21.神社の基礎用語集
・神社の由来が分かる小事典(三橋健 PHP新書 2007)より
以下、要旨をご紹介いたします。
鈴:鈴緒(すずお)と呼ばれる長い紐が垂れている。これは麻苧(あさお)、あるい
は紅白や五色の布でできた紐である。これを引いて願いを祈るために叶緒(かねの
お)ともいう。
参拝の作法:普通は「二拝・二拍手・一拝」。出雲大社は「二拝・四拍手・一拝」
昇殿参拝の手順:お祓い=修祓(しゅばつ)→祝詞(のりと)奏上→玉串奉奠(ほう
てん)→直会(なおらい:お神酒をいただく)
御神体=御霊代(みたましろ):神霊は目に見えず、御神体に宿ると考えられた。
祭神:主祭神と配神(はいしん)あるいは相殿神(あいどののかみ)
境内神社:境内にある小さな神社のこと。本社の祭神と関係が深い神を祀っている場
合摂社といい、それ以外は末社という。
玉垣(瑞垣:みずがき)
本殿の無い神社:諏訪大社の上社(かみしゃ)は拝殿のみ。奈良県桜井市の大神(お
おみわ)神社や天理市の石上神宮も本殿が無い。埼玉県の金鑽(かなさな)神社も
かつては本殿が無かった。
神社は古くは「もり」と称した。また「みもろ、みむろ」ともいった。
木綿(ゆう)は楮の繊維で作った白い布のこと。
榊:「さかき」は境の木のことで神と人の世界を分かつ境に植えられた。この榊に目
立つように白い木綿を四手(しで)にして垂らすことで禁足地を示した。
延喜式神名帳(じんみょうちょう):2861社、3132柱が記載されている。これらは
式内社あるいは官帳社といい、神祇官(神祇官から幣帛を奉献される神社を官幣
社)や国司(国司から幣帛を奉献される神社を国幣社)の管理下に置かれた。それ
ぞれ大社と小社に分け、大社の中から名神大社(225箇所。大和が26社))が定め
られた。この内、「宮」号を許されたのは伊勢神宮関係の8宮、香取、鹿島、筑前の
筥崎宮(八幡)、豊前の宇佐八幡の11宮だけ。他の2850社は「社」号。
伊勢神宮関係は天照大神、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、万幡豊秋津姫命
(よろづはたとよあきつひめのみこと)、天照大神の荒御魂(あらみたま)、いざ
なみのみこと、いざなぎのみこと、月読命、月読命の荒御魂、豊受大御神、その御
供神(みとものかみ)二座、豊受大御神の荒御魂を祀る。
※荒御魂にたいして和御魂(にぎみたま)が存在する。カッパ補足
香取神宮は経津主神、鹿島神宮は武甕槌神、筥崎宮(筑前一の宮)は応神天皇、神功
皇后、玉依姫命、宇佐八幡(豊前一の宮)は応神天皇、神功皇后の他に比売大神
(ひめのおおかみ)を祀る。
※若宮神社は応神天皇の子、仁徳天皇を主祭神とする神社。カッパ補足
官幣大社は畿内中心に各道に存在するが、西海道には存在しない。官幣小社は畿内の
みにあり、国幣社は大小ともに畿外にある。
明治4年(1871)に社格制度発足。上から官幣大社、官幣中社、官幣小社、国幣大
社、国幣中社、国幣小社、府社、県社、郷社、村社、無格社に序列化された。しか
し敗戦後の昭和21年に廃止されたので「旧社格」と言うように。
神社本庁が発行している2002年の「全国神社名簿」によると法人数は約8万。
新潟県(4769)、兵庫県(3838)、福岡県(3041)、愛知県(3317)、
岐阜県(3218)、千葉県(3149)、福島県(3041)の順
最も少ないのは沖縄県の11社。
※かわりにグスクや拝所(ウガンジュ)が沢山ある。カッパ補足
明治時代の末に神社合祀が進み、明治39年(1906)の19万6398社をピークに
