19.神社の基礎知識
・「知っておきたい日本の神様」(武光誠 角川ソフィア文庫 2005)より
以下、その要旨をご紹介いたします。
国内には約12万もの神社がある。
神社本庁では伊勢神宮を別格として、全国の神社を氏神神社と崇敬神社とに分けている。氏神神社は地域の守り神として公認されたもの。崇敬神社は私的に祀られたもの。
「御魂(みたま)」とは良い魂のこと。すべての人間は体の中に魂があるとされ、肉体を持たない魂が「神」。「命」は「み言」で命令を下す存在を示す。
1.稲荷社
山城国の秦氏が祀った伏見稲荷が中心。宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祭神でイネに宿る精霊をさす。穀霊であるが五穀豊穣の神ともされるように。
※稲荷は「いねなり」からきている言葉だという説がある。宇迦之御魂神は雷とな
って伏見の山に降臨し、祀られたともいわれる。実際、山の上の高木や岩にはよ
く落雷するが、伏見の山は現在も特に落雷の多い山だという。雷=「かみなり」
とはすなわち「神鳴り」というわけである。
また「稲妻」とは稲を実らすもの、という意味を持ち、「雷」という漢字も田
に実りをもたらすものという意味を表すという見方があるようだ。カッパ補足
秦氏は地方に進出し「宇賀神」「畑」「波多野」「畑野」「畑山」といった地名や名字を残した。宇迦之御魂神の化身、あるいは使いは「狐」とされる。平清盛が陀枳尼天(だきにてん)の化身という狐を助けたために政権を握れたと信じたことがきっかけという。
陀枳尼天は本来、インドの悪神で死者の心臓や肝をくらう、恐ろしい神であったが仏教に取り込まれ、仏法を守護する神とされた。しかしその恐ろしい印象は残り、墓場に現われる火を「狐火」と称したりもした。他方で春になり、山から里に下りてきてネズミを食べてくれるキツネを田の神とする風習も古くからあり、これらのイメージが習合して神の化身とされたようだ。すなわち稲荷社を祀れば狐の災いを避けられるとともに五穀豊穣も願うことができる。
室町時代に入って商工業が発達すると農耕神としての性格のほかに商売繁盛の神としての性格も併せ持つようになった。江戸時代、稲荷信仰を持つ商人が幾人も成功すると江戸では庶民にいたるまで稲荷神を祀るようになった。
2.八幡神社
豊前宇佐八幡宮が中心。古来、宇佐は瀬戸内海と大陸に向かう航路の中継ポイントとして重んじられ、航海民を束ねる宇佐氏がいた。彼らは海神を祀ってきたがやがて八幡の神と称せられるようになった。船に多くの幡を立てられた様子から名付けられたようである。4世紀に大和政権は宇佐氏の力を借りて九州支配を確立した。以来、天皇家は宇佐八幡宮を重視してきたという。さらに東大寺建立の際には宇佐八幡の巫女に「奈良に赴いて大仏作りを助けたい」という神託が下り、手向山八幡宮が勧請されている。宇佐八幡には6世紀の欽明天皇のとき、神職に「我は応神天皇である」との託宣があったという平安時代の言い伝えがあり、以後、八幡神は応神天皇であるとされるようになった。おそらく源氏が石清水八幡への信仰を強め、八幡神を朝鮮遠征にまつわる応神天皇と結びつけたようである。
鎌倉、室町、江戸と歴代の幕府が長らく源氏政権であったため、八幡神も全国に普及していったものと思われる。
3.天神社
菅原道真を祀る、北野天満宮が中心。かつては御霊信仰として祀られたが、江戸時代、朱子学者達が数多く、天神を信仰したため、学業成就、学問の神となった。寺子屋が普及した江戸時代後半、天神社も急増していったと思われる。
4.諏訪神社
諏訪湖の周辺で祀られてきた地方神で、当初は弓矢に長じた狩猟神。諏訪上社の御頭祭(おんとうさい)では今も鹿の頭を神前にささげる神事が続いている。現在、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ:大国主命の子)という。古事記では高天原から来た武甕槌神(たけみかづちのかみ)と争い、敗れて諏訪に隠遁した神としている。
