22.神社建築の基礎
・神社の本殿~建築に見る神の空間~(三浦正幸 吉川弘文館 2013 歴史文化ライ
ブラリー362)より
以下、要旨をご紹介いたします。
日本の神社建築の淵源は日本古来の宮殿建築に求められ、寺院建築は中国伝来の宮殿建築に求められる。ご神体として鏡が祀られるというのは全くの俗信に過ぎず。鏡をご神体とするのは古来においては伊勢神宮内宮など少数に過ぎない。明治以降に創始された国家祭祀の神社(明治神宮等)では鏡をご神体としているが新しいもの。
神社建築は7世紀に仏教建築への激しい対抗意識から生み出された。本殿は神の占有空間を内包する建築で、古来の呼称では正殿、宝殿、御殿、神殿などと称された。神社の総数は9万6千社ほど。明治31年(1898)では19万1898社あったが、明治39年(1906)に内務省が出した「神社合併の達し」によって大正5年(1916)迄の間に11万7720社に整理統合された。おそらく江戸時代には20万社以上存在していたであろう。
村社という社格の神社は中世の在地領主によって勧請されたケースが多い。武家の領主が過半を占めていたため、源氏の氏神である八幡宮が多くなった。他には熊野権現、祇園社(八坂神社)、賀茂神社、諏訪神社といった有名神を分祀していることも多い。それらの本殿は三間社流造が多く、規模や形式が比較的揃っている。
※旧社格制度:1871年に制定された。村社(1938年で44823)―郷社(同年3616)
―県社(府社:同年1098)―国幣社(大社・中社・小社)・官幣社(大社・中社・
小社)。これに別格官幣社(特別な功績のあった臣下を祀る)が加わる。これらの
神社の最上位が伊勢神宮。ただし無格社は6万社以上あった。神宮号の使用が認めら
れたのは伊勢以外では熱田、気比(福井県敦賀市にある越前一宮)、香取、鹿島な
どに限られた。
・延喜式内社:907年に完成した延喜式神名帳に記載のある神社(2861社)を「式内社」と呼ぶ。官幣大社、官幣小社、国幣大社、国幣小社に分類され、官幣大社と国幣大社の合計は353社。内、「名神大社」(みょうじんたいしゃ:古来から霊験著しい神社とされ、名神祭の対象となる。そのすべては官幣大社か国幣大社になっている)は224社。その多くは後世、一宮などとして存続。ただし神社名(社号)はたとえ式内社であっても中世以降、八幡宮や祇園社などに変化した神社もある。また明治以降、確たる根拠も無いまま式内社の社号を名乗るケースも少なくない。
平安中期から鎌倉時代にかけて律令体制の弛緩により、多くの官社が没落していった。その中で一握りの有力神社が台頭し、11世紀後期から12世紀前期にかけて一宮や国鎮守と呼ばれ、国司の管理に置かれるようになる。やがて管理者は守護や大名に取って代わられる。こうした一宮や名神大社(二十二社など)は新しい本殿を良しとする神道の通年によって江戸期や明治期に造替されるケースが目立つ。
社号と祭神:社号は祭神名や地名に基づく。村の鎮守の場合には祭神名が一般的であったが、明治以降、地名に改められたケースが多い。八幡社や熊野神社のように同名の神社が数多くある場合、地名を冠したり地名そのものに替えるケースや、神社合祀によって改名されるケースが見られる。合祀の際に主祭神に加えて新たに本殿内に祀られた神を相殿神という。境内に別途、本殿を建てて祀る場合を摂社・末社という。摂社は主祭神と関係の強い神か格式の高い神を祀る。末社にはそれ以外の神(合祀された神など)を祀る。主祭神を祀る本殿と摂社の本殿を区別するために主祭神を祀る側を「本社」と呼ぶ。
また神仏分離令(1868年に出された一連の通達の総称)によって以下のように全国的に社号が変更された。
