31.富士信仰に関わる石造物(前編)
立野晃氏(市原地方史研究第14号 昭和61年)によると市内には1985年段階で377基の富士信仰に関わる石造物が存在しているという。多くは富士塚(※1)上かその周辺に建てられており、「浅間神社」などの神号が記された石碑や登拝記念碑(個人ないしは講中)、先達の顕彰碑、供養塔、常夜燈などである。その大部分は富士講関係のもので、特に市北部の海岸地帯に濃密に分布し、養老川沿いにも分布が広がっている。しかし市の南部や東部は希薄である。東部はおそらく七里法華(※2)地帯の西縁にあたるからであろう。基本的に日蓮宗の強い地域には富士信仰だけでなく三山、御嶽、石尊、白山、三峰等の山岳信仰や庚申塔など、民間信仰の遺物が少ない傾向にある。しかし姉崎、福増、潤井戸、喜多などでは例外的に富士信仰の遺物が見られる。
※富士塚:基本的には富士講信者によって造営された富士山のミニチュアであり、富
士山の神霊が勧請された塚のことである。食行身禄の弟子、日行青山(高田藤四郎)
が安永8年(1779年)、江戸戸塚村(現在の新宿区高田)の水稲荷社境内に築いたも
のが始まりとされる。やがて江戸から南関東一帯に造営されるようになった。富士山
から運ばれた溶岩を用いて築かれることが多いが、本来は古墳であった箇所も散見さ
れる。基本的には富士山の五合目以上をかたどった築山で「仙元大菩薩」や「浅間神
社」などの碑が建てられた頂上に向かう登山道、身禄が亡くなった「烏帽子岩」、山
頂の「お鉢巡り」、中腹を横に巡る「お中道」、「船津胎内潜り」、「八海巡り」な
どを設ける。7月1日の御山開きには直接登拝(とはい)できない老若男女が富士塚に
参拝したという。また溶岩は富士吉田から相模川の舟運を利用して江戸にもたらされ
た。ある調査では千葉県に183基の富士塚が確認されている(内57基が市原市内に存
在)。
※七里法華:土気、東金の城主として北上総に君臨した酒井定隆(現在の千葉市若葉
区中野を拠点とした領主で千葉から土気、東金に勢力を拡大し、北上総一帯を支配)
は本行寺を開基した日泰に深く帰依し、1488年頃、浜野から片貝にかけてのおよそ
七里四方の領民に日蓮宗の門徒となるよう強制した(これに反発した湿津犬成の真言
宗千光院の僧広済は菊間に寺を移転)その中心寺院は浜野の本行寺で歴代住職のなか
には不受不施派の立場をとり、幕府から処罰されたものもいた。
富士塚上の市内最古の石造物は青柳の浅間神社境内にある富士塚の頂上にある常夜燈(天明6年=1786)。供養塔は日行八我(にちぎょうはちが)の石塔(天明8年=1788)である。日行八我は江戸青山百人町の人で俗名は渡辺三右衛門。富士信仰を確立した食行身禄系の先達と考えられ、この地で布教していたと思われる。最新のものは八幡北1丁目内谷橋地先にある石碑で昭和56年(1981年)に造立されている。市内で石造物が最も頻繁に造立されるのは1876~1885年(明治9~18年)の十年間で46基造られている。次は1926~1935年(昭和元~10年)で40近い。数的には近代に入ってからの物が多いようである。
市原の場合、富士信仰は石造物の年代別分布状況からみて市の北部海岸地域で江戸後期に流布され、明治中期には中部地域、大正から昭和にかけて南部地域に及んでいったものと考えられる。なお石造物の神号に「~権現」「~菩薩」とあればその造立年代はほぼ神仏分離令以前と考えてよい。他方で明治中期以降は「~大神」や「~神社」が多くなる。
※神号:「浅間(仙元)大菩薩」「浅間大権現」「浅間大神」「浅間神社」以外の神
号では…
木花開耶姫(このはなさくやひめ):主祭神
大山祇(イザナギとイザナミとの子で全国の山々を統轄する山の神。大山祇神
社、三島大社の主祭神)の娘でニニギノミコトが降臨した際、姉の磐長姫命とと
もに結婚相手として差し出されたが、ニニギは醜悪な磐長姫命を嫌い、「木の
花」のように美しい木花開耶姫だけを選んだ。このためニニギの子孫=天皇家は
