々

江戸時代の石祠に祀られている神々一覧(祠数の多い順)

道祖神

25

大六天※2

1

子安大明神

21

馬頭観音

1

稲荷大明神

17

鈴木大明神(詳細不明)

1

疱瘡神(痘瘡神)

12

羽黒大権現

1

天神(天満宮)

11

御嶽神

1

仙元大菩薩(浅間宮)

9

清正公大神祇

1

金毘羅大権現

8

地神※3

1

牛頭天王

8

姥祖神(詳細不明)

1

山神(大山祇神社)

7

姫大神(詳細不明)

1

大杉大明神

6

白山神社

1

庚申

5

十二所権現※4

1

妙正大明神

4

高良・武内大明神

1

水神宮

4

大宮大権現※5

1

天照大神

4

白鳥大明神※6

1

石尊大権現(雨降神社)

3

天王神社※7

1

山王大権現

3

大日天子※8

1

神明神社

3

日之宮(詳細不明)

1

弁財天

3

月読之命

1

八幡

2

月天子※9

1

淡嶋大明神※1

2

三夜講(詳細不明)

1

二十三夜

2

榛名山満行宮※10

1

麻疹神

2

大天狗・小天狗※11

各1

※1:和歌山市の神社で婦人病に霊験ありとされる。人形供養や針供養でも有名。

※2:面足(おもだる)神社と同じ。

※3:国つ神、地祇のこと。またはその土地の神のこと。

※4:熊野権現と同じ。

※5:山王大権現と同じ。

※6:白鳥大明神は宮城県刈田嶺神社のことで、同社は式内社であり、名神大社とされ

 た。日本武尊を主祭神とし、791年、坂上田村麻呂が祀ったことに始まると言う。

※7:午頭天王を祀る八坂神社、祇園社、八雲神社、津嶋神社と同じ。

※8:日天子はバラモン教の神で太陽を神格化したもの。観音菩薩の変化身ともされ

 る。

※9:月天子はバラモン教の神で月を神格化したもの。勢至菩薩の変化身ともされる。

※10:現在は榛名神社(群馬県高崎市)。

※11:ともに相模大山雨降神社に祀られている。富士塚にはこれらの祠以外に石尊大

 権現、仙元大菩薩(浅間宮)などの祠が祀られている場合がある。

 

 以上はあくまでもカッパの調査によるもので、調査数はまだまだ不十分であることをご了承ください。

 

17.神道と神社

 

・「江戸時代の神社」(高埜利彦日本史リブレット86 山川出版 2019)より

 本の要旨を以下に、ご紹介いたします。

 

大日本帝国憲法では政教一致

 →主要な神道儀礼や皇室祭祀を国民の祝日として祝う

  紀元節、神嘗祭

  国家が神社や神事に国費を支出:官幣大社・中社・小社etc

 →1879年、靖国神社を別格官幣社に列し、大正年間には明治神宮創建、1920年、

 官幣大社に列した。

律令国家でも祭政一致

 →「延喜式」(905年~927年:ほぼ完全な形で残っている唯一の格式)神名帳(じんみょうちょう)に記載された官幣社737座国幣社2395座、合計3132座を「式内社」と呼ぶ。祈年祭に際して官幣社の神官を神祇官に招集し、弊物(へいもつ)を与えて地元に持ち帰らせ、五穀豊穣を祈らせた。国幣社の神官は国衙に招集されて弊物を与えられた。

摂関政治の時代になると神祇官による祈年祭(2月4日)が衰退し、代わって1081年から近畿の有力な神社二十二社に祈念穀奉幣使が派遣されるように。これも応仁の乱以降、廃絶した。

 地方では神祇官の衰退と共に国幣社の制度が意味を失い、代わって国司が一宮、二宮といったように神社に序列をつけて保護管理するように。鎌倉室町期には国司に代わって守護が主体となった。また有力な神社を総社として他の神々を勧請し、国内の神社を代表させることも見られた。

 国造家の子孫が引き続き祭祀を継承する地方の大社としては出雲大社(千家、北島家)の他に紀伊の日前(ひのくま)・国懸(くにかかり)宮(紀氏)が挙げられるが紀氏が1584年、小牧長久手の戦いで紀氏が豊臣秀吉側に敵対したため、社殿は破却され、領地も没収された。後に紀州藩によって社殿は再興。宇佐八幡宮も国造の宇佐氏が大宮司家であったがやはり秀吉による九州平定によって広大な領地が没収されている。これら以外の地方大社(※)も豊臣政権時の検地の際に所領は一旦没収され、改めて限られた朱印地を与えられている。太閤検地と刀狩りによって大神社の領主的権限は否定され、その保護者であった在地領主の多くは兵農分離によっていなくなり、近世では村落の民衆によって神社は支えられるようになった。

※地方の大社で一宮となった神社:鹿島神宮、香取神宮(両社とも藤原氏の氏神春日

 大社に勧請された)、諏訪大社など。

 一宮にはならなかったが有力だった大社:熱田神宮(伊勢神宮に次ぐ社格として一宮より遙かに上。平安末期に藤原氏が大宮司、国造の尾張氏が権宮司)、熊野大社など。

・江戸時代の神社

 寺請制度によって神職も仏教徒として檀那寺に属した

 天皇家も四条天皇が1242年に葬られて以降、泉涌寺(御寺と呼ばれるように)を菩提寺としていた。徳川将軍家は芝増上寺(浄土宗)と上野寛永寺(天台宗)を菩提寺とした。

