33.富士信仰に関わる石造物(後編)

 

・富士講の成立

 基礎は藤原角行(長谷川左近)が作ったとされる。角行は富士山西麓の穴に住み、八海で水行するなどの苦行を続けたという。1620年、江戸で奇病が流行った際に江戸に赴いて「おふせぎ」という呪符を授け、多くの病人を救ったことで富士山への信仰が高まったとされる。基本的な教義は万物の根源を富士の仙元大日如来に求め、これを信仰すれば天下泰平、無病息災がかなえられるという、修験道の呪術的発想に基くものであった。

 さらに商人だった食行身禄は仙元大菩薩を豊作の神、万物の祖神とし、これを信仰して各々の生業に励めば幸福が得られると説いた。1733年、江戸で初の打ちこわしが起こると「食は元なり」との観点から食行と名乗った身禄は幕府の米買い占めを批判し、四民平等の世の到来と世直しのために「生き仏」(弥勒)となることを決意、富士山7合目半の烏帽子岩の穴に籠り、31日の断食行の後、7月に即身仏となったという。これを契機に江戸を中心に富士講が発展。幕府の禁令にも関わらず庚申の年には女性も二合目までの登山を許すなどの工夫によって民衆の支持を急速に獲得していった。

 富士講は先達、講元、世話人の三役によって運営された。先達は富士登山7回以上の行者で俗人であるが信仰の指導者でもあった。講元は先達の右腕として会計を主に担当し、世話人は複数いて講員への連絡や講金の徴収などにあたった。

 

 講はほぼ5年を一期として運営され、講員の五分の一ずつが毎年登山したという。山麓の富士宮市、静岡市、富士吉田市、笛吹市、富士河口湖町などの浅間神社には神職である御師の宿坊があり、各講はおのおの決まった宿坊を毎年利用した。御師は一方で布教を兼ねて地方の富士講とのつながりを維持するため、毎年村々を巡回した。

 新規の宗教を認めない幕府は1775年以来、度々富士講禁止の御触れを出している。1795年、1802年、1814年、1842年、1849年と立て続けに禁令を出したが富士講の数は増える一方で、幕末、江戸では100近い講があったという

 船橋市内でも18の講が確認されている。1849年の寺社奉行から出された触れ書きには「富士信仰の先達と称して勝手な講釈をいたし、俗人の身分で行衣を着て病人に護符を出したり加持祈祷で人集めをしたり、愚かなことであるから見聞した者は届け出ること。今般、奉行所において富士浅間講の御師や講中の主だった者を取り調べたところ、その祖と尊信する食行身禄と申す者は神道でも仏教でもなく、ただ異様なことを唱えているだけである。今後、このような行為は禁止する」とある。

 船橋市内では56基の富士講供養塔が確認されており、江戸期と推定される塔は25基。どうやら禁令は内房の村々ではほとんど無視されていたようである。

 市原市内では立野(前掲論文)によると供養塔に限らなければ石造物40基余りが江戸期に属する。※参考文献:「船橋の歴史散歩」宮原武夫編著 崙書房 2011

 

「参明藤開山」碑について

 

 

 月行が1688年(元禄元年)、83度目の富士山登拝の際、富士山の神から「大神宮から仙元大菩薩へ世界が渡されて身禄の世となった」こと及び「参」の字を与えるというお告げがあったという。月行は以来、「明藤開山」とされていた富士山の名号を「参明藤開山」とした。「参」は大谷(「角行系富士信仰」磐田書院 2011)によると「世界の秘密がこの一文字に託されている」という。

 まず月行は「ちゝ」と「はゝ」という二人の神が泥の海から世界と生物とその食料としての穀物を生みだしたとする。彼によるとこの世界創世から六千年して世界は「大神宮」なるものに預けられた。それから釈迦如来というものが現れて修行し、富士山の山頂に「一字の大事」を伏せたという。この一字が「参」という字である。従って「参明藤開山」という名号は月行にとって彼が身禄の世のお告げを受けたことを意味する重大なメッセージが込められた名号なのだと考えられるらしい。

 月行の弟子食行はさらに「この身禄の世は仙元大菩薩という神が天皇や将軍に知恵を授けることで運営されている」と説いたという。しかし一方で生類憐みの令や享保の改革などの現実の政治に食行はひどく嫌気がさしてもいた。そこで彼は富士山で死ぬことで神の使いとなってこの世を正そうとしたと大谷は推理している(前掲書p.59~60)。食行身禄に住む場所を提供していた駒込の小泉文六郎(武士身分で「仙行一我」という名で富士講の先達になったという)の弟子に日行八我(?~1786)がいる。彼は江戸、房総、川崎、横浜といった海沿いにある富士講の開祖となっている。八我の師小泉及び食行の死を看取った田辺十郎右衛門が富士講の基礎を作ったと大谷は指摘している(前掲書p.74~75)。

 青柳浅間神社に日行八我の供養塔があることから、彼がこの地を中心に活動していた時期があったことが伺われる。以後、「~行~我」という名が青柳周辺の富士塚上の石造物に頻繁に登場する点からも、日行八我の影響力の大きさが伺えよう。彼を祖とする講がおそらく「一山講」である。一山講の講印は千種から姉崎にかけて数多く見られる。しかしやがて寛政年間、江戸から来た山包(やまつつみ)元祖禅行によって五井を中心に山包講が成立すると、先行していた一山講にとってかわり、物資流通の要五井を押さえた山包講が市原の最大勢力となっていったのではないかと推測される。

今津朝山春日神社富士塚

 

32.富士信仰に関わる石造物(中編)

 

近世における市内の主な富士信仰関連石造物一覧

地区

場所

年号

西暦

内容

青柳

浅間神社

天明6年

1786

常夜燈

佐是

浅間神社

寛政4年

1792

祠(山王)

権現堂

八坂神社

寛政8年

1796

常夜燈

川岸

富貴稲荷

文化7年

1810

常夜燈

武士

建市神社

同年

同年

大天狗祠・小天狗祠

大坪

諏訪神社

文化9年

1812

常夜燈

若宮

高呂塚

文化10年

1813

浅間・・・祠

相川

石神神社

文化12年

1815

仙元大菩薩祠

平田

大宮神社

文化13年

1816

「仙元大菩薩」:富士塚上

平田

大宮神社

文化15年

1818

仙元大菩薩祠

出津

八雲神社

文政元年

1818

常夜燈

小田部

浅間神社

文政4年

1821

富士浅間宮祠

二日市場

富士塚

文政5年

1822

仙元大神祠

今津朝山

春日神社

文政7年

1824

浅間神祠

椎津

八坂神社

文政9年

1826

浅間神祠(石工大嶋久兵衛)

馬立

大宮神社

文政11年

1828

仙元大菩薩碑

青柳

浅間神社

同年

同年

石祠

今津朝山

浅間神社

文政12年

1829

常夜燈

今津朝山

飯奈里神社

同年

同年

常夜燈(石工 寅吉)

国本

浅間神社

文政13年

1830

石灯籠

松ヶ島

養老神社

天保2年

1831

仙元大菩薩碑 根府川石

出津

八雲神社

天保2年

1831

富士山大権現碑

飯沼

春日神社

天保3年

1832

御嶽神祠

荻作

荻作神社

天保4年

1833

浅間大菩薩碑

八幡神社

天保6年

1835

仙元大菩薩祠

今津朝山

飯奈里神社

天保7年

1836

手水鉢

上高根

貴船神社

天保11年

1840

仙元大菩薩祠

不入斗

薬王寺

天保13年

1842

石尊大権現・浅間大明神碑

椎津

八坂神社

弘化2年

1845

富士山登拝記念碑

岩崎

大御堂墓地

弘化4年

1847

富士講先達供養碑

廿五里

宇佐八幡

同年

同年

仙元大菩薩常夜燈

松ヶ島

養老神社

弘化5年

1848

浅間神社狛犬

佐是

浅間神社

嘉永2年

1849

常夜燈

牛久

三島神社

同年

同年

仙元大菩薩碑

佐是

浅間神社

嘉永7年

1854

浅間大神碑(表)仙元大菩薩(裏)

小田部

浅間神社

安政3年

1856

浅間神之神社祠

廿五里

宇佐八幡

同年

同年

御中道大願成就碑

有木

十三重塔近く

安政4年

1857

浅間大菩薩祠

玉前

稲荷神社

安政5年

1858

仙元大菩薩碑 根府川石

荻作

荻作神社

同年

同年

御室浅間大菩薩碑

同上

同上

同年

同年

経ヶ嶽日蓮大士碑

白塚

稲荷神社

安政6年

1859

小御岳・石尊大権現碑

椎津

八坂神社

安政7年

1860

小御岳・石尊大権現碑

海保

熊野神社

同年

同年

富士浅間大神碑

椎津

八坂神社

万延元年

1860

富士塚上石造物

姉崎

姉崎神社

同年

同年

浅間大神碑(中腹)