祇園社・牛頭天王社→八坂神社・八雲神社・素戔嗚神社
山王権現→日吉(日枝)神社
金毘羅大権現→金刀比羅(琴平)神社
熊野権現→熊野神社
弁財天(弁才天)社→厳島神社
妙見社→千葉神社
なお祭神と本殿の形式は一部の例外があるがほとんどの場合、無関係。全国10万社の本殿の内、6割が流造で1割が春日造。摂社・末社の場合、一間社で流造、切妻造が圧倒的。
市原市五井大宮神社本殿:三間社流造 寛政5年(1793)の棟札がある。
本殿の見方:規模は正面の柱間(はしらま)の数で示す。梁間(はりま)ともいい、「一間社」「二間社」「三間社」などと表現。従って通常は桁行(けたゆき)の柱間は表記されない。また「一間」は長さの単位ではなく、柱間の数に過ぎず、混同してはならない。当然、柱間の長さはまちまちであった。
古い本殿形式は梁間三間、桁行二間が基本で中世以降も踏襲されている。ただし一間社が圧倒的に多い。なお柱間は陽数の奇数とするのが原則。
構造的には身舎(母屋:もや)と庇に区分される。母屋は切妻造が基本。母屋の正面が「平」の場合には「平入」と称し、「妻」の場合には「妻入」と称する。中世以降、出入り口が複数になることもあって入り口に注目するのは間違い。平入が9割以上を占め、圧倒的。妻入は大社造や住吉造、春日造に過ぎない。
本殿内部は一室とするのが古例で神の占有空間を内陣と呼ばれ、通常は板敷きである。母屋を前後二室に分けて奥を内陣、手前を外陣とする場合もある。流造のように母屋に庇を付加した場合は母屋内が内陣、庇の下に床がある場合、そこを外陣とする。床が無い場合、木階(きざはし)の雨よけの庇に過ぎないので外陣とは言わず、向拝に該当する。
内陣は神の占有空間であり、本来は神職と言えども参入不可。本殿は外側から拝むものであり、外観の荘重さが重視される一方で本殿内部は簡素で装飾は見られない。また仏像とは違ってご神体は見せるものではなかった。ただし本殿内陣は円柱が基本とされ、略式と考えられた角柱は庇などに利用された。
柱は芯持ち材では乾燥、収縮によりひび割れが芯にまで達してしまう恐れがあり、耐久性や外観上の問題が出てしまう。丸太材を狂いの少ない芯去り材にするにはまず二分割して断面が半円形にし、それを角柱にする。角柱を八角柱に成形してさらに円柱に仕立て上げる。完全な芯去り材の円柱を得るためには円柱の直径の倍以上の太さを持つ巨木が必要となる。ただしそれでは経費が高くつくので実際には柱の中心から芯を外した芯持ち材が多く使われている。また明治以降では芯持ち材に背割りを入れて、別木で溝を埋めて隠す埋木技法がとられるようになった。
本殿の壁は横板壁が基本。厚さ2~3㎝、幅一尺以上の板を横方向に嵌めていく。円柱に縦溝を彫ってあり上から順に板(羽目板)を落とし込む。板同士は矢筈矧ぎ(凸凹)ではめ込むので風雨が入り込むのを防げる。他方、寺院では土壁や唐様の縦板壁が基本。扉は原則板扉で母屋の正面は外開きの二枚扉とする。江戸時代以降、桟唐戸(框で周囲を補強し縦桟と横桟をわたして鏡板をはった禅宗様式の戸。古くは框の無い板戸であった)が増えてくるが有力神社ではほとんど採用されていない。なお外陣では板扉を使わず、格子戸や蔀戸を利用する。
組物は柱の上の木組みとして構造材+装飾材(斗栱)が平安後期から寺院建築を真似て導入された。装飾部は斗(ます:升とも)と肘木(=栱)などを組み合わせる。明治期には神仏分離の観点から本殿の組物を取り除くケースも見られた。当初は斗を用いない「舟肘木」が桃山時代まで採用されていた。江戸期に入ると「大斗肘木」(柱の上に大きめの斗を備える。やがて肘木の表面に渦巻きなどの彫刻を施した絵様肘木が出現)、「平三斗」(大斗肘木の上に斗を三つ並べる)、「出三斗」(大斗上に二本の肘木を十文字に組み、その上に最大5個の斗を載せたもの」など、多様な組物が登場する。