 仏教の統制のために寺院や僧侶の組織化を進め、寺院法度で宗派ごとに本末制度(本山・本寺と末寺)を確立し、1665年、諸宗寺院法度を出して僧侶全体の統制を確立。同時に諸社禰宜神主法度五箇条を出して禰宜、神主は専ら神祇道を学び、神事祭礼に務める事とされた。神仏習合を否定した吉田神道の立場を幕府はとったのである。この結果、1668年、出雲大社は造営に際して大日堂や三重塔などを移転させ、別当寺(鰐淵寺)との関係を切ることになり、いち早く神仏分離を実行に移すことになった。

 また地方の大多数の神職は吉田家の取り次ぎがないと無位無冠を意味する白装束(狩衣)しか身につけられないものとした。吉田家はこれを足がかりにして次第に全国の神社への影響力を強めた。実は諸社禰宜神主法度の制定に吉田惟足が深く関わっていた。白川家や吉田家のように朝廷と神社との間を取り持つ神社伝奏の公家は1794年で23家に達したが、その中で吉田家の立場は次第に突出していったのである。

・僧侶、神職以外の宗教者

 修験道:祈祷、丸薬の製造、先達、御師

  天台宗系の本山派は聖護院、真言宗系の当山派は醍醐寺三宝院を中心

 陰陽師:家相図の作成、姓名判断、日取りの決定、花押作成

  本所として土御門家(安倍晴明の子孫)

 漫才、盲僧(かまど占い)、虚無僧、座頭、梓巫女(死者の口寄せ、祈祷)、猿引

 (猿回し:馬の安全息災、小児の疱瘡除け)

 

 日光東照宮の造営:1616年、久能山に埋葬後、一周忌後の1617年、日光東照宮造営。神号は金地院崇伝ら「大明神」を推す吉田神道側を退けて山王一実神道の天海の主張する「東照大権現」に決定。1636年、家光は金56万8千両、銀100貫目などを費やして白木造りの社殿を建て替えた。さらに1646年から日光例幣使を毎年送るように。

・地方の神社

 検地の進展によって村切りされた近世村落は6万を超える数となった。それぞれの村には氏神、鎮守、産土、産神などと呼ばれた村を代表する神社が存在した。また一つの村は小集落がいくつかまとまって形成されていたが、小集落ごとにも小さな神社が祀られていた。それらの神社には神職を専業とする者が不在である場合が多く、「鍵取(かぎとり)」と呼ばれた有力な農民が神事や祭礼以外の管理を任されていた。

 地方では神官は幾つもの神社の宮司を兼任することが普通であった。村を代表する神社には境内地などを年貢免除地とすることでその維持を図った。

・白川家と吉川家

白川家:神祇官の長官(神祇伯)を平安末期から世襲。花山天皇の子から始まり「伯

 王家」とも呼ばれた。江戸時代の家領200石。

吉田家:二十二社の一つ京都吉田神社の神職を務める一族。白川家に次ぐ家柄で神祇

 官の大福(次官)の地位に就くことが多かった。吉田兼倶が反本地垂迹説の立場か

 ら唯一神道を創始。1484年に吉田神社内に大元宮(たいげんきゅう)と呼ばれる 

 斎場を設けて天神地祇を祀り、「宗源宣旨」の形式で各地の神社に神位階を与える

 事を通じて影響力を及ぼすようになった。

  その孫の兼右(かねみぎ)は1590年に神祇官八神殿を大元宮の背後に再興し、神

 祇官代と称して独自に地方の神職に対して神道裁許状を与え、神社に神号、社号を

 発給してきた。徳川政権内にも食い込み、諸社禰宜神主法度制定に関わって、江戸

 後期には地方神社の多くに突出した影響力を行使した。

  なお地方の社家が上京して吉田家から官位や神道裁許状を得るには多くの費用

 (1813年の例では総額で55両)が必要となったため、その負担に耐えうる余力が

 生じる江戸後期までは吉田家の影響力が全国的に浸透するには至らなかった。また

 門跡寺院を仰ぐ修験道とつながった神社や東照宮などは吉田家の影響を免れ神仏習

 合したまま明治維新を迎える

  なお吉田家が「宗源宣旨」を通じて神位階を与えることは1739年に見直されて

 1747年からは神位階の発給は勅裁によるものとされ、吉田家の独占は廃された。ま

 た八神殿も1751年、勅命によって白川家が再興し、以後白川家が吉田家の対抗勢力

 として台頭してきた。

  ただし御師や鍵取、社守(しゃもり)らが神道裁許状を得ることで姓氏を持つ身

 分に上昇し、神事祭礼に携わる特権を得ようとする動きが江戸後期に生じてくると

 多額の支出を覚悟して吉田家の配下になる者も続出したため、吉田家の影響力は拡

 大する流れにあった。

・幕末の朝廷神事と神仏分離

 天皇の行幸は禁中並公家諸法度で禁止されてきたが、1863年、孝明天皇は将軍家茂や諸大名を供奉させて賀茂社に行幸し、さらに石清水八幡宮にも行幸して攘夷を祈願した。この時点で朝廷と幕府との力関係が逆転したことがあからさまに示された