白塚

稲荷神社

同年

同年

常夜燈

上高根

貴船神社

同年

同年

富士仙元大菩薩碑

村上

諏訪神社

文久2年

1862

伊雑皇大神碑

岩野見

水神社

同年

同年

参明藤開山碑

白塚

稲荷神社

元治元年

1864

食行身禄像

大桶

日枝神社

同年

同年

富士仙元碑

姉崎

姉崎神社

慶応2年

1866

富士塚手水鉢

相川

石神神社

慶応3年

1867

浅間大神碑

片又木

十二社神社

同年

同年

小御岳・石尊大権現碑

牛久

三島神社

慶応4年

1868

小御岳・石尊大権現碑

31.富士信仰に関わる石造物(前編)

 

   立野晃氏(市原地方史研究第14号 昭和61年)によると市内には1985年段階で377基の富士信仰に関わる石造物が存在しているという。多くは富士塚(※1)上かその周辺に建てられており、「浅間神社」などの神号が記された石碑や登拝記念碑(個人ないしは講中)、先達の顕彰碑、供養塔、常夜燈などである。その大部分は富士講関係のもので、特に市北部の海岸地帯に濃密に分布し、養老川沿いにも分布が広がっている。しかし市の南部や東部は希薄である。東部はおそらく七里法華(※2)地帯の西縁にあたるからであろう。基本的に日蓮宗の強い地域には富士信仰だけでなく三山、御嶽、石尊、白山、三峰等の山岳信仰や庚申塔など、民間信仰の遺物が少ない傾向にある。しかし姉崎、福増、潤井戸、喜多などでは例外的に富士信仰の遺物が見られる。

※富士塚:基本的には富士講信者によって造営された富士山のミニチュアであり、富

 士山の神霊が勧請された塚のことである。食行身禄の弟子、日行青山(高田藤四郎)

 が安永8年(1779年)、江戸戸塚村(現在の新宿区高田)の水稲荷社境内に築いたも

 のが始まりとされる。やがて江戸から南関東一帯に造営されるようになった。富士山

 から運ばれた溶岩を用いて築かれることが多いが、本来は古墳であった箇所も散見さ

 れる。基本的には富士山の五合目以上をかたどった築山で「仙元大菩薩」や「浅間神

 社」などの碑が建てられた頂上に向かう登山道、身禄が亡くなった「烏帽子岩」、山

 頂の「お鉢巡り」、中腹を横に巡る「お中道」、「船津胎内潜り」、「八海巡り」な

 どを設ける。7月1日の御山開きには直接登拝(とはい)できない老若男女が富士塚に

 参拝したという。また溶岩は富士吉田から相模川の舟運を利用して江戸にもたらされ

 た。ある調査では千葉県に183基の富士塚が確認されている(内57基が市原市内に存

 在)。

※七里法華:土気、東金の城主として北上総に君臨した酒井定隆(現在の千葉市若葉

 区中野を拠点とした領主で千葉から土気、東金に勢力を拡大し、北上総一帯を支配)

 は本行寺を開基した日泰に深く帰依し、1488年頃、浜野から片貝にかけてのおよそ

 七里四方の領民に日蓮宗の門徒となるよう強制した(これに反発した湿津犬成の真言

 宗千光院の僧広済は菊間に寺を移転)その中心寺院は浜野の本行寺で歴代住職のなか

 には不受不施派の立場をとり、幕府から処罰されたものもいた。

 富士塚上の市内最古の石造物は青柳の浅間神社境内にある富士塚の頂上にある常夜燈(天明6年=1786)。供養塔は日行八我(にちぎょうはちが)の石塔(天明8年=1788)である。日行八我は江戸青山百人町の人で俗名は渡辺三右衛門。富士信仰を確立した食行身禄系の先達と考えられ、この地で布教していたと思われる。最新のものは八幡北1丁目内谷橋地先にある石碑で昭和56年(1981年)に造立されている。市内で石造物が最も頻繁に造立されるのは1876~1885年(明治9~18年)の十年間で46基造られている。次は1926~1935年(昭和元~10年)で40近い。数的には近代に入ってからの物が多いようである。

 

 市原の場合、富士信仰は石造物の年代別分布状況からみて市の北部海岸地域で江戸後期に流布され、明治中期には中部地域、大正から昭和にかけて南部地域に及んでいったものと考えられる。なお石造物の神号に「~権現」「~菩薩」とあればその造立年代はほぼ神仏分離令以前と考えてよい。他方で明治中期以降は「~大神」や「~神社」が多くなる。

※神号:「浅間(仙元)大菩薩」「浅間大権現」「浅間大神」「浅間神社」以外の神

 号では…

 木花開耶姫(このはなさくやひめ):主祭神

  大山祇(イザナギとイザナミとの子で全国の山々を統轄する山の神。大山祇神

  社、三島大社の主祭神)の娘でニニギノミコトが降臨した際、姉の磐長姫命とと

  もに結婚相手として差し出されたが、ニニギは醜悪な磐長姫命を嫌い、「木の

  花」のように美しい木花開耶姫だけを選んだ。このためニニギの子孫=天皇家は

  「磐長」のごとき長寿に恵まれず、「木の花」のように寿命が短くなってしまっ

  たという。ニニギと一夜にして結ばれた木花開耶姫は自分の子がどうかを疑うニ

  ニギに対して神の子ならばどんな状況にあっても無事に生まれるはずといって産

  屋に火を放って3人の子を出産(その一人は神武の祖父)。この故事から父が山の

  神だったこともあり、江戸時代になって火山の代表格であった富士山を御神体と

  する富士浅間神社の主祭神とされた。また安産の神ともされた。

 宝永山:宝永年間に富士山が噴火してできた山腹にある火山

 小御岳大神(武蔵御嶽神社・大天狗)

 石尊大権現(阿夫利神社・小天狗)

 磐長姫命(いわながひめのみこと)

 角行:16世紀から17世紀初頭にかけて富士山で修行。富士信仰の土台を築いた。

 食行(身禄):角行の五代目の弟子。富士山で入定。その弟子たちが富士講を組

  織。

 …などがあり、これらが併記されることも多い。

 

 五井の大宮神社の石碑の銘文によると五井の下宿、上宿、新田に富士講を伝えたのは江戸の人「山包元祖禅行(やまつつみがんそぜんぎょう)」であり、寛政年間(1789~1801年)のことという。山包講は千葉県全域に見られる講で、講祖の修山禅行(包市郎兵衛)は天明5年(1785)頃に講をおこしたとされる。禅行の弟子に上総国君塚(市原市)の正行真鏡(しょうぎょうしんきょう)(池田作佐衛門)がおり、安房の山包講は文政年間頃に、この正行を通じて広まったと思われる。正行の弟子で七代目栄行真山(1798~1882:鴨川の人で俗名松本吉郎兵衛)は100回を超える富士山登拝を成し遂げて名声を博したこともあり、山包(やまつつみ)講は房総で最大の勢力を持ったという。

 

 富士講の多くは明治以降、扶桑教に属し、五井大宮神社の石碑にも扶桑教関係の碑が幾つか見られる。神道優位の明治期前半、本来は神道でもなく仏教でもなかったはずの富士講は多くが教派神道の一つとなることで生き残りを図ったようである。なお富士山=扶桑への信仰は桑=養蚕を主な副業としていた地域において蚕神と結びつき、養蚕農家の間で富士登拝が熱心に行われていたようである。その痕跡は川岸の富貴稲荷神社にある浅間神社の常夜灯(文化7年=1810)に蚕が彫られていることからも察せられる。

 富士講では講ごとに独自の講印が作られ、登山や行事の際に連携を保った。市内ではこの「山包」印が五井を中心に養老川沿いに内陸部まで分布して見られる。姉崎から千種にかけては「一山」印が多く見られ、青柳を拠点とした日行八我の影響力が強かったことが分かる。

玉崎稲荷神社富士塚「山包印」

白塚稲荷神社富士塚「一山印」

 他に「山水」印が北部に散在(五井、相川、片又木、荻作等)している。山水講の元講は木更津にあったとされる。南五井が山包講であったのに対して隣接する北五井が山水講であるのは19世紀初頭に新澪が波渕まで達したことで五大力船の進入が北五井の中心部近くまで可能となった事が影響したのかもしれない。川岸における五大力船の船主を統率していたのは北五井の名主中島甚五左衛門であった。五大力船の房総における最大の拠点は木更津であり、江戸には江戸城直近の一等地に「木更津河岸」が設けられていて、江戸湾の水運における木更津船の地位は突出していた。従って木更津の大きな影響力が南五井にも達していたことが、木更津を講元とする山水講の南五井への進出を可能としたとも考えられるだろう。

 局所的な印としては八幡の「丸八」、喜多の「丸翁」が知られていが、いずれも明治期以降に成立したと考えられる新しい講。

八幡飯香岡八幡富士塚「丸八印」

喜多神社富士塚「丸翁印」

 