出三斗の外側に突き出した斗の上に壁と平行した肘木を加え、その上に三個の斗を載せた組物を「出組」といい、17世紀後半に流造本殿に出現。斗の持ち出しを手先といい、一手先、二手先、三手先(幕末)がある。三手先では尾垂木を組み込む。斗栱自体は寺院建築の手法として7世紀には中国から伝来している。組物が複雑になるにつれて外観が壮麗になると共に建物の柔軟性が増すことで地震に強い構造となるという指摘がある(これはウィキペディア)。
千木・鰹木:古墳時代の宮殿建築で用いられた。流造の古例には用いられておらず、江戸時代以降の復古的な思想により採用されるようになった。
彩色:古くは白木造。奈良時代以降、彩色されるようになった。しかし江戸時代以降、復古主義により白木造りが復活してくる。明治期以降に造営された本殿はほぼすべてが白木造りとなっている。寺社に共通する基本的色使いは以下の通り。
柱、長押、組物、垂木といった主要部は赤色(朱色)、木口を黄土色。壁板などの板類は白色。扉は赤色が多いが黒色とされることも。蔀は黒。蟇股は両脚を赤、脚内部の彫刻を緑青。脇障子の上の竹の節は黒。窓の連子(縦格子)は緑青、窓枠は黒か赤。赤色(朱色)の塗料は酸化鉄を主成分とする紅殻を用いることが多い。安価で耐久性もあって地方では主流。しかし明治期に酸化鉛を主成分とする鉛丹(光明丹)が登場し、明るい朱色を呈したが白色に変色しやすい。
朱は古来、硫化水銀が用いられてきたが高価であった。また紅殻を漆に混ぜた朱漆塗りも高価であり、社格の高い神社に用いられた。
流造本殿の構造と意匠:本殿の6割を占める主流の造。切妻造の母屋の正面に庇を設けたもので、側面から見ると屋根が「へ」の字に見える。庇は本来、本殿の正面に据えられた木階(幅一間)の雨よけの屋根。参拝者は木階(きざはし)の下から礼拝する。13世紀後半から庇の下に母屋よりも低く板敷きの床を設けて外陣とする造が流行、村の鎮守に多く見られる。拝殿を別棟で設ける余力の無い中小の神社が採用した形式。この場合、母屋は円柱、庇は角柱。
しかし室町期以降円柱を八角柱で済ますことが増えていき、江戸時代には母屋の内部もほとんどが八角柱(中には角柱)となっていく。角柱は平安後期から角部分の欠損を防ぎ、見た目の優美さを狙った面取り柱が出現。面は時代が降るにつれて細くな
る傾向があり、当初は八角柱と見分けがつかないほど大きく面を取った大面取り)。江戸時代には几帳面や唐戸面なども登場する。
長押は柱と柱をつなぐ横方向の構造材。柱に太い釘で打ち付けて柱を支える役割。奈良時代に始まる。流造では母屋の四周に廻らされる。戸口の上にわたされる内法(うちのり)長押と地覆長押、腰長押などがあり、和風建築の特色ともなっている。
連三斗(つれみつど)は鎌倉末期から出現する。流造本殿の端部では桁が外側に突き出ている。それを下から支えるため妻側へ斗一つ分余分に延長させたもの。斗が四つ連なる。向拝によく用いられる。
垂木は見える箇所を化粧垂木、見えない部位を野垂木とする。化粧垂木は上下二段とするのが通例で「二軒(ふたのき)」と呼ばれる。上段は飛えん垂木、下段を地垂木と呼ぶ。地垂木だけの場合は一軒(ひとのき)という。日本古来の建築は一軒である。
垂木は密にうった繁垂木とまばらにうった疎垂木(まだらたるき:垂木に直交する木舞と呼ばれる細い棒材がわたされている)がある。鎌倉期以降、庇も繁垂木を用い、角柱や組物は面をとるようになる。