 以降、朝廷では王政復古に向けての動きが早まる。1867年12月9日に王政復古の大号令が出され、翌年の3月には祭政一致を目指して神祇官の復活を図る。神職につくものはすべて神祇官に属することとし、4月に神祇官が再興され、1871年、神祇官によって官国幣社制がスタートし、全国の神社が神祇官の下におかれて官社扱いとなった。また1868年3月以降、神仏分離を進めていく。神社を支配した別当や社僧の還俗や、神社に祀られていた仏像、仏具等の排除を命じた。4月には八幡大菩薩の称号を禁じた。

16.遊行する聖たち

 

1.徳本(とくほん)上人(1758~1818)

 和歌山の日高郡出身。1784年に浄土宗の僧侶のもとで得度し、徳本の名をもらう。以後、山中で木食行と不断念仏の修行を続け、次第にその徳を慕う者が増えた。紀州藩主や幕府の支援を受けるようにもなったが、諸国を遊行し、各地で不断念仏(木魚や鉦を乱調にたたきながら念仏を唱えるのが徳本の特色であったという)を勧めた。庶民に圧倒的な支持を得て各地に徳本講が組織され、その代表が江戸の一行院で徳本の名号を預かり、帰郷後、それを講の本尊としたり、石塔に刻んだりした。関東にも度々、教化活動の為、遊行して廻っている。千葉にも四度は訪れており、各地で徳本塔の開眼供養を行っている。

 なお市原にある祐天と徳本の名号塔はいずれも彼らの死後、彼らの追善供養のため、その徳を慕う人々によって建てられたものと考えられる。

 

2.木食(もくじき)上人観正

 木食上人とは五穀を絶ち、木や草の実を食べて諸国を行脚する苦行僧で、修験道と深く関わる。数多くの仏像を残した円空(1632~1695)や木喰上人(木食明満:1718~1810)は特に有名。

 観正は淡路島出身。長年の廻国修行を経て、小田原で水加持により雨を降らせるなど多くの霊験を著し、文政年間、江戸で「今弘法」と呼ばれて人気を博した木食僧である。その独特の書体は尊崇する人々から熱望され、神奈川、東京、静岡などに百基近くの観正塔が残されている。千葉でも十数基確認されているが、多くは文政5年(1822)、観正が房総を訪れた時に残された物で、釈蔵院のものもその一つと考えられる。

 房総を訪れて間もなくの文政12年(1829)、江戸大火の際の加持祈祷が悪質とされて観正は投獄され、三カ月後に獄中で亡くなってしまった。享年75歳であったという。

 この年、観正は房総を訪れている。これはその記念として房総に建てられた幾つかの塔の内の一つと考えられる。塔は弘法大師の供養塔として建てられている。

 

3. 祐天上人

 祐天上人(1637~1718)は陸奥国磐城出身で12歳の時、得度し仏道に入ったが愚昧にして経典が覚えられず。これを恥じて成田山新勝寺に籠ったところ、不動尊から剣を喉に差しこまれる霊夢を見た。以後、不動尊から智慧を授かったとして彼は本領を発揮するようになり、五代将軍綱吉らの帰依も受け、ついには増上寺第36世法主、大僧正ともなった。

 念仏の功徳による数多くのエピソードを残しているが、特に常陸の累という女の怨霊を成仏させたことが四代鶴屋南北の脚本による歌舞伎や曲亭馬琴の読本、三遊亭円朝の怪談話(「真景累ヶ淵」)にも取り上げられ、江戸時代後期には全国的にその名が知れ渡った。

 

 …ついでにご紹介

・怪談「真景累(かさね)ヶ淵」

 安政6年(1859)、三遊亭円朝によって怪談噺として初演された。累ヶ淵は茨城県常総市羽生町の法蔵寺裏手に続く、鬼怒川の沿岸をさす地名。一般にこの話が流布したのは四代目鶴屋南北が歌舞伎の脚本としてまとめあげ、文政6年(1823)に初演されて以降のこと。元の話は元禄3年(1690)に出版された仮名草子「死霊解脱物語聞書」に取り上げられた実話という。

 これによると・・・

 下総国岡田郡羽生村に百姓与右衛門とその後妻お杉の夫婦があった。お杉の連れ子、助(すけ)は生まれつき顔が醜くて足も不自由だった。与右衛門は助を嫌い、邪魔に思うようになり、ついに助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年、お杉は娘を産み、累(るい)と名付けた。しかし累も助と生き写しといわれるほど醜かった。村人は助の祟りだと噂し合い、「助がかさねて生まれてきた」ことから累を「かさね」と呼んで恐れた。やがて与右衛門もお杉も相次いでこの世を去り、累は一人ぼっちとなってしまったが、村にやってきた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病した縁で彼を婿に迎えて一緒に暮らし始めることとなった。しかし谷五郎もまた醜い累を疎ましく思うようになり、正保4年(1647)8月、累を川に突き落として殺害してしまった。