 一般に富士講は一人の傑出した先達の下に「講元」や「世話人」と呼ばれる人物を中心に信者が組織されていく。最初に組織された講を「元講」、そこから枝分かれして組織されたものを「枝講」と呼ぶ。

 

 

川岸富貴稲荷富士塚の常夜灯(文化7年=1810)

「山包印」の下に「中講」とあるので山包講の枝講であろう。

なお石工は市原を代表する川岸の関佐七

 なお富士講の詳細については次の回に配信する予定です。

 

30.市原市内の富士塚について

 

 富士講が江戸を中心に成立してきたのは18世紀中頃のこと。富士講によって造られた最古の石造物は宝暦8年(1758)の「富士山遥拝所」碑(東京都墨田区石浜神社)という。角行藤仏(1541?~1646)が従来の修験道とは異なった教えを説いて祖とされるが、角行の教えの詳細はほとんど分かっていないらしい。角行から数えて五代目の月行(1643~1717)の教えが富士講の土台となっているようだが、その教えが世間の注目を浴びたのは六代目食行身禄(1671~1733)の富士山での自殺(1733)であった。このため富士講は食行身禄によって開かれたかのように錯覚されているが、身禄自身は弟子を一人も持たず、講とは無関係の人物であったようだ。後に月行系の講がこの事件を最大限利用したことで富士講の飛躍的発展がもたらされたと考えられる(大谷正幸「角行系富士信仰」岩田書院 2011)。が、何はともあれ18世紀後半、江戸を中心とする富士講の急速な発展は江戸湾に臨む市原にもたちまちその影響を及ぼしてきたようだ。

 市内の富士塚の石造物は計377基が立野晃氏の調査(1985)によって確認されており、その全貌がほぼ明らかとなっている。立野氏によると計57基の富士塚が市内では確認されているらしいが、その多くは神社の境内にあるため、立地条件を特定しにくい三山塚に比べれば塚自体の悉皆調査は比較的容易であろう。ただ三山塚上や寺社の境内などにも富士講の碑が混在するため、富士信仰関係の石造物の悉皆調査となると徹底するにはかなりの困難を伴う。従って石造物に関する状況に関しては立野氏の労作を参照していただくことにして、ここでは富士塚自体を概観することにとどめたい。ただし南部では「塚」とは認めがたい富士信仰の石造物が建つ神社の一画がある。これを富士塚と数えるべきか迷うケースもままある。従って富士塚の数自体も共有できる明確な富士塚の定義がなければ、調査者によっては多少のズレが出てしまうのはやむをえまい。以下はカッパの主観が相当加わっている分析である点をご容赦願いたい。

 まずはっきりと分かるのは市北部、すなわち海浜部では富士塚の多くが富士山の溶岩で塚の表面がコーティングされていること。また本格的な塚には「仙元大菩薩」や「浅間神社」などの碑が建てられた頂上に向かう登山道や身禄が亡くなった「烏帽子岩」、山頂の「お鉢巡り」、中腹を横に巡る「お中道」、「船津胎内潜り」、「八海巡り」などがコンパクトに設けてあること。飯香岡八幡や姉崎神社、五井若宮八幡や五井大宮神社などはこうした作りをある程度まで備えた本格派の富士塚があり、市原における富士塚の代表例といえるだろう。

姉崎神社

 

 他方、内陸部に入るにつれて溶岩は目立たなくなり、ただの塚に過ぎなくなる。場合によっては塚ですらなく、境内の隅に石碑を建てただけの所も出てくる。あるいはほぼ自然の山自体が浅間神社であったりもする。すなわち北部の富士塚には大きいものが多く、本格的な形態を保っているものが目立つ一方で、南部ではまったくといってよいほど本格的で人工的な塚を見ることは無いのである。

        平蔵八幡神社                 海士有木八幡神社

 

 三山塚の石造物と比べると富士信仰関係の石造物の年代は比較的新しい。特に内陸部となると牛久丸山神社の手水鉢(安永9年=1780)がもし富士信仰関係の石造物だとすれば現在、市内最古となるが、富士信仰の遺産であると断定するのは難しい。当時、養老川の河口が青柳と松ヶ島との境あたり(メガドンキの裏手)であったため、この手水鉢は牛久と青柳の川船を扱う人々によって奉納されている。青柳は市原で真っ先に冨士講が広がっていった地域であり、この手水鉢が富士講と関わる可能性もあながち否定はできないので、今は何とも言えない状況というほかあるまい。

 なお富士塚上の石造物としては青柳浅間神社の日行八我供養塔で天明6年=1786が市内最古であることはほぼ確定している。ただし徳氏浅間神社の石段塔は寛延2年=1749で古いが、そもそもここが最初から浅間神社であったかどうかは不明なので除いて考えよう。

 やはり海浜部は石や溶岩の搬入が容易であることに加えて、日々、海の向こうに富士山を拝む事ができる利点もあってか、富士信仰の普及がいち早く始まっていると考えられる。牛久の丸山神社は内陸部でありながら小高い丘の上に立地しており、西の彼方に富士山を眺めることができる点で早い時点での富士信仰の定着には有利だったに違いない。

 市内のどこであっても元来が直に拝むことのできない出羽三山への憧れは市内北部、南部に限らず、地域的な偏りを排して見られる(七里法華地帯を例外とする)。市内に大きな勢力を誇った天台宗や真言宗とつながる出羽三山への信仰は古代にまでさかのぼれる古さも手伝ってか、江戸後期にはほぼ市内全域に行き渡っていたようである。実際、供養塚は市原で総計百余りあると推定されており、富士塚の数倍は存在していると考えられる。これに対して富士講の広がり(18世紀後半)は市内では江戸後期からであり、八日講(三山講)の広がり(17世紀後半)よりもおよそ百年は遅れていると考えられる。富士山がじかに見られる地域ならば江戸での大流行に乗って既存の三山信仰に素早く割り込むことのできた富士信仰ではあったが、富士山の見えない内陸部では既存の信仰がしばらく立ちはだかっていたこともあって富士講という新たな信仰形態の受け入れにはやや時間を要したのであろう。

 塚の特色の違いを含め、本格的な富士塚の北部への偏りは以上のような理由があったと推察できる。しかし内陸部は大山祇神社、山神社が数多くあるように元来が山岳信仰の篤い地域であった。富士信仰はそうした山岳信仰の多様なバリエーションの一つとして他との差別化をあまり意識されることなく、特に明治以降、次第に南部の民衆の間にもぐりこんでいったのであろう。従って三山信仰との混合も、双方の石造物が並び立つ光景がよく見られる内陸部では自然に生じていったようである。

※近代以降、全国的に見られた富士信仰の急速な拡大の背景には明治政府の科学技術

 の導入を軸とする合理的な欧化政策(=文明開化)の裏側で採られてきた、現人神

 天皇像を軸とする神秘的な天皇制国家確立のための様々な政策が神道にも追い風と

 なって作用した点が考えられる。天皇制は民衆レベルでは神国日本のイメージを定

 着させ、むしろ発展させてきた。神国日本のシンボルとして神の山、霊峰富士への

 崇拝もまた天皇制国家確立に伴う副産物として生じてきたと考えられるのである。

 近代的な国民国家として不可欠なナショナリズムの精神を国民に植え付ける道具と

 して富士信仰は明治から昭和にかけては政治的に利用価値があったという言い方も

 できるのではないか?

 

 また自然地形的に起伏の多い内陸部においては敢えて人工的に塚を築くことへの関心がそもそも薄かったのではないだろうか?塚は平坦な地形の中でこそ目立つものであり、山間部では労多くして目立たず…そこで信仰の証として塚や石造物を残すことよりも、人々はひたすら登拝を中心とする山岳信仰特有の苦行に励んだのではないか。実際、内陸部の浅間神社のなかには山の頂上部に社があるのみ、という所があったりする(小草畑浅間神社、徳氏浅間神社)。

 おそらく厳しい坂道を登り、頂上の社に辿りつくこと自体が重要な信仰上の営みであったに違いない。だからこそ険しい山道を歩き慣れている内陸部の住民にとって小さな塚を登る事で富士登山と同様の御利益が期待できるという沿岸部からの富士講の教えはイマイチ、安易すぎて気持ちの上でマッチしなかった…と考えれば塚を築かずに自然の山自体を浅間神社とする発想の方が確かに内陸部の住人には相応しかったに違いあるまい。実際、富士塚を伴わない浅間神社が内陸部には幾つか、存在している(大久保、国本、小草畑、古敷谷、徳氏等)。

 国本の浅間神社は富士信仰の石造物が見あたらずに三山信仰ばかりが目立つことから、神社名は当初、浅間神社ではなかったことが伺える。南部山間部の信仰はやはり三山の方に重心があり、明治期、爆発的な勢いを見せた浅間信仰流行の影響は当地においてはある程度まで表層にとどまったと考えられる。