中世、武芸神として武家から尊崇され、弓術の上達を祈願した。しかし信濃に1000社、越後に1500社と特定の地域に濃密に分布しており、基本的には地方神としての特色を持ち続けている。諏訪大社は大国主神(おおくにぬしのかみ)の子、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祭る古来有名な大社で、諏訪湖を中心に四つの社殿が鎮座している。いずれも本殿は無く、上社(本宮と前宮)は神体山を、下社(春社と秋社)は神木を祭る。それぞれの宮には四隅に樅(もみ)の大木の「御柱」が立っており、この四本ずつの計16本の柱を寅の年と申(さる)の年に新しく建て直すことになっている。中世までは鳥居も含め、すべての社殿を建て替えていたが、江戸時代以降、御柱と宝殿だけが建て替えられるようになった。「御柱祭り」はこの御柱を建て替える神事である。
※御柱祭り:神木にふさわしい大木を一年以上も前から見立てて、その木を清い状態
にしばらく保った後、清浄な方法で切り倒して材木にし、山から曳き下ろす。さら
に神社まで運び、曳き立てて遷座祭を行い、祭りは終わる。木を「御柱山」と呼ば
れる山(上社は八ヶ岳西麓、下社は霧ケ峰西麓)で見立て、切り出すのは「ヤマ
ミ」と呼ばれる世襲の集団で、御柱祭りの年には伐採の21日前から物忌みに入る。
様々な儀式を経て3月に切り倒された木は枝打ちされて、4月、祭りの最高潮とな
る山出し祭りを迎える。大木を三日かけて山から中継地点の「御柱屋敷」まで曳い
ていくのだ。特に山出し祭りの「木落とし」は最大の見せ場で、上社は約50メー
トル、最大斜度30度の坂、下社は約100メートル、最大斜度35度の坂を大勢
の男達を乗せた御柱が地響きをたてながら滑り落ちていく。途中でふるい落とされ
る者が続出し、負傷者も絶えない、勇壮で危険な祭りである。祭神は国津神(天皇
家は天津神の子孫)であり、荒ぶる神である。祭りもかなり荒っぽい場面が多い。
諏訪地方ではかつて御柱祭りの年には葬式も婚礼も行わなかったという。祭りに
あまりにも労力とお金がかかり、冠婚葬祭をやる余力も残されていなかったそうで
ある。山出し、里曳きの日には学校も休みになったほど、この祭りは地元の人にと
って重大なことであったのだ。今なお神と氏子の絆の深さを感じさせ、日本の祭り
の原点を彷彿とさせてくれる貴重な祭礼といえよう。
※市原に諏訪神社が散見されるのはもっぱら、諏訪の村上氏が武田氏に信州を追わ
れて市原の村上に拠点を置いたからである。カッパ補足
5.神明社
天照大神(…天津神)を祀る。伊勢の内宮を中心とする。伊勢の御師が各地に広め、江戸時代、お伊勢参りの流行もあって各地に神明社が建てられた。棟持ち柱が特色の神明造りも江戸時代後半、普及していった。
6.熊野神社
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つを熊野三社という。杣人らが山中の巨木を祀ったのが始まりと考えられる。本宮大社の祭神「家都御子神(けつみこのかみ)」は「木の神子の神」であったようだ(後にスサノオノミコトと同一視された)。熊野信仰は平安時代中頃、山岳仏教と結びつき、熊野山中で修行する僧侶が多くなった。やがて彼らは半分僧侶で半分俗人である修験者(山伏)となっていった。
熊野山伏の本拠地が那智大社の隣にある青岸渡寺。
修験者は強い呪力を持つとされ、院は彼らの力を借りて争乱を鎮めようとして、幾度も熊野詣を繰り返した。皇室のバックアップを得て修験者は地方に布教を展開し、皇室を支え、国土安穏をもたらす神として各地に熊野神社を建てた。修験者は民衆にも広めるため、病気回復などの祈祷も行ったので延命長寿、無病息災の神としても祀られるようになった。
7.八坂神社と氷川神社
出雲の地方神であったと考えられる素戔鳴尊(スサノオノミコト)が祭神。仏教の祇園信仰と習合し、全国に拡大。釈迦が説教を行った祇園精舎の守護神牛頭天王は元来、牛の頭を持つ恐ろしいインドの神であったが仏教に取り込まれ、疫病を鎮めて人々を守る神になった。
