16.遊行する聖たち
1.徳本(とくほん)上人(1758~1818)
和歌山の日高郡出身。1784年に浄土宗の僧侶のもとで得度し、徳本の名をもらう。以後、山中で木食行と不断念仏の修行を続け、次第にその徳を慕う者が増えた。紀州藩主や幕府の支援を受けるようにもなったが、諸国を遊行し、各地で不断念仏(木魚や鉦を乱調にたたきながら念仏を唱えるのが徳本の特色であったという)を勧めた。庶民に圧倒的な支持を得て各地に徳本講が組織され、その代表が江戸の一行院で徳本の名号を預かり、帰郷後、それを講の本尊としたり、石塔に刻んだりした。関東にも度々、教化活動の為、遊行して廻っている。千葉にも四度は訪れており、各地で徳本塔の開眼供養を行っている。
なお市原にある祐天と徳本の名号塔はいずれも彼らの死後、彼らの追善供養のため、その徳を慕う人々によって建てられたものと考えられる。
2.木食(もくじき)上人観正
木食上人とは五穀を絶ち、木や草の実を食べて諸国を行脚する苦行僧で、修験道と深く関わる。数多くの仏像を残した円空(1632~1695)や木喰上人(木食明満:1718~1810)は特に有名。
観正は淡路島出身。長年の廻国修行を経て、小田原で水加持により雨を降らせるなど多くの霊験を著し、文政年間、江戸で「今弘法」と呼ばれて人気を博した木食僧である。その独特の書体は尊崇する人々から熱望され、神奈川、東京、静岡などに百基近くの観正塔が残されている。千葉でも十数基確認されているが、多くは文政5年(1822)、観正が房総を訪れた時に残された物で、釈蔵院のものもその一つと考えられる。
房総を訪れて間もなくの文政12年(1829)、江戸大火の際の加持祈祷が悪質とされて観正は投獄され、三カ月後に獄中で亡くなってしまった。享年75歳であったという。
この年、観正は房総を訪れている。これはその記念として房総に建てられた幾つかの塔の内の一つと考えられる。塔は弘法大師の供養塔として建てられている。
3. 祐天上人
祐天上人(1637~1718)は陸奥国磐城出身で12歳の時、得度し仏道に入ったが愚昧にして経典が覚えられず。これを恥じて成田山新勝寺に籠ったところ、不動尊から剣を喉に差しこまれる霊夢を見た。以後、不動尊から智慧を授かったとして彼は本領を発揮するようになり、五代将軍綱吉らの帰依も受け、ついには増上寺第36世法主、大僧正ともなった。
念仏の功徳による数多くのエピソードを残しているが、特に常陸の累という女の怨霊を成仏させたことが四代鶴屋南北の脚本による歌舞伎や曲亭馬琴の読本、三遊亭円朝の怪談話(「真景累ヶ淵」)にも取り上げられ、江戸時代後期には全国的にその名が知れ渡った。
…ついでにご紹介
・怪談「真景累(かさね)ヶ淵」
安政6年(1859)、三遊亭円朝によって怪談噺として初演された。累ヶ淵は茨城県常総市羽生町の法蔵寺裏手に続く、鬼怒川の沿岸をさす地名。一般にこの話が流布したのは四代目鶴屋南北が歌舞伎の脚本としてまとめあげ、文政6年(1823)に初演されて以降のこと。元の話は元禄3年(1690)に出版された仮名草子「死霊解脱物語聞書」に取り上げられた実話という。
これによると・・・
下総国岡田郡羽生村に百姓与右衛門とその後妻お杉の夫婦があった。お杉の連れ子、助(すけ)は生まれつき顔が醜くて足も不自由だった。与右衛門は助を嫌い、邪魔に思うようになり、ついに助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年、お杉は娘を産み、累(るい)と名付けた。しかし累も助と生き写しといわれるほど醜かった。村人は助の祟りだと噂し合い、「助がかさねて生まれてきた」ことから累を「かさね」と呼んで恐れた。やがて与右衛門もお杉も相次いでこの世を去り、累は一人ぼっちとなってしまったが、村にやってきた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病した縁で彼を婿に迎えて一緒に暮らし始めることとなった。しかし谷五郎もまた醜い累を疎ましく思うようになり、正保4年(1647)8月、累を川に突き落として殺害してしまった。
その後、谷五郎は幾人もの後妻を迎えるがことごとく若死にしてしまう。6人目の妻きよとの間にようやく菊という名の娘を設けたが、寛文12年(1672)1月、菊にとうとう累の怨霊が取り憑いた。累は菊の口を借りて谷五郎の悪行を語り、自分の供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺にいた、念仏聖祐天上人(当時30代半ば)はそのことを聞きつけて、一度、累の解脱に成功する。が、たちまち菊は累とは別の何者かの怨霊に取り憑かれてしまう。祐天上人が死霊に問いただしたところ、それは助の霊であった。祐天上人は助にも戒名を与えて解脱させ、一件落着となった。この一件で名声を高めた祐天はおよそ40年後の1711年、ついに増上寺第36世法主となり、大僧正の地位に昇りつめた。なお法蔵寺には今も菊の墓があり、市の指定文化財となっているという。
以上、閑話休題
江戸時代も後半に入ると六部だけでなく、多くの人が霊山、霊地を目指して巡礼の旅に出ていた。当時、西国三十三番札所、坂東三十三番札所、秩父三十四番札所を巡ると合わせて百箇所となり、その達成記念に碑を建てることがあったが、これらの碑の場合は百箇所に加えておそらく四国八十八番の札所も巡ったのだろう。気の遠くなるほどの労力と歳月をかけて札所巡りの旅が続けられていたのである。
廻国塔やこうした各種の巡拝塔の総数はかなりの数にのぼるとみられる。ただその立地が寺社の境内に限られず、きわめて多様であり、非常に見つけにくい場所であることも多い。市内最古の道標でもある西国吉の廻国塔(下 写真)は今、薮の中にあって見つけるのにとても苦労する。高坂や山倉の廻国塔も山道にあって気付く人は少ないだろう。当時の人はなぜこんな目立たないところに石塔を建てたのか、むしろ不思議になるくらいである。
おそらくそれは人気の無い山中で歩き疲れ、心細くなった巡礼の旅人を励ますためではあるまいか?だからこそ敢えて草深い場所を選んだのではあるまいか・・・などと想像してみる。
かつて歩き疲れた後続の巡礼者をこれらの石塔は薮や草むらの中から静かに見守ってきたのだろう。しかし現代人の多くはもはや山中を訪れる事も無くなり、とっくに遊行の意味を忘れ果ててしまった。今、人知れず草むらの陰で二度と来ぬ人を待つかのように立ち続ける廻国塔の寂しさをふと思うのである。