 ただし繰り返しになるが牛久周辺は比較的早くから富士信仰が定着している。丸山神社の手水鉢の古さ、佐是浅間神社の寛政年間の祠などから、仮説として以下の事が考えられよう。まずは基礎的条件として牛久が内陸部最大の継場であり、大多喜街道だけでなく、養老川の水運の要衝としても発展してきたこと。このため、五井を通じていち早く江戸の流行が伝わり、定着しやすかったこと。

 もう一つは従来あった信仰とうまくかみ合って富士信仰が導入されたように思えること。従来の信仰としては天台宗系の日吉山王信仰(内陸部には天台宗寺院が多い)と結びついた庚申信仰がまず挙げられよう。内陸部にも濃密に見られる17~18世紀の庚申塔はこの地域における当時の庚申信仰の根強さを物語る。佐是浅間神社の富士塚には元禄年間の庚申塔が存在(西国吉の富士塚にも庚申塔あり)し、同所の寛政年間の祠には「三王」の文字が見られる。またここの石灯籠の宝珠には猿が刻まれている。日吉山王信仰自体が山岳信仰に根ざしたものであり、同じ山岳信仰の富士信仰と習合しても不思議ではなかっただろう。

 

 当時強い勢力を持ったもう一つの在来信仰は子安信仰ではないか。安産子育ての無事を祈る子安信仰もまた「子安神」「子安地蔵」「子安観音」といったように様々な信仰の上に裾野を広げていた。富士塚には「胎内くぐり」があり、富士信仰の主祭神木花開耶姫は安産の神でもあった。女人禁制の多い山岳信仰の中で、例外的に富士信仰は安産祈願を武器に女性達をも上手に取り込んできた(たとえば不入斗小鷹神社の富士塚には女人講によって石灯籠が奉納されている)ことが、当地における富士信仰の早期定着に一役買っていたように思える。佐是浅間神社の富士塚にある石造物(写真参照:左の「御胎内」と刻まれ、線状の彫り込みがある方が「陰石」、右の石棒状のものが「陽石」と思われる)は、女性たちもまた妊娠と安産祈願のために富士塚へお参りしていたことを伺わせる興味深い民間信仰の遺物であろう。

 

 

 なお富士山の神として「コノハナサクヤヒメ」があてられたのは江戸時代以降のことという。中世は軍神として武士から尊崇され、山頂に刀剣類を奉納する習わしがあった。中世ではもっぱら男神として祀られていたようである。江戸時代に入り、女神とされた富士山の神が次第に子安講とも結びついていったのであろう。

29.供養塚関係石造物のタイプ別代表例

 

 その28と29の一覧表で示したように、江戸時代の三山信仰関係の石造物には幾つかの種類があります。今回は種類別にその代表的な石造物をご紹介いたしましょう。

 

宝筐院塔

 数は少ないが17世紀の古いものが見られる。

下矢田川間お塚:寛文10年(1666)

 

青柳西共同墓地内供養塚

 

 おそらく宝筐院塔の一部を大日如来の台座として転用したものと考えられる。

 

大日如来

飯沼供養塚大日如来:寛文3年(1663)

 

・湯殿山供養塔(文字塔)

山倉墓地内供養塚

 

・三山供養塔

椎津新田供養塚

 

廻国塔

能満供養塚(緑えん通り北に向かって右側)

 

・日記念仏講関係

山倉墓地内供養塚

 

下矢田川間お塚:日記念仏講が建てた聖観音(寛文6年=1666)

 

 

 江戸時代は伊勢講、成田講、八日講(三山講)、大杉講、大山講(石尊講)、富士講、金毘羅講、庚申講、月待講、子安講…といった各種の講が続々とされるが、多くの場合、母体となったのは中世から存在してきた念仏講であった。したがって念仏講の一種、日記念仏講が八日講とメンバー的にほぼ重なっていただろうことは想像に難くないし、古い供養塚上に念仏講の名が刻まれた石造物が多い背景もきわめて分かりやすいだろう。

28.市原市の供養塚関係石造物(後編)

 

・市内近世における主な三山信仰関係の石造物一覧(年代順) 27の続き

103

町田墓地内三山塚

三山供養塔・大日如来?

同年

104

今富三山塚(新)

大日如来

文化4年(1807)

105

大厩三山塚

三山供養塔

文化6年(1809)

106

今津朝山内出公民館

大日如来

文化7年(1810)

107

畑木医王寺三山塚

三山・坂東秩父供養塔

文化8年(1811)

108

八幡飯香岡八幡三山塚

三山供養塔

文化9年(1812)

109

北青柳墓地三山塚

大日如来

同年

110

飯沼三山塚

逆修塔

文化10年(1813)

111

五井大宮神社

湯殿山供養塔

文化13年(1816)

112

岩崎稲荷三山塚

鳥居

文政元年(1818)

113

今津朝山共同墓地三山塚

湯殿山供養塔

文政2年(1819)

114

小折三山塚(堤防上)

大日如来

文政3年(1820)

115

大厩三山塚

三山供養塔

同年

116

玉崎墓地三山塚

大日如来

文政6年(1823)

117

浅井小向諏訪神社三山塚

三山供養塔

同年

118

白塚三山塚

三山供養塔

同年

119

青柳共同墓地

三山供養塔

文政7年(1824)

120

下古敷谷自治会館

三山供養塔

同年

121

椎津新田三山塚

三山供養塔

同年

122

大坪福楽寺

三山供養塔

文政8年(1825)

123

小谷田行屋

大日如来

同年

124

分目浅間神社跡三山塚

三山供養塔

文政10年(1827)

125

海保神社

三山供養塔

文政12年(1829)

126

土宇玉前神社

三山供養塔・石灯籠

同年

127

葉木三山塚

三山供養塔

同年

128

高滝神社裏

三山供養塔

文政13年(1830)

129

土宇三山塚

三山供養塔

同年

130

荻作三山塚(変電所)

三山供養塔

天保元年(1830)

131

山田橋稲荷三山塚

三山供養塔

天保2年(1831)

132

八幡飯香岡八幡三山塚

三山供養塔

同年

133

松崎三山塚

三山供養塔

天保3年(1832)

134

今富三山塚(旧)

三山供養塔

同年

135

高坂三山塚

三山供養塔

同年

136

佐是三山塚

三山供養塔

同年

137

田淵会館三山塚

三山供養塔

天保4年(1833)

138

権現堂墓地三山塚

三山供養塔

天保6年(1835)

139

能満四辻三山塚

三山供養塔

同年

140

五所共同墓地三山塚

廻国塔

天保7年(1836)

141

畑木三山塚

天保8年(1837)

142

山小川熊野神社

三山供養塔

同年

143

大厩三山塚

三山供養塔

同年

144

山倉墓地三山塚

三山大権現供養塔

天保9年(1838)

145

山倉源社

三所大権現塔

天保10年(1839)

146

山田橋養福寺

三山供養塔

天保11年(1840)

147

相川石神神社三山塚

三山供養塔

天保12年(1841)

148

下古敷谷自治会館

三山供養塔

同年

149

二日市場三山塚(橋)

三山供養塔

同年

150

青柳養福寺三山塚

大日如来

同年

151

畑木医王寺三山塚

廻国塔

同年

152

迎田三山塚(泉台)

三山供養塔

同年

153

山倉墓地三山塚

三山供養塔

同年

154

菊間戒誓寺三山塚

弘法大師供養塔

同年

155

皆吉台三山塚

三山供養塔

天保14年(1843)

156

岩野見三山塚

三山供養塔

天保15年(1849)

157

波渕三山塚

三山供養塔

同年

158

勝間三山塚

三山供養塔

同年

159

市原光善寺裏三山塚

三山供養塔

弘化2年(1845)

160

白塚三山塚

三山供養塔

同年

161

上原春日神社

羽黒大権現祠

弘化3年(1846)

162

迎田大俵三山塚

三山供養塔

同年

163

浅井小向諏訪神社三山塚

三山供養塔

同年

164

糸久三山塚

三山供養塔

弘化4年(1847)

165

椎津新田三山塚

大日如来

同年

166

能満四辻三山塚

三山供養塔

同年

167

廿五里新開三山塚

三山供養塔

同年

168

米沢腰巻墓地三山塚

三山供養塔

弘化5年(1848)

169

海保熊野神社

三山供養塔

嘉永元年(1848)

170

青柳共同墓地三山塚

大日如来(上)

嘉永3年(1850)

171

飯沼三山塚

三山供養塔

嘉永4年(1851)

172

畑木三山塚

大日如来

嘉永5年(1852)

173

菊間八幡三山塚

三山供養塔

嘉永6年(1853)

174

八幡胴埋塚

三山供養塔

同年

175

五所共同墓地三山塚

三山供養塔

嘉永7年(1854)

176

田淵会館三山塚

三山供養塔

同年

177

田淵耕昌寺

三山供養塔

安政4年(1857)