 その後、谷五郎は幾人もの後妻を迎えるがことごとく若死にしてしまう。6人目の妻きよとの間にようやく菊という名の娘を設けたが、寛文12年(1672)1月、菊にとうとう累の怨霊が取り憑いた。累は菊の口を借りて谷五郎の悪行を語り、自分の供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺にいた、念仏聖祐天上人(当時30代半ば)はそのことを聞きつけて、一度、累の解脱に成功する。が、たちまち菊は累とは別の何者かの怨霊に取り憑かれてしまう。祐天上人が死霊に問いただしたところ、それは助の霊であった。祐天上人は助にも戒名を与えて解脱させ、一件落着となった。この一件で名声を高めた祐天はおよそ40年後の1711年、ついに増上寺第36世法主となり、大僧正の地位に昇りつめた。なお法蔵寺には今も菊の墓があり、市の指定文化財となっているという。

 以上、閑話休題

 

 江戸時代も後半に入ると六部だけでなく、多くの人が霊山、霊地を目指して巡礼の旅に出ていた。当時、西国三十三番札所、坂東三十三番札所、秩父三十四番札所を巡ると合わせて百箇所となり、その達成記念に碑を建てることがあったが、これらの碑の場合は百箇所に加えておそらく四国八十八番の札所も巡ったのだろう。気の遠くなるほどの労力と歳月をかけて札所巡りの旅が続けられていたのである。

 廻国塔やこうした各種の巡拝塔の総数はかなりの数にのぼるとみられる。ただその立地が寺社の境内に限られず、きわめて多様であり、非常に見つけにくい場所であることも多い。市内最古の道標でもある西国吉の廻国塔(下 写真)は今、薮の中にあって見つけるのにとても苦労する。高坂や山倉の廻国塔も山道にあって気付く人は少ないだろう。当時の人はなぜこんな目立たないところに石塔を建てたのか、むしろ不思議になるくらいである。

 おそらくそれは人気の無い山中で歩き疲れ、心細くなった巡礼の旅人を励ますためではあるまいか?だからこそ敢えて草深い場所を選んだのではあるまいか・・・などと想像してみる。

 かつて歩き疲れた後続の巡礼者をこれらの石塔は薮や草むらの中から静かに見守ってきたのだろう。しかし現代人の多くはもはや山中を訪れる事も無くなり、とっくに遊行の意味を忘れ果ててしまった。今、人知れず草むらの陰で二度と来ぬ人を待つかのように立ち続ける廻国塔の寂しさをふと思うのである。

 

15.七里法華資料

 

1.八幡円頓寺:日泰の隠居寺

2.七里法華と不受不施派

 長享2年(1488)、千葉から土気、東金にかけて支配を拡大した酒井定隆は領内一円に日蓮宗を強制する「改宗令」を出したという。ある日、定隆が安房の里見氏を訪れるために品川から乗船したところ沖合で暴風雨に見舞われ、乗り合わせた日泰の祈祷で無事、浜野に到達できたことで日泰に深く帰依するようになったことがきっかけらしい。 

 既に日泰は文明元年(1469)、浜野に本行寺を創建、文明5年には品川に本光寺を再興するなど、江戸湾の海上交通を利用して当時盛んに布教活動を行っていた。酒井を弟子にした日泰はさらに教線の拡大をはかるため、酒井に働きかけて「改宗令」を出させたようだ。これに反対する寺院は破却されるか、移転を余儀なくされた(菊間の千光院等)という。

   以後、約100年間、酒井氏五代に渡って日蓮宗妙満寺派(顕本法華宗)が領内に浸透し、現在でも山武の南部から市原北部と千葉までのおよそ七里四方は日蓮宗寺院280か寺を数える。特に茂原、東金、大網に密度が濃い。「改宗令」の真偽はともかく、日蓮宗寺院がこれだけ密集して存在するのは全国的にも珍しいという。

   市原市でも八幡円頓寺は日泰が老後を過ごした寺であり、顕本法華宗の勢力は七里法華にかかる市の北部を中心に円頓寺をはじめとして姉崎妙経寺など市内の各地にも及んでいる。

 日泰が創建した浜野の本行寺は江戸時代になって御禁制の不受不施派に近い立場にあった什門流の住職が続いたため、本行寺の影響が強かった七里法華の地域の僧侶や信者がたびたび幕府に弾圧されている。

 「民衆と信仰―来世への救いをもとめた人びと―」(県立総南博物館特別展パンフレット平成6年)によると不受不施派とは…

 開祖は日奥(1565~1630)で京都妙覚寺の住職であったが1595年、秀吉から方広寺で千僧供養会を開くのでその出席を命ぜられた。日奥は日蓮の教えに忠実たらんとしてこれを拒否し、丹波に逃れた。日奥に賛同する者たちがやがて結集し、不受不施派が形成されていった。1599年、今度は家康が日奥らを大坂城に呼んで受布施派と対論させ、千僧供養会への出席を求めた。これも拒否した日奥らはついに対馬へ流罪となった。1630年、再び幕府の命で不受不施派と受布施派との対論が行われ、不受不施派6人(内5人は房総出身)が流罪、2人は自殺した。この段階で事実上、日蓮宗総本山は身延山久遠寺となった。