言い伝えでは備後国に蘇民将来という名の貧しい若者がある旅人を手厚くもてなした。数年後にその旅人が再び彼の元を訪れて「自分は牛頭天王である」と告げた。そして彼に疫病除けの茅の輪を与えた。これによって6月と12月の末に大きな茅の輪(ちのわ)をくぐって厄除けをする習俗が生まれたという。また牛頭天王は蘇民将来の家を去る時に「我は素戔鳴尊なり」とも語ったという。中世の京都では牛頭天王信仰が盛んになり、厄病除けの祭りが八坂神社で行われるようになった。
なお東国では出雲系の神社が多く、日本海航路によって大国主命信仰が早い時期に北陸から越後、出羽方面に広がり、さらに太平洋岸に拡大していったようである。さいたま市の氷川神社は素戔鳴尊と妻の奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、大国主命を祭神とする。元来は大国主命を祀っていたのが記紀で素戔鳴尊を上位に置くようになり、素戔鳴尊を主祭神のように祀ることになったのであろう。
当初は土地の守り神としての農耕神であったが、中世、関東の武士達が八岐大蛇退治で知られた素戔鳴尊を武芸の神として尊崇し始めた。平貞盛や源頼朝らが武運長久を祈願したとの言い伝えもあり、江戸幕府も保護してきた。武蔵国に200社以上、関東全域で400社余り存在するが、それ以外の地域にはほとんど存在しない、関東特有の神社といえる。
大国主命の国づくりに協力した常世国(とこよのくに:海の彼方にある神の国)から来た神に少彦名命(すくなひこなのみこと)がいる。大国主命が美保の岬(出雲)に来た時に海の彼方から「ガガイモ」の殻の舟に乗ってやってきた小さな神で、知恵があり、病気の治療法や酒造りにも通じていたため漢方医や酒造家の信仰を集めた。なお命は粟の茎で遊ぶうちにはじきとばされてそのまま常世の国に帰ったという。茨城県大洗の磯崎神社など各地に祀られている。
※天照大神を最上位におく大和政権によって神の国の中心は常世国から高天原に移
され、出雲神話の古い神々の多くは国つ神として天つ神の下位に置かれることに
なった。
なお、明治以降、神仏分離令の影響で仏教的な色彩の神号が否定されたため、
祇園社、牛頭天王社は八坂神社、八雲神社などに改称されている。カッパ補足
8.美保神社
事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主命の子神で、蛭児(ひるこ)神とともに漁業の神「恵比寿」様として祀られる。大国主命が農耕の神とされる一方で副食となる漁業の神は格下とされ、子神となったようである。出雲の美保神社の主祭神で、海の果てにいる神々の世界(常世国)から出された指令を人間に伝える役割を持ち自由に海上を往来できる力を持つとされた。記紀では国譲り神話のなかで高天原からの使者の言葉を聞いて海の彼方に去っていったとされるが、美保神社では時折、人々を助けるために海の彼方からやってくると信じられてきた。
9.三輪神社と伊勢神宮
弥生時代には土地の守り神として大物主神が三輪山で祀られていた。しかし6世紀初頭、大和政権は太陽神=天照大神を祖先神として祀ることで地方豪族の神々とは段違いの権威を得ようとした。大和という一地方の土地の守り神=大物主神(ローカルな存在)を捨てて、全国支配の要として太陽神を頂点とする国家的祭祀を執り行う王家の祭祀が急速に整備されてきたのである。
天皇家の祖先神を天照大神とし、高天原の神=天つ神の中心に据え、かつ畿内に本拠を置く有力豪族の祖先神も同時に天つ神の一員に加えられていった。他方で地方豪族の祀る神の多くは国つ神として天つ神の格下とされていった。
こうして記紀神話が造られる過程で神々の序列化も行われたのである。
7世紀末、天武天皇の時に伊勢神宮が造営されたと考えられる。それまでは笠縫邑(現在の桜井市。「元伊勢」と呼ばれ、現在も太陽神を祀る檜原(ひばら)神社がある)で天照大神の祭りが行われていたようだ。伊勢神宮の御神体は三種の神器の一つ、八た鏡で伝承では瓊々杵尊(ににぎのみこと)が天照大神から授かったものとされる。内宮は天照大神を主祭神とするが外宮は農耕神の豊受大神(とようけおおかみ)で記紀には登場しない。平安時代に記された書物に丹波国から招かれた神とされている。8世紀初頭頃、太陽神の配下に置かれた地方由来の神の一つであったようだ。