178

大久保浅間神社

三山供養塔

同年

179

久保中郷行屋

不動尊塔

同年

180

久保中郷行屋

三山供養塔

同年

181

佐是三山塚

三山供養塔

同年

182

古敷谷湯原観音堂

三山供養塔

安政6年(1859)

183

分目浅間神社跡三山塚

三山供養塔

文久元年(1861)

184

川岸墓地三山塚

三山供養塔

文久2年(1862)

185

川在三山塚

三山供養塔

同年

186

迎田三山塚(泉台)

三山供養塔

同年

187

奉免宮の下行屋

三山供養塔

元治元年(1864)

188

下古敷谷自治会館

三山供養塔

慶応2年(1866)

189

松ヶ島墓地三山塚

三山供養碑

慶応4年(1868)

 

 三山塚上の廻国塔(太字)は今のところ合わせて11基、確認している。廻国の巡礼先に出羽三山を選ぶ房総出身の六部が多かったのだろう。出羽三山信仰が熱烈に広く村々に行き渡っていた房総ではこれは当然のことのように思われる。特に18世紀以降になると市原の各地から頻繁に出羽三山へ詣でていたことが石造物の多さからも伺える。石造物のタイプ別に概観すると江戸期前半は仏塔(阿弥陀如来や大日如来)が目立つが、後半には三山供養塔が目立ってくる。なお江戸時代の三山供養塔は基本的に湯殿山を真中にするが、明治以降は月山が真中に来ることが多い。

 三山塚上の大日如来は湯殿山の本地仏であるため、湯殿山供養塔と本質的に異なるものではない。ただ仏像として大日如来を刻んだものと文字塔とを区別するためにここではあえて「大日如来」(石仏)と「湯殿山供養塔」(文字塔)とを分けて表記している。

 なお對馬郁夫氏は「市原市の出羽三山信仰に関する研究」において(市原地方史研究第15号所収)、三山塚上の江戸時代の石造物を110基、明治期以降のものを360基確認している。カッパの場合は三山塚だけでなく行屋などの石造物を加えているため、江戸時代のものが186基となっている。

27.市原市の供養塚関係石造物(前編)

 

三段構成の姿が最もよく残っている供養塚

 

 

市内近世における主な三山信仰関係の石造物一覧(年代順)

番号

場  所

種  類

年  代

1

西青柳共同墓地三山塚

大日如来台座基礎

寛永7年(1630)

2

飯沼三山塚

大日如来

寛文3年(1663)

3

下矢田川間お塚

観音(日記念仏)

寛文6年(1666)

4

下矢田川間お塚

宝篋印塔(念仏講)

寛文10年(1670)

5

白塚三山塚

阿弥陀如来(念仏講)

寛文12年(1672)

6

山倉墓地三山塚

阿弥陀如来(日記念仏)

天和2年(1682)

7

新生山祇神社三山塚

大日如来

元禄13年(1700)

8

柏原墓地三山塚

大日如来

宝永5年(1708)

9

徳氏三山塚

大日如来

宝永7年(1710)

10

山田共同墓地三山塚

大日如来

同年

11

島田米之台三山塚

大日如来

正徳4年(1714)

12

岩野見三山塚

大日如来

享保元年(1716)

13

能満緑苑通り三山塚1

大日如来(頭部欠損)

同年

14

光風台三山塚

大日如来(梵字)

享保3年(1718)

15

島野墓地三山塚

大日如来

享保4年(1719)

16

青柳共同墓地三山塚

大日如来

享保6年(1721)

17

馬立三山塚

大日如来

同年

18

不入斗三山塚

大日如来

享保7年(1722)

19

若宮墓地

大日如来

同年

20

大厩三山塚

大日如来

享保8年(1723)

21

糸久三山塚

大日如来

同年

22

深城三山塚

大日如来

享保12年(1727)

23

迎田三山塚(泉台)

大日如来

元文2年(1737)

24

大蔵三山塚

大日如来

元文4年(1739)

25

岩崎墓地

三山供養碑

寛延元年(1748)

26

勝間三山塚

廻国塔

寛延2年(1749)

27

大坪三山塚

大日如来

寛延3年(1750)

28

五所共同墓地三山塚

三山供養塔

宝暦2年(1752)

29

権現堂墓地三山塚

湯殿山供養塔

同年

30

青柳共同墓地三山塚

大日如来

宝暦3年(1753)

31

永藤三山塚

大日如来

同年

32

君塚三山塚(古墳)

大日如来

宝暦6年(1756)

33

田淵会館三山塚

大日如来

同年

34

山倉墓地三山塚

大日如来

宝暦8年(1758)

35

分目浅間神社跡三山塚

梵天供養成就塔

同年

36

相川石神神社三山塚

三山供養塔

宝暦9年(1759)

37

西国吉三山塚

大日如来

同年

38

能満四辻三山塚

湯殿山御梵天供養塔

同年

39

戸面夕木三山塚

大日如来(文字)

宝暦10年(1760)

40

米原297号沿い三山塚

大日如来

同年

41

今富三山塚(旧)

三山供養塔

宝暦11年(1761)

42

大桶三山塚

同年

43

島野墓地三山塚

大日如来

明和元年(1764)

44

深城三山塚

湯殿山供養塔

明和2年(1765)

45

月崎永昌寺大日堂墓地内

大日如来

同年

46

妙香第二公民館裏三山塚

大日如来

明和3年(1766)

47

能満緑苑通り三山塚2

廻国塔

明和4年(1767)

48

西国吉台三山塚

大日如来

同年

49

皆吉台三山塚

大日如来

明和5年(1768)

50

廿五里宇佐八幡三山塚

大日如来

明和6年(1767)

51

今津朝山共同墓地三山塚

廻国塔

同年

52

川岸墓地三山塚

大日如来

明和7年(1770)

53

迎田三山塚(泉台)

廻国塔

明和8年(1771)

54

磯ヶ谷三山塚

大日如来

同年

55

大厩三山塚

廻国塔

明和9年(1772)

56

大坪三山塚

大日如来

安永3年(1774)

57

岩崎稲荷三山塚

大日如来

安永4年(1775)

58

川在三山塚

湯殿山供養塔

同年

59

荻作三山塚(変電所)

大日如来

同年

60

郡本八幡神社三山塚

廻国塔

同年

61

磯ヶ谷三山塚

廻国塔

安永6年(1777)

62

田淵会館三山塚

大日如来

安永7年(1778)

63

山田橋稲荷神社

三山供養塔

同年

64

飯給真高寺

三山供養塔・巡拝塔

同年

65

佐是三山塚

大日如来

安永9年(1780)

66

五井中瀬墓地三山塚

三山供養塔

同年

67

米原297号沿い三山塚

石燈籠(左)

安永10年(1781)

68

松ヶ島墓地三山塚

廻国塔

天明元年(1781)

69

五所共同墓地三山塚

廻国塔

同年

70

安須墓地三山塚

三山供養塔

同年

71

小折三山塚(堤防上)

三山供養塔

天明2年(1782)

72

米原297号沿い三山塚

石燈籠(右)

同年

73

土宇三山塚

三山供養塔

天明3年(1783)

74

高坂三山塚

大日如来

天明4年(1784)

75

喜多湯殿山神社

大日如来

同年

76

皆吉公民館三山塚

大日如来

天明8年(1788)

77

権現堂墓地三山塚

三山供養塔

同年

78

能満緑苑通り三山塚1

三山供養塔

同年

79

小草畑三山塚(市原歴史博物館)

三山供養塔(大日如来)

寛政4年(1792)

80

立野三山塚

大日如来

寛政5年(1793)

81

馬立根立寺三山塚

大日如来

同年

82

大厩三山塚

大日如来

寛政6年(1794)

83

権現堂墓地三山塚

湯殿山供養塔

同年

84

君塚三山塚(古墳)

湯殿山供養塔

寛政7年(1795)

85

波渕三山塚

大日如来

同年

86

不入斗泉台三山塚

湯殿山供養塔

寛政8年(1796)

87

糸久三山塚

三山供養塔

寛政9年(1797)

88

深城三山塚

大日如来

同年

89

迎田三山塚(泉台)

大日如来

寛政10年(1798)

90

永藤三山塚

大日如来文字塔

同年

91

能満緑苑通り三山塚2

三山供養塔

同年

92

引田墓地三山塚

三山供養塔

寛政12年(1800)

93

郡本八幡神社三山塚

三山供養塔

享和元年(1801)

94

椎津新田三山塚

三山供養塔

享和2年(1802)

95

土宇三山塚

三山供養塔

同年

96

山倉墓地三山塚

湯殿山供養塔

享和3年(1803)

97

米沢三山塚

三山供養塔

同年

98

不入斗泉台三山塚

大日如来

文化元年(1804)

99

五井大宮神社

三山供養塔

文化2年(1805)

100

高滝青年館裏

三山供養塔

同年

101

田淵会館三山塚

大日如来

同年

102

相川石神神社三山塚

大日如来

文化3年(1806)

103

町田墓地内三山塚

三山供養塔・大日如来?

