26.市原市における主な供養塚

 

 

 出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)を行場とする真言宗系修験道の信仰は市原市では極めて盛んであり、近年まで数多くの行事が行われてきた。顕本法華宗の強い勢力下にあった姉崎ではさほど浸透しなかったが、真言宗門徒の場合には「一生に一度は奥州参り」とされ、男は行人(奥州参りを成し遂げた者)の資格を得なければ寄り合いに参加できないともされた

 奥州参りに先立って男達は行屋(行堂、大日堂…)と呼ばれる小屋に泊まり込み、別火精進の修行を行って穢れを祓う。修行の間は家人との接触は一切禁じられたという。行屋前には行人の数に合わせて梵天が立てられた。かつては7日間、籠ることになっていたが、次第に短縮化され、規律も緩められたらしい。籠りが明けると自らの擬死再生を意味する白装束に身を固め、村人たちの坂送りを受けて奥州へと旅立ったという。

 

八日講:空海が大同元年4月8日に湯殿山を開基したことに因む8日を縁日とする

 「湯殿講」が起源か。毎月8日に行人達が地区の行屋に集まり、大日如来を本尊と

 する厨子を開き、法螺貝を吹き、錫杖を振り、拍子木や鉦を打ち鳴らして所定の勤

 行を終える。

切火勤行:火打ち鎌を火打ち石で擦り合わせて浄火を鑽り出して、その火で別火精

 進を行い、水垢離と読経三昧にふける朝夕二度の勤行のこと。その火を管理するの

 が「火の親」の役割。火の親には絶対的な指導権が与えられていた。三山塚の石造

 物には「火の親」が奉納したものも多い。

月山の本地仏は聖観音であるため、出羽三山に加えて観音霊場の西国三十三箇所、

 坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の巡礼と重ねて詣でることもあった。また六十六

 部廻国修行でも奥州詣でが行われることが多く、廻国塔が供養塚上に建てられるケ

 ースは少なからず、見られる。

  なお湯殿山の本地仏は大日如来であり、江戸時代は湯殿山が信仰の中心であった

 ため、三山塚上の石造物で古いものは大日如来、ないしは湯殿山供養塔であること

 が多い。また三山供養塔の場合、明治以降は月山が中心となるので、湯殿山を中心

 に配置する供養塔の多くはほとんどが江戸期のものである。

 

 行人の留守宅では陰膳を据えて精進料理を食べ、早朝に行屋前の梵天に水やお米を供えて道中の安全と三山登拝の成就を祈った。行人が帰村すると村を挙げての坂迎えの祝福を受け、行屋に直行して三日ほどの後精進を済ませてから解散となった。

 供養塚(梵天塚、三山塚、行人塚、行者塚…)は千葉県に特有のものとされ、市内には現在、100余りあると推定されている。三段構成で築かれ、剣梵天を納めた。

 塚の上には石塔が幾つも建てられている。市内最古は青柳の寛永7年銘(1630)のもの。行人はその証として「剣梵天(腰梵天、木剣とも)」を与えられ、持ち帰ってくる。この剣梵天が村で数多くたまると祖霊の鎮まるお山に埋納する「梵天納め」という行事(擬死再生で宿した命を剣梵天に仮託して供養塚に埋葬することで死後の往生菩提に資すると考えられた)が行われた。

剣梵天

 この「梵天納め」を大々的に行うものが「大供養」と呼ばれるもので10~20年を単位にして開催された。露店が立ち並び、山車やおそろいの浴衣に花笠をつけた婦人連の「練り込み」、「大塚はやし」の笛太鼓など華やかなお祭りであった(昭和32年の今津朝山での大供養では迷子が50人も出たことが新聞記事に記されている)。特に酒は大盤振る舞いされ一銭の賽銭で茶碗酒が振る舞われた。「三山三杯」と注がれて酔いつぶれるものが続出し、酔い倒れた者が多いほど「いい供養になった」とされた。主催する村の家々でも座敷に赤飯や煮しめを並べ、親戚知人はもとより見知らぬ人々にも振る舞ったという。しかし市内では酒に絡む暴力沙汰、膨大な出費等を理由にして昭和36年の荻作での大供養を最後に一旦、消滅している。

 

出羽三山:秋田や岩手を中心とする蝦夷の反乱を鎮圧する上で前進基地となった山形では鎮圧に霊験を著したとされた山の神への信仰が高まったと考えられる。朝廷は蝦夷鎮圧のたびに鳥海山を御神体とする大物忌神や月山を御神体とする月山神を従二位まで昇格させている。

 月山(標高1980m)湯殿山(標高1504m:温泉が湧き出る岩が本宮)、羽黒山(標高419m)の三山は一体のものと信仰され、月山と湯殿山を奥宮と称し、羽黒山に三神合祭殿を設けて本社としている。羽黒修験が10世紀末には京にも進出し、全国的に有名になった。羽黒山本殿前の池からは平安末から鎌倉期にかけて三山の行者たちが奉納した鏡が数多く発見されている。