 1665年、幕府は不受不施派に寺領を受ける(=施しを受ける)ことを迫った。これを拒否した松戸の本土寺日述らは流罪、同派が檀家を持つ事も禁じられた(寛文の惣滅)。1691年、幕府はさらに不受不施派をやめる起請文の提出を迫り、これを拒否した70人以上が伊豆諸島に流罪となった。この時の不受不施派の寺院数は100を超えていたが、特に安房、上総、下総の三国だけで49を数えていた。

 こうした弾圧にも負けず、信仰を守り続ける人達がいた。特に夷隅地方や備前(岡山)には「内信」を貫く者が多かった。1717~18年、上総行川で日進ら内信者14人が捕まり、4人が牢死している。これに抗議した他の僧侶も捕まり、7人が島流し、4人が牢死した。1794年には下総多古の内信者らが捕まり、20人以上が牢死した。さらに1838年、同派の総検挙が全国規模で行われ、関東では「八州廻り」が出動。1840年までに上総、下総で200人以上が「改宗証文」を書かされている。

 同様に不受不施の教義を守り続けたのが什門流。酒井定隆が行った七里法華は什門流に属していた。茂原出身の日経(1560~1635)は日奥と連携して統制に反発し、1609年、耳鼻削ぎの刑に、彼の弟子5人(内4人は上総出身)は鼻削ぎの刑に処された。京都を追われた日経は越中で没している。1627年、日経の建てた方墳寺(大網白里)を代官三浦監物が焼き払い、日経の弟子日耀が牢死、4人の在家信徒が三宅島へ流罪となった。1635年には同じく三浦監物が本覚寺(千葉市緑区誉田)を焼き払い、日経の弟子や在家信徒らを9月5日に磔に処した(処刑された日に因んで後に「五日堂」が建てられた)。1660年、方墳寺跡に芳墳寺を再興した日尚が三宅島に流罪。浜野本行寺の10世日逞(~1692)は本満寺(千葉市)の日清とともに伊豆大島へ流された。1739年、大網白里出身の日進(1698~1767)は寺社奉行大岡忠相の裁きによって三宅島へ流され、上総国の信徒831人が「改宗証文」を書かされた。

 なお日逞や日進は流罪後も島で法華曼荼羅、教議書を房総の内信者に送り続けたという。

  ※日逞らは流罪後も島から手紙を信者に送るなどして布教を続けた。処刑を恐れた信者の一部はそれ

  でも信仰を守ろうとして表向きは他宗の寺院に属しながらも、「納戸題目」「内證題目」などと称

  し、隠れ部屋などで密かにお経を唱え続けたという。

3.本行寺

五日堂墓地

14.新四国八十八か所

 

市原市内の新四国八十八か所

 空海の千年忌(1834年)を前に流行した四国八十八か所の札所めぐり、「お遍路」は四国から遠く離れた東国の民衆にとっては大変厳しいものだった。そこで近隣の真言宗寺院を中心に八十八か所の札所を四国に倣って設置し、手近に「お遍路」を体験できるようにする事が江戸時代後期、東国中心に始まる。同時に教勢の挽回を図る狙いも寺側にはあったようで各地で八十八か所の設置が進んだ(千葉県内では40箇所)。市原でも能満の釈蔵院を一番札所として札所塔の設置が始められている。

 

「市内の新四国八十八か所」一覧表

市原

四国

市原

四国

能満釈蔵院

霊山寺

廿五

●山田正覚院

津照寺

荻作満光院

極楽寺

廿六

二日市場大光院

金剛頂寺

勝間龍性院

金泉寺

廿七

※土宇東光院

神崎寺

●小田部法泉寺

大日寺

廿八

馬立佛眼寺

大日寺

★郡本正光院

地蔵寺

廿九

牛久円明院

国分寺

●郡本多聞寺

安楽寺

三十

西国吉医光寺

安楽寺

※藤井神主院

十楽寺

三十一

中高根常住寺

竹林寺

西広西廣院

熊谷寺

三十二

※佐是神光寺

禅師峰寺

糸久円乗院

法林寺

三十三

※西国吉愛染寺

雪蹊寺

海士有木長谷寺

切幡寺

三十四

栢橋医養寺

積間寺

十一

●相川晋門院

藤井寺

三十六

寺谷玉泉寺

清龍寺

十二

山倉仙蔵院

焼山寺

三十七

※寺谷清蔵寺

岩本寺

十三

※五所明照院

大日寺

三十八

●佐是明性院

金剛福寺

十四

●浅井小向真蔵院

常楽寺

三十九

南岩崎南蔵寺

延光寺

十五

分目慈眼寺

国分寺

四十

●上高根宝性寺

観自在寺

十六

◆権現堂満蔵院

観音寺

四十一

白塚徳蔵院

竜光寺

十七

◆大坪福楽寺

井戸寺

四十二

△葉木地蔵院

仏木寺

十八

★引田蓮蔵院

恩山寺

四十三

※七日市場円寿院

明石寺

十九

西野徳蔵院

立江寺

四十四

◆上原光徳寺

大宝寺

廿?