同年

 

 その29に続く

26.市原市における主な供養塚

 

 

 出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)を行場とする真言宗系修験道の信仰は市原市では極めて盛んであり、近年まで数多くの行事が行われてきた。顕本法華宗の強い勢力下にあった姉崎ではさほど浸透しなかったが、真言宗門徒の場合には「一生に一度は奥州参り」とされ、男は行人(奥州参りを成し遂げた者)の資格を得なければ寄り合いに参加できないともされた

 奥州参りに先立って男達は行屋(行堂、大日堂…)と呼ばれる小屋に泊まり込み、別火精進の修行を行って穢れを祓う。修行の間は家人との接触は一切禁じられたという。行屋前には行人の数に合わせて梵天が立てられた。かつては7日間、籠ることになっていたが、次第に短縮化され、規律も緩められたらしい。籠りが明けると自らの擬死再生を意味する白装束に身を固め、村人たちの坂送りを受けて奥州へと旅立ったという。

 

八日講:空海が大同元年4月8日に湯殿山を開基したことに因む8日を縁日とする

 「湯殿講」が起源か。毎月8日に行人達が地区の行屋に集まり、大日如来を本尊と

 する厨子を開き、法螺貝を吹き、錫杖を振り、拍子木や鉦を打ち鳴らして所定の勤

 行を終える。

切火勤行:火打ち鎌を火打ち石で擦り合わせて浄火を鑽り出して、その火で別火精

 進を行い、水垢離と読経三昧にふける朝夕二度の勤行のこと。その火を管理するの

 が「火の親」の役割。火の親には絶対的な指導権が与えられていた。三山塚の石造

 物には「火の親」が奉納したものも多い。

月山の本地仏は聖観音であるため、出羽三山に加えて観音霊場の西国三十三箇所、

 坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の巡礼と重ねて詣でることもあった。また六十六

 部廻国修行でも奥州詣でが行われることが多く、廻国塔が供養塚上に建てられるケ

 ースは少なからず、見られる。

  なお湯殿山の本地仏は大日如来であり、江戸時代は湯殿山が信仰の中心であった

 ため、三山塚上の石造物で古いものは大日如来、ないしは湯殿山供養塔であること

 が多い。また三山供養塔の場合、明治以降は月山が中心となるので、湯殿山を中心

 に配置する供養塔の多くはほとんどが江戸期のものである。

 

 行人の留守宅では陰膳を据えて精進料理を食べ、早朝に行屋前の梵天に水やお米を供えて道中の安全と三山登拝の成就を祈った。行人が帰村すると村を挙げての坂迎えの祝福を受け、行屋に直行して三日ほどの後精進を済ませてから解散となった。

 供養塚(梵天塚、三山塚、行人塚、行者塚…)は千葉県に特有のものとされ、市内には現在、100余りあると推定されている。三段構成で築かれ、剣梵天を納めた。

 塚の上には石塔が幾つも建てられている。市内最古は青柳の寛永7年銘(1630)のもの。行人はその証として「剣梵天(腰梵天、木剣とも)」を与えられ、持ち帰ってくる。この剣梵天が村で数多くたまると祖霊の鎮まるお山に埋納する「梵天納め」という行事(擬死再生で宿した命を剣梵天に仮託して供養塚に埋葬することで死後の往生菩提に資すると考えられた)が行われた。

剣梵天

 この「梵天納め」を大々的に行うものが「大供養」と呼ばれるもので10~20年を単位にして開催された。露店が立ち並び、山車やおそろいの浴衣に花笠をつけた婦人連の「練り込み」、「大塚はやし」の笛太鼓など華やかなお祭りであった(昭和32年の今津朝山での大供養では迷子が50人も出たことが新聞記事に記されている)。特に酒は大盤振る舞いされ一銭の賽銭で茶碗酒が振る舞われた。「三山三杯」と注がれて酔いつぶれるものが続出し、酔い倒れた者が多いほど「いい供養になった」とされた。主催する村の家々でも座敷に赤飯や煮しめを並べ、親戚知人はもとより見知らぬ人々にも振る舞ったという。しかし市内では酒に絡む暴力沙汰、膨大な出費等を理由にして昭和36年の荻作での大供養を最後に一旦、消滅している。

 

出羽三山:秋田や岩手を中心とする蝦夷の反乱を鎮圧する上で前進基地となった山形では鎮圧に霊験を著したとされた山の神への信仰が高まったと考えられる。朝廷は蝦夷鎮圧のたびに鳥海山を御神体とする大物忌神や月山を御神体とする月山神を従二位まで昇格させている。

 月山(標高1980m)湯殿山(標高1504m:温泉が湧き出る岩が本宮)、羽黒山(標高419m)の三山は一体のものと信仰され、月山と湯殿山を奥宮と称し、羽黒山に三神合祭殿を設けて本社としている。羽黒修験が10世紀末には京にも進出し、全国的に有名になった。羽黒山本殿前の池からは平安末から鎌倉期にかけて三山の行者たちが奉納した鏡が数多く発見されている。

 特に東国一帯は羽黒修験者が活躍し、頼朝も羽黒山麓に 黄金堂を建立している。羽黒山中には地頭の支配が及ばず、修験者は畏敬されていたらしい。なお月山の信仰が古くからあったが、やがて羽黒山の天台宗系(本山派)に対抗して真言宗に傾斜(当山派)した湯殿山が三山中の総奥の院を称し、大日如来の浄土とされて三山の中心に位置するように。羽黒山から月山を経て湯殿山に詣でることで即身成仏の願いがかなうと説く羽黒山としても湯殿山を総奥の院として認めざるをえなかったらしい。

 従って三山供養碑は湯殿山を真ん中にして一段と高く表記するものが江戸時代では一般的。しかし明治になって神仏分離令が出され、湯殿山の山伏らが伝統的な仏教信仰を堅持しようとしてこれに抵抗したため、以後の供養塔や登拝記念碑は湯殿山が三山の中心から外されてしまい、月山が中心とされてしまったという。

 修験者の布教が房総で活発になったのは江戸時代前期。長柄では延宝元年(1673年)、市原の海保では延宝7年(1679年)が三山信仰の始まりという。

 1867年の千葉市天戸のケースでは筑波を経由し水戸、久慈川をさかのぼり、郡山、福島、仙台、松島観光を経て、山形銀山温泉に泊まり、最上川を下って羽黒町の宿坊に至る往路20日ばかり。

 また市原市の関根家に伝わる1833年の「湯殿山道中記」によると旧暦6月4日に出発し、木更津から舟で江戸にまず向かった。秩父、善光寺に参詣し、新潟経由で日本海沿いを北上するルートをとり、27日に羽黒山の門前町手向村の長伝坊に宿をとっている(往路24日)。帰路は会津を南下し、日光を参拝後、7月11日に帰宅(復路16日)。合計41日の大旅行であったらしい。

 長伝坊のある手向村には江戸時代に336軒の宿坊があって御師という妻帯した修験者(山伏)がこれを経営し、宿泊や参詣の世話に当たっていた。冬、御師は東北から関東にかけて定期的に巡回し、講を組織させて参拝の準備にあたらせていたという。

 

   市内では三山塚と同じくらいによく見かける富士塚(浅間塚)と比較対照して三山塚の現状を洗いだしてみたい。富士塚は多くの場合、神社の境内にあって破壊を免れてきた。しかも市北部では塚の表面が溶岩でコーティングされていることが多く、かなりの程度風化に強い。ところが三山塚は墓地や山中に築かれる事が多く、所によっては開発に伴って破壊されてしまう。これに加えて土が露出している塚が多く、雨水による風化を受けやすい。従って三山塚の場合、富士塚と比べて往時の姿を留めるものは極めて少ないといえるだろう。

 近年、三山塚が新たな開発等によって姿を激変させてしまうケースも目立ってきた。波渕や君塚の場合がこの典型的なケースである。かつては木々に覆われ、往時の面影を伝える塚であったが、波渕の場合にはビル建設のために場所を移動させられ、かつコンクリートで覆われた殺風景なものに変ってしまった。

 これまでの写真で分かるように市内北部では今やかなりの数の三山塚がコンクリートに覆われている。歴史的景観としては台無しであるが、清掃、草取り等の手間を考えるとこれも仕方ない事なのだろう。むしろ生き残った事自体を喜ぶべきなのかもしれない。そもそも出羽三山に詣でる風習自体が風前のともし火である。

 しかし地域によっては三山信仰の健在ぶりを示している立派な塚に出あう事もある。能満四つ辻にある塚などは今なお信仰の息づく塚の代表格であろう。林の中にその巨大な姿が見えてくると特に信仰心の無い者までも厳粛な気持ちにさせられるはずである。塚上の中心に建つ宝暦年間の湯殿山供養塔の大きさ、飾り気のない凛とした姿…お盆前だったせいで塚上の草がきれいに刈り取られていて、築かれた当初の姿がきっちりと残されていることが分かる。ただその一方で崩れかけ、荒れ放題の塚や行屋も目にしてきた。高齢化の進んでいる地区では塚や行屋の保全が今後いっそう難しくなるであろう。