 特に東国一帯は羽黒修験者が活躍し、頼朝も羽黒山麓に 黄金堂を建立している。羽黒山中には地頭の支配が及ばず、修験者は畏敬されていたらしい。なお月山の信仰が古くからあったが、やがて羽黒山の天台宗系(本山派)に対抗して真言宗に傾斜(当山派)した湯殿山が三山中の総奥の院を称し、大日如来の浄土とされて三山の中心に位置するように。羽黒山から月山を経て湯殿山に詣でることで即身成仏の願いがかなうと説く羽黒山としても湯殿山を総奥の院として認めざるをえなかったらしい。

 従って三山供養碑は湯殿山を真ん中にして一段と高く表記するものが江戸時代では一般的。しかし明治になって神仏分離令が出され、湯殿山の山伏らが伝統的な仏教信仰を堅持しようとしてこれに抵抗したため、以後の供養塔や登拝記念碑は湯殿山が三山の中心から外されてしまい、月山が中心とされてしまったという。

 修験者の布教が房総で活発になったのは江戸時代前期。長柄では延宝元年(1673年)、市原の海保では延宝7年(1679年)が三山信仰の始まりという。

 1867年の千葉市天戸のケースでは筑波を経由し水戸、久慈川をさかのぼり、郡山、福島、仙台、松島観光を経て、山形銀山温泉に泊まり、最上川を下って羽黒町の宿坊に至る往路20日ばかり。

 また市原市の関根家に伝わる1833年の「湯殿山道中記」によると旧暦6月4日に出発し、木更津から舟で江戸にまず向かった。秩父、善光寺に参詣し、新潟経由で日本海沿いを北上するルートをとり、27日に羽黒山の門前町手向村の長伝坊に宿をとっている(往路24日)。帰路は会津を南下し、日光を参拝後、7月11日に帰宅(復路16日)。合計41日の大旅行であったらしい。

 長伝坊のある手向村には江戸時代に336軒の宿坊があって御師という妻帯した修験者(山伏)がこれを経営し、宿泊や参詣の世話に当たっていた。冬、御師は東北から関東にかけて定期的に巡回し、講を組織させて参拝の準備にあたらせていたという。

 

   市内では三山塚と同じくらいによく見かける富士塚(浅間塚)と比較対照して三山塚の現状を洗いだしてみたい。富士塚は多くの場合、神社の境内にあって破壊を免れてきた。しかも市北部では塚の表面が溶岩でコーティングされていることが多く、かなりの程度風化に強い。ところが三山塚は墓地や山中に築かれる事が多く、所によっては開発に伴って破壊されてしまう。これに加えて土が露出している塚が多く、雨水による風化を受けやすい。従って三山塚の場合、富士塚と比べて往時の姿を留めるものは極めて少ないといえるだろう。

 近年、三山塚が新たな開発等によって姿を激変させてしまうケースも目立ってきた。波渕や君塚の場合がこの典型的なケースである。かつては木々に覆われ、往時の面影を伝える塚であったが、波渕の場合にはビル建設のために場所を移動させられ、かつコンクリートで覆われた殺風景なものに変ってしまった。

 これまでの写真で分かるように市内北部では今やかなりの数の三山塚がコンクリートに覆われている。歴史的景観としては台無しであるが、清掃、草取り等の手間を考えるとこれも仕方ない事なのだろう。むしろ生き残った事自体を喜ぶべきなのかもしれない。そもそも出羽三山に詣でる風習自体が風前のともし火である。

 しかし地域によっては三山信仰の健在ぶりを示している立派な塚に出あう事もある。能満四つ辻にある塚などは今なお信仰の息づく塚の代表格であろう。林の中にその巨大な姿が見えてくると特に信仰心の無い者までも厳粛な気持ちにさせられるはずである。塚上の中心に建つ宝暦年間の湯殿山供養塔の大きさ、飾り気のない凛とした姿…お盆前だったせいで塚上の草がきれいに刈り取られていて、築かれた当初の姿がきっちりと残されていることが分かる。ただその一方で崩れかけ、荒れ放題の塚や行屋も目にしてきた。高齢化の進んでいる地区では塚や行屋の保全が今後いっそう難しくなるであろう。

 

   富士塚の方は富士山の世界遺産登録も手伝って当分は安泰であろうが、三山塚及び関連遺構はさらに厳しい状況に追い込まれそうである。市北部では塚上の古い石塔や石碑ごと開発の波に飲み込まれる事の無いよう、継続的な調査と保全が望まれようし、南部では公民館等を利用し、資料の保管だけは進めていくべきであろう。