今富円満院

鶴林寺

四十五

風戸日光寺

岩屋寺

廿一

◆浅井小向正善寺

大竜寺

四十六

豊成不動院

浄瑠璃寺

廿二

宮原明照院

平等院

四十七

不入斗薬王寺

八坂寺

廿三

◆高坂薬王寺

薬王寺

四十八

方又木法蓮寺

西林寺

廿四

●安須正壽院

最御崎寺

四十九

※海保円明院

浄土寺

五十

畑木医王寺

繁多寺

七十

◆廿五里恵光院

本山寺

五十一

海保遍照院

石手寺

七十一

※菊間観音寺

弥谷寺

五十二

※畑木千手院

太山寺

七十二

※菊間月光院

曼荼羅寺

五十三

※中谷観照院

円明寺

七十三

市原光善寺

出釈迦寺

五十四

下河原東泉寺

延命寺

七十四

※菊間東漸院

甲山寺

五十五

今津能蔵院

南光坊

七十五

君塚明光院

善通寺

五十六

※深城上之坊

泰山寺

七十六

岩野見自性院

金倉院

五十七

※青柳飯福寺

栄福寺

七十七

※村上宝光寺

道隆寺

五十八

◆今津金蔵院

仙遊寺

七十八

菊間戒誓寺

郷照寺

五十九

柏原持宝院

国分寺

七十九

八幡満徳寺

高照寺

六十

◆青柳養福寺

横峯寺

八十

惣社国分寺

国分寺

六十一

青柳正福寺

香園寺

八十一

村上観音寺

白峰寺

六十二

◆島野宝前院

宝寿寺

八十二

五井善養院

根香寺

六十三

島野三光院

吉祥寺

八十三

山木常徳院

一宮寺

六十四

今津延命寺

前神寺

八十四

五井龍善院

屋島寺

六十五

青柳光明寺

三角寺

八十五

五井千光寺

八栗寺

六十六

出津神光寺

雲辺寺

八十六

菊間福寿院

志度寺

六十七

◆平田長福寺

大興寺

八十七

大厩延命寺

長尾寺

六十八

※八幡若宮寺

神恵寺

八十八

菊間千光院

大窪寺

六十九

五所満蔵寺

観音寺

 

 

 

 

 35番がどの寺なのかカッパは今のところ掴んでいない。数字を□で囲ってあるのは札所塔を確認できた寺院(計52基)。廃寺(※)になっていても札所塔だけ他所に移されて現存しているケースもある(寺谷清蔵寺、中谷観照院、土宇東光院等)。

 ▲印の葉木地蔵院は表向き妙見寺と号している。また★印の郡本正光院は個人の住宅を兼ねており、入口も完全に普通の民家と同様になっているため、参拝するには事前に住職へ連絡しておく必要があるだろう。文化財を擁する引田蓮蔵院は住職が常駐していないため、管理を委託されている付近の住民に断ってからでないと不審者と間違われるかもしれない。

 ◆印の島野宝前院、権現堂満蔵院、高坂薬王寺、大坪福楽寺、浅井小向正善寺、相川晋門院、今津金蔵院、青柳養福寺、廿五里恵光院、上原光徳寺、平田長福寺は外見がほとんど公民館の体裁となっており、見落としがち。特に今津金蔵院は地図検索上では内出公民館となっているので寺院名を検索してもネットで見つからないかもしれない。

 さらに●印の小田部法泉寺、郡本多聞寺、浅井小向真蔵院、山田正覚院、佐是明照院、上高根宝性寺、安須正壽院などはほぼ無人の状態であり、特に佐是明照院は境内立ち入り禁止である。上高根宝性寺も境内に入ること自体に困難を感じるであろう。安須正壽院は安須日枝神社の鳥居脇にいくつかの石造物が残されているので神社参拝と併せて訪れることは可能である。同様に中谷観照院も廃寺となっているが幸いにして中谷公民館脇(海保熊野神社と隣接)に巡拝塔を含む石造物がかなりの数が残されている。

 このように市原の新四国八十八か所の札所を検証してみると真言宗寺院に限らず現代の地方寺院が時代の大きなうねりの中に呑み込まれつつあるという極めて危機的な状況がよく見えてくる。高度成長期以後、日本人の宗教離れと地域社会の動揺、伝統文化の変質などによって宗派を問わず、地方寺院はその多くが檀家数の減少と僧侶の高齢化及び後継者難に直面している。檀家数が少なく、人口減少と高齢化の進む山間部では一人の僧侶が複数の寺院を兼務するのが常態化している。 

 また都市化の進む地域では寺院を支えてきた隣組や青年団、子安講等の近所付き合いが崩れ、冠婚葬祭上の付き合いすら無くなってきている。中にはお盆前だというのに草取りも行われていないため、外見的には荒れ寺と化している寺院も少なくなかった。ある老住職がこうつぶやいているのを聞いたことがある。「ただでさえ檀家が少なく、最近はお盆前でも境内の草取り等をしてくれなくなった。本音をいうとここから逃げ出したいくらいだ」。