 

   富士塚の方は富士山の世界遺産登録も手伝って当分は安泰であろうが、三山塚及び関連遺構はさらに厳しい状況に追い込まれそうである。市北部では塚上の古い石塔や石碑ごと開発の波に飲み込まれる事の無いよう、継続的な調査と保全が望まれようし、南部では公民館等を利用し、資料の保管だけは進めていくべきであろう。

 

 

 

 

 

 

25.庚申信仰について

 

市原坂下バス停近くにある市内最大の三猿庚申塔

 

 庚申の日の夜に身を謹んで徹夜すると長生きできるという信仰で、中国の道教(中国固有の信仰)に由来し、日本には8世紀頃伝来。道教によると人の体内には三尸(さんし)と呼ばれる三匹の虫がいて人間の早死にを望んでいるという。庚申の夜、人が眠っている間に虫は天に昇り、人間の寿命をつかさどる天帝にその人の日ごろの罪を報告し、寿命を縮めようとする。これを防ぐために10世紀には「守庚申」と称して徹夜の宴会を開くことが宮中で始まっていた。15世紀には仏教と習合して「青面金剛」や「観音」などが庚申の日の信仰対象とされるようになったという。青面金剛は青い肌で体に蛇を巻きつけた恐ろしい形相の神。怒らせると奇病を流行させるといわれるが、逆にうまく祀り上げると病気から守ってくれると考えられた。

 江戸時代には神道と習合して庚申の本尊を「猿田彦神」とすることがあった。このため江戸時代に造立された庚申塔には猿(特に三猿)が刻まれることが多いのに加えて、「青面金剛尊」ではなく「猿田彦大神」と刻まれることがある。

 市内では比較的古い時期のもの(17世紀後半)に三猿のみの庚申塔が目立つ。ただし道標や馬頭観音、地蔵、道祖神などと同様、多くが雨ざらしの野仏であるため風化が進み、年代等の判読が難しくなっていることも多い。

 庚申講という組織がつくられ、正月の初庚申から60日毎の庚申の夜に各自白米を持って当番の家に集まり、青面金剛や猿田彦神の掛け軸に酒と精進料理、賽銭などを供えて般若心経を唱える。読経のあとはたいてい徹夜の宴会となったため庶民の娯楽ともなり、江戸時代に入ると民衆の間に急速に普及した。これを三年、五年と続けると三尸の虫が衰弱し、人々の長寿が約束されるというもの。 庚申待を三年連続で行うとその記念として毎回の積立金を用いて庚申塔を造るのが通例であった。塚の上に造る場合には庚申塚と呼んだ。各地に庚申講が組織され、頻繁に「庚申待」が行われていたことが今も残る庚申塔の多さ(船橋市内では321基確認、

市原市内で212基)からうかがえる。

 なお国内で最古の庚申塔は1471年(板碑)のもの。三猿は日光東照宮の厩の彫刻が最古。千葉生実城の堀跡からは享禄4年(1531)銘の庚申待ち板碑が見つかっている。

 市内での造塔のピークは17世紀後半から18世紀前半にかけてであり、18世紀後半からは富士講、三山講など修験道系の石造物が急速に目立ってくる。また庚申塔であっても文字塔や道標を兼ねたものが目立ってくる。次第に信仰と物見遊山を兼ねての旅行が民衆にとって身近なものとなり、遠国への憧れも強まる中で村にとどまる形式の庚申待ちは徐々に魅力が薄れてきたに違いない。

 

 庚申の年には特に庚申待が盛んになり、庚申塔が造立される事も多いとされるので以下、江戸時代の庚申の年を挙げておく。現在、半数程度の庚申塔しか確認できてはいないがカッパの調査結果を表にまとめておいた。庚申年では延宝8年(1680)には市内でも六基の庚申塔が建てられており、一定の傾向が確認できる。しかし、元文5年は二基のみで、寛政12年、万延元年での造塔は個人的にはまったく確認できておらず、この点でも庚申信仰への熱意が18世紀末頃には急速に冷めてきていたことが伺えよう。

  江戸期の庚申年: 1620年=元和6年、1680年=延宝8年、

  1740年=元文5年、1800年=寛政12年、1860年=万延元年

 

市内の主な庚申塔(年代順)一覧表:カッパ作成

年代

設置場所

特色・形式

万治2年=1659

池和田大宮神社

三猿祠型

万治4年=1661

市原坂下バス停近く

三猿舟型光背

寛文4年=1664

今津朝山春日神社近く

三猿笠付角柱

寛文7年=1668

安久谷橋近く竹薮内

三猿祠型

寛文8年=1668

青柳庚申塚(福寿庵裏)

六度庚申

同年

青柳光明寺

一猿一鶏「南無阿弥陀仏」

寛文9年=1669

五井大宮神社

三猿笠付石柱(?)

同年

馬立大宮神社

三猿

同年

武士建市神社

青面金剛尊舟型光背

寛文11年=1671

島田米之台墓地

三猿祠型

寛文12年=1672

天羽田天照大神宮

三猿舟型光背

同年

櫃狭神社

青面金剛尊舟型光背

寛文13年=1673

牛久三島神社

青面金剛尊舟型光背

同年

北青柳公民館

青面金剛尊笠付角柱

延宝2年=1674

椎津八坂神社

三猿舟型光背

同年

分目浅間神社跡

三猿祠型

延宝3年=1675

深城熊野神社

青面金剛尊舟型光背

延宝4年=1676

西野熊野神社

三猿駒型光背

同年

五井下谷墓地

青面金剛尊舟型光背:破損大

延宝5年=1677

菊間千光院(山王山)

三猿笠付石柱

延宝6年=1678

天羽田天照大神宮

三猿板碑型

同年

戸面夕木熊野神社裏山

三猿文字塔

延宝7年=1679

川在墓地近く

三猿文字塔(山舟)

延宝8年=1680

南岩崎蓑毛神社

三猿笠付角柱

同年

青柳庚申塚(福寿庵裏)

三猿笠付角柱

同年

川在大宮神社

二基・青面金剛尊舟型光背

同年

惣社国分寺

青面金剛尊笠付角柱

同年

菊間田中前路傍

青面金剛尊入母屋破風

同年

田淵持田崎

青面金剛尊笠付角柱

天和2年=1682

柏原神社

三猿笠付角柱

同年

牛久中八幡

三猿笠付角柱

貞享2年=1685

惣社国分寺

青面金剛尊笠付角柱

貞享3年=1686

万田野天津日神社

三猿舟型

貞享4年=1687

武士建市神社

青面金剛尊舟型

同年

村上川瀬会館近く

青面金剛尊舟型

同年

牛久中八幡

青面金剛尊舟型

同年

妙香公民館裏

青面金剛尊笠付角柱

元禄元年=1688

高坂篠原家脇

青面金剛尊舟型

元禄3年=1690

葉木妙見神社

青面金剛尊舟型

元禄4年=1691

能満日枝神社

青面金剛尊笠付角柱

同年

皆吉観音寺

三猿文字塔山舟

同年

中高根七日市場墓地

青面金剛尊笠付角柱

元禄6年=1693

八幡猿田彦神社

青面金剛尊笠付角柱

同年

佐是浅間神社

三猿舟型光背

同年

南岩崎小勝山団地

青面金剛尊舟型

同年

久保中郷行屋

青面金剛尊笠付角柱

同年

山口八坂神社

青面金剛尊山舟

元禄7年=1694

畑木三山塚

青面金剛尊笠付角柱

同年

磯ヶ谷八幡

三猿駒型

同年

青柳稲荷神社

板碑型

元禄8年=1695

五所金杉旧道路傍

青面金剛尊笠付角柱

同年

門前寶積寺

青面金剛尊型

同年

山倉春日神社

三猿祠型

元禄9年=1696

新堀八幡神社

青面金剛尊駒型

元禄10年=1697

青柳正福寺

青面金剛尊

元禄11年=1698

岩野見水神社

青面金剛尊駒型

同年

山田共同墓地

青面金剛尊山舟型

元禄14年=1701

磯ヶ谷八幡

青面金剛尊笠付角柱

元禄15年=1702

安須霊園

青面金剛駒型

同年

栢橋林泉寺裏山

青面金剛尊舟型

宝永3年=1706

菊間千光院

青面金剛尊唐破風

同年

朝生原椿沢山中

青面金剛尊舟型

宝永5年=1708

薮寺西橋近く墓地の側

青面金剛尊

同年

小谷田上の代大山祇神社

青面金剛尊

同年

月出路傍(東漸寺近く)