漸減していき、昭和20年(1945)には10万9733社となった。さらに2002年の
「全国神社名簿」では法人数としては7万9116社にまで減少している。
※近年、少子高齢化に伴う地方での人口減少や地域社会の変質などにより、寺社
数が減少する傾向にある。カッパ補足
神号は「~明神」といった神への尊称に相当する。明治の神仏分離令で「~大菩薩」
や「~大権現」といった仏教系の神号が禁止された。
社号は「~神宮」といった神社の格式を示す。
死は「黒不浄」と呼ばれて神道では神の最も嫌う穢れとされ、葬式を行わないのが原
則。
三種の神器(じんぎ):記紀では「三種(みくさ)の宝(たから)物」。勾玉は穀
霊、鏡は太陽神の象徴と言われる。
神社の本質は「杜(もり)」であり、樹木に神霊が宿るとされ、樹木は依代として神
木の扱いを受ける。
別当寺:神宮寺、神護寺、宮寺、神願寺とも。本地垂迹説の立場から神は輪廻転生す
る迷いの世界である六道の内、天道、餓鬼道、修羅道にいて迷いの世界を流転して
いる存在とも捉えられた。神もまた迷いの世界から仏によって救い出されるべき存
在とされ、神を救済すべく創建されたのが別当寺という。また神は仏法に帰依して
御法神となることを欲している、とも説かれた。寺院の境内に鎮守社を勧請すると
いう形で東大寺の手向山八幡、興福寺の春日大社、神護寺や醍醐寺の清瀧(せいり
ゅう)権現、園城寺の新羅明神など。
神階(神位):神に朝廷から授けられた位階。社格と密接な関係にあった。なお室町
時代後期、吉田神道で私的に発給した宗源宣旨による神階、社格が別途に存在す
る。
国史現在社(国史見在社、国史所載社とも):延喜式神名帳には記載されていない
が、六国史に記載のある古社。400社前後。最も有名なのは石清水八幡宮、香椎宮
(福岡)。
国帳社(国史崇拝社):国内神名帳に記載された神社。諸国の国衙に常備されていた
「神名帳」には新任国司が巡拝すべき主な神社が記載されていた。国司は毎月一日
に国帳社へ幣帛を捧げた(朔幣)。二十二カ国の神名帳が現存しているが房総三カ
国のものは現存していない。
一の宮と総社:その国における一位の神社を一の宮。上総は玉前神社、下総は香取神
宮、安房は安房神社。総社は惣社(奏社)とも表記し、国内に鎮座する主要な祭神
を一か所に集めて祀った神社。国司の神拝の便宜を図るため、11世紀ごろに一の宮
の制とともに成立。
鎌倉幕府と八幡:源頼朝が1180年、頼義が由比郷に勧請していた石清水八幡の分霊を
小林郷北山に移して祀ったのが鶴ヶ岡八幡。八幡は源氏の氏神としてまた幕府の守
護神として尊崇された。頼朝はさらに伊勢神宮や伊豆山権現、箱根権現、三嶋大社
なども篤く崇敬した。この神事を優先する発想は受け継がれていき、御成敗式目第
一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と規定されていく。ちなみに第
二条は「寺塔を修造し、仏事を勤行すべき」とあり、神仏への信心の篤さを重視し
た武家政権の姿勢が伺える。
頭屋(とうや):宮座の中心で一年交代。神社の神主をその年は勤めるので「一年神
主」とも言われた。元来、惣村の指導者である「乙名」(年寄、長老とも)が祭祀
を行う宮座の代表者であった。しかし江戸時代には「頭屋」を決めて年番交代で祭
祀を行うように。
摂社・末社(枝宮、枝社とも):摂社は主祭神と縁故関係にある神を祀る。それ以外
は末社。格的には末社が一番下になるが、中には主祭神よりも由緒の古い地主神が
祀られている場合も。いずれにせよ境内に祀られていれば境内社(境内神社)とい