蟇股(かえるまた)は組物と組物との間に置かれた中備という飾りの一つで日本で12世紀に考案されたもの。鎌倉時代、流造で本蟇股が庇の正面に飾られ始め、室町時代には母屋にも取り入れられた。蟇股の両脚の間に動植物などの彫刻が施されるようになる。
屋根は流造本殿の場合、檜皮葺(ひわだぶき)が正式。檜の皮を剥いで厚さ2㎝ほど、幅9㎝、長さ30㎝くらいの板状に切り揃え、一枚ずつ重ね合わせて竹釘で打ち付ける。10枚ほど重ねるが、全体の厚みは3㎝ほど。軒先は分厚く重ねて照りと呼ばれる曲面を作る。耐用年数は30~40年ほど。瓦葺きよりも高価で贅沢。堅い瓦と違って優美な曲線美が魅力。しかし杮(こけら:古墳時代に登場したと思われる薄い板を重ねて敷き詰めたもの。「柿」とは微妙に字が違う)葺も地方では多用される。明治以降は檜皮葺に似せた銅板葺が流行した。
廻り縁は流造では背面を除く三面に廻らせるのが一般的。背面で廻り縁が切れる箇所に「脇障子」と呼ばれる板壁を設けて背面を隠す。
神社本殿と寺院本堂:平安中期までは下表のごとく両者に厳然たる違いが見られた。
神社 |
寺院 |
高床式 |
土間式 |
掘立て |
礎石立て |
横板壁 |
土壁 |
外開きの扉 |
内開きの扉 |
切妻 |
寄棟 |
檜皮葺 |
瓦葺き |
※掘立ては現在、伊勢神宮のみ。扉は寺院でも平安後期からは外開き。屋根は鎌倉
後期から入母屋が格式高いとされ、寺社双方とも採用されるようになる。なお屋
根の形式は入母屋、切妻、寄棟、宝形(方形)の四つが基本
和様と唐様:唐様は装飾的で組物も複雑。垂木は尾垂木、柱に粽(ちまき:柱の上下をすぼめる)を施す。長押は用いず、貫が使われ、その先端=「木鼻(きばな)」には唐草文様が彫られたりする。窓は花頭(火灯)窓。神社は和様が基本だが、室町時代から木鼻や海老虹梁といった唐様の意匠が一部取り入れられ、江戸時代になり、日光東照宮以降、本格的に導入された。
伊勢神宮の本殿は唯一神明造と言われ、他社の神明造とは一線を画した。伊勢神宮の完全な物真似は禁止されていたからである。最古の神殿形式で母屋だけの切妻造。屋根に反りがなく、組物は使わない。垂木も一軒。棟持ち柱が目立つ特色。掘立柱で茅葺きという純然たる古式にこだわっている。
奈良時代には切妻造の母屋に庇を付けた形式(平入の流造、妻入の春日造)が生まれる。母屋の前後に庇を設けると両流造と呼ばれ、11世紀頃に成立。母屋の正面と両側面に庇を付けると日吉造(ひよしつくり)で10世頃に成立。切妻平入の母屋を二棟前後に並べて接続すると八幡造で9世紀頃に成立。宇佐八幡は三棟並べる。神社で入母屋の本殿が登場するのは11世紀の八坂神社から。入母屋造の本殿と拝殿を土間床の「石の間」で連結したのが権現造。13世紀、北野天満宮からか。
八坂神社や北野天満宮は御霊信仰に基づく神社で、神仏習合が顕著に見られたため、寺院建築の主流であった入母屋造がいち早く導入されたものと思われる。入母屋造は江戸時代には全国的に分布していった。
その他の特殊な造としては二階建ての本殿を持つ浅間造や吉備津造(比翼入母屋造とも言われ、天竺様式がうかがえる)。
由緒ある祭神が複数祀られる場合、連棟式となってそれぞれの祭神を示すために千鳥破風を複数設ける本殿もある。
明治以降、流造と神明造が政府から奨励された。檜造も奨励されたが国産の檜が枯渇し、台湾産の檜が用いられることも多かった。台湾産は経年による変色で濃い焦げ茶になるので見分け易い。なお江戸時代は欅材の使用が目立つ。また本殿と拝殿を連結させたのも明治政府の指導である。
千葉市中央区村田町新明神社
市原市松ヶ島養老神社:市内では滅多に見る事の出来ない神明造で明治以降の建築