10.多賀大社
イザナギノミコトは黄泉の国に下ったイザナミノミコトと袂を分かち、天照大神、月読尊、素戔鳴尊を生んだ。このときイザナギノミコトはすぐれた子どもができたことを喜び、天照大神にすべてを託して身を隠したという。イザナギノミコトは記紀の国生み神話で淡路島を最初に生み、四国、隠岐、九州…といった順で「大八州(おおやしま)」瑞穂の国を完成させていく。おそらく淡路島の一部で祀られていた神であろう。兵庫県一宮町にはイザナギ神社がある。
壮大な国生み神話は記紀に取り込まれ、6世紀末ごろに天照大神の父神とされたのだろう。国土を作り出した強い力を持つ神として産業繁栄や商売繁盛を祈願する対象となり、多賀大社の祭神となった。同社は近江商人の信仰を集め、近江商人が全国に進出する過程でイザナギ信仰も拡大していったようだ。
11.西宮神社(兵庫県西宮市)
蛭児神(ひるこがみ)=恵比寿を主祭神とする。イザナギとイザナミとの間に生まれた蛭児は骨のないクラゲのような姿で三歳になっても立てなかったため、葦舟に乗せて海に流された。蛭児は西宮に辿りつき、現地で「恵比寿三郎」という名を与えられ、神として祀られた。当初は海から来たので豊漁や航海安全の神として祀られたが、西宮周辺が貿易で発展すると金運や商売繁盛の神として尊崇されるようになった。
12.三島神社
大山祇神(おおやまつみのかみ)を主祭神とする。大山祇神は山の神の最上位にあって娘の木花之開耶姫(このはなさくやひめ)は瓊々杵尊の妻になったとされ、皇室とも縁続きの神である。中心は大山祇神社(愛媛県大三島町)で航海民の阿曇(あずみ)氏が祀ってきた。別名「和多志(わたし)大神」で本来海の神であった。阿曇氏の水軍が大和政権のなかで重きをなしていたため、山の神を代表する神として記紀に取り入れられたようである。このため単なる山の神にとどまらず、本来の航海守護、漁業の神でもあり続けた。山から注ぐ川にも関わることから農耕の神とも、穀物から酒が造られることから酒造の神ともされた。大山祇神社から分かれた大三島神社、三島明神、三島神社などが全国に分布している。
13.鹿島神宮
武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀る。中心は常陸国の鹿島神宮。イザナギが火の神カグツチを斬った時に生まれたとされる。国譲りの使者として地上に降り、十握剣(とつかのつるぎ)を地面に突き立ててその上に座り、大国主命を威圧した。この剣は雷を意味し、「ミカヅチ」の部分は「御厳雷(みいかづち)」を表すという。つまり本来は雷神である。
古来、雷は豊かな水をもたらす農耕神として祀られてきた。記紀によって皇室を守る武神とされ、以降、武術の神、国家鎮護の神となった。おそらく東国に領地を持っていた中臣氏が記紀に取り込んだようである。中臣氏は出雲支配に大きく関わったようで大国主命を屈服させる神話に領地に祀られてきた雷神を登場させ、天皇家の権威を後ろ盾として出雲を従わせたのだろう。
14.香取神宮
経津主神を祭神とする。武甕槌神と同様にカグツチを斬った際、生まれた。剣が物を斬る際に生じる「ふつ」という古代語(→「ぷっつり」「ぶっつり」)から生まれた名であろう。霊剣の神とされ、「悪霊を斬り、退けてくれる神」とされた。武甕槌神と同様、武芸の神とされ、また海上守護、交通安全の神、出世、開運招福の神としても尊崇を集めた。
香取神宮は鹿島神宮と隣接することもあり、強いつながりがある。秋の御船祭りでは鹿島から香取まで御船の神幸が行われる。両神宮とも中臣氏の支配下に置かれていた。中臣氏は鹿島の神を上位においていたらしいが、関東では経津主神の方が人気があったようで香取系の神社は広範に存在している。
※香取神宮と鹿島神宮は平安時代には「神宮」号という最高レベルの格式を朝廷か
ら与えられていた、東国随一の古社であった。これは全盛を誇った藤原氏との絡
みも大きいが、大和政権の時代から蝦夷支配の東国における最大の拠点がこの地
域に置かれ、軍事的に長く大きな役割を果たしてきたからであろう。両神宮の主