い、境内の外であれば「境外社」(境外神社)という。
氏神:本来は氏族の祖先神(租神=おやがみ)や氏族の守護神であったが、中世以
降、土地の神を氏神として祀るように。つまり一族結合の原理は血縁中心から地縁
中心に変った。そして氏神の周囲に居住し、祭礼に参加する人々を「氏子」と呼ぶ
ようになった。明治時代、行政基盤を氏神・氏子区域としたため、「氏」の地縁化
は一層、進んだ。
産土神(うぶすながみ):生まれた土地の神で、その人の一生を守護するとされた。
転居しても、生涯、変わることは無い。
鎮守神:その土地や住民の守護神。
イザナギノミコト:神世七代(かみよななよ)の最後にイザナミノミコトとともに現
われた。二神で漂っている土地を天の沼矛(あめのぬぼこ)でかき混ぜて国土を整
え、次に天の御柱を周り、「みとのまぐわい」を行って日本列島を生み、神々を生
んだ。神生みの最後にイザナミは火の神を生んで焼け死んだ。イザナギは火の神を
剣で切り殺した後、イザナミを出雲と伯耆の国境にある比婆(ひば)山に葬った
(「日本書紀」では熊野の有馬村)。しかしイザナギはイザナミに会いたくなり、
黄泉の国を訪れたがイザナミに「私は黄泉の食べ物を食べてしまったのでここから
帰ることはできない。けれども黄泉を支配する神と相談するのでその間、私の姿を
決して見ないで待っていてほしい」と言われた。しかし長く待たされたイザナギは
つい、イザナミの姿をのぞき見てしまう。彼女の腐敗した体には蛆がわき、八体の
雷神が体のあちこちに住みついていた。イザナギは驚き、恐れて逃げようとする
が、恥をかかされたイザナミは「ヨモツシコメ:黄泉の国の醜い女」に命じてイザ
ナギを追いかけさせた。イザナギは何とか逃げ切り、黄泉比良坂(よもつひらさ
か)の出口を巨大な岩でふさいだ。その岩を境に二人は離縁宣言をする。その際、
イザナミは「私を離縁するなら一日に千人をくびり殺しましょう」とすごんだが、
イザナギは「それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」と答えた。その後、イ
ザナギは黄泉の国の穢れを洗い落とすために筑紫の日向の橘の阿波岐原(あわきは
ら)にある港で禊を行った。その時に数々の神が生まれたが、最後に三貴子が生ま
れた。天照大神、月読命、須佐之男命である。イザナギは天照大神に高天原(たか
まがはら)、月読命に夜の世界、須佐之男命に海原を支配させた。その後イザナギ
は近江の多賀に鎮座された(「日本書紀」では淡路島にかくれの宮を造っておかく
れになったとしている)。
イザナギを祭神とする主な神社は多賀大社、イザナギ神宮(淡路島:淡路国一
宮)、三峰神社(秩父)、筑波山神社、熊野本宮、速玉、那智大社。
天の岩戸神話:死んだ母に会いたいスサノオは黄泉の国に行く前に天照大神に別れの
挨拶をしようと高天原に行ったが、その荒々しいふるまいに脅威を感じたアマテラ
スは武装して待ち受けた。これに対して身の潔白を証明しようとスサノオは「宇気
比(うけい)」をして神意を伺うことにし、スサノオが「宇気比」に勝った。しか
しこれで有頂点となったスサノオは高天原で数々の乱暴を働き、姉を怒らせてしま
った。アマテラスはついに天の岩屋の戸を開き、その中にこもってしまった。高天
原も葦原の中つ国もすべて暗闇になり、あらゆる災いが生じた。そこで八百万の
神々が天安河原(あめのやすのかわら)に集まり、相談したところ、思慮深い「思
金神(おもいかねのかみ)」の発案で「岩戸開き神事」を執り行うことになった。
まず常世の長鳴き鳥(鶏)を集めて鳴かせ、「八た鏡」と「八さかにの勾玉」を造