 大切な地域の歴史を連綿と受け継ぎ、担ってきた地方寺院の多くが直面しているこうした問題は実に深刻である。このままでは地域の歴史と伝統の存続自体が危ぶまれるだろう。既に廃寺となった箇所でも公民館として石造物がある程度保存されている所はまだ良い方かもしれぬ。檀家が極端に少ないためであろうか、ここ数年に及ぶ検証の途次、荒れるに任せていた無残な寺院をいくつも見ることになった。

 一方では知名度が高くて参拝客が多く、檀家数も多い、いかにも裕福な巨大寺院がわずかながら存在している。しかしそうした著名寺院は市内では完全な少数派である。多くの寺院が青息吐息の状態であり、いくつかは既に存続の危機を迎えつつある。格差社会は寺社の世界をも巻き込んで、猛烈な速さで地域社会の信仰と歴史的絆の痕跡をも消し去りつつあるのである。

 

・新四国八十八か所導入のいきさつについて

 「市原市菊間周辺の遺跡と文化財」(市原市地方史研究連絡協議会編 2001)の「七.菊間地区の石造物」(安藤登)によると菊間千光院は寺伝では犬成(別の伝承では喜多)に正応5年(1292)に創建されている。しかし長享2年(1488)、妙満寺派の日泰に帰依した土気城主酒井定隆の命によって法華宗への改宗を迫られた(→七里法華)。住職はこれを拒み、急いで仏像経巻を夜中に持ち出して夜逃げ同然に菊間へ寺を移転したという伝承が残されている。こうした経緯からも七里法華地帯に隣接する菊間において千光院は強大化の一途を辿る法華宗への危機感と対抗心を強く持ち続けていたと思われる。そして市原郡内真言宗寺院の橋頭堡のような役割を担って江戸期、懸命に教勢の維持拡大に努めてきたと推察される。

 とすれば空海(弘法大師)千年忌(1834年)が迫る18世紀後半、真言宗の隆盛を至上命題として釈蔵院と共に真っ先に新四国八十八番札所の市原郡内への導入に動いたのはおそらく千光院であろう。既に空海900回忌の無縫塔が享保19年(1734年)、千光院に設けられている。千光院が次の950回忌(1784年)、1000回忌(1834年)を強く意識していたことは間違いなかろう。

 他方で日蓮宗寺院は開祖日蓮(1222~1282)の450回忌(1731年)、500回忌(1781年)、550回忌(1831年)を祈念した供養塔(顕本法華宗・妙満寺派の場合には派祖日什の供養塔も)を各地に建てていた(有木泰安寺、野毛法泉寺、根田根立寺、姉崎妙経寺、久々津本照寺等)。

 日蓮宗開祖の法要が真言宗のそれよりもわずか3年、先行して行われているのであるから、千光院のような立場ならこれを強く意識しないわけにはいくまい。むしろ日蓮宗の動きに激しい対抗心を燃やしながらそれなりの策を講じつつ、空海の千年忌を待ち構えていたに違いない。

 実は千光院の巡拝塔(下 写真)は天明4年(1784)に造られている。天明3年(1783)に巡拝塔を設けた寺院は分かっている限り七か所で、千光院はその後となる。札所導入の中心にいたとする割には遅い印象も受けよう。しかし「八十八番」という「しんがり」を務める札所になっているところに当寺院の真言宗活性化への並々ならぬ意欲と自負が感じられるのである。

 実際、千光院や釈蔵院の巡拝塔には天明2年(1782)、釈蔵院51世住職の栄寛を軸に君塚明光院の開演、菊間千光院の宥證(残念ながら宥證はこの話が始まってすぐの天明3年=1783に世を去っている←千光院筆子塚)の三人が天明3年(1783)以降、天明の大飢饉における民心の救済を図るとともに来るべき弘法大師950回忌(天明4年=1784)を期して新四国八十八か所の札所を近郷に設けることにしたとある。八十八か所の霊場設置は寛政6年(1794)に終了し、これを記念して釈蔵院の札所塔が同年、設けられたのである。

 ※栄寛は1774年の分目慈眼寺、1775年の君塚明光院の宝篋印塔銘文によると釈蔵院住職として造塔

  に関わっている。開演も1788年の能満緑苑通り三山塚の三山供養塔、1795年のクワノ木古墳上の

  三山供養塔では釈蔵院の52世住職となっているが、かつては君塚明光院中興の祖とされ、その供養

  塔が明光院と釈蔵院の二寺に残されている。

 

 900回忌、そして950回忌…記念すべき空海の1000回忌にむけて着々と千光院は釈蔵院と連携しながら市原郡内での真言宗発展に向けての布石を打っていたのであろう。

 しかし七十八番の菊間戒誓寺の巡拝塔は寛政9年(1797)のものであり、七十二番の月光院は天保4年(1833)と遅い。新四国八十八か所札所設置に意欲満々の千光院配下であっても巡拝塔は必ずしも札所の番号順に、かつ早い時期に建てられてはいない。おそらく教勢の維持拡大に積極的でかつ有力な寺院ほど時期的に早目に建てたのだろうが、檀家数が少なく経済的に困難だった寺院などは天明の大飢饉が加わったこともあったためか、かなり造塔が遅くなってしまったようである。