「磐長」のごとき長寿に恵まれず、「木の花」のように寿命が短くなってしまっ
たという。ニニギと一夜にして結ばれた木花開耶姫は自分の子がどうかを疑うニ
ニギに対して神の子ならばどんな状況にあっても無事に生まれるはずといって産
屋に火を放って3人の子を出産(その一人は神武の祖父)。この故事から父が山の
神だったこともあり、江戸時代になって火山の代表格であった富士山を御神体と
する富士浅間神社の主祭神とされた。また安産の神ともされた。
宝永山:宝永年間に富士山が噴火してできた山腹にある火山
小御岳大神(武蔵御嶽神社・大天狗)
石尊大権現(阿夫利神社・小天狗)
磐長姫命(いわながひめのみこと)
角行:16世紀から17世紀初頭にかけて富士山で修行。富士信仰の土台を築いた。
食行(身禄):角行の五代目の弟子。富士山で入定。その弟子たちが富士講を組
織。
…などがあり、これらが併記されることも多い。
五井の大宮神社の石碑の銘文によると五井の下宿、上宿、新田に富士講を伝えたのは江戸の人「山包元祖禅行(やまつつみがんそぜんぎょう)」であり、寛政年間(1789~1801年)のことという。山包講は千葉県全域に見られる講で、講祖の修山禅行(包市郎兵衛)は天明5年(1785)頃に講をおこしたとされる。禅行の弟子に上総国君塚(市原市)の正行真鏡(しょうぎょうしんきょう)(池田作佐衛門)がおり、安房の山包講は文政年間頃に、この正行を通じて広まったと思われる。正行の弟子で七代目栄行真山(1798~1882:鴨川の人で俗名松本吉郎兵衛)は100回を超える富士山登拝を成し遂げて名声を博したこともあり、山包(やまつつみ)講は房総で最大の勢力を持ったという。
富士講の多くは明治以降、扶桑教に属し、五井大宮神社の石碑にも扶桑教関係の碑が幾つか見られる。神道優位の明治期前半、本来は神道でもなく仏教でもなかったはずの富士講は多くが教派神道の一つとなることで生き残りを図ったようである。なお富士山=扶桑への信仰は桑=養蚕を主な副業としていた地域において蚕神と結びつき、養蚕農家の間で富士登拝が熱心に行われていたようである。その痕跡は川岸の富貴稲荷神社にある浅間神社の常夜灯(文化7年=1810)に蚕が彫られていることからも察せられる。
富士講では講ごとに独自の講印が作られ、登山や行事の際に連携を保った。市内ではこの「山包」印が五井を中心に養老川沿いに内陸部まで分布して見られる。姉崎から千種にかけては「一山」印が多く見られ、青柳を拠点とした日行八我の影響力が強かったことが分かる。
玉崎稲荷神社富士塚「山包印」
白塚稲荷神社富士塚「一山印」
他に「山水」印が北部に散在(五井、相川、片又木、荻作等)している。山水講の元講は木更津にあったとされる。南五井が山包講であったのに対して隣接する北五井が山水講であるのは19世紀初頭に新澪が波渕まで達したことで五大力船の進入が北五井の中心部近くまで可能となった事が影響したのかもしれない。川岸における五大力船の船主を統率していたのは北五井の名主中島甚五左衛門であった。五大力船の房総における最大の拠点は木更津であり、江戸には江戸城直近の一等地に「木更津河岸」が設けられていて、江戸湾の水運における木更津船の地位は突出していた。従って木更津の大きな影響力が南五井にも達していたことが、木更津を講元とする山水講の南五井への進出を可能としたとも考えられるだろう。
局所的な印としては八幡の「丸八」、喜多の「丸翁」が知られていが、いずれも明治期以降に成立したと考えられる新しい講。
八幡飯香岡八幡富士塚「丸八印」
喜多神社富士塚「丸翁印」
一般に富士講は一人の傑出した先達の下に「講元」や「世話人」と呼ばれる人物を中心に信者が組織されていく。最初に組織された講を「元講」、そこから枝分かれして組織されたものを「枝講」と呼ぶ。
川岸富貴稲荷富士塚の常夜灯(文化7年=1810)
「山包印」の下に「中講」とあるので山包講の枝講であろう。
なお石工は市原を代表する川岸の関佐七
なお富士講の詳細については次の回に配信する予定です。