らせ、それらを榊にとりつけて捧げた。天児屋命が祝詞を奏上し、アメノウズメノ
ミコトが桶の上で踊ったが、それを見た八百万の神々が一斉に笑い、どよめいた。
この騒ぎを聞いたアマテラスが不思議に思って岩戸を少し開け、「闇夜のはずなの
になぜ、アメノウズメは歌い、踊り、神々は笑っているのか?」と問うた。アメノ
ウズメは「あなた様よりも貴い神が現われたので喜んでいるのです」と答えた。天
児屋命と布刀玉命が「やたの鏡」を差しだし、アマテラスが鏡に映る自分の姿を見
ようとして岩戸をさらに開くと脇に控えていた天手力男神が手を取って外へ引きだ
し、すぐに布刀玉命がアマテラスの後ろにしめ縄を張って岩戸の中に戻らぬよう、
申し上げた。
その後スサノオは高天原を追放され、葦原の中津国の出雲において八岐大蛇を退
治し、尾の中から天叢雲剣(→草薙剣)を取り出してアマテラスに献上の後、母の
国 の「根堅州国(ねのかたすくに)」へ向かって、そこの支配者となった。大国
主命はスサノオの第六世の子孫という。
アマテラスを祭神とする神社:伊勢神宮内宮(「やたの鏡」を御神体)、神明神社、
皇大神宮、天祖神社など5400社ほど。
スサノオを祭神とする神社:八坂神社、氷川神社(埼玉)、熊野本宮大社、津嶋神社 (愛知)。
八幡神:宇佐八幡では一之御殿に八幡大神(=誉田別尊)、二之御殿に比売大神
(タキツヒメノミコト、イチキシマヒメノミコト、タキリヒメノミコト=宗像三女
神)、三之御殿に神功皇后を祀る。「日本書紀」には日の神が生んだ三女神が宇佐
嶋に天降り、それを宇佐の国造が祀ったという。早くから朝廷へ働きかけ、仏教に
も接近。王城鎮護の神として伊勢神宮に次ぐ扱いを受けた。1063年、源頼義が鎌倉
の由比郷に石清水八幡を勧請し、後の鶴岡八幡に発展していく。以降、源氏の氏神
としてだけでなく、武士の守護神、武神として武士の時代、全国に広まった。全国
に2万5千社。
稲荷:「稲生り」でイネの神、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=倉稲魂命を祀
る。「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれたように江戸時代、大流行。東寺の守護神と
もされ、真言宗と結びついて発展。稲荷寿司は豊川稲荷(愛知)の門前が発祥の地
という。ただし豊川稲荷は曹洞宗の寺院、妙厳寺の通称。約4万社有ると言われ、全
国の神社数の三分の一近くは稲荷神社が占める。
祭祀(神事)の区分:神社本庁の規定では大祭・中祭、小祭
例祭:年に一度の祭りでその神社や祭神にとって特別に由緒のある祭り
祈年祭:「としごいのまつり」で一般には「春祭り」。2月17日(かつては2月4日)
に行われる。かつては五穀の豊穣祈願。大祭
新嘗祭:「にいなめのまつり」で一般には「秋祭り」。11月23日に行われる収穫感謝
の祭り。大祭
歳旦祭:元旦祭ともいう。元旦の朝に行われる、新年を寿ぎ、天壌無窮と五穀豊穣、
人々の安寧と繁栄を天神地祇に祈る。中祭
元始祭:1月3日に天壌無窮の神勅(アマテラスがニニギノミコトに三種の神器を与え
て葦原の中津国を支配するように命じた。ニニギノミコトは高天原から日向国高千
穂峰に天下った時、アマテラスに「日本は天皇家が支配すべき国であり、その繁栄
は天地とともにきわまりない」という神勅をえた)を寿ぎ、天孫降臨と皇位の始ま
りを祝う。宮中では天皇が執り行うが、各神社でも行われる。中祭。
紀元祭:建国祭ともいい、2月11日に行われる。カムヤマトイワレヒコノミコトがB.
