30.市原市内の富士塚について

 

 富士講が江戸を中心に成立してきたのは18世紀中頃のこと。富士講によって造られた最古の石造物は宝暦8年(1758)の「富士山遥拝所」碑(東京都墨田区石浜神社)という。角行藤仏(1541?~1646)が従来の修験道とは異なった教えを説いて祖とされるが、角行の教えの詳細はほとんど分かっていないらしい。角行から数えて五代目の月行(1643~1717)の教えが富士講の土台となっているようだが、その教えが世間の注目を浴びたのは六代目食行身禄(1671~1733)の富士山での自殺(1733)であった。このため富士講は食行身禄によって開かれたかのように錯覚されているが、身禄自身は弟子を一人も持たず、講とは無関係の人物であったようだ。後に月行系の講がこの事件を最大限利用したことで富士講の飛躍的発展がもたらされたと考えられる(大谷正幸「角行系富士信仰」岩田書院 2011)。が、何はともあれ18世紀後半、江戸を中心とする富士講の急速な発展は江戸湾に臨む市原にもたちまちその影響を及ぼしてきたようだ。

 市内の富士塚の石造物は計377基が立野晃氏の調査(1985)によって確認されており、その全貌がほぼ明らかとなっている。立野氏によると計57基の富士塚が市内では確認されているらしいが、その多くは神社の境内にあるため、立地条件を特定しにくい三山塚に比べれば塚自体の悉皆調査は比較的容易であろう。ただ三山塚上や寺社の境内などにも富士講の碑が混在するため、富士信仰関係の石造物の悉皆調査となると徹底するにはかなりの困難を伴う。従って石造物に関する状況に関しては立野氏の労作を参照していただくことにして、ここでは富士塚自体を概観することにとどめたい。ただし南部では「塚」とは認めがたい富士信仰の石造物が建つ神社の一画がある。これを富士塚と数えるべきか迷うケースもままある。従って富士塚の数自体も共有できる明確な富士塚の定義がなければ、調査者によっては多少のズレが出てしまうのはやむをえまい。以下はカッパの主観が相当加わっている分析である点をご容赦願いたい。

 まずはっきりと分かるのは市北部、すなわち海浜部では富士塚の多くが富士山の溶岩で塚の表面がコーティングされていること。また本格的な塚には「仙元大菩薩」や「浅間神社」などの碑が建てられた頂上に向かう登山道や身禄が亡くなった「烏帽子岩」、山頂の「お鉢巡り」、中腹を横に巡る「お中道」、「船津胎内潜り」、「八海巡り」などがコンパクトに設けてあること。飯香岡八幡や姉崎神社、五井若宮八幡や五井大宮神社などはこうした作りをある程度まで備えた本格派の富士塚があり、市原における富士塚の代表例といえるだろう。

姉崎神社

 

 他方、内陸部に入るにつれて溶岩は目立たなくなり、ただの塚に過ぎなくなる。場合によっては塚ですらなく、境内の隅に石碑を建てただけの所も出てくる。あるいはほぼ自然の山自体が浅間神社であったりもする。すなわち北部の富士塚には大きいものが多く、本格的な形態を保っているものが目立つ一方で、南部ではまったくといってよいほど本格的で人工的な塚を見ることは無いのである。

        平蔵八幡神社                 海士有木八幡神社

 

 三山塚の石造物と比べると富士信仰関係の石造物の年代は比較的新しい。特に内陸部となると牛久丸山神社の手水鉢(安永9年=1780)がもし富士信仰関係の石造物だとすれば現在、市内最古となるが、富士信仰の遺産であると断定するのは難しい。当時、養老川の河口が青柳と松ヶ島との境あたり(メガドンキの裏手)であったため、この手水鉢は牛久と青柳の川船を扱う人々によって奉納されている。青柳は市原で真っ先に冨士講が広がっていった地域であり、この手水鉢が富士講と関わる可能性もあながち否定はできないので、今は何とも言えない状況というほかあるまい。

 なお富士塚上の石造物としては青柳浅間神社の日行八我供養塔で天明6年=1786が市内最古であることはほぼ確定している。ただし徳氏浅間神社の石段塔は寛延2年=1749で古いが、そもそもここが最初から浅間神社であったかどうかは不明なので除いて考えよう。

 やはり海浜部は石や溶岩の搬入が容易であることに加えて、日々、海の向こうに富士山を拝む事ができる利点もあってか、富士信仰の普及がいち早く始まっていると考えられる。牛久の丸山神社は内陸部でありながら小高い丘の上に立地しており、西の彼方に富士山を眺めることができる点で早い時点での富士信仰の定着には有利だったに違いない。

 市内のどこであっても元来が直に拝むことのできない出羽三山への憧れは市内北部、南部に限らず、地域的な偏りを排して見られる(七里法華地帯を例外とする)。市内に大きな勢力を誇った天台宗や真言宗とつながる出羽三山への信仰は古代にまでさかのぼれる古さも手伝ってか、江戸後期にはほぼ市内全域に行き渡っていたようである。実際、供養塚は市原で総計百余りあると推定されており、富士塚の数倍は存在していると考えられる。これに対して富士講の広がり(18世紀後半)は市内では江戸後期からであり、八日講(三山講)の広がり(17世紀後半)よりもおよそ百年は遅れていると考えられる。富士山がじかに見られる地域ならば江戸での大流行に乗って既存の三山信仰に素早く割り込むことのできた富士信仰ではあったが、富士山の見えない内陸部では既存の信仰がしばらく立ちはだかっていたこともあって富士講という新たな信仰形態の受け入れにはやや時間を要したのであろう。