青面金剛尊山舟型

宝永6年=1709

西広西廣院

青面金剛尊

同年

古敷谷天津日神社

青面金剛尊唐破風

宝永7年=1710

柏原持宝院

青面金剛尊笠付角柱

同年

柿木台路傍

青面金剛尊

正徳2年=1712

馬立根元神社

青面金剛尊笠付角柱

同年

折津根向大山祇神社

青面金剛尊笠付角柱

正徳3年=1713

椎津霊光寺

青面金剛尊駒型光背

同年

朝生原椿沢山中

文字塔

同年

大和田光厳寺

青面金剛尊山舟型

正徳4年=1714

不入斗西光院近く

青面金剛尊・破損

同年

石神路傍

青面金剛尊山舟

正徳5年=1715

郡本正光院

青面金剛尊笠付角柱

享保元年=1716

馬立新田

青面金剛尊駒型

同年

廿五里新田

青面金剛尊・舟型

享保2年=1717

田淵旧日竹能満寺近く路傍

青面金剛尊

享保3年=1718

不入斗行屋跡

青面金剛尊笠付角柱

同年

今津朝山延命院

青面金剛尊舟型

享保4年=1719

姉崎正坊山

青面金剛尊笠付角柱

同年

五井下谷墓地

青面金剛尊舟型:破損大

享保5年=1720

姉崎路傍

青面金剛尊山舟

同年

皆吉墓地

青面金剛尊山舟

享保6年=1721

妙香路傍

青面金剛尊駒型光背

享保7年=1722

荻作満光院

青面金剛尊笠付角柱

同年

片又木法蓮寺

青面金剛尊笠付角柱

同年

西国吉富士塚

青面金剛駒型光背

享保8年=1723

石塚上古屋敷

青面金剛尊山舟

享保9年=1724

島野三光院

青面金剛尊駒型

享保10年=1725

平田長福寺

青面金剛尊笠付角柱

同年

国本金蔵院

青面金剛尊

享保13年=1728

海保庚申堂

青面金剛尊笠付角柱

同年

村田川近く旧道路傍

青面金剛尊・上部破損

享保14年=1729

田淵会館の奥

青面金剛尊

享保15年=1730

椎津瑞安寺

青面金剛尊

享保16年=1731

海保大入神社

青面金剛尊

享保17年=1732

海保征矢家

青面金剛笠付角柱

享保20年=1735

今富正光院

青面金剛尊駒型

同年

折津庚申堂

青面金剛尊舟型

享保年間

海保霊園無縁塔内

青面金剛尊舟型

元文2年=1737

君塚明光院近く路傍

青面金剛駒型

同年

大坪福楽寺

青面金剛駒型

元文3年=1738

中高根秀明院

青面金剛尊笠付角柱

元文5年=1740

大厩辰巳台東幼稚園近く

青面金剛尊入母屋破風

同年

柳川大山祇神社

青面金剛尊舟型

元文6年=1741

出津八雲神社

青面金剛尊駒型

寛保3年=1743

海士有木日枝神社

青面金剛尊駒型

延享元年=1744

田尾下田尾協同館

青面金剛尊駒型

寛延元年=1748

土宇東林寺墓地内

青面金剛尊山舟型

寛延3年=1750

菊間戒誓寺

青面金剛尊駒型

同年

磯ヶ谷不動堂前

青面金剛尊駒型

宝暦2年=1752

白塚墓地

青面金剛尊・上部破損

宝暦3年=1753

川岸老戸墓地

青面金剛尊駒型

同年

松崎圓成寺

青面金剛尊山舟型

宝暦8年=1758

根田中島家

青面金剛尊山舟型

宝暦12年=1762

糸久圓乗院

青面金剛尊舟型

宝暦11年=1761

立野公民館

青面金剛尊笠付角柱

同年

深城無量寿寺

青面金剛尊笠付角柱

宝暦12年=1762

糸久圓乗院

青面金剛尊

宝暦13年=1763

椎津新田公民館

青面金剛尊

同年

山小川路傍

青面金剛尊

明和元年=1764

不入斗公会堂跡近く路傍

青面金剛尊駒型

同年

海保山王の山中

文字塔・山伏角柱・道標

明和5年=1768

牛久会館

青面金剛尊山舟型

明和6年=1769

迎田大俵

青面金剛尊駒型

明和7年=1770

郡本八幡鳥居前

青面金剛尊駒型

安永2年=1773

八幡飯香岡八幡

文字・山型石柱・道標

安永6年=1777

不入斗路傍

文字・石柱

安永7年=1778

八幡観音町旧道路傍

青面金剛尊駒型・道標

安永9年=1780

西広西廣院

青面金剛尊・上部破損

同年

不入斗大高谷路傍

青面金剛尊舟型

天明2年=1782

馬立沢辺四つ辻

青面金剛尊駒型:石工勘七

同年

不入斗大高谷路傍

青面金剛尊(坐像)

天明3年=1783

飯沼龍昌寺

青面金剛尊櫛型

天明6年=1786

相川普門院

文字塔一猿一鶏

天明7年=1787

椎津山谷路傍

青面金剛尊舟型

文化4年=1807

五井旧道路傍(現埋文)

青面金剛尊角柱・道標

文化8年=1811

不入斗医王寺

青面金剛尊駒型

文化10年=1813

米原上畑路傍

青面金剛尊

文化11年=1814

折津芋原熊野神社

青面金剛尊

文化12年=1815

青柳庚申塚(福寿庵裏)

三猿舟型

文化14年=1817

島野三光院

青面金剛尊・道標

文政4年=1821

勝間路傍

青面金剛尊

文政7年=1824

白塚墓地

文字・角柱

文政8年=1825

山田神明神社

青面金剛尊櫛型

文政9年=1826

五井豊倉園脇

文字(青面金剛)・山伏角柱

天保4年=1833

廿五里東泉寺

祠型「庚申尊塔」

天保5年=1834

大和田光厳寺

三猿・角柱・南無大師遍照金剛

嘉永5年=1852

新生祐巌寺

文字・三猿

文久3年=1863

椎津瑞安寺

青面金剛尊

※カッパが年代等を確認できた庚申塔の総数は今のところ150基、太字は庚申年。

 

・庚申塔のタイプ別代表例

          板碑型

 

                 

            石祠型

 

          三猿型 

 

                

         青面金剛尊型

 

         文字塔型

 

24.大杉神社と利根川水運

 

 

・平成19年度企画展「天狗への祈り~大杉神社と利根川水運~」千葉県立関宿城博物館パンフレットより

 以下、抜粋してその内容をご紹介いたします。 

 

 中心は茨城県稲敷市阿波本宮大杉神社。通称「アンバ様」天狗を祀り、船の航行安全、疫病退散を祈る信仰で、元禄年間を境に江戸で注目され、享保期には爆発的な流行を見せた。特に利根川水系を中心に関東や東北の太平洋岸に300社余りの末社が存在。船頭を中心とした水運関係者を媒介に流布し、江戸町奉行大岡忠相が禁令を出すほどであった。明治まで20~30年周期で流行を繰り返し、「大杉丸」の船号を許可するなど、水運に深く関わった。

 かつては「香取の海」を見下ろす、大きな杉がそびえる高台に鎮座。近くの安穏寺と合同で大杉信仰を担ってきたが、安穏寺の方は明治2年の神仏分離で廃寺にされてしまった。

 江戸での出開帳は享和3年(1803)と文化2年(1805)に深川で行われている。江戸の出開帳は延宝4年(1676)に、近江石山寺の観音から始まり、明治まで1500件以上、実施されている。屋台も出て賑わうため、江戸庶民の娯楽となってもいた。

 宝暦3年(1753)の麻疹流行の際には疫病退散の神としても信仰を集め、「辻切り」「道切り」に大杉神社のお札を篠竹の先端に挟んで辻等の村境に立てる風習も広まった

 夏を中心とするアンバ様の祭りは代参講として大杉神社から神面(天狗面)を借りるかお札をもらい、お迎えすることから始まる。「大杉講」「あんば講」が組織され、普通、二人の若者が選ばれて春か夏に村人代表として大杉神社に代参した。ついでに鹿島・香取・成田などに立ち寄ることも多かった。当時の若者にとって代参は見聞を広め、経験を積む、良いチャンスであった。

 千葉県で最も古い大杉神社関係の石造物は白井市の鳥見神社にある宝永6年(1709)の祠で、大杉大明神が疱瘡に霊験ありとされて房総の村々を「あんば大杉大明神 悪魔払ってヨーイヤサ」のお囃子と共に杉の葉で作られた祠が巡行し始めたのが享保10年(1725)頃という。特に関東一円にアンバ様ブームが盛り上がったのは享保12年(1727)あたりかららしい。

 

 以下はカッパの補足資料

五井大宮神社にある大杉神社

 

   薮八幡大杉大明神祠:宝暦7年(1757)    山田橋稲荷大杉大明神祠:寛政6年(1794)

 

 市内の石祠としては上の二つが挙げられる。何れもやや内陸部に位置し、養老川からそれほど近いとはいえない。船の航行安全というよりも、もっぱら疱瘡や麻疹などの疫病退散を願って祀られたのだろう。