C.660年(辛酉年)の元旦に大和の橿原宮で即位し、初代天皇神武となったことを
記念し、日本国の誕生日として祝われる。中祭。
大祓神事:6月と12月に行われ、6月は「夏越しの祓え」、12月は「年越しの祓え」
とも呼ぶ。人々の罪、穢れ、災いなどを形代(かたしろ)に移して取り除く。形代
は人形(ひとがた)ともいい、これに姓名、年齢を書き、息を吹きかけて神社へ持
っていき、お祓いをしてもらう。あるいは形代で身体をなでてもらい、罪穢れを移
す方法もある。大祓詞(おおはらえのことば)を唱えてもらい、形代を燃やす「お
焚き上げ」や水に流す儀式などで清める。参道に茅の輪を設けて潜らせ、罪穢れを
祓い清めることも。
除夜祭(年越し祭):12月31日に行われる。元来、戸主が氏神を祀る神社に籠り、火
を囲みながら徹夜する「年籠り」が中心。氏子は除夜の鐘を聞きながら神社へお参
りする「除夜詣で」をした。代わりに今は初詣が盛ん。
月次祭(つきなみさい):毎月朔日と十五日に行われ、国家の安泰と天皇の弥栄(い
やさか)、氏子の安寧などを祈願。
秋葉信仰:静岡の秋葉神社を中心とする。愛宕神社とともに火伏せの神として有名。
中世、修験者によって全国的に拡大し、800社ほど。秋葉神は「三尺坊」とも呼ば
れ、戸隠から白狐にのって秋葉山に飛来したという大天狗。姿は「烏天狗」であ
り、飯綱権現と類似。大天狗は烏天狗のような小天狗と区別されるが、飯綱権現が
迦楼羅と習合したため、結果的に姿が烏天狗になってしまったと考えられる。江戸
中期頃、東海道から信州方面にかけて各地に秋葉講が作られ、今も存続する所があ
る。
愛宕信仰:京都愛宕神社を中心とし、火伏せの神として古くから信仰された。平安時
代に修験者が入り、修験の霊場として栄えた。愛宕山には愛宕太郎坊という天狗が
住むと恐れられた。中世、愛宕の本地は勝軍地蔵とされ、武家の信仰も盛んとなっ
た。決心の固いことを表明する「愛宕白山」という言葉がある通り、決意を固める
神としても信仰された。
淡島信仰:和歌山の淡島神社が中心。淡島明神ともいわれ、婦人病に霊験あらたかとされた、江戸時代、願人坊主らが門付けで淡島明神の絵像を納めた厨子を持ち、鈴を振りながら祭文を唱えて家々を回った。淡島願人という。女性対象であったため、やがて安産、子授け、縁結びなども祈願された。淡島明神が海から柄杓で掬いあげられたという伝承から、安産祈願に柄杓を奉納する風習も生まれた。全国に約千社。針供養、人形供養が行われることでも有名。
祇園・津嶋信仰:スサノオを主祭神とする。スサノオは牛頭天王と同一視され、牛頭
天王社も同系列。牛頭天王はもともとインドの祇園精舎の守護神であり、薬師如来
の化身ともいわれる。スサノオはまた武塔天神とも関わりが深い。「備後国風土
記」には武塔天神が裕福な巨旦将来に宿を求めたが断られた。一方貧しい兄の蘇民
将来は温かくもてなしたので武塔天神は自分がスサノオであることを明かして、疫
病が流行したときには茅の輪を腰に付けることを教えたという。夏越しの祓えに茅
の輪くぐりを行ったり、祇園際に加わった者が「蘇民将来之子孫也」と書いた護符
のついた粽をもらい、それを疫病除けとすることはこの話に基いている。全国に
3000社ほど。
熊野信仰:熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)を中心とする。
日本書紀ではイザナミが熊野に葬られていることになっており、古来、熊野は「死
者の国」と考えられてきた。「亡者の熊野詣で」という言葉もある。また「死者の
国」は死と再生のサイクルに関わる「生者の国」でもある。熊野は死んでから甦る
聖地であり、「生きながらにして死ぬ」ことのできる聖地とされた。「生即死・死
即生」の実践として始まったのが那智の浜から渡海上人が敢行した「補陀落(ふだ
らく)渡海」。彼らは生きながらにして東の彼方にあるという観音浄土へ赴こうと
した。海の彼方には死者の国「常世」があるともいわれた。
他方で山岳信仰も盛んで修験道の霊場でもあり、仏教・神道・修験道の信仰のメ
ッカとなっていた。特に院政時代、歴代の上皇が熊野御幸(ごこう)を繰り返し、
「日本第一大霊験地」とたたえられた。その結果「蟻の熊野詣」といわれるほどに
から道者(どうしゃ:熊野に参詣する人)が集まった。熊野御師(道者の宿泊や祈
祷などの世話をする)や熊野比丘尼(諸国を遊行して熊野参詣曼荼羅などの絵解き
を行い、熊野信仰を各地に広めた。熊野巫女ともいう)、熊野先達(地方に在住し