 実際、弘法大師950回忌(1784)までに間に合わなかった寺院も多い。また札所寺院の現状をみると、昭和に入っても巡礼が続いた北総地域に比べて市原の新四国八十八か所札所の「お遍路」は期待されたほど数多くの巡礼者を生みだせなかった可能性

がある。造塔が19世紀まで遅れた寺院が五箇所はあり、早目に設置していてもやや貧相な巡拝塔が散見される。千光院や釈蔵院の熱意はどうやら少しばかり空振り気味だったようである。ただし高坂薬王寺の巡拝塔は明治期のものであるから、市原でも明 治時代まではお遍路が続いていたと考えられよう。

 ※下総では団体で巡礼する形式が多く、上総・安房では個人で廻るのが多かったらしい。

 

 何はともあれ角柱宝塔型宝篋印塔(上:表中赤字となっている寺院に存在。緑字は開花高層型の塔がある寺院)の導入も千光院が一番手であることを考え合わせると市原郡内へ「八十八か所」札所巡りを導入した中心は能満釈蔵院、さらには菊間千光院ではないかと推察する。とすれば狭い菊間地区に六つもの札所が設けられている点も首肯できよう。しかし檀家の少ない寺院にまで札所を無理矢理(?)割り当てたせいか、現在、廃寺となっている可能性のある寺院は宗教法人名簿と照らし合わせると17カ寺も存在する。内三つ(月光院、東漸院、観音寺:巡拝塔はそれぞれ1832,1785、1797年に建てられており、いずれも千光院に移されている)が菊間である点に「八十八か所」の設定に、ある種の焦りのような強引さを感じないわけでもない。

 ただ、廃寺とした中には寺院名が変わってしまったケースが考えられる。また廃寺状態となった境内に公民館が置かれて墓石や石仏等は残存しているケース(今津朝山内出公民館=金蔵院など)や石造物が近隣の寺社等に移転されているケースなどもまだ考えられる。もう一度、踏査し直してみる必要はあるだろう。

 ※表中の13の寺院が新義真言宗に属している(現在、宗教法人名簿によると市内の16寺院が新義真言

  宗)。紀州根来寺を本山とする真言宗改革派で13世紀には本山の金剛峯寺と決裂し、真言宗の分派

  として確立。やがて戦国時代には根来衆と呼ばれる鉄砲隊を中心とした強力な武装集団を擁した。

  しかしこのため豊臣秀吉によって壊滅的な打撃を受け、いったん散り散りとなってしまった。江戸

  時代の反豊臣政策の中で復興を遂げるが根来から去った集団は必ずしもすべては戻ってこなかっ

  た。そのうち、奈良長谷寺に拠ったのが豊山派、京都智積院に拠ったのが智山派となる。豊山派は

  幕府の保護を受けて繁栄したため市原市内でも多数派(59)となっている。ただし江戸期の市原郡

  内において真言宗寺院の中核となっていたのはどうやら新義真言宗寺院の方であったようだ。ちな

  みに隣の袖ケ浦は圧倒的に智山派が多い。智山派26に対して豊山派は1、新義真言宗が7である。な

  お市原市内の智山派寺院は13である。

 

 なお廃寺となった寺院の多くが明治初期の廃仏毀釈運動の犠牲になったようである。札所ではないが特に八幡の霊應寺は激しい攻撃の対象となったという。かつては現在のJR八幡宿駅周辺に多くの堂宇が立ち並び広大な寺域を誇っていたが、徹底的に破却されてしまったようだ。駅近くの満徳寺は霊應寺の塔頭の一つでかろうじて破却を免れたらしい。

 札所では藤井の神主院が破却されてしまったが、歴史上極めて重要な寺院であったようだ。かつては飯香岡八幡の柳楯神事に関わるなど、由緒ある寺院で「守公山楊柳寺神主院」という名から国府との関わりを推理する見方もあるらしい。結局、能満釈蔵院の隠居寺であったため、檀家数が少なく、廃仏毀釈の荒波を乗り越えられなかったようである。

 廃仏毀釈で全国の寺院の三分の二は消滅したといわれるが、寺院攻撃の主体となった神官や国学者らはやがて明治政府の欧化政策によって影が薄くなっていく。特に国学者は廃仏毀釈の反動からか、明治維新の表舞台からいち早く追放されていった。その様子は島崎藤村の「夜明け前」にも詳しく描かれている。主人公の青山半蔵は幕末、国学に傾倒していたが、維新の前途に或る重苦しい暗さを感じて絶望の中で正気を失いかけつつ、日本の夜明けが未だ遠いことをつぶやいた。

 どうやら市原における尊皇倒幕の先覚者も一部は青山半蔵と大差のない近代を迎えたのかもしれない。山田橋の野城家にせよ、国吉村の天羽家にせよ、明治以降、しばらくは不遇な時代を過ごしたように見えるのもあながち偶然ではないように思える。