 塚の特色の違いを含め、本格的な富士塚の北部への偏りは以上のような理由があったと推察できる。しかし内陸部は大山祇神社、山神社が数多くあるように元来が山岳信仰の篤い地域であった。富士信仰はそうした山岳信仰の多様なバリエーションの一つとして他との差別化をあまり意識されることなく、特に明治以降、次第に南部の民衆の間にもぐりこんでいったのであろう。従って三山信仰との混合も、双方の石造物が並び立つ光景がよく見られる内陸部では自然に生じていったようである。

※近代以降、全国的に見られた富士信仰の急速な拡大の背景には明治政府の科学技術

 の導入を軸とする合理的な欧化政策(=文明開化)の裏側で採られてきた、現人神

 天皇像を軸とする神秘的な天皇制国家確立のための様々な政策が神道にも追い風と

 なって作用した点が考えられる。天皇制は民衆レベルでは神国日本のイメージを定

 着させ、むしろ発展させてきた。神国日本のシンボルとして神の山、霊峰富士への

 崇拝もまた天皇制国家確立に伴う副産物として生じてきたと考えられるのである。

 近代的な国民国家として不可欠なナショナリズムの精神を国民に植え付ける道具と

 して富士信仰は明治から昭和にかけては政治的に利用価値があったという言い方も

 できるのではないか?

 

 また自然地形的に起伏の多い内陸部においては敢えて人工的に塚を築くことへの関心がそもそも薄かったのではないだろうか?塚は平坦な地形の中でこそ目立つものであり、山間部では労多くして目立たず…そこで信仰の証として塚や石造物を残すことよりも、人々はひたすら登拝を中心とする山岳信仰特有の苦行に励んだのではないか。実際、内陸部の浅間神社のなかには山の頂上部に社があるのみ、という所があったりする(小草畑浅間神社、徳氏浅間神社)。

 おそらく厳しい坂道を登り、頂上の社に辿りつくこと自体が重要な信仰上の営みであったに違いない。だからこそ険しい山道を歩き慣れている内陸部の住民にとって小さな塚を登る事で富士登山と同様の御利益が期待できるという沿岸部からの富士講の教えはイマイチ、安易すぎて気持ちの上でマッチしなかった…と考えれば塚を築かずに自然の山自体を浅間神社とする発想の方が確かに内陸部の住人には相応しかったに違いあるまい。実際、富士塚を伴わない浅間神社が内陸部には幾つか、存在している(大久保、国本、小草畑、古敷谷、徳氏等)。

 国本の浅間神社は富士信仰の石造物が見あたらずに三山信仰ばかりが目立つことから、神社名は当初、浅間神社ではなかったことが伺える。南部山間部の信仰はやはり三山の方に重心があり、明治期、爆発的な勢いを見せた浅間信仰流行の影響は当地においてはある程度まで表層にとどまったと考えられる。

 ただし繰り返しになるが牛久周辺は比較的早くから富士信仰が定着している。丸山神社の手水鉢の古さ、佐是浅間神社の寛政年間の祠などから、仮説として以下の事が考えられよう。まずは基礎的条件として牛久が内陸部最大の継場であり、大多喜街道だけでなく、養老川の水運の要衝としても発展してきたこと。このため、五井を通じていち早く江戸の流行が伝わり、定着しやすかったこと。

 もう一つは従来あった信仰とうまくかみ合って富士信仰が導入されたように思えること。従来の信仰としては天台宗系の日吉山王信仰(内陸部には天台宗寺院が多い)と結びついた庚申信仰がまず挙げられよう。内陸部にも濃密に見られる17~18世紀の庚申塔はこの地域における当時の庚申信仰の根強さを物語る。佐是浅間神社の富士塚には元禄年間の庚申塔が存在(西国吉の富士塚にも庚申塔あり)し、同所の寛政年間の祠には「三王」の文字が見られる。またここの石灯籠の宝珠には猿が刻まれている。日吉山王信仰自体が山岳信仰に根ざしたものであり、同じ山岳信仰の富士信仰と習合しても不思議ではなかっただろう。

 

 当時強い勢力を持ったもう一つの在来信仰は子安信仰ではないか。安産子育ての無事を祈る子安信仰もまた「子安神」「子安地蔵」「子安観音」といったように様々な信仰の上に裾野を広げていた。富士塚には「胎内くぐり」があり、富士信仰の主祭神木花開耶姫は安産の神でもあった。女人禁制の多い山岳信仰の中で、例外的に富士信仰は安産祈願を武器に女性達をも上手に取り込んできた(たとえば不入斗小鷹神社の富士塚には女人講によって石灯籠が奉納されている)ことが、当地における富士信仰の早期定着に一役買っていたように思える。佐是浅間神社の富士塚にある石造物(写真参照:左の「御胎内」と刻まれ、線状の彫り込みがある方が「陰石」、右の石棒状のものが「陽石」と思われる)は、女性たちもまた妊娠と安産祈願のために富士塚へお参りしていたことを伺わせる興味深い民間信仰の遺物であろう。

 

 

 なお富士山の神として「コノハナサクヤヒメ」があてられたのは江戸時代以降のことという。中世は軍神として武士から尊崇され、山頂に刀剣類を奉納する習わしがあった。中世ではもっぱら男神として祀られていたようである。江戸時代に入り、女神とされた富士山の神が次第に子安講とも結びついていったのであろう。