祭神がいずれも武神、軍神であることも偶然ではあるまい。カッパ補足
15.春日大社
主祭神は天児屋根命(あまのこやねのみこと)。藤原氏の祖先神で、天照大神に仕えた祭事担当の神とされる。天照大神が天岩戸に隠れた時、天児屋根命が素晴らしい祝詞を唱えたという。このことから祝詞の神とされ、祝詞を通じて良い言霊を与えてくれるとされた。
古くは河内国の枚岡(ひらおか)神社(現在東大阪市)で天児屋根命を祀っていた。鎌足の活躍で藤原姓を与えられ、文人官僚として鎌足の子孫の藤原氏が大躍進すると祭祀担当の中臣氏とは完全に分かれてしまった。
藤原氏は平城京に春日大社を造った際、祭神に天児屋根命だけでなく中臣氏が祀ってきた武甕槌神と経津主神も加え、さらに巫女の神とされる比売神も加えた。平安時代以降、藤原氏が地方に進出すると春日神社も広がっていった。
16.椿大(つばきだい)神社と椿岸(つばきぎし)神社(三重県鈴鹿市)
二つの神社は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)をそれぞれ祭神とし、隣接している。猿田彦大神は天孫降臨の際、瓊々杵尊の案内人となって協力した。瓊々杵尊一行が雲の中を進んでいると天の道の分かれるところ「八衢(やちまた)」にいたのが猿田彦。「七あた(=1.2m)」もの長大な鼻と丸く大きい目に光る口を持つ奇怪な姿であったため、天鈿女命が男装して詰問したところ「私は天孫に逆らうつもりはない」と答え、案内役を務めて、日向の高千穂の峯に一行を導いたという。これが縁で後に天鈿女命は猿田彦大神と夫婦になり、彼の故郷、伊勢国へ向かったという。
後世、天狗信仰が流行ると猿田彦が天狗と同一視された。祭礼ではよく神輿の先導役を務める。また旅人の安全を守る神とされて道祖神ともなっている。今は交通安全の神でもあり、災難除け、方位除け、延命長寿の御利益もあるとされている。本来は伊勢の地方神であったようだ。
天鈿女命は天照大神に仕える巫女神で天岩戸の神話で知られ、技芸上達の神として芸能界、花柳界の信仰を集めている。
17.日吉大社と松尾大社
祭神は「大山咋神(おおやまくいのかみ)」で仏教風には「山王権現」とも呼ばれる。天台山国清寺に大地の神を祀る山王祠という道教の祠があったことにちなんで「日吉山王」と名付けられたのが始まり。大山咋神は記紀には登場しない地方神であったが、天台宗の拡大と延暦寺の荘園の拡大によって全国に2000社ほど存在する。
※祇園社と同様に、明治維新で神仏分離令が出された結果、山王権現といった名称
から日吉神社、日枝神社などに改称されている。カッパ補足
同じく大山咋神を祭神とするのが松尾大社。天台宗の日吉信仰とは別口の神社。最初は丹波国の山の神だったようで、秦氏が5世紀末に朝鮮半島南部から山城国や丹波国に移り住んできた時に、丹波の大山咋神信仰を取り入れて本拠地である山城の松尾山に祀ったのが同社の由来。京都最古の神社とされる。秦氏の氏寺が同じ桂川沿いにある太秦広隆寺。秦氏の地方進出にともない、各地に松尾神社が建てられ、およそ1000社存在する。
18.貴船(きふね)神社と賀茂神社
賀茂川の上流にあり、豊かな水をもたらす貴船山の神で「高靇神(たかおかみのかみ)」と呼ばれるが記紀には登場しない。蛇の姿をして雷を操るとされた。平安遷都後、京都の守り神として朝廷が重視、雨乞いや止雨のために度々祈祷が行われた。全国に約300社存在。
貴船神社の下流に位置するのが賀茂神社。古代豪族鴨氏の祀る神社。御子神の別雷神を祀る上賀茂神社と母神玉依姫、姫の父「建角身命(たけつぬみのみこと)」を祀る下賀茂神社とからなる。これも記紀には登場しない地方神であったが、平安京造営にあたって現地の有力豪族鴨氏の協力をあてにした朝廷は賀茂神社を京都の守り神として尊崇するように。貴船周辺も鴨氏の勢力圏にあったと考えられる。京都三大祭りの一つ「葵祭り」は賀茂神社の祭礼に由来する。鴨氏の子孫が各地に賀茂神社を建てた。
※市原の高滝神社は江戸時代、「加茂大明神」という名で広く知られ、多くの参詣
者を集めた。カッパ補足