て武士や民衆を熊野に導くために、参詣道の整備など様々な活動に従事)らの存在
も大きかった。全国に3000を超える熊野神社が存在。
金毘羅信仰:梵語のクンビーラからきている。元はガンジス川に棲むワニの神で仏教
の守護神に取り入れられた。室町時代に讃岐の松尾寺の境内に勧請され、航海安
全、豊漁守護の神として海運業者や漁民から崇敬された。現在は琴平町に金刀比羅
宮が置かれ、中心となっている(松尾寺の金堂は金刀比羅宮旭社と改称された)。
主神は大物主神(金毘羅神の垂迹形)。江戸時代、全国に金毘羅講が成立し、伊勢
参りと共に金毘羅参りも流行。「金毘羅船々追い手に帆かけてシュラシュシュシ
ュ」と民謡にも歌われ、金刀比羅宮への街道も「五街道」あり、石灯籠や道標など
が数多く残されている。全国に669社あるという。
山王信仰:日枝大社東本宮は大山咋神(おおやまくいのかみ:山の神)、西本宮は三
輪山の神(大物主神→大宮権現とも称される)を祀る。最澄が794年に延暦寺の鎮
守神として二柱を祀った。全国に延暦寺と日枝大社の荘園が拡大するとともに各領
地に日枝神社の分社が置かれていった。全国に3799社。
諏訪神社:全国に5089社。ほぼ全国に存在。「建御名方命(たけみなかたのみこと)」と妃神の「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」を祀る。建御名方は大国主の子で高天原からの使者である建御雷神との力比べに敗れ、諏訪湖まで逃げて降伏し、国譲りを誓った。諏訪大社は信濃国一宮。建御名方命は製鉄の神、あるいは水神、農業神、狩猟神(狩猟神事があり、「鹿食免(かじきめん)」という肉食を許した御符が出される)として崇敬され、また甲斐の武田氏は「日本第一軍神」とし、戦勝祈願を繰り返した。
浅間信仰:静岡県富士宮の富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)が中心。「万葉集」に「日本(ひのもと)の大和の国の鎮めともいます神かも」とあるように古くから日本国鎮護の霊峰として尊崇されてきた。火山、火、寿命、安産の神で1000社ほど存在。1779年、高田藤四郎が築いた高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社の境内)が富士塚の始まりといい、東京に69の富士塚が確認されている。
天神信仰:菅原道真(845~903)を祭神とする。全国に1万余り。京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮が中心。道真は901年、大宰府に左遷され、903年に没した。その怨霊は様々な災いをもたらし、火雷天神となって宮中に落雷したと言われる。江戸時代、寺子屋の普及によって学問の神として天神への崇敬が広がった。
神社参拝の手引き
参道の中央は正中といい、神が通るとされるので参拝人は参道の端を歩くべき。手
水舎で手を洗い、口をすすぐ。手水(てみず、ちょうず)の作法はまず軽くお辞儀
(小揖:しょうゆう)し、右手で柄杓を取り、水盤のきれいな水を汲み、左手にか
けて清める。左手に持ち替えて同じように右手を清める。再び右手に柄杓を持ち替
えて左手に水を受け、その水で口をすすぐ。左手に水をかける。水の入った柄杓を
垂直に立ててこぼれてくる水で柄を洗い、元の場所に戻す。最後に軽くお辞儀をす
る。
本殿の様式:神明造りが古式。屋根に反りが無く、切妻造りで平入り。棟持ち柱もポ
イント。大社造りも住吉造りも古式だが、いずれも妻入り。最も多いのが流造り
で、屋根に反りを付けて前流れを長くし、向拝としている。賀茂神社が代表。千木
は破風の先端が屋根の上に突き出たもので伊勢神宮のものは高く、突き出ている。
「ちぎ」は霊威のある木という意味らしく、社殿の神聖さを示すと考えられる。賢
魚木(かつおぎ)は鰹節に似ていることから名付けられたと言われる。ただはっき
りしたことは不明。
幣束(御幣):幣殿の神饌案に幣帛のシンボルとして常時、供えられている。幣帛は
本来、絹や布であったが、後世、神に奉る供物の総称となった。
御神体:「御霊代(みたましろ)」「御正体」ともいう。一般には鏡が多い。
狛犬:「高麗犬」とも記す。シルクロード伝来でペルシャ、エジプトまで起源は遡れ
るかもしれない。伝来した当初は几帳などの揺れを防ぐ重しに利用。左右一対で
「阿(=右)吽(=左)」。ただし「子取り(前足で子どもをあやしている)」と
「玉(まり)取り(玉を押さえている)」という